第十二話
2.道標意味付ける
朝、委員長と一緒にの家を訪ねチャイムを押すと、の母親が出来た。
やっぱりまだ具合が悪くて、まだ伏せたままらしい。
それでもずっと具合はよくなったと言われてホッとしたのも束の間。
今日も学校へは行けないだろう言われると、委員長と二人で顔を見合わせて、揃ってなんともいえない表情を浮かべた。
がプリント地獄に陥っていた最近を知ってる。
具合が悪いのも可哀そうだけど、また新たなプリントが増えて行くのを憐れんだ。
そして、委員長の目は次第に「アンタはやりなさいよ」と俺を咎める物に代わっていく。
肩をすくめながら、俺はロードに跨った。徒歩の委員長と俺とでは、通学路が一緒だとしても、隣り合わせに向かう事は出来ない。
ひらひらと手を振って委員長と別れる。遅刻するなサボるなと小言か飛んでいたけれど、風を切りながら、そういう約束はできないなーと一人笑っていた。
俺は今日もまた誘惑に駆られて山を駆け登る。見上げれば、皮肉なくらいの快晴がそこにあった。

今日は部活の休養日と重なっている。放課後一通り走ってからでも、まだぎりぎり明るいうちに帰路につく事が出来た。
お見舞いにきてもいいと今朝言われていたので、遠慮なくの家を訪ねに行く。委員長の家の明かりはまだ灯っていなくて、俺が一番乗りでたどり着いたみたいだと知った。

まだ寝てる可能性を考えて、ノックもせずそっとドアを開ける。
案の定まだ寝入っているみたいで、規則的な寝息が聞こえていた。
なんとなしに立ちっぱなしでその寝顔を眺めていると、俺の気配が気になったのか、の瞼が一度不快そうに震えて、次第に意識が浮上して来た。


「おはよう
「……おはよう」
「もう夕方だけどね。18時30分」


目が覚めたは、瞼が腫れていて、声は掠れている。
起き抜けの頭の回りは鈍いみたいで、ほとんど反射で挨拶しているみたいだった。
眠そうに目を擦って話しているうちに、じわじわと覚醒してきたようだ。
不快で眉を寄せながら、のろのろと上体を起こし始めた。
かけ時計をちらりと視線を向けて、秒針の示した数字を見てはあと深く溜息をついていた。
まさか本当にこんな時間まで眠りこけるとは思っていなかったらしくて、項垂れている。
朝から夕方まで昏々と眠り続けていたのだ。うんざりもするだろう。


「また休んじゃった」
「俺よりプリントいっぱいで大変だ」
「山岳は自業自得でしょ。あの子を困らせないの」

うんざりとしながら小言を言う元気が出て来たようだ。
母親が置いくれたらしい、枕元のサイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばして、寝起きの喉を潤した。

「……私も自業自得か」

飲み下している時、ふと目に付いた不健康な色の手が目に付いたのだろう。
硝子のコップから口を離すと、は自嘲するみたいにぽつりと言った。
俺はサボりで溜まって自業自得。は身体が弱くて溜まって自業自得。
どうだろう。その二つには天と地ほどの差があるだろう。客観的に見なくても、我事とながら、俺には情状酌量の余地はないだろうなと分かる。
けれど、どうだろう。
が起きたので、床から腰を浮かせて、いつものようにベッドの隅の方を陣取った。
足元の方が沈むとその反動が伝わって、は嫌そうな顔をした。

「捉え方次第じゃない?自業自得だって思うならそうだし、そうじゃないって思えばそうじゃない」
「…実も蓋もないな」
「だって、そうでしょ。決めてるのは自分だよ。誰かに言われたって、自分はそう思わなければい。自業自得だって、その人が決めただけでしょ。病気は良いとか悪いとか、仕方ないとか仕方なくないとか、全部」

サボりは当然よくない事だというのは周知の事実で、小言も罰も俺は受け入れている。けれど開き直りさえすれば、俺はいくらでも屁理屈をつけて、自分は悪くないと正当化する事が出来る。
それをやろうとしないだけだ。
座りながら、足を持ち上げてぷらぷら揺らすと、余計に腰がベッドに沈んで行った。
足元は遊ばせながら、口では淡々とつまらなそうに言うと、は目を細めた。


「そう思えない?」
「思えない」

は背もたれにしていた枕を後ろ手で引き抜きながら、なんでもないように否定した。
枕をクッション代わりに抱え直すと、視線を上げて真っ直ぐに俺を見た。


「私は山岳とは違う」

その言葉は突き放すように固く、鋭かった。
身体も、心も、世界を映す目も、何もかも違うのだと言う。
堪えるように、何かに蓋をするように枕を強く抱きしめている。
圧迫され、悲鳴を上げている白い布地をぼんやりと眺めながら考えた。
俺とが違ってるもの。それってなんだろう。そんな物、沢山思いつくけれど。
性別も体格も誕生日も違うけど、そんな単純な事を言ってるんじゃないんだろう。
俺が持っていてが持っていない、それ以外のもの。
歯ぎしりでもされそうな程に恨まれあえて言われるような物。やっぱり一つしか思い浮かばなかった。
俺は小さい頃自転車にまたがって、それ以来毎日世界が輝いて見えるようになった。
はソレに代わる物が見つからなくて、未だ俯いたままだから、世界は輝いてもいない。灰色でもないし、鮮やかでもない。何もないのだ。


「そんな風に私は思えない」
「じゃあ、これからは思えばいい」

にべもなく突き放した俺を見て、は、と息を吐いたは、次第に唇を戦慄かせる。
の瞳が、じわじわと怒りの色で燃えていくのが見えた。
時計の針が指すのは既に19時。初夏の陽が落ちるのは遅くとも、どんどん俺達は薄暗闇に包まれるようになっていた。
の母親がそうしたんだろう、窓が少し空いていて、夏の匂いが部屋に入りこんでいた。
冷房に晒され続けるのも身体に障るからと言っても、空調に頼らない部屋は少し蒸し暑くて、それはそれできっと苦しい。


「簡単に言わないでよ」
「簡単じゃない。適当でもないよ。俺はこう思ってるよ、心から」

鋭い視線とかち合う。電気のついていない部屋には当然光源がない。
これといった光が映っている訳でもないのに、の瞳はきらりと光っていた。
それは多分、俺も同じだったと思う。
今お互いの間でぶつかり合っている、灯り宿った感情が光らせていた。あるいは、の薄らとした涙の膜が潤み光らせている。


「病気でした。こうでした。それ以上に捉えようとしないのはでしょ。思えないんじゃなくて、何とも思いたくないだけ。そのままじゃどこにも進めないし、変わらない。……それって、死んでるみたい」

昔の俺みたいに、という言葉は飲み込んだ。
俺の声をの耳が聞き届けた瞬間、震える拳が布団を握る。それと同時に、腹の底に宿った熱をその口から吐き出そうとした。
その瞬間。

「苛立ちってどうしてわくんだと思いますか」

と、先輩方に尋ねた日の事が脳裏に過っていた。
影響力ある人っているでしょ、とも言ったのを覚えてる。俺はにとって、影響力のある人間だと自覚している。
鏡写しみたいだと俺がムカムカしてるみたいに、反対にも同じ境遇におかれている…いや、置かれていた俺に何も思わないはずがないのだ。

「癪に障ったとか、神経逆なでされるとか、そういうの全部、相手が触ってくるからそうなるんです」

触ってくるのはの方だ、とあの時屁理屈を言った。
あの言葉が今、自分に跳ね返ってきてる。俺は今の地雷というやつをきっと踏んでいて、神経を逆なでしている。
分かっていながら、俺はどこか作業的にの痛がる所に触れていた。
は目論見通り酷く俺に影響されて、沸点を越えてしまい、煮えくりかえった腸を枕で抑え込みながら叫んだ。

「うるさい、うるさいうるさい…!じゃあどうしたらよかったの!じゃあなんて思えばいい!これが自分で決める事なんだとしたら、これが自分で思わなきゃいけない事なら、これってなんなの、こんなことに全部、……」

意味があるのかと、とめどなくあふれる涙を頬に伝わせながら、は咆哮した。
喉が潰れるんじゃないかと思う程に叫ぶ。
最後の方には弱々しく消え行った声は、既に掠れていた。
が一番触れられたくない所に触れて、が一番かけられたくない言葉を放ったのだ。
激昂するのは当然で、…あえて言うなら多分、図星という物を突いたのだと思う。
窓の隙間から入りこんでくる、日暮れ時に住む蝉の声が煩い。同時に聞えてくる、リンと静かな夜の虫の音は、心沈める子守唄代わりにはならなかった。


「……それは俺が決める事じゃないよ」

俺にとってのロードに代わるものを見つけられずにいる事を分かっていて、それでも冷たく突き放した。
は親の仇でもみるかのように鋭く睥睨して、きつく細められた目からは余計に雫が溢れた。
パジャマの胸元に、抱えた枕の上に、薄手のかけ布団に、ぱたぱたと落ちて染み入り消えて行く。
その雫は見ていて決して儚く弱くは感じず、燃えるようだと思えた。
ソレをぐいと袖で乱暴に拭いながら、はムキになったようにぶっきらぼうに答える。

「わかってる…、」
「分かってるなら、なんで?」
「…わかってるけど、みつからない」

反論しようとして勢いのよかった声は、聞き返されるとどんどん小さく頼りなくなって言って、激情は次第に悲哀の色に移り変わって行った。
は身の振り方が分からない。それさえも俺はわかってる。分かっているから、今この瞬間、触れる事にした。

「わからないなら…私、このまま…」

尻すぼみになっていくその声の先は続かなかったけど、俺には言いたい事が伝わった。
身を震わせて、そのまま両手で顔を覆ってしまったのは、俺の冷たさに傷ついたせいではない。
俺の魂を震わせてくれる物、名前にとってのソレ。自分の背中を押してくれるものが、希望に代わるものが何も見つからなくて、途方にくれているのだ。このまま最期が来てしまうのか、と怯えている。

「…ねえ、苦しい?悲しい?」
「悲しいよ。苦しい」
はこのままじゃ嫌なんだよね」
「当たり前でしょ…」


確認すれば、当然のように返ってきた。
床に映っていた二人分の影はほとんど薄まり、夜風が入りこむようになっていた。部屋の住人の代わりに、俺が窓を閉めてカーテンも閉めた。
扉の横にある、電気をつけに行く事は出来ない。この場を一時でも離れられなかった。
暗闇に包まれるとお互いの顔は見えづらくなって、それでも不思議と相手が浮かべているだろう表情を鮮明に想像できた。

ぽたりと落ちた涙と、汗の音が聞えた気がした。緊張状態に陥って、冴えた聴覚は色んな物を拾う。荒い息遣い、衣擦れの音、俺の心臓が鼓動する音、一階から聞こえる微かな生活音、家の前を通り過ぎた車のエンジン音。
の悲しみに染まった嗚咽、全てを耳が拾っていく。
俺の小さい小さい、囁きにも似たその呟きは、相手の耳にも十分届いていたはずだ。

「……見にきて」
「なにを」

は顔を上げないまま短く問い返す。
俺は闇を見透かすように目を凝らして、未だ細部の見えない項垂れた影を見下ろしながら、決意を込めた強い言葉を放つ。

「今度の俺のレース。、俺がちゃんと走ってるところ、一度も見た事なかったよね」

最後の下りを聞いて、が肯定するように小さく頷くのが気配で分かった。
そもそも、室外で会話する事すら、箱学生になるまでほとんどなかったのだ。外遊びはほとんど出来なかった。
部屋の中で一対一で向き合って、地道な対話をする。分かり合うためにはそれしかなかった。時には委員長も交えて三人で分かり合う。
言葉なく走る背中で伝えようとする事は出来なかった。当然だ、はベッドの上からほとんど動けないのだから。
平坦な道を走ってちらりと見せるくらいなら容易い事だったかもしれない、けど、俺はクライマーだ。昇る姿でしか魅せられない。山頂に届こうと足掻く瞬間こそが、一番見せたい物なのだ。
そのために、登山じみた事を名前にさせるのは酷な事だった。だから、いくら見てほしくても、誘った事は一度もない。
でも。


「苦しくても辛くても、それでも見に来て」

病人に無理を強いていると分かって、それでも尚俺が名前に言い放つ言葉は変わらない。
現状を変えられないというなら尚更。見つからないと泣くなら、尚更。

「無茶してよ。ギリギリで、苦しくて、そんな時だからこそ、何かが見つかるかもしれない」

少なくと、俺はそうだったと言い切った。
はゆっくりと顔を上げた。嗚咽はいつの間にか止んでいて、そこには強い意志を持った二対の瞳があるだけ。闇の中に光る猫の瞳のようだった。
喉はもう震えていない。引きつらない、ひっくり返りもしない声は、小さくてもこちらに鮮明に届いた。

「……わかった」


その言葉は平坦で、さっきまでの激情は残されていなかった。
静かと言えば聞こえはいいけれど、はいつも淡々としていて、何にも本気になる事はない。
一生懸命になれないのは身体のせいでもあったし、の心持のせいでもあった。

ほどほどに保てても、どうせ完治は出来ないという諦観の構えを取っているせいだろうか。
何事にも一線を引くは、こうして強い決意を固めようとする事はなかったし、そもそも決意する機会も少なかったのだ。
部屋の中にいて、当時の俺はゲームをするしかできなかった。部屋の中にいて、は本を読むしか出来なかった。
委員長が遊びに来てくれたし、外に連れ出そうとしてくれたけど、小さい頃の俺達の日常で起こされるアクションは"たったそれだけ"。それはとても"ありがたい事"、だった。
俺達の人生には質よりも数が必要で、少ない一度の機会で巡り合えたのは俺の僥倖だったのだ。
閉塞的な暮らしの中では、人生の中で十分な数のイベントが得られない。感受性を刺激され、何事かを成そうと感化され、変化を促すには、機会が足りな過ぎたのだ。
時が立つにつれて、の心はどんどん固く閉ざされていく。
──変化を起こすなら今だ、と。俺の心は漠然と確信して、の柔い心を刺激していた。
有難迷惑だろうか。俺の自己満足だろうか。どちらにせよ、は望んでその刺激を受け入れた。
その一歩目は成功して、次の二歩目は俺次第。俺はの事があってもなくても、IHを走る。箱根学園に勝利をもたらすため。そこに名前との約束が加わって、少し回す足が重たくなっただけの事だ。

「今年は地元開催なんだ。遠くじゃない。丁度よかった」

IHは毎年開催地が違ってる。遠方まで見に来いというのは、には酷な話だ。
前回は広島だったっけ。例え元気いっぱいな委員長に見に来いと言ったって、きっと苦労するだろう。
時間を奪い徒労をかけるというだけじゃ済まされず、の場合体に厳しい負荷がかかる。
少し張りつめていた緊張がようやく緩んだのを感じて、俺は立ち上がって電気をつけに行った。
眩しい光に照らされたは一瞬不快そうに顔を顰めていたけど、すぐに何かを思案するように口元に手をやった。

「…もしかして、インターハイ?」
「え、そうだけど。…あれ、もしかして知らなかった?結構目立ってたと思うんだけど」

箱学は自転車競技部強豪校という事で、在校生も外部も問わず注目は厚い。インターハイがあるという告知はいってたはずだし、自然と耳に入るはずだった。
よほど興味がなかったのか、それともが病欠した時に重なったのか。

俺は立ち上がったついでに、勉強机の前の椅子を引いて、それに座った。
ベッドから離れた位置、少し上の目線から見下ろすはぼんやりとした顔をしていて、さっきまでの覇気がないように見える。

「……軽いな」
「なにが」
「こんなことのために、大事なレース使うの。観戦させるの」

こんな事、という言葉には皮肉も卑下も混じっていなくて、ただ茫然としている様子だった。
その意図がよく分からず、俺は単純に、思ったままの事を言った。

「こっちだって大事な事だよ」

軽くなんてない。16年言えなかった事を、ようやく言ったのだ。
ムッとしながら背もたれにもたれると、ぎしりと音が鳴った。
子供っぽく落ち着かない仕草をする俺を少し呆れたように眺めながら、

「……へえ、そう」

もう一度だけ、わかったと静かに頷いた。
顔を洗ってくると続けて言って、ベットから下りて一階に下りていく。歩けるくらいには回復したらしい。
くしゃくしゃになったままのシーツ。めくれた掛布団。住人のいない抜け殻のベッドを見ると、俺は少しだけ嬉しくなる。
初夏は終わり、暫くすれば真夏日がやってくる。そうすれば約束の日が巡って来る。
箱根学園の名を背負って走るという約束、との約束…そして、小野田坂道というクライマーとの約束。
部のため、幼馴染のため、坂道くんのため、そして自分のため。
俺は約束を守ろうと、夏日に焼かれながら走るのだろう。

2019.5.4