第十三話
2.道標─道中
まだ履きなれない新しいスニーカーと、動くには適さない丈の長いスカート。
運動する事を想定していない人生を生きていて、カジュアルな服を持っていなかった。
さすがにジャージでやってくる訳にもいかないしと、開き直ってやってきた。
不測の事態があった時のため、細々としたものが詰め込まれた鞄。
軽量化は図ったけれど、やっぱり少しだけ重たい。
その重みに引っ張られたのだろうか。
ぐらりと身体が傾いた瞬間、悲鳴も出ず、ただ息を呑んだ。
転ぶ、と思った瞬間には、もう既に体はコンクリートの上に叩きつけられていた。
いい年してみっともない。のろのろと上体を起こした私の膝には、子供のような赤いすり傷が残されているのが見えて、溜息をついた。
これから道は長そうだ。地元開催だという事を喜ぶしかない。
聞けば、全国各地で開催されるのだという。
もう既におぼろげになってきた漫画を思い出してみると、確かにそんなような描写があった気がする。
この虚弱な体で遠方まで旅をしろと言うのはそれこそ無茶な話で、根性だけでは辿り着けなさそうだ。レースが目的だというのに、早々に力尽きてしまうだろう。
「暑い…」
じわじわと、蝉の合唱が響いている。
ロードレースの会場は、どうも緑に囲まれているらしい。
何か必要な持ちものはあるかと山岳にきいたら、「えー、虫刺され薬とか?」とのんびり返ってきて、もっと何かないのかと呆れた。
実際必要なのかもしれないけど、絶対に第一優先にするものではない気がする。
一応持ってきてはいたけど、消毒液は持ってきていない。
どうした物か、バスの時間はいつだったかなと、腕時計と患部を見比べていると。
「あなた、大丈夫?これあげるわ」
「あ…ありがとうございます」
私が転ぶのを見ていたらしい女性が、手提げの中から絆創膏を取り出して、私に差し出してくれた。
有難いやら恥ずかしいやられで、礼を言う声が少しひっくり返る。
手まで貸して立ち上がらせてくれて、これも縁だと、バス停まで一緒に歩くことになった。
この女性もレース観戦しに行くのだと聞かされて驚いた。
乗り込んだバスの中は目的が同じ老若男女で賑わっていて、背格好は当然みんな違っている。時折どこかの地方の方言が聞えてくる。
普段バラバラに点在している人たちを一つの競技が一つの場所にたぐり寄せていた。
気分を昂揚させて、彼らの口は饒舌に展開を予想する。今年はあの学校が強い、あの選手に期待してる。
ちらほらと聞えてくる声に耳を澄ませる。バスは満員で、随分賑やかだった。
隣に座った上品な女性も緩く口端を上げている中で、私だけが温度を持っていない。
レースに思いを馳せる事もなく、窓の外の流れる景色をぼんやりと眺めた。
「あ…あつい」
日差しで溶けそうになるし、熱気で茹でられそうになる。
バスが停車した付近はアスファルトで固められていた。
人がいようといなかろうと、蒸し暑い灼熱地獄だ。
アイスクリームなど、夏に喜ばれる屋台もちらほら点在していた。
開始直前で昂揚している人の群れ。ここで開始して、活気溢れてしまったら、どうなるのか考えたくない。
再三言うけれど私は虚弱だ。温室育ちだ。普段快適な温度で保たれた生活を送っているのに、突然こんな環境に投げ込まれて、とんでもなく負担がかかってる。
既に息も絶え絶えだ。女性に手を振り別れるとき、笑顔を保つのに苦労した。
バスのドアから入りこんだ外気に触れた瞬間、もう私は生命力を削られていたのだ。
「…くらくらする」
熱中症にかかってる訳ではない。持ち前の弱さのせいでこうなってる。
ここまでの道のりだけでどっと疲労した体は簡単に悲鳴を上げて、危険信号を送っていた。
一度倒れて、回復したとはいえ、この頃は以前よりも落ち気味だった。
視界がどんどん狭まっているのに気が付く。視線を落せば、もう自分の靴周辺しか見えていない。
一度息を整えようと、道の隅の段差に腰かけた。地面が近くなって、立ち昇る蒸し暑さに顔を顰めた。
「………はあ」
道端に腰かけ項垂れながら、これからどうしようかと考えた。
観戦するとは言っても、どこに居ればいいのだろう。
彼らが走る道は長くて、三日間に渡る。
ゴール前は当然見どころで、場所取りも必要なんだろう。
人に揉まれて酔って、見るどころじゃなくなってしまうかもしれない。
そもそも、真波山岳が活躍する所はどこなんだ。
一年目のIH、二年目のIH。私の記憶はごちゃごちゃになっていて、もうよく分からない。
「………あ、そうだ」
多分五分くらいは遠い目をして、道行く人々を眺めていたはずだ。朦朧とした頭が答えを導き出すのは遅く、携帯を取り出す手も動作が緩慢だった。
「いつ、どこで、場所、なにを、どうやって、陣取り」
文章として成り立たされるのも面倒臭くて、単語だけを打ち込んで送信した。
果してあの男が返信をくれるか…それも開催当日に…と疑わしく思っていた。
返信どころか、会場入りするのも遅れるんじゃないだろうか。
そもそもあまりやり取りをしないから、あの男の平均速度がわからない。
けれどあの性格を鑑みれば、言うべきは"珍しい"で合っているのだろう。
珍しく即返事が届いた。画面が点滅して、小さく通知音が鳴る。
ディスプレイには見慣れた真波山岳という四文字が表示されていた。
それに感心したのはメッセージを開く瞬間までだ。
「…わかるか!!!」
噴火した怒りのおかげで靄がかっていた視界も意識も晴れて、クリアな状態で画面をもう一度確認した。
大きな独り言を上げた女に驚いた観戦客に、じりじりと距離を取られてしまった。周囲に憚る事ができないまま、食い入るように画面を眺めた。
「あいつ…この…くそ…おのだ…小野田って誰だ…おおのだ…」
ぶつぶつと呪詛のように吐き出すのは、山岳が送ってきたメッセージに含まれていたものだ。
「小野田坂道と勝負するからって…小野田って誰…レースって一対一なの?そうじゃないでしょ…どういう意味…小野田…見ててって…どこで見るの…通りすぎるじゃん…後ろ張り付いてろっていうの…小野田…誰…」
私は意識朦朧としながらも、胸は恨み辛みでいっぱいになっていた。
土地勘…というか勝手もわからなない、醍醐味も知らない、何もわからない人間に送るのが「小野田坂道くんと勝負する。走ってる所見てて」ってどういうつもりだ。
思わず語気が荒くなる。走ってる所を見に来たのだ、当然みる。だけど小野田坂道って誰なんだ。勝負するなんて初耳だし、意味がわからない。
「あの…」
「はい?」
振り返ると、緑髪の長身の男が困惑した表情で佇んでいた。その左右には同じジャージを纏った男が佇んでいる。
──そこに刻まれた総北という文字に、"私が"見覚えがなはずがない。
なのに、朦朧とした意識が心当たりをつけるのは幸か不幸か遅かった。
学校名よりもまず、小野田坂道という耳に残りやすい名前で思い出すべきだった。
「うちの小野田に何か用か?」
「家族かなんかんか?」
呪っているかのように炎々と名前を吐いておいて、家族な訳がない。
とんでもない所を身内らしい彼らに目撃されて、どんどん頭が冷えて行った。
それと同時に、彼らがどこの誰なのかもぼんやりと思い出して来る。
「いや…すみません…知り合いに小野田を見ろっていわれて…私、競技自体よく知らなくて」
見るべきは勝負相手の小野田坂道ではなくて、山岳の方だ。
省いてしまったが、それでいいだろう。納得したように三人は各々頷いた。
「なるほど、観戦もはじめてか」
「お前の知り合いが小野田の知り合いか?あいつの名前なんざまだそう知られてないだろ」
「あいつらは温存したっショ。今泉と鳴子はともかく、小野田の晴れ舞台は今日だ」
三年生の彼ら三人は、片目に前髪を流した来と、天然パーマの髪を結った子に呼ばれた。
どこか慌てて手招きしていて、彼らは時間に追われてるのだと知る。
「すまない。もう時間だ。俺達はもう行かなければならない」
「あー、観戦なら好きなとこでいいんじゃないかね」
「どこに居ても走るからな。通り過ぎるのは一瞬で、あっけないだろうけどな、楽しいぜ?」
体格のいい彼はワハハと気の良い笑いを零しながら、三人揃って手を振って去って行った。
開始直前で終われているというのに、親切な人たちだ。
しばらくすると、遠くからマイクを通した声が聞こえてきた。
選手を壇上に上がらせて、インタビューしているらしい。
私はそれを眺める余裕もなく、椅子替わりのコンクリートから立ち上がった私は、のろのろとした亀のような歩みで陣地を探した。
そもそも、山であるならスタート地点の江の島にいたって意味がない。
配布されたブックを眺めてマップ確認をする。
山岳地帯に差し掛かるには、芦ノ湖の方へ行かないと駄目だった。
この鈍足じゃ悠長には出来ない。今から動いても、スタート地点で選手達が走るのを見れるのに間に合うかもわからない。
既に息も絶え絶えで苦しい。日差しが肌にぶつかって、じりじりと焼かれるのが分かった。
苦しくても観に来てと言われて、既に半ば約束は守られてる。
けれどきっとこういう事ではない。もっともっと歩いて、たどり着くべき場所がどこかにある。
私は苦しくて俯いていた顔を上げて、前を向いた。
もうすぐレースが始まろうとしてるのだ。もしかしなくても、そこにたどり着く頃には、山岳はとっくに私の脇を通り過ぎて行ってるだろう。
自動車よりもスピードの出るというロードバイク。たまったもんじゃない。
坂を登って行こうと、ここで初めて自分の身の振り方を決めた。
明日はもっと早くきて、また歩く事を視野にいれながら、私は一歩一歩確実に、何かを噛みしめるように足をすすめていた。
2.道標─道中
まだ履きなれない新しいスニーカーと、動くには適さない丈の長いスカート。
運動する事を想定していない人生を生きていて、カジュアルな服を持っていなかった。
さすがにジャージでやってくる訳にもいかないしと、開き直ってやってきた。
不測の事態があった時のため、細々としたものが詰め込まれた鞄。
軽量化は図ったけれど、やっぱり少しだけ重たい。
その重みに引っ張られたのだろうか。
ぐらりと身体が傾いた瞬間、悲鳴も出ず、ただ息を呑んだ。
転ぶ、と思った瞬間には、もう既に体はコンクリートの上に叩きつけられていた。
いい年してみっともない。のろのろと上体を起こした私の膝には、子供のような赤いすり傷が残されているのが見えて、溜息をついた。
これから道は長そうだ。地元開催だという事を喜ぶしかない。
聞けば、全国各地で開催されるのだという。
もう既におぼろげになってきた漫画を思い出してみると、確かにそんなような描写があった気がする。
この虚弱な体で遠方まで旅をしろと言うのはそれこそ無茶な話で、根性だけでは辿り着けなさそうだ。レースが目的だというのに、早々に力尽きてしまうだろう。
「暑い…」
じわじわと、蝉の合唱が響いている。
ロードレースの会場は、どうも緑に囲まれているらしい。
何か必要な持ちものはあるかと山岳にきいたら、「えー、虫刺され薬とか?」とのんびり返ってきて、もっと何かないのかと呆れた。
実際必要なのかもしれないけど、絶対に第一優先にするものではない気がする。
一応持ってきてはいたけど、消毒液は持ってきていない。
どうした物か、バスの時間はいつだったかなと、腕時計と患部を見比べていると。
「あなた、大丈夫?これあげるわ」
「あ…ありがとうございます」
私が転ぶのを見ていたらしい女性が、手提げの中から絆創膏を取り出して、私に差し出してくれた。
有難いやら恥ずかしいやられで、礼を言う声が少しひっくり返る。
手まで貸して立ち上がらせてくれて、これも縁だと、バス停まで一緒に歩くことになった。
この女性もレース観戦しに行くのだと聞かされて驚いた。
乗り込んだバスの中は目的が同じ老若男女で賑わっていて、背格好は当然みんな違っている。時折どこかの地方の方言が聞えてくる。
普段バラバラに点在している人たちを一つの競技が一つの場所にたぐり寄せていた。
気分を昂揚させて、彼らの口は饒舌に展開を予想する。今年はあの学校が強い、あの選手に期待してる。
ちらほらと聞えてくる声に耳を澄ませる。バスは満員で、随分賑やかだった。
隣に座った上品な女性も緩く口端を上げている中で、私だけが温度を持っていない。
レースに思いを馳せる事もなく、窓の外の流れる景色をぼんやりと眺めた。
「あ…あつい」
日差しで溶けそうになるし、熱気で茹でられそうになる。
バスが停車した付近はアスファルトで固められていた。
人がいようといなかろうと、蒸し暑い灼熱地獄だ。
アイスクリームなど、夏に喜ばれる屋台もちらほら点在していた。
開始直前で昂揚している人の群れ。ここで開始して、活気溢れてしまったら、どうなるのか考えたくない。
再三言うけれど私は虚弱だ。温室育ちだ。普段快適な温度で保たれた生活を送っているのに、突然こんな環境に投げ込まれて、とんでもなく負担がかかってる。
既に息も絶え絶えだ。女性に手を振り別れるとき、笑顔を保つのに苦労した。
バスのドアから入りこんだ外気に触れた瞬間、もう私は生命力を削られていたのだ。
「…くらくらする」
熱中症にかかってる訳ではない。持ち前の弱さのせいでこうなってる。
ここまでの道のりだけでどっと疲労した体は簡単に悲鳴を上げて、危険信号を送っていた。
一度倒れて、回復したとはいえ、この頃は以前よりも落ち気味だった。
視界がどんどん狭まっているのに気が付く。視線を落せば、もう自分の靴周辺しか見えていない。
一度息を整えようと、道の隅の段差に腰かけた。地面が近くなって、立ち昇る蒸し暑さに顔を顰めた。
「………はあ」
道端に腰かけ項垂れながら、これからどうしようかと考えた。
観戦するとは言っても、どこに居ればいいのだろう。
彼らが走る道は長くて、三日間に渡る。
ゴール前は当然見どころで、場所取りも必要なんだろう。
人に揉まれて酔って、見るどころじゃなくなってしまうかもしれない。
そもそも、真波山岳が活躍する所はどこなんだ。
一年目のIH、二年目のIH。私の記憶はごちゃごちゃになっていて、もうよく分からない。
「………あ、そうだ」
多分五分くらいは遠い目をして、道行く人々を眺めていたはずだ。朦朧とした頭が答えを導き出すのは遅く、携帯を取り出す手も動作が緩慢だった。
「いつ、どこで、場所、なにを、どうやって、陣取り」
文章として成り立たされるのも面倒臭くて、単語だけを打ち込んで送信した。
果してあの男が返信をくれるか…それも開催当日に…と疑わしく思っていた。
返信どころか、会場入りするのも遅れるんじゃないだろうか。
そもそもあまりやり取りをしないから、あの男の平均速度がわからない。
けれどあの性格を鑑みれば、言うべきは"珍しい"で合っているのだろう。
珍しく即返事が届いた。画面が点滅して、小さく通知音が鳴る。
ディスプレイには見慣れた真波山岳という四文字が表示されていた。
それに感心したのはメッセージを開く瞬間までだ。
「…わかるか!!!」
噴火した怒りのおかげで靄がかっていた視界も意識も晴れて、クリアな状態で画面をもう一度確認した。
大きな独り言を上げた女に驚いた観戦客に、じりじりと距離を取られてしまった。周囲に憚る事ができないまま、食い入るように画面を眺めた。
「あいつ…この…くそ…おのだ…小野田って誰だ…おおのだ…」
ぶつぶつと呪詛のように吐き出すのは、山岳が送ってきたメッセージに含まれていたものだ。
「小野田坂道と勝負するからって…小野田って誰…レースって一対一なの?そうじゃないでしょ…どういう意味…小野田…見ててって…どこで見るの…通りすぎるじゃん…後ろ張り付いてろっていうの…小野田…誰…」
私は意識朦朧としながらも、胸は恨み辛みでいっぱいになっていた。
土地勘…というか勝手もわからなない、醍醐味も知らない、何もわからない人間に送るのが「小野田坂道くんと勝負する。走ってる所見てて」ってどういうつもりだ。
思わず語気が荒くなる。走ってる所を見に来たのだ、当然みる。だけど小野田坂道って誰なんだ。勝負するなんて初耳だし、意味がわからない。
「あの…」
「はい?」
振り返ると、緑髪の長身の男が困惑した表情で佇んでいた。その左右には同じジャージを纏った男が佇んでいる。
──そこに刻まれた総北という文字に、"私が"見覚えがなはずがない。
なのに、朦朧とした意識が心当たりをつけるのは幸か不幸か遅かった。
学校名よりもまず、小野田坂道という耳に残りやすい名前で思い出すべきだった。
「うちの小野田に何か用か?」
「家族かなんかんか?」
呪っているかのように炎々と名前を吐いておいて、家族な訳がない。
とんでもない所を身内らしい彼らに目撃されて、どんどん頭が冷えて行った。
それと同時に、彼らがどこの誰なのかもぼんやりと思い出して来る。
「いや…すみません…知り合いに小野田を見ろっていわれて…私、競技自体よく知らなくて」
見るべきは勝負相手の小野田坂道ではなくて、山岳の方だ。
省いてしまったが、それでいいだろう。納得したように三人は各々頷いた。
「なるほど、観戦もはじめてか」
「お前の知り合いが小野田の知り合いか?あいつの名前なんざまだそう知られてないだろ」
「あいつらは温存したっショ。今泉と鳴子はともかく、小野田の晴れ舞台は今日だ」
三年生の彼ら三人は、片目に前髪を流した来と、天然パーマの髪を結った子に呼ばれた。
どこか慌てて手招きしていて、彼らは時間に追われてるのだと知る。
「すまない。もう時間だ。俺達はもう行かなければならない」
「あー、観戦なら好きなとこでいいんじゃないかね」
「どこに居ても走るからな。通り過ぎるのは一瞬で、あっけないだろうけどな、楽しいぜ?」
体格のいい彼はワハハと気の良い笑いを零しながら、三人揃って手を振って去って行った。
開始直前で終われているというのに、親切な人たちだ。
しばらくすると、遠くからマイクを通した声が聞こえてきた。
選手を壇上に上がらせて、インタビューしているらしい。
私はそれを眺める余裕もなく、椅子替わりのコンクリートから立ち上がった私は、のろのろとした亀のような歩みで陣地を探した。
そもそも、山であるならスタート地点の江の島にいたって意味がない。
配布されたブックを眺めてマップ確認をする。
山岳地帯に差し掛かるには、芦ノ湖の方へ行かないと駄目だった。
この鈍足じゃ悠長には出来ない。今から動いても、スタート地点で選手達が走るのを見れるのに間に合うかもわからない。
既に息も絶え絶えで苦しい。日差しが肌にぶつかって、じりじりと焼かれるのが分かった。
苦しくても観に来てと言われて、既に半ば約束は守られてる。
けれどきっとこういう事ではない。もっともっと歩いて、たどり着くべき場所がどこかにある。
私は苦しくて俯いていた顔を上げて、前を向いた。
もうすぐレースが始まろうとしてるのだ。もしかしなくても、そこにたどり着く頃には、山岳はとっくに私の脇を通り過ぎて行ってるだろう。
自動車よりもスピードの出るというロードバイク。たまったもんじゃない。
坂を登って行こうと、ここで初めて自分の身の振り方を決めた。
明日はもっと早くきて、また歩く事を視野にいれながら、私は一歩一歩確実に、何かを噛みしめるように足をすすめていた。