第十五話
2.道標─二日目
朝日に照らされて、アスファルトが輝いているのが見えた。
まだ冷えた空気に吐息を吐き出すけど、流石に冬の日のように白く煙ることはない。
外出をすれば、地元の友人知人に遭遇する事も珍しくはなかったけど、この時間帯となるとそういう事も起らない。
…はずだった。
駅に停車するバスから乗り継いで、会場入りをする。
そういう単純な算段を立てて街を歩いていると、コンビニの自動ドアから出て来た誰かがいた。
その人は私とばちりと顔を見合わせると、面食らったような顔をした。
「お前なにしてんのォ?」
一度は通り過ぎようとしたコンビニを振り返ると、見慣れた黒髪の彼も気が付いたようで、歩いてきた。
コンビニ袋を下げた彼はパーカーを着ていて、けれどその下に競技用のジャージを着ている様子はない。現地で着替える物なのだろうか。
当然今世では選手になった事はないし、前世でも大それた大会に進出する程の部活動に所属した事もない。その辺の通例というものが分からなかった。
そう聞かれても、私は上手く答えられず、取り留めない事ばかり考えた。
何してるのかと聞かれたら、当然観戦しに行くのだと答える。
店内もまだガランとしていて、そうそう出かけるものもいないこの時間。
この街中で、逆に彼は私が何をしていると思ったのだろうか。
「…何してると思う?」
「徘徊」
ゾンビのようにフラフラしている姿を見ての言葉だろう。
酷い言い草だ。迷いのない即答だったのがまた酷い。
昨日の疲労がまだ残っていて、私の体はまだふらついていた。
駅前店ではないこのコンビニ。けれど駅近ではある。この大通を少し歩けば、すぐに改札口を潜りに行ける。
今日という日に、普段あまり纏わない軽装で、この通りを真っ直ぐに進もうとしていたのだ。
わざと茶化しているのか、本当に想像がつかないのか、悩みどころだった。
「その……観戦しにいくの。ロードレースの」
「はァ?俺達まだこれからバスに乗るとこだぞ」
選手も会場入りしていない中、行っても仕方がないという話だろう。
彼が徘徊なんて言い出して、観戦というワードに至らなかった理由がようやく分かった。
花見をするんじゃないんだから、こんなに念入りに場所取りなどしなくてもいい。
ベストポジションから観戦したいというファンであるなら話は別だろう。けれど、私がそうでない事を彼も知ってる。
「つーか、お前こういうの来ないタイプだろ。暇なのォ?」
「…山岳出るんだよね?まさか下ろされた?」
きょろりと無意味に周りを見渡した。隣人の部屋など覗いてこなかったから、山岳が今どこでどうしてるのかは知らない。
荒北くんははぁと呆れたように息を吐いた。
「こんな土壇場で下ろせるかヨ」
「ていうか、幼馴染の観に行くんだろうなーって思わなかったかな」
「おもわねーよ。だってお前ら仲わりーじゃん」
「えー…」
思わず顔を顰めた。仲が悪い訳じゃない。ただ、良くはないだけで。
それって仲が悪いのとも同義なのかもしれない。
喧嘩する程仲がいいとも言うのに、私達の場合は完全に険悪に見られているようだ。
「荒北、そろそろ行くぞ。もうお前待ちだ」
大通から一本逸れる路地から、見慣れた顔が歩いてきた。
ここは箱学生が頻繁に利用するコンビニで、あの路地を辿れば、10分もしないうちに学校へとたどり着く。
迷わず一直線に歩いてきた彼は、トレードマークのようになっているカチューシャを纏っている。買い物をしにきた訳ではないようだ。仲間を迎えにきたらしく、眉を顰めながら苦言を呈した。
「ゲェ。マジかよ」
「確かに荒北の応援に来たと言われた方がしっくり来るぞ」
「聞いてたのかヨ」
きょろりと周りを見渡すと、「真波に垢を煎じて飲ませたいな」と言って溜息をついた。
また遅刻したらしい。
どこにいるも何も、山岳は今頃自宅のベットの中なのだろう。
幼馴染が朝から徘徊とまで称されながら会場に向かっているというのに、呑気なやつだ。
会場まで向かうバスに乗り込もうと、彼らは速足で去って行った。
バスが停留しているのは、学校の敷地内だ。
てっとりばやくそれに乗ってついていきたいと思ったけれど、そんな馬鹿みたいな事考えても栓は無い。
私は私で独自のルートを辿っていかなければならない。
このルートは険しいものであり、だからこそ選手も出発していないこんな時間帯に歩き始めなければならないのだ。
それこそ、息も絶え絶えに這ってでも歩く。
陽が昇る頃にはじりじりと頭上から熱で照らされ、清涼な空気は空も白む早朝の時間帯を過ぎるとかき消された。
「…はあ」
集中力を高めようと、大きく深呼吸をする。これから私は昨日よりも早く行動し、坂を昇って見どころを抑えなければならない。
クライマーというのは当然坂でこそ輝く。あえて自転車入門の本なんて読んだ事はないけど、漫画を流し読んで、それくらいの知識は得られていたし、まだ頭に残ってる。
昨日は無知が故に、ついでに山岳の不親切さが故に、スタート地点に一番にたどり着いてしまった。
けれど、二日目の今日は反省を生かして、山岳賞とやらが取れるゴールがあるスポットか、クライマーが活躍するであろう、傾斜のついた路面まで下らなければならない。
確か三日目、小野田坂道とゴールを争うはずだ。
真波山岳という一年生が活躍するという大きな出来事は覚えていても、何日目、どの地点でという細々とした情報までは覚えていなかった。
それ以外にも、ぽつぽつ山岳の頑張りどころはあるはずだろう。一年生が後生大事に温存されるという事もないだろうし。
どちらにせよ、通り過ぎるのは一瞬だし、ゴールの瞬間も一瞬だ。
山岳が走るその瞬きの間を、眼に焼きつけていればいい。
言うだけなら簡単、思うだけなら単純。
けれど。
──一筋縄ではいかない事だなんて、最初から分かっていたはずだ。
「…あ…」
──ああ、このままだと死んじゃうかも、と思った瞬間、その場に蹲って息を殺した。
逃げではなく、過信して無理をしなかった私の英断だと思いたい。
このまま吐息を逃さないように。少しでも削られていく命を温存するように。
吐き気がする。ぐるぐると視界が回る。地面に近づいた体が草に撫でつけられて気持ち悪い。土の匂いが嘔吐感を加速させた。虫の息ってやつだ。
幸い戻してしまう事なく、水を飲み干して押し堪えた。
熱中症か、それとも自分の脆弱さが招いた結果か。それとも疲労が祟ったか。
私はぐるぐると考え続けた。
自分が倒れてしまわないために、一線を越えないために、できる事を脳みそが探して行く。
生存戦略。そんな言葉を使うのはさすがに誇張表現すぎるだろうか。たかだかこんな事に。いいや、されどこんな事なのだ。
真夏の空の下、この三日間、選手達が馬鹿みたいに足を回しながら、知略を尽くしている。ただ進めばいいという訳でない、活路を見出せた者が勝つ。
私だってそうだ。ただ歩いて、進んで、がんばって、我武者羅になれば望んだところに辿り着ける訳ではなかった。
ぼろぼろと涙が零れて止まらなくなる。嘔吐感の代わりに、嗚咽が零れてきた。
自分が不甲斐なくてたまらなきった。たかが、たかがこれだけの事なのだ。
幼馴染の雄姿を観に行きたい。約束をしたから守る。たったそれだけのちっぽけな事に挫折しそうになる。
水をもっと飲んだ方がいいだろうか。それとも空っぽの胃袋はもう悲鳴を上げているだろうか。足は休めた方がいいのか。自分の意識がはっきりしているのか確かめなければ。
視野はまだぼんやりとせず、広いままだろうか。
そんな馬鹿みたいな事ばかり考える。
自分の事ばかりで、今どこかで走っているだろう幼馴染の姿を脳裏に思い描く事ができない。そんな余裕はどこにもない。
とても、惨めだった。ペットボトルの蓋を開ける手に力が入らない事が。手から滑り落ちたキャップを拾う事さえ億劫な事が。惨めでたまらない。
──山頂に向かう、バスに乗る前の事だった。
私はその日、向かう事すらできず、炎天下に数時間蹲って、そのままふらふらと家に戻った。それこそ、徘徊しているような姿だっただろう。
レースは三日目がある。明日に賭けようと思った。
けれど、もしもたった一日で終わる事だったら私はどうしたのだろう。
もしも山岳が明日ヘバって、出なかったならどうしよう。
悔いの残らない日々を送ろう。今しかない時間を過ごそう。
大人達が、口をついて子供達に向ける言葉が思い出された。
まだ純粋な学生だった前世の私が、教室で机に肘をつきながら、ふーんと流したあり触れた響き。どれだけ意味がこめられた物なのか、今の私にはよくわかる。
手から零れ落ちていく今しかない、大切な時間が惜しくてたまらない。
ぼたぼたと、落ちる涙などいくら溢れようとどうだっていいのに、目に見えない時間というものが過ぎ去る事が惜しかった。
2.道標─二日目
朝日に照らされて、アスファルトが輝いているのが見えた。
まだ冷えた空気に吐息を吐き出すけど、流石に冬の日のように白く煙ることはない。
外出をすれば、地元の友人知人に遭遇する事も珍しくはなかったけど、この時間帯となるとそういう事も起らない。
…はずだった。
駅に停車するバスから乗り継いで、会場入りをする。
そういう単純な算段を立てて街を歩いていると、コンビニの自動ドアから出て来た誰かがいた。
その人は私とばちりと顔を見合わせると、面食らったような顔をした。
「お前なにしてんのォ?」
一度は通り過ぎようとしたコンビニを振り返ると、見慣れた黒髪の彼も気が付いたようで、歩いてきた。
コンビニ袋を下げた彼はパーカーを着ていて、けれどその下に競技用のジャージを着ている様子はない。現地で着替える物なのだろうか。
当然今世では選手になった事はないし、前世でも大それた大会に進出する程の部活動に所属した事もない。その辺の通例というものが分からなかった。
そう聞かれても、私は上手く答えられず、取り留めない事ばかり考えた。
何してるのかと聞かれたら、当然観戦しに行くのだと答える。
店内もまだガランとしていて、そうそう出かけるものもいないこの時間。
この街中で、逆に彼は私が何をしていると思ったのだろうか。
「…何してると思う?」
「徘徊」
ゾンビのようにフラフラしている姿を見ての言葉だろう。
酷い言い草だ。迷いのない即答だったのがまた酷い。
昨日の疲労がまだ残っていて、私の体はまだふらついていた。
駅前店ではないこのコンビニ。けれど駅近ではある。この大通を少し歩けば、すぐに改札口を潜りに行ける。
今日という日に、普段あまり纏わない軽装で、この通りを真っ直ぐに進もうとしていたのだ。
わざと茶化しているのか、本当に想像がつかないのか、悩みどころだった。
「その……観戦しにいくの。ロードレースの」
「はァ?俺達まだこれからバスに乗るとこだぞ」
選手も会場入りしていない中、行っても仕方がないという話だろう。
彼が徘徊なんて言い出して、観戦というワードに至らなかった理由がようやく分かった。
花見をするんじゃないんだから、こんなに念入りに場所取りなどしなくてもいい。
ベストポジションから観戦したいというファンであるなら話は別だろう。けれど、私がそうでない事を彼も知ってる。
「つーか、お前こういうの来ないタイプだろ。暇なのォ?」
「…山岳出るんだよね?まさか下ろされた?」
きょろりと無意味に周りを見渡した。隣人の部屋など覗いてこなかったから、山岳が今どこでどうしてるのかは知らない。
荒北くんははぁと呆れたように息を吐いた。
「こんな土壇場で下ろせるかヨ」
「ていうか、幼馴染の観に行くんだろうなーって思わなかったかな」
「おもわねーよ。だってお前ら仲わりーじゃん」
「えー…」
思わず顔を顰めた。仲が悪い訳じゃない。ただ、良くはないだけで。
それって仲が悪いのとも同義なのかもしれない。
喧嘩する程仲がいいとも言うのに、私達の場合は完全に険悪に見られているようだ。
「荒北、そろそろ行くぞ。もうお前待ちだ」
大通から一本逸れる路地から、見慣れた顔が歩いてきた。
ここは箱学生が頻繁に利用するコンビニで、あの路地を辿れば、10分もしないうちに学校へとたどり着く。
迷わず一直線に歩いてきた彼は、トレードマークのようになっているカチューシャを纏っている。買い物をしにきた訳ではないようだ。仲間を迎えにきたらしく、眉を顰めながら苦言を呈した。
「ゲェ。マジかよ」
「確かに荒北の応援に来たと言われた方がしっくり来るぞ」
「聞いてたのかヨ」
きょろりと周りを見渡すと、「真波に垢を煎じて飲ませたいな」と言って溜息をついた。
また遅刻したらしい。
どこにいるも何も、山岳は今頃自宅のベットの中なのだろう。
幼馴染が朝から徘徊とまで称されながら会場に向かっているというのに、呑気なやつだ。
会場まで向かうバスに乗り込もうと、彼らは速足で去って行った。
バスが停留しているのは、学校の敷地内だ。
てっとりばやくそれに乗ってついていきたいと思ったけれど、そんな馬鹿みたいな事考えても栓は無い。
私は私で独自のルートを辿っていかなければならない。
このルートは険しいものであり、だからこそ選手も出発していないこんな時間帯に歩き始めなければならないのだ。
それこそ、息も絶え絶えに這ってでも歩く。
陽が昇る頃にはじりじりと頭上から熱で照らされ、清涼な空気は空も白む早朝の時間帯を過ぎるとかき消された。
「…はあ」
集中力を高めようと、大きく深呼吸をする。これから私は昨日よりも早く行動し、坂を昇って見どころを抑えなければならない。
クライマーというのは当然坂でこそ輝く。あえて自転車入門の本なんて読んだ事はないけど、漫画を流し読んで、それくらいの知識は得られていたし、まだ頭に残ってる。
昨日は無知が故に、ついでに山岳の不親切さが故に、スタート地点に一番にたどり着いてしまった。
けれど、二日目の今日は反省を生かして、山岳賞とやらが取れるゴールがあるスポットか、クライマーが活躍するであろう、傾斜のついた路面まで下らなければならない。
確か三日目、小野田坂道とゴールを争うはずだ。
真波山岳という一年生が活躍するという大きな出来事は覚えていても、何日目、どの地点でという細々とした情報までは覚えていなかった。
それ以外にも、ぽつぽつ山岳の頑張りどころはあるはずだろう。一年生が後生大事に温存されるという事もないだろうし。
どちらにせよ、通り過ぎるのは一瞬だし、ゴールの瞬間も一瞬だ。
山岳が走るその瞬きの間を、眼に焼きつけていればいい。
言うだけなら簡単、思うだけなら単純。
けれど。
──一筋縄ではいかない事だなんて、最初から分かっていたはずだ。
「…あ…」
──ああ、このままだと死んじゃうかも、と思った瞬間、その場に蹲って息を殺した。
逃げではなく、過信して無理をしなかった私の英断だと思いたい。
このまま吐息を逃さないように。少しでも削られていく命を温存するように。
吐き気がする。ぐるぐると視界が回る。地面に近づいた体が草に撫でつけられて気持ち悪い。土の匂いが嘔吐感を加速させた。虫の息ってやつだ。
幸い戻してしまう事なく、水を飲み干して押し堪えた。
熱中症か、それとも自分の脆弱さが招いた結果か。それとも疲労が祟ったか。
私はぐるぐると考え続けた。
自分が倒れてしまわないために、一線を越えないために、できる事を脳みそが探して行く。
生存戦略。そんな言葉を使うのはさすがに誇張表現すぎるだろうか。たかだかこんな事に。いいや、されどこんな事なのだ。
真夏の空の下、この三日間、選手達が馬鹿みたいに足を回しながら、知略を尽くしている。ただ進めばいいという訳でない、活路を見出せた者が勝つ。
私だってそうだ。ただ歩いて、進んで、がんばって、我武者羅になれば望んだところに辿り着ける訳ではなかった。
ぼろぼろと涙が零れて止まらなくなる。嘔吐感の代わりに、嗚咽が零れてきた。
自分が不甲斐なくてたまらなきった。たかが、たかがこれだけの事なのだ。
幼馴染の雄姿を観に行きたい。約束をしたから守る。たったそれだけのちっぽけな事に挫折しそうになる。
水をもっと飲んだ方がいいだろうか。それとも空っぽの胃袋はもう悲鳴を上げているだろうか。足は休めた方がいいのか。自分の意識がはっきりしているのか確かめなければ。
視野はまだぼんやりとせず、広いままだろうか。
そんな馬鹿みたいな事ばかり考える。
自分の事ばかりで、今どこかで走っているだろう幼馴染の姿を脳裏に思い描く事ができない。そんな余裕はどこにもない。
とても、惨めだった。ペットボトルの蓋を開ける手に力が入らない事が。手から滑り落ちたキャップを拾う事さえ億劫な事が。惨めでたまらない。
──山頂に向かう、バスに乗る前の事だった。
私はその日、向かう事すらできず、炎天下に数時間蹲って、そのままふらふらと家に戻った。それこそ、徘徊しているような姿だっただろう。
レースは三日目がある。明日に賭けようと思った。
けれど、もしもたった一日で終わる事だったら私はどうしたのだろう。
もしも山岳が明日ヘバって、出なかったならどうしよう。
悔いの残らない日々を送ろう。今しかない時間を過ごそう。
大人達が、口をついて子供達に向ける言葉が思い出された。
まだ純粋な学生だった前世の私が、教室で机に肘をつきながら、ふーんと流したあり触れた響き。どれだけ意味がこめられた物なのか、今の私にはよくわかる。
手から零れ落ちていく今しかない、大切な時間が惜しくてたまらない。
ぼたぼたと、落ちる涙などいくら溢れようとどうだっていいのに、目に見えない時間というものが過ぎ去る事が惜しかった。