第十一話
1.日常─死の恐怖
ボロボロと涙がこぼれ落ちるのを見た。
悔し涙でもなく、諦観の虚しさからでもなく、悲しみでもなく。ただ流れ落ちていくだけ。
枕にぱたりと染みが作られるのを、茫然と眺めていた。それだけしか出来なかった。
「…帰るね」
不調で部屋にこもって過ごした一日だったと、今日をカウントするべきだろうか。
日中学校で過ごし、帰宅する途中でリタイアしたのだ。
夕方からは寝て過ごすことになるだろうけれど。微妙な所だった。
だとしても、いつもの報告会を開く余地もない。
最近頑張って登校したツケが回ってきただけなのか、それとも病状が悪化したのか。
倒れたを自宅まで運ぶと、在宅していたの母親が向えてくれて、少し迷った後、明日病院に連れて行くと言った。
今すぐにでも病院に駆け込むべきか、様子を見てもいい物だろうかと思案しているのだろうと、手に取るように分かった。
こんなことが何度も繰り返されていると、いつもの事かと甘く見てしまいそうになる。感覚が麻痺してくるのだ。
だからの母親は今、慎重に判断しようとした。
自身は今回、大丈夫、平気だと自分を過信をして、そして失敗したのだ。
俺は、誰より近くで我が子を見守ってきた、母親の客観的な目を信じるしかなかった。
息も絶え絶えになりながら、浅い眠りと覚醒を繰り返すは哀れで、深い眠りが訪れたとして、その間に自然治癒してくれる事はない。
そういう体を持って生まれてしまったのだ。俺も昔はそうだった。
ベッドは窓際に設置されている。横たわるの体の上を跨いで、ベッドの向こう側に下ろされててるカーテンを閉めた。
窓が隠されると、室内の電気の明かりだけが室内を照らすようになった。
月明かりもほとんど遮断され、どこか閉塞感のある部屋の中で、は眠って、俺はそれを傍から見下ろしている。
頬に手を伸ばしてみると、高いくらいの体温を感じる。の体は今、生きようともがき続けていると知る。
明日からもそうなのかどうなのかは、分からない。
少しだけ後ろ髪を引かれながら、「おやすみ」と声をかけて部屋を出る。
すぐ隣の自宅に帰ると、風呂で一息つく気にもなれず、一直線に自分の部屋に戻った。
「ちょっと山岳!」
「あ、委員長」
「あっじゃないわよ!!なんで連絡くれなかったの!?」
窓の外から薄ら声が聞こえて、既に閉ざしていたカーテンを開いた。
の部屋の暖色のソレとは違って、冷たい色をしている。
男の子だからと両親がそれらしい色を選んだのだろう。小さい頃からずっと使い続けているものだった。
隣の家に住んでる委員長は、携帯を使わずたまにこうやって声をかけて呼んでくる。
たぶん空耳じゃないだろうと当たりをつけたけど、間違っていなかった。
「えーと、のこと?」
「それ以外にないでしょ?分かってるなら一言くらい寄越しなさいよ!」
「今お見舞いにいける状態じゃないけど。魘されて寝てる」
「分かってるわよ…!さっきのお母さんに聞いたもの。そういうことじゃなくて…、…こっちの気持ちくらい考えてよ」
「気持ち、って…」
そういえば、さっき一階から委員長の声がしてたのを思い出した。
お裾分けがどうのと言って、何かを運んできてくれたみたいだった。
しばらくうちの親と雑談していたようで、ふと気が付いた時にはもう静かになっていた。
多分自分の親御さんにおつかいを頼まれて、委員長が配って回ってたんだろう。
俺の家と、もう一つ隣のの家に。
そこでの不調を知ったんだと思う。委員長はわざわざ言わなかったけど、多分それで間違っていない。
「知ってるのと知らないのとじゃ、全然違うわ。お見舞いにいけなくても、具合が悪いなら教えてよ」
倒れてたけど元気になったよーという事後報告、結果報告じゃ委員長は気が済まないらしい。
半端に伝えられてももやもやするだけじゃないかなーと俺は思ったけど、委員長は知らない方が心臓い、落ち着かないと主張する。
窓枠にもたれかかりながら、やきもきした様子の委員長を眺めた。
どっぷりと陽が暮れてから時間が経つと、風が冷たくなってくる。熱帯夜という訳ではない、まだまだ初夏の夜だ。「ごめんね」と一言謝ってから、暮れた空を指さしながら委員長に続く言葉をかける。
「委員長も風邪ひかないように、早く寝た方がいいよ?」
「分かってるわよ。ほんとならもうとっくに寝てたんだから」
「あちゃー、なんかごめん?」
おつかいを終えたら、すぐに就寝する予定だったみたいだ。
俺が連絡無精をしたせいで寝不足、ついでに風邪を引いたなんてことになったら大変だし、かわいそうだ。
ひらひら〜っと手を振りながら再び謝ると、誠意が足りないと怒られた。
窓から落ちそうになるくらい深々頭を下げたって、誠意なんて伝わらないと思うけど。多分ふざけるなって怒られるし、危ないって叱られるし。
呆れてついに項垂れてしまった委員長が、窓枠にもたれたその姿勢のまま、「…夏はやだな」と気落ちした声を出した。
「なんで?嫌いだっけ」
「ううん、別に…でも、がよく具合崩すから」
「あーそうかも。夏はふつーに皆熱中症で倒れるしねー」
「冬だって、昔から二人揃って風邪引いてたけど」
「うん、暑くても寒くても苦しいのは一緒だし」
「そうよね…」
はあ、と憂いを帯びた溜息をもらす委員長は、の事をひどく心配している様子だった。
季節の変わり目には風邪を引きやすいというけど、体が弱かった頃の俺とは、年がら年中体調が崩れていた。
人にとっては心地のよい春のそよ風も、俺達には強い刺激だ。気持ちのいい日差しも、俺達の肌は大打撃を受ける。
どうやったって、根本的な所が駄目なのだから、しょうがない。
四季が巡ることを憂いたって、蝉の声は痛む頭には煩いのだと嘆いたって、秋は問答無用で訪れるし、冷気は足元から熱を奪って行く。
近年稀に見ない不調を起こしたは、結局その後なんとか持ち直した。
けれど、俺はそれで安心する事はできない。
倒れ、起き上がり、また倒れ、それを昔から繰り返し続けているが、いつ折れてしまうのかと考えて、俺はぞっとした。
脆い体の方ではない。先に折れるのはきっと心の方だ。
病は気からというのはあながち嘘ではない。だって実際俺がそうだった。
俺の方が程度が軽くて、気だけでは誤魔化せない程に重病だったのだと言えばそうだろう。けれど、でも、そうだったとして。
レースだってそうだ。千切って千切って、引き離されて。
意志って簡単に折れるんだ。苦しくて、頑張れなくて、絶望して、追いかける事を諦める。回す足が動かなくなる。俺はそれを置き去りにして…
今のはそれと同じ状態だと思った。
置いて行く事が怖くなる。これは道の上の競技の話ではなく、比喩でもなく、の人生と命の話だ。
俺はそれに自分を重ねている。
自分の事にように痛みを感じて、心境を理解する。鏡写しのような存在に昔から苛立っていた。
春の匂いで噎せ返る。夏の光が眩む。秋風に肌をくすぐられて、冬の寒さに身を凍えさせる。
心地いい事ばかりではなくて、きっと苦しい事も沢山ある。
けれどそうやって、生きていると感じていてほしかった。
今日のように、一歩一歩進むごとに息を切らせて、動いた体の熱に浮かされて、苦しみながら、泣きながら、生きていてほしかった。
1.日常─死の恐怖
ボロボロと涙がこぼれ落ちるのを見た。
悔し涙でもなく、諦観の虚しさからでもなく、悲しみでもなく。ただ流れ落ちていくだけ。
枕にぱたりと染みが作られるのを、茫然と眺めていた。それだけしか出来なかった。
「…帰るね」
不調で部屋にこもって過ごした一日だったと、今日をカウントするべきだろうか。
日中学校で過ごし、帰宅する途中でリタイアしたのだ。
夕方からは寝て過ごすことになるだろうけれど。微妙な所だった。
だとしても、いつもの報告会を開く余地もない。
最近頑張って登校したツケが回ってきただけなのか、それとも病状が悪化したのか。
倒れたを自宅まで運ぶと、在宅していたの母親が向えてくれて、少し迷った後、明日病院に連れて行くと言った。
今すぐにでも病院に駆け込むべきか、様子を見てもいい物だろうかと思案しているのだろうと、手に取るように分かった。
こんなことが何度も繰り返されていると、いつもの事かと甘く見てしまいそうになる。感覚が麻痺してくるのだ。
だからの母親は今、慎重に判断しようとした。
自身は今回、大丈夫、平気だと自分を過信をして、そして失敗したのだ。
俺は、誰より近くで我が子を見守ってきた、母親の客観的な目を信じるしかなかった。
息も絶え絶えになりながら、浅い眠りと覚醒を繰り返すは哀れで、深い眠りが訪れたとして、その間に自然治癒してくれる事はない。
そういう体を持って生まれてしまったのだ。俺も昔はそうだった。
ベッドは窓際に設置されている。横たわるの体の上を跨いで、ベッドの向こう側に下ろされててるカーテンを閉めた。
窓が隠されると、室内の電気の明かりだけが室内を照らすようになった。
月明かりもほとんど遮断され、どこか閉塞感のある部屋の中で、は眠って、俺はそれを傍から見下ろしている。
頬に手を伸ばしてみると、高いくらいの体温を感じる。の体は今、生きようともがき続けていると知る。
明日からもそうなのかどうなのかは、分からない。
少しだけ後ろ髪を引かれながら、「おやすみ」と声をかけて部屋を出る。
すぐ隣の自宅に帰ると、風呂で一息つく気にもなれず、一直線に自分の部屋に戻った。
「ちょっと山岳!」
「あ、委員長」
「あっじゃないわよ!!なんで連絡くれなかったの!?」
窓の外から薄ら声が聞こえて、既に閉ざしていたカーテンを開いた。
の部屋の暖色のソレとは違って、冷たい色をしている。
男の子だからと両親がそれらしい色を選んだのだろう。小さい頃からずっと使い続けているものだった。
隣の家に住んでる委員長は、携帯を使わずたまにこうやって声をかけて呼んでくる。
たぶん空耳じゃないだろうと当たりをつけたけど、間違っていなかった。
「えーと、のこと?」
「それ以外にないでしょ?分かってるなら一言くらい寄越しなさいよ!」
「今お見舞いにいける状態じゃないけど。魘されて寝てる」
「分かってるわよ…!さっきのお母さんに聞いたもの。そういうことじゃなくて…、…こっちの気持ちくらい考えてよ」
「気持ち、って…」
そういえば、さっき一階から委員長の声がしてたのを思い出した。
お裾分けがどうのと言って、何かを運んできてくれたみたいだった。
しばらくうちの親と雑談していたようで、ふと気が付いた時にはもう静かになっていた。
多分自分の親御さんにおつかいを頼まれて、委員長が配って回ってたんだろう。
俺の家と、もう一つ隣のの家に。
そこでの不調を知ったんだと思う。委員長はわざわざ言わなかったけど、多分それで間違っていない。
「知ってるのと知らないのとじゃ、全然違うわ。お見舞いにいけなくても、具合が悪いなら教えてよ」
倒れてたけど元気になったよーという事後報告、結果報告じゃ委員長は気が済まないらしい。
半端に伝えられてももやもやするだけじゃないかなーと俺は思ったけど、委員長は知らない方が心臓い、落ち着かないと主張する。
窓枠にもたれかかりながら、やきもきした様子の委員長を眺めた。
どっぷりと陽が暮れてから時間が経つと、風が冷たくなってくる。熱帯夜という訳ではない、まだまだ初夏の夜だ。「ごめんね」と一言謝ってから、暮れた空を指さしながら委員長に続く言葉をかける。
「委員長も風邪ひかないように、早く寝た方がいいよ?」
「分かってるわよ。ほんとならもうとっくに寝てたんだから」
「あちゃー、なんかごめん?」
おつかいを終えたら、すぐに就寝する予定だったみたいだ。
俺が連絡無精をしたせいで寝不足、ついでに風邪を引いたなんてことになったら大変だし、かわいそうだ。
ひらひら〜っと手を振りながら再び謝ると、誠意が足りないと怒られた。
窓から落ちそうになるくらい深々頭を下げたって、誠意なんて伝わらないと思うけど。多分ふざけるなって怒られるし、危ないって叱られるし。
呆れてついに項垂れてしまった委員長が、窓枠にもたれたその姿勢のまま、「…夏はやだな」と気落ちした声を出した。
「なんで?嫌いだっけ」
「ううん、別に…でも、がよく具合崩すから」
「あーそうかも。夏はふつーに皆熱中症で倒れるしねー」
「冬だって、昔から二人揃って風邪引いてたけど」
「うん、暑くても寒くても苦しいのは一緒だし」
「そうよね…」
はあ、と憂いを帯びた溜息をもらす委員長は、の事をひどく心配している様子だった。
季節の変わり目には風邪を引きやすいというけど、体が弱かった頃の俺とは、年がら年中体調が崩れていた。
人にとっては心地のよい春のそよ風も、俺達には強い刺激だ。気持ちのいい日差しも、俺達の肌は大打撃を受ける。
どうやったって、根本的な所が駄目なのだから、しょうがない。
四季が巡ることを憂いたって、蝉の声は痛む頭には煩いのだと嘆いたって、秋は問答無用で訪れるし、冷気は足元から熱を奪って行く。
近年稀に見ない不調を起こしたは、結局その後なんとか持ち直した。
けれど、俺はそれで安心する事はできない。
倒れ、起き上がり、また倒れ、それを昔から繰り返し続けているが、いつ折れてしまうのかと考えて、俺はぞっとした。
脆い体の方ではない。先に折れるのはきっと心の方だ。
病は気からというのはあながち嘘ではない。だって実際俺がそうだった。
俺の方が程度が軽くて、気だけでは誤魔化せない程に重病だったのだと言えばそうだろう。けれど、でも、そうだったとして。
レースだってそうだ。千切って千切って、引き離されて。
意志って簡単に折れるんだ。苦しくて、頑張れなくて、絶望して、追いかける事を諦める。回す足が動かなくなる。俺はそれを置き去りにして…
今のはそれと同じ状態だと思った。
置いて行く事が怖くなる。これは道の上の競技の話ではなく、比喩でもなく、の人生と命の話だ。
俺はそれに自分を重ねている。
自分の事にように痛みを感じて、心境を理解する。鏡写しのような存在に昔から苛立っていた。
春の匂いで噎せ返る。夏の光が眩む。秋風に肌をくすぐられて、冬の寒さに身を凍えさせる。
心地いい事ばかりではなくて、きっと苦しい事も沢山ある。
けれどそうやって、生きていると感じていてほしかった。
今日のように、一歩一歩進むごとに息を切らせて、動いた体の熱に浮かされて、苦しみながら、泣きながら、生きていてほしかった。