第十四話
2.道標14夜
ベッドの上に横たわる体は、いつまでも汗ばんでいた。
スカートは皺くちゃで、薄手のニットが張り付く。
結っていた髪をほどくと少し楽になったけど、散らばってうざったい。

「結局、あっと言う間に通り過ぎてっちゃった」


はは、と乾いた笑いを漏らす。
声も上げない、息切れして蹲っていた私の姿に山岳が気が付くはずもなく、一瞬で背中も見えなくなった。
ワッと盛り上がる歓声、声援はとても大きく、私の貧弱な声なんてかき消される。腹の底から声を出すには、体力気力を削られすぎていた。
炎天下、私は頑張った方だ。
頑張りすぎて、私は帰宅後、雪崩れ込むように伏せたベッドの上から起き上がれない。
早くシャワーを浴びて眠りたいと思うのに、動けないし、どこか冴えた頭は眠りにつこうとしない。


「もう、やめなさいよ」

ベッドの横、正座をしてこちらを見ていた彼女は沈痛な面持ちで、どこか悲痛な声を出した。
私の事を痛々しそうに見ている。まるで虫の息の私を咎めるように見ている。
冷たくはなく、それは私への思いやりだ。彼女の中には慈愛が満ちていると、ずっと昔から分かってる。
彼女がやってきてつけてくれたとき、空調がつけられた。私の肌と汗で張り付いた髪を詰めたい風が撫でていく。
少し呼吸が楽になった気がして、大きく息を吸って、吐き出す。
帰った時間がもう既に遅かった。夜もすっかり更けて、いつもならもう就寝の支度を終えている頃だった。


「応援したいのはわかるわ。…私だけ行くのは気が引けるけど…私が代わりに…ううん、それもズルいなら私もここに居るから、」
「……いく、いいよ、ごめん。ズルくないよ」

ベッド脇に座りこんでいる彼女は、私の手をぎゅっと握った。
応援に行くと言った私を引き止める事もせず、今朝見送ってくれた彼女だけど、私のこの様子を見れば口を挟まずにいられなくなったらしい。
明日も観に行くのだと言った私を、彼女は引き止めようとした。
客観的に見ても、自分から見ても、出かけていい体調はしていない。
朦朧とする意識を保ってどうにか拙い受け答えをする。
握り返そうとした手に思いの他力が入らなくて、我が事ながら驚いた。


「こんなにフラフラになって…出先で倒れたらどうするの?」
「それは…うん」

この間、学校から帰路に就く中、倒れたばかりだ。
山岳がいてくれなかったら、道端でしばらく行き倒れていた事だろう。
大丈夫だよ、なんて強がった事は言えない。
けれど、引くに引けない訳が私にはあった。

「約束したの。これで破ったりしたら、悔しいでしょ」

私は約束をしたのだ。山岳と約束したのは、思えばこれが初めてだった。
必ず破らない。必ず守る。決意を示すと、彼女はぎゅっと眉を寄せた。

「それで体を蔑にするの?それって命より大事?」
「みんなプライドかけて戦うんでしょ。私だってそうだよ」

ロードレース、年に一度の特別な日。部の沽券をかけて、個人のプライドをかけて、
各々大事なものを抱えて戦い抜くのだ。
今回の私の行動も、そんなようなものだった。やっている事は違っても、心境だけなら彼らときっと似ている。
そう言うと、

「山岳なんかにそんな物、かけなくていいわ」
「なんかって」

首を横に振って、きっぱりと彼女は否と言い切った。


「今日はすぐ力尽きちゃって、一瞬だけしか見れなかったんだけど。暑い中回して回して、よくやるなーって思ったよ」
「ちょっと……」


そういう事を言うかと呆れて肩を落としていた。
山岳に対しては冷たいし、彼女も競技に対しての理解はあまりないけど、各校の選手達が真剣なのだと言うことは分かってる。
冷めた様な、適当なような事を言う私に、彼女は渋い顔をする。

「だって、よくやるなーって呆れてるんでしょ。山岳なんかにムキになってーって」
「…そうね」
「頑張るってそういう事なのかもね。よくやんなーって、傍からみたら全部馬鹿馬鹿しく見える」

私の体は意志とは関係なく頑張れなかったけど、私の気持ちの方はそうじゃない。
"頑張ろうとしなかった"のだ。
私は今日、明日、もしかたら明後日も。他人から心底見ればくだらない理由で、我武者羅になって歩きに行くのだ。

「…それこそ、山岳なんかに負けたくないし」

私が山岳と意地を張り合ってる事を、彼女も昔から分かってる。
私のその頑固な言葉を聞いて、ああ、これはもう止められないのだろうと、観念したようだった。


「…わかった。もう止めないわ。…もう、どうせ二人とも止めたって止まらないんでしょ」
「うん、そうだね」
「うんじゃないわよ!!もーっ」

べしべしと両腕を振って叩かれた。彼女の怒りを丸ごとぶつけられているのに、全然痛くない。怒りの中には慈愛があって、ぶつけられると心地よい。
怒らせられる彼女からしたらたまった物じゃないだろうけど、私と…多分山岳も、彼女に叱られるのが嫌いじゃなかった。
ひとしきり叩いて気が済むと、彼女は大きくはぁと息を吐いてから立ち上がる。
そのまま踵を返して、扉の方へ歩いた。広くはない部屋だから、数歩進めばすぐに廊下へと出られる。

「おやすみ。頑張って。ちゃんとしっかり帰ってきてよ」
「うん。頑張るよ」
「電気消そうか?」
「ありがと、お願い」

手を振って見送ると、彼女からも振り返された。パチリとスイッチを入れる音がして、すぐに消灯する。
扉が小さな音を立てて閉まると、小さな部屋は闇と静寂に包まれた。

電気が消されて、急に落とされた暗闇に目が驚いているようだった。生まれた落差で視界がチカチカ点滅してる。
目が慣れてくると窓から差し込む月の青白い光に気が付けるようになって、いつもと変わらない静かな夜を、いつもとは違う体で甘受した。
息は未だに荒い。鼓動が早い。頭が痛い。喉が渇く。
彼女と喋っていると紛らわされていた苦しみが、苛烈にぶり返してしてくる。
なるほど、これは死に近い。息が切れると心臓が暴れて、その主張は激しくて、それを見ると確かに自分の体は生きようとしているんだと感じられる。
感じられるけど、楽しいとは思わないし、あえてそのスリルは求めたくない。今にこの部屋にお迎えが降り立つのではないかと怯えているくらいだ。


「うっ…」


涙が出て、嗚咽が零れる。なんでかと言われたら、疲労感のせいだとも言えるし、彼女の優しさが嬉しかったせいもあるし、恐怖のせいだとも言えるし、存外楽しかったからだとも言える。
そうだ。楽しかった。レース観戦の醍醐味は未だにわからないけど、外出するのは楽しい。
汗をかくのは気持ちがいいし、風にさらされると心地いい。
そういう事をずっと前から知っていた。それが出来なくなるのは惜しい事だった。
久し振りに無理をえしてでも外出して、運動して、苦しいけど楽しかった。
自分の体が面倒臭く、脆すぎるからこそ奮起した。頑張り甲斐があった。

楽しい事は怖いことだろう。だって、それはいつ消えてなくなるのか分からない。
予測も出来ない未来に怯えるだけなら、それもいい。ただの取り越し苦労だったと後で笑える。
けれど、今世の私の体は確実に弱い。
多分、杞憂には終わらない。よくない未来予測は十分にできる。どうすればいいのかが分からない。開き直る勇気もない。
無茶して、ギリギリで、苦しくて。そんな時だからこそ本当に何かが見つかるだろうか。

2019.8.3