第十六話
2.道標─夜2
私が虫の息で絶え絶えになりながら帰ってきたのは、まだ夕方の事だった。
山岳が帰ってきたのはもう夜に差し掛かる頃で、隣の家の玄関の開閉音を聞いて気が付いていた。
ジャアッと地面と擦れる音を聞きながら、私は山岳の姿を思い浮かべていた。
実は山岳が跨っている姿をあまり見かけた事がない。
紙面越しの姿の方がまだ、印象が強くて、鮮明に思い浮かべられる。
私は現実に生きる幼馴染の所にたどり着く事が出来ず、一人でベッドに沈んでいた。
いつも通りと言えばいつも通り。
けれど、この苦しさは自前の発作のせいではない。誘発されたのだ。
「これで死んだら枕元に立ってやる」
ノックもなく入りこんできた男に向けて、私は言った。
寝ていると思ったのだろうか。いつもの三回響くノック音が聞こえないまま、そっと扉が開かれた。
普段どこか雑にクセに、変な所できちんと配慮が出来るヤツだった。
恨みがましそうな私の目とかち合うと、山岳はきょとんとした顔をして、ぱちぱちと瞬きした。
後ろ手に扉を閉めると、ゆったりとベッドの方へと近寄ってくる。
「いいけど。それだけ元気なら多分立たないね」
珍しくベッドに座らなかった山岳は、佇んだまま、じっと見おろしていた。
起き上がれない私は、掠れた声で絶え絶えになりながら返す。
「元気そうに、みえるの」
「うん。ぼーっと寝てるよりは」
「ああ、そう…」
呆れてまともな声が出なかった。
息も絶え絶え、顔は掠れて顔は真っ赤で、日焼け止めを塗る余裕もなかったおかげで皮膚はぼろぼろ。
かけ布団をかぶっているから山岳には見えないだろうけど、膝は怪我してるし、手まで擦り切れてる。
汗は酷いし、意識はどこか朦朧としてるし。
なんとか受け答えが成立しているのは、ふつふつ湧いた怒りで意識が保たれているからに過ぎない。
落ち着こう、と暫く瞼を閉じた。
山岳は沈黙して、私も口も視界も閉ざしたまま。
何しに来たんだろう、生存確認だろうか、想いながら目を開いて、暗闇になれた目がふと気が付いた。
暗がりの中では、気が付けなかった。
「…なんで笑うの」
山岳は笑っていた。いつもの緩々しているのとも違う。凛とした笑みを湛えて、そこに佇んでいる。私は自然と息を呑んでいた。
こんな時に不謹慎だとか、腹が立つヤツだとか、むかっ腹が立って罵ってもいい状況だった。
だというのに、それが出来ないまま時間が過ぎていく。気圧されていたのだと思う。
いつもは見せない表情に、私は何か妙なものを感じ取っていた。
「そうやって汗かいて、息切らして、苦しくなるとさ。生きてるって感じるでしょ」
山岳はぽつぽつと、その笑みを崩さないまま語り出した。いつものように不機嫌ではなくい。ああ、なんだか憑き物が取れたようだなと感じた。
嬉しそうにも見える。してやったりな顔にも見える。どうとでも受け取れた。
「心臓がばくばく言って、肺が痛くて、頭もガンガン痛くてさ。はちきれそうになるの」
山岳は自分の心臓の辺りに手の平を覆わせた。
それは、今まさに味わってる事全てだった。実感を伴っているんだろう強い言葉で山岳は言う。
「俺はそれが、嬉しくなる。楽しくなる」
言葉にこそしなかったけど、だから笑うのだと含まれていた。
山岳は膝をついて、私の投げられた手を取ると、手首を握った。
手のひらの腹で、とくとくと打つ脈を感じ取っているに違いない。それは私の生きているの証だった。
「本の中の登場人物はさ、きっと夏に汗をかいて日差しを浴びてたよね。でも、それを見て実感得られた?今みたいに疲れて息切れしたの、初めてでしょ」
発作のせいで息切れした事は星の数ほどあれど、体を大事に労わって…という方針で暮らしている私は、確かにこうなった事はない。今世では、の話だけど。
前世では病に伏すまでは健康優良児だった。人並みに暮らして運動して、四季の中で生きていた。
夏に照らされて冬に凍える。
間違いではなかったから、うんと声なく頷いた。
「は死んじゃうかもしれないね。俺が殺しちゃうのかも」
「…変なこと、言わないでよ…」
「だって、もし一歩間違ったら倒れるよね?それって俺が来いって頼んだせいで、無理強いしたせいで、部屋にいたらそんな事になってない」
あっさりととんでもない事を言う。また呆れてしまって、言い返す気にもなれない。
握られた手が夏場には暑くてうっとおしい。
振り払おうとするけれど、固くてほどけなかった。好きにさせておこうと放置して、受け答えに徹しようとする。
けれどどこか真面目になりきれず、その口から出て来るのは、肩の力が抜けそうなものばかりだ。
「明日は俺、勝敗も、の命運もかけて走らなきゃいけない」
「勝敗は知らないけど、勝手に私の命まで背負わないで」
「それは無理かな」
「あのね…私が死んでも山岳、責任なんてとれないでしょ。自己責任ってことで、それでいいから」
だから、もう好きにしろと言おうとした。山岳が言うように、一歩間違えたら危ないのは百も承知で、いつもなら犯さない冒険だった。
それでも死ぬ気になれない。別に日々好きで部屋に引きこもっている訳じゃない。久々に外出できて、気分が昂揚しているのかもしれない。
軽く否定すると、
「責任は取れないけど、俺が背負ってくよ」
山岳は静かに言い切った。
「生きてるって、感じさせるから」
俺も明日、生きてくるから。
真剣な面持ちで、変な事を言った。
今は生きていないのかとか、責任取れないって普通言い切るかとか、何をどう背負うつもりだとか。言い返す言葉はいくらでもあった。
けれど、私はそこでしんと押し黙る。汗をかいて息を切らして苦しむ事が「生きている」事だというなら、私はとっくに…昨日から十分に生きているし、いい汗をかいて、確かにいつもよりは見た目は悪くても、健康的だった。
けれどこれにはもっと上があるらしい。しばらく言葉を探しに巡らせて、結局私はシンプルなたった一言だけを返した。
「がんばれ」
掠れきってしまった声で言うと、珍しく含みのない、明るい笑みと一緒に、明るい声が返ってくる。
それもたった一言だけの、単純なものだった。
「頑張る」
だからこそ、どれだけの強い思いがこめられているのか。私には手に取るように伝わってくる。
生ぬるい体温も、じんわりかいた汗も、いつのまにか気にならなくなっていた。
気まぐれに握り返してやると、ふふと笑いが零れて、私もつられて笑っていた。
2.道標─夜2
私が虫の息で絶え絶えになりながら帰ってきたのは、まだ夕方の事だった。
山岳が帰ってきたのはもう夜に差し掛かる頃で、隣の家の玄関の開閉音を聞いて気が付いていた。
ジャアッと地面と擦れる音を聞きながら、私は山岳の姿を思い浮かべていた。
実は山岳が跨っている姿をあまり見かけた事がない。
紙面越しの姿の方がまだ、印象が強くて、鮮明に思い浮かべられる。
私は現実に生きる幼馴染の所にたどり着く事が出来ず、一人でベッドに沈んでいた。
いつも通りと言えばいつも通り。
けれど、この苦しさは自前の発作のせいではない。誘発されたのだ。
「これで死んだら枕元に立ってやる」
ノックもなく入りこんできた男に向けて、私は言った。
寝ていると思ったのだろうか。いつもの三回響くノック音が聞こえないまま、そっと扉が開かれた。
普段どこか雑にクセに、変な所できちんと配慮が出来るヤツだった。
恨みがましそうな私の目とかち合うと、山岳はきょとんとした顔をして、ぱちぱちと瞬きした。
後ろ手に扉を閉めると、ゆったりとベッドの方へと近寄ってくる。
「いいけど。それだけ元気なら多分立たないね」
珍しくベッドに座らなかった山岳は、佇んだまま、じっと見おろしていた。
起き上がれない私は、掠れた声で絶え絶えになりながら返す。
「元気そうに、みえるの」
「うん。ぼーっと寝てるよりは」
「ああ、そう…」
呆れてまともな声が出なかった。
息も絶え絶え、顔は掠れて顔は真っ赤で、日焼け止めを塗る余裕もなかったおかげで皮膚はぼろぼろ。
かけ布団をかぶっているから山岳には見えないだろうけど、膝は怪我してるし、手まで擦り切れてる。
汗は酷いし、意識はどこか朦朧としてるし。
なんとか受け答えが成立しているのは、ふつふつ湧いた怒りで意識が保たれているからに過ぎない。
落ち着こう、と暫く瞼を閉じた。
山岳は沈黙して、私も口も視界も閉ざしたまま。
何しに来たんだろう、生存確認だろうか、想いながら目を開いて、暗闇になれた目がふと気が付いた。
暗がりの中では、気が付けなかった。
「…なんで笑うの」
山岳は笑っていた。いつもの緩々しているのとも違う。凛とした笑みを湛えて、そこに佇んでいる。私は自然と息を呑んでいた。
こんな時に不謹慎だとか、腹が立つヤツだとか、むかっ腹が立って罵ってもいい状況だった。
だというのに、それが出来ないまま時間が過ぎていく。気圧されていたのだと思う。
いつもは見せない表情に、私は何か妙なものを感じ取っていた。
「そうやって汗かいて、息切らして、苦しくなるとさ。生きてるって感じるでしょ」
山岳はぽつぽつと、その笑みを崩さないまま語り出した。いつものように不機嫌ではなくい。ああ、なんだか憑き物が取れたようだなと感じた。
嬉しそうにも見える。してやったりな顔にも見える。どうとでも受け取れた。
「心臓がばくばく言って、肺が痛くて、頭もガンガン痛くてさ。はちきれそうになるの」
山岳は自分の心臓の辺りに手の平を覆わせた。
それは、今まさに味わってる事全てだった。実感を伴っているんだろう強い言葉で山岳は言う。
「俺はそれが、嬉しくなる。楽しくなる」
言葉にこそしなかったけど、だから笑うのだと含まれていた。
山岳は膝をついて、私の投げられた手を取ると、手首を握った。
手のひらの腹で、とくとくと打つ脈を感じ取っているに違いない。それは私の生きているの証だった。
「本の中の登場人物はさ、きっと夏に汗をかいて日差しを浴びてたよね。でも、それを見て実感得られた?今みたいに疲れて息切れしたの、初めてでしょ」
発作のせいで息切れした事は星の数ほどあれど、体を大事に労わって…という方針で暮らしている私は、確かにこうなった事はない。今世では、の話だけど。
前世では病に伏すまでは健康優良児だった。人並みに暮らして運動して、四季の中で生きていた。
夏に照らされて冬に凍える。
間違いではなかったから、うんと声なく頷いた。
「は死んじゃうかもしれないね。俺が殺しちゃうのかも」
「…変なこと、言わないでよ…」
「だって、もし一歩間違ったら倒れるよね?それって俺が来いって頼んだせいで、無理強いしたせいで、部屋にいたらそんな事になってない」
あっさりととんでもない事を言う。また呆れてしまって、言い返す気にもなれない。
握られた手が夏場には暑くてうっとおしい。
振り払おうとするけれど、固くてほどけなかった。好きにさせておこうと放置して、受け答えに徹しようとする。
けれどどこか真面目になりきれず、その口から出て来るのは、肩の力が抜けそうなものばかりだ。
「明日は俺、勝敗も、の命運もかけて走らなきゃいけない」
「勝敗は知らないけど、勝手に私の命まで背負わないで」
「それは無理かな」
「あのね…私が死んでも山岳、責任なんてとれないでしょ。自己責任ってことで、それでいいから」
だから、もう好きにしろと言おうとした。山岳が言うように、一歩間違えたら危ないのは百も承知で、いつもなら犯さない冒険だった。
それでも死ぬ気になれない。別に日々好きで部屋に引きこもっている訳じゃない。久々に外出できて、気分が昂揚しているのかもしれない。
軽く否定すると、
「責任は取れないけど、俺が背負ってくよ」
山岳は静かに言い切った。
「生きてるって、感じさせるから」
俺も明日、生きてくるから。
真剣な面持ちで、変な事を言った。
今は生きていないのかとか、責任取れないって普通言い切るかとか、何をどう背負うつもりだとか。言い返す言葉はいくらでもあった。
けれど、私はそこでしんと押し黙る。汗をかいて息を切らして苦しむ事が「生きている」事だというなら、私はとっくに…昨日から十分に生きているし、いい汗をかいて、確かにいつもよりは見た目は悪くても、健康的だった。
けれどこれにはもっと上があるらしい。しばらく言葉を探しに巡らせて、結局私はシンプルなたった一言だけを返した。
「がんばれ」
掠れきってしまった声で言うと、珍しく含みのない、明るい笑みと一緒に、明るい声が返ってくる。
それもたった一言だけの、単純なものだった。
「頑張る」
だからこそ、どれだけの強い思いがこめられているのか。私には手に取るように伝わってくる。
生ぬるい体温も、じんわりかいた汗も、いつのまにか気にならなくなっていた。
気まぐれに握り返してやると、ふふと笑いが零れて、私もつられて笑っていた。