第十七話
2.道標三日目・感動

私が虫の息で絶え絶えになりながら帰ってきたのは、まだ夕方の事だった。
山岳が帰ってきたのはもう夜に差し掛かる頃で、隣の家の玄関の開閉音を聞いて気が付いていた。
ジャアッと地面と擦れる音を聞きながら、私は山岳の姿を思い浮かべていた。
実は山岳が跨っている姿をあまり見かけた事がない。
紙面越しの姿の方がまだ、印象が強くて、鮮明に思い浮かべられる。
私は現実に生きる幼馴染の所にたどり着く事が出来ず、一人でベッドに沈んでいた。
いつも通りと言えばいつも通り。
けれど、この苦しさは自前の発作のせいではない。誘発されたのだ。


「これで死んだら枕元に立ってやる」


ノックもなく入りこんできた男に向けて、私は言った。
寝ていると思ったのだろうか。いつもの三回響くノック音が聞こえないまま、そっと扉が開かれた。
普段どこか雑にクセに、変な所できちんと配慮が出来るヤツだった。
恨みがましそうな私の目とかち合うと、山岳はきょとんとした顔をして、ぱちぱちと瞬きした。
後ろ手に扉を閉めると、ゆったりとベッドの方へと近寄ってくる。

「いいけど。それだけ元気なら多分立たないね」

珍しくベッドに座らなかった山岳は、佇んだまま、じっと見おろしていた。
起き上がれない私は、掠れた声で絶え絶えになりながら返す。

「元気そうに、みえるの」
「うん。ぼーっと寝てるよりは」
「ああ、そう…」

呆れてまともな声が出なかった。
息も絶え絶え、顔は掠れて顔は真っ赤で、日焼け止めを塗る余裕もなかったおかげで皮膚はぼろぼろ。
かけ布団をかぶっているから山岳には見えないだろうけど、膝は怪我してるし、手まで擦り切れてる。
汗は酷いし、意識はどこか朦朧としてるし。
なんとか受け答えが成立しているのは、ふつふつ湧いた怒りで意識が保たれているからに過ぎない。
落ち着こう、と暫く瞼を閉じた。
山岳は沈黙して、私も口も視界も閉ざしたまま。
何しに来たんだろう、生存確認だろうか、想いながら目を開いて、暗闇になれた目がふと気が付いた。
暗がりの中では、気が付けなかった。


「…なんで笑うの」


山岳は笑っていた。いつもの緩々しているのとも違う。凛とした笑みを湛えて、そこに佇んでいる。私は自然と息を呑んでいた。
こんな時に不謹慎だとか、腹が立つヤツだとか、むかっ腹が立って罵ってもいい状況だった。
だというのに、それが出来ないまま時間が過ぎていく。気圧されていたのだと思う。
いつもは見せない表情に、私は何か妙なものを感じ取っていた。

「そうやって汗かいて、息切らして、苦しくなるとさ。生きてるって感じるでしょ」

山岳はぽつぽつと、その笑みを崩さないまま語り出した。いつものように不機嫌ではなくい。ああ、なんだか憑き物が取れたようだなと感じた。
嬉しそうにも見える。してやったりな顔にも見える。どうとでも受け取れた。

「心臓がばくばく言って、肺が痛くて、頭もガンガン痛くてさ。はちきれそうになるの」

山岳は自分の心臓の辺りに手の平を覆わせた。
それは、今まさに味わってる事全てだった。実感を伴っているんだろう強い言葉で山岳は言う。


「俺はそれが、嬉しくなる。楽しくなる」


言葉にこそしなかったけど、だから笑うのだと含まれていた。
山岳は膝をついて、私の投げられた手を取ると、手首を握った。
手のひらの腹で、とくとくと打つ脈を感じ取っているに違いない。それは私の生きているの証だった。

「本の中の登場人物はさ、きっと夏に汗をかいて日差しを浴びてたよね。でも、それを見て実感得られた?今みたいに疲れて息切れしたの、初めてでしょ」

発作のせいで息切れした事は星の数ほどあれど、体を大事に労わって…という方針で暮らしている私は、確かにこうなった事はない。今世では、の話だけど。
前世では病に伏すまでは健康優良児だった。人並みに暮らして運動して、四季の中で生きていた。
夏に照らされて冬に凍える。
間違いではなかったから、うんと声なく頷いた。


は死んじゃうかもしれないね。俺が殺しちゃうのかも」
「…変なこと、言わないでよ…」
「だって、もし一歩間違ったら倒れるよね?それって俺が来いって頼んだせいで、無理強いしたせいで、部屋にいたらそんな事になってない」

あっさりととんでもない事を言う。また呆れてしまって、言い返す気にもなれない。
握られた手が夏場には暑くてうっとおしい。
振り払おうとするけれど、固くてほどけなかった。好きにさせておこうと放置して、受け答えに徹しようとする。
けれどどこか真面目になりきれず、その口から出て来るのは、肩の力が抜けそうなものばかりだ。


「明日は俺、勝敗も、の命運もかけて走らなきゃいけない」
「勝敗は知らないけど、勝手に私の命まで背負わないで」
「それは無理かな」
「あのね…私が死んでも山岳、責任なんてとれないでしょ。自己責任ってことで、それでいいから」

だから、もう好きにしろと言おうとした。山岳が言うように、一歩間違えたら危ないのは百も承知で、いつもなら犯さない冒険だった。
それでも死ぬ気になれない。別に日々好きで部屋に引きこもっている訳じゃない。久々に外出できて、気分が昂揚しているのかもしれない。
軽く否定すると、

「責任は取れないけど、俺が背負ってくよ」

山岳は静かに言い切った。


「生きてるって、感じさせるから」

俺も明日、生きてくるから。
真剣な面持ちで、変な事を言った。
今は生きていないのかとか、責任取れないって普通言い切るかとか、何をどう背負うつもりだとか。言い返す言葉はいくらでもあった。
けれど、私はそこでしんと押し黙る。汗をかいて息を切らして苦しむ事が「生きている」事だというなら、私はとっくに…昨日から十分に生きているし、いい汗をかいて、確かにいつもよりは見た目は悪くても、健康的だった。
けれどこれにはもっと上があるらしい。しばらく言葉を探しに巡らせて、結局私はシンプルなたった一言だけを返した。


「がんばれ」


掠れきってしまった声で言うと、珍しく含みのない、明るい笑みと一緒に、明るい声が返ってくる。
それもたった一言だけの、単純なものだった。

「頑張る」

だからこそ、どれだけの強い思いがこめられているのか。私には手に取るように伝わってくる。
生ぬるい体温も、じんわりかいた汗も、いつのまにか気にならなくなっていた。
気まぐれに握り返してやると、ふふと笑いが零れて、私もつられて笑っていた。


2019.12.27