第十話
1.日常─嫌い
どういうつもりだ、こういうつもりだとアレコレ言い合うけれど。俺の根源にあるものは、実はとてもシンプルな物だった。
「ありがとう、助かる」
「べつに。ていうか今更じゃない?」
「そう?」
「うん、そう」
夏の風が吹き抜けていた。
お互い汗をかいているけれど、その種類も理由も違う。
俺は部練中ハードな運動に汗をかかされていて、は消耗によってじんわり汗をかいていた。
具合が悪いというは、教室で俺の部活が終わるまでぐったりと待っていたようだ。
放課後、携帯に連絡が入っていたのを見て、「わかった」とだけ返事して、すっかり薄暗くなってきた頃、教室に迎えに行った。
無遅刻無欠席の皆勤賞を狙っている訳でもなかったのだ。小学校の頃ならまだ病欠は気軽なものだったのに、今は大分無理を押して通学するようになっていた。
もう遅い時間だ。辺りは暗くなっていて、落ちた太陽の代わりに街灯が道を照らしていた。
校門をくぐり出て二人歩き、自宅近くまで辿り着く頃には、遠くの空の切れ間に辛うじて霞んだ夕色が見えるだけになっていて、頭上では星がはっきりと輝くようになっていた。
「嫌いなのかって、よく言われるようになった」
「ふーん」
ぽつぽと語るのは取り留めのない日常の一部で、図らずともいつもの報告会代わりになっていた。
道中で話しきってしまうだろうから、今日はわざわざ部屋に尋ねて行くことはないだろう。
そもそも、が登校している時点で部屋を訪ねる理由はない。
部屋に閉じこもりきりのに、少しばかり所ではなく思う所があって、俺は足を運ぶようになったのだ。
の二本の足はまだくたびれず綺麗なローファーをはいて、地面を確かに歩いている。
生温い風に肌を撫でられて、不快そうに目を細めていた。既に疲れの色が見える。
これが、俺の望んだ通りだ。俺にとって、理想的なの姿がそこにはあった。
俺はに苦悩のない幸せな笑顔を湛えていてほしい訳でも、何にも害されず健やかな暮らしを送ってほしい訳でもなかった。
このたった一時理想が叶った所で、微笑ましく見守ることは出来ない。
「俺がの事ちょっと嫌いだったって、知ってる?」
箱学の制服をひらめかせ隣を歩くは、その問いを耳にしても、こちらを振り返りもしなかった。
驚く様子も呆れた様子もなく、ただ他愛ない会話として受け止めているようだ。
俺はの事が嫌いだった。というより、見ていると苛々するし、傍にいられると落ち着かなかった。
自己嫌悪。同族嫌悪。それともまた違うけれど、俺と同じ境遇に置かれたという存在が昔から気に食わなかった。
だからと言ってが酷い事を言ってきた訳でもないし、悪い子なんかじゃない。
好きだけど嫌い。そんな裏腹な思いを抱えながら、暇人な病人同士、幼い頃は窓辺に寄ってつるんでいたし、と話す事は嫌いじゃなかった。
嫌だと思う部分があるのもやっぱり嘘じゃない、胸がざわつくことがあるのだと言うと、
はうんと無感動に相槌を打った。こくりと頷いたつむじが見えて、横顔からしかの表情は伺えない。
「私の事、好きじゃないだろうなってずっと思ってたよ」
「へえ」
「へえって」
俺の薄い反応を咎めるように復唱した。なのには眉を顰めるだけで、それ以上気にした様子はない。それでもこちらを振り返りもしない。視線を合わせて会話をする余裕もないのか、親しいからこその怠惰か、それとも本当に無感動なだけか。ただ淡々と受け答えしていた。
「憎くてたまらなくて、消えてほしいっていう訳じゃないでしょ」
そりゃあそうだ。そんなの当然だ。俺がそんな風に思うはずがない。
だってという人間に苛つかされて、もどかしくて思っていて、上手くいかなくて、胸がざわついて、歯がゆくて、見ていられなくて、でも目を逸らせなくて、そんな状態だったとして。
心の奥の底の底、思っている事は昔からたった一つなんだから。
それは"憎くて消えてほしい"とは真逆の思いだった。切望にも似た欲求だった。
「俺は…」
そのたった一つを告げようとした。言葉一つをポンと放てば、俺の根底にあるものは相手にすぐに伝わる。
あえてそれをに告白した事がある訳じゃないけど、それに似通った事は常習的に話している。
今更かもしれないなと思いつつも、当然伝わっているだろうと決めつけるのは、それこそ親しいからこその怠惰で傲慢だろう。
「……?」
だから、なんの躊躇いも感慨もなく、出し惜しみせずに言ってしまおうとした。
──ずっと、に生きていてほしいと思っていたと。
投げかけようとしたその体から力が抜けていくのを見た。背が緩かに曲がり、俯いた表情はついに横顔さえも見えなくなる。
少し荒い呼吸音が耳に届く中、ただでさえ早くはなかった歩みが、目に見えて遅くなっていた。
深く項垂れて視線をつま先に落としたまま、苦しそうな呻きを織り交ぜながらは言う。心臓の辺りを強く抑えていて、まだまだ綺麗な制服はきっと皺になっている。
「ごめん、ちょっと苦しい」
「…休んでく?」
「いいや、もう少しだし」
一軒家が並び立つ住宅街にはもう入り込んでいる。もうじき我が家にたどり着くだろう。
近所には子供が多く、閑静というには遠いけれど、賑わってるという程煩くはない。
目立つ色形をした屋根がある家、一本の木が庭に高く立ちそびえる家、足元が錆びた郵便ポスト。
子供の頃、点在する象徴的な物を目印にして俺達は道を覚えた。懐かしく、安堵さえ覚える景色が眼前に広がっている。
昔々。その景色の中で、か俺か、どちらかが息を荒くしてぐったりしだすのも、珍しい光景ではなかった。
委員長と三人でつるんでる事が多くて、毎回心配をかけていた。
今日は調子がいいぞと張り切って起床した日。せっかく出かけてみたのに、存外風が冷たくて、すぐに体が根を上げた事もあった。
急に予兆なく貧血がして、蹲って立ち上がれない事があった。
そんな時は委員長か、具合を崩していない方が大人を呼びに行くのが慣わしだ。
今はもう俺達は三人足並み揃えて大人になった。自分で体調管理をして、具合が悪ければ休憩して、自己判断をして動かなければならない。
このまま歩くべきか、止まるべきか。が自分の体と相談して、それでいいと思ったなら俺はそれに従うのみだ。
明らかに見た目にもおかしかったりすれば止めるけれど、傍から外側だけを見て、他者が分かれる事は少ない。
「ごめん」
「別に、こんなのお互い様だよ」
そうは言いつつも、負担は半々、助け合いがお相子で済んだのは、随分遠い日の話になってしまった。
俺の体が悲鳴を上げる事はそう無くなって、でもは今でもぐらぐらしてる。
いつも足元が不安定で、いつ転びそうになるのか分からなくて、足首をいつも誰かに掴まれているような、枷がハマった生活がもう16年続いていた。
俺はそれが嫌いだった。それが天命だと言わんばかりに、現状を甘受しているが嫌いだった。
すっかり板についてきた、自分の体と相談をする姿が嫌いだった。
頑張れと、相手に言えない歯痒さで胸が締め付けられていた。
頑張ると、相手が言わなくても仕方ないと、どこかでは諦めている自分が嫌いだった。
俺は生きてほしいと思っている。
それと同時に、苦しみ抜いてほしいとも思っている。
日々淡々と、ただのルーチーンをこなすように脆い体を動かしてやる。それに苛立ちを覚えていたのだ。
そんなのは身勝手。そんなのは傲慢。境遇が一緒だったとしても、体の状態はまったく一緒ではない。
俺とは違う人間で、心持だって違う。我が身の事のように現状に痛みを覚えてるからと言って、思い通りにならないに苛立ちを覚えるというのは、確かに我慢のきかない子供のする事だ。
ぐらりと、ついにの体が傾いていくのを見た。
地面に吸い込まれようとしている体に、俺は咄嗟に手を伸ばして支える。
見慣れた三件の家が、ちらちらと小さく遠くに見え始めた頃の事だった。
どうやらの意識は朦朧としている様子で、発熱しているらしい体は燃えるように熱い。全身に鞭打ってここまで歩いてきたの体は途中で糸が切れて、自力で自宅まで辿り着くことは出来なかった。
が思っていたよりも負荷はかかっていて、きっと判断に失敗してしまったのだ
もう陽も沈む頃だというのに、蝉の声が未だに木霊して煩い。
今の季節を象徴する生ぬるさと音に囲まれ、夏の夕闇に埋もれながら、の体からはどんどん力が逃げて行った。
1.日常─嫌い
どういうつもりだ、こういうつもりだとアレコレ言い合うけれど。俺の根源にあるものは、実はとてもシンプルな物だった。
「ありがとう、助かる」
「べつに。ていうか今更じゃない?」
「そう?」
「うん、そう」
夏の風が吹き抜けていた。
お互い汗をかいているけれど、その種類も理由も違う。
俺は部練中ハードな運動に汗をかかされていて、は消耗によってじんわり汗をかいていた。
具合が悪いというは、教室で俺の部活が終わるまでぐったりと待っていたようだ。
放課後、携帯に連絡が入っていたのを見て、「わかった」とだけ返事して、すっかり薄暗くなってきた頃、教室に迎えに行った。
無遅刻無欠席の皆勤賞を狙っている訳でもなかったのだ。小学校の頃ならまだ病欠は気軽なものだったのに、今は大分無理を押して通学するようになっていた。
もう遅い時間だ。辺りは暗くなっていて、落ちた太陽の代わりに街灯が道を照らしていた。
校門をくぐり出て二人歩き、自宅近くまで辿り着く頃には、遠くの空の切れ間に辛うじて霞んだ夕色が見えるだけになっていて、頭上では星がはっきりと輝くようになっていた。
「嫌いなのかって、よく言われるようになった」
「ふーん」
ぽつぽと語るのは取り留めのない日常の一部で、図らずともいつもの報告会代わりになっていた。
道中で話しきってしまうだろうから、今日はわざわざ部屋に尋ねて行くことはないだろう。
そもそも、が登校している時点で部屋を訪ねる理由はない。
部屋に閉じこもりきりのに、少しばかり所ではなく思う所があって、俺は足を運ぶようになったのだ。
の二本の足はまだくたびれず綺麗なローファーをはいて、地面を確かに歩いている。
生温い風に肌を撫でられて、不快そうに目を細めていた。既に疲れの色が見える。
これが、俺の望んだ通りだ。俺にとって、理想的なの姿がそこにはあった。
俺はに苦悩のない幸せな笑顔を湛えていてほしい訳でも、何にも害されず健やかな暮らしを送ってほしい訳でもなかった。
このたった一時理想が叶った所で、微笑ましく見守ることは出来ない。
「俺がの事ちょっと嫌いだったって、知ってる?」
箱学の制服をひらめかせ隣を歩くは、その問いを耳にしても、こちらを振り返りもしなかった。
驚く様子も呆れた様子もなく、ただ他愛ない会話として受け止めているようだ。
俺はの事が嫌いだった。というより、見ていると苛々するし、傍にいられると落ち着かなかった。
自己嫌悪。同族嫌悪。それともまた違うけれど、俺と同じ境遇に置かれたという存在が昔から気に食わなかった。
だからと言ってが酷い事を言ってきた訳でもないし、悪い子なんかじゃない。
好きだけど嫌い。そんな裏腹な思いを抱えながら、暇人な病人同士、幼い頃は窓辺に寄ってつるんでいたし、と話す事は嫌いじゃなかった。
嫌だと思う部分があるのもやっぱり嘘じゃない、胸がざわつくことがあるのだと言うと、
はうんと無感動に相槌を打った。こくりと頷いたつむじが見えて、横顔からしかの表情は伺えない。
「私の事、好きじゃないだろうなってずっと思ってたよ」
「へえ」
「へえって」
俺の薄い反応を咎めるように復唱した。なのには眉を顰めるだけで、それ以上気にした様子はない。それでもこちらを振り返りもしない。視線を合わせて会話をする余裕もないのか、親しいからこその怠惰か、それとも本当に無感動なだけか。ただ淡々と受け答えしていた。
「憎くてたまらなくて、消えてほしいっていう訳じゃないでしょ」
そりゃあそうだ。そんなの当然だ。俺がそんな風に思うはずがない。
だってという人間に苛つかされて、もどかしくて思っていて、上手くいかなくて、胸がざわついて、歯がゆくて、見ていられなくて、でも目を逸らせなくて、そんな状態だったとして。
心の奥の底の底、思っている事は昔からたった一つなんだから。
それは"憎くて消えてほしい"とは真逆の思いだった。切望にも似た欲求だった。
「俺は…」
そのたった一つを告げようとした。言葉一つをポンと放てば、俺の根底にあるものは相手にすぐに伝わる。
あえてそれをに告白した事がある訳じゃないけど、それに似通った事は常習的に話している。
今更かもしれないなと思いつつも、当然伝わっているだろうと決めつけるのは、それこそ親しいからこその怠惰で傲慢だろう。
「……?」
だから、なんの躊躇いも感慨もなく、出し惜しみせずに言ってしまおうとした。
──ずっと、に生きていてほしいと思っていたと。
投げかけようとしたその体から力が抜けていくのを見た。背が緩かに曲がり、俯いた表情はついに横顔さえも見えなくなる。
少し荒い呼吸音が耳に届く中、ただでさえ早くはなかった歩みが、目に見えて遅くなっていた。
深く項垂れて視線をつま先に落としたまま、苦しそうな呻きを織り交ぜながらは言う。心臓の辺りを強く抑えていて、まだまだ綺麗な制服はきっと皺になっている。
「ごめん、ちょっと苦しい」
「…休んでく?」
「いいや、もう少しだし」
一軒家が並び立つ住宅街にはもう入り込んでいる。もうじき我が家にたどり着くだろう。
近所には子供が多く、閑静というには遠いけれど、賑わってるという程煩くはない。
目立つ色形をした屋根がある家、一本の木が庭に高く立ちそびえる家、足元が錆びた郵便ポスト。
子供の頃、点在する象徴的な物を目印にして俺達は道を覚えた。懐かしく、安堵さえ覚える景色が眼前に広がっている。
昔々。その景色の中で、か俺か、どちらかが息を荒くしてぐったりしだすのも、珍しい光景ではなかった。
委員長と三人でつるんでる事が多くて、毎回心配をかけていた。
今日は調子がいいぞと張り切って起床した日。せっかく出かけてみたのに、存外風が冷たくて、すぐに体が根を上げた事もあった。
急に予兆なく貧血がして、蹲って立ち上がれない事があった。
そんな時は委員長か、具合を崩していない方が大人を呼びに行くのが慣わしだ。
今はもう俺達は三人足並み揃えて大人になった。自分で体調管理をして、具合が悪ければ休憩して、自己判断をして動かなければならない。
このまま歩くべきか、止まるべきか。が自分の体と相談して、それでいいと思ったなら俺はそれに従うのみだ。
明らかに見た目にもおかしかったりすれば止めるけれど、傍から外側だけを見て、他者が分かれる事は少ない。
「ごめん」
「別に、こんなのお互い様だよ」
そうは言いつつも、負担は半々、助け合いがお相子で済んだのは、随分遠い日の話になってしまった。
俺の体が悲鳴を上げる事はそう無くなって、でもは今でもぐらぐらしてる。
いつも足元が不安定で、いつ転びそうになるのか分からなくて、足首をいつも誰かに掴まれているような、枷がハマった生活がもう16年続いていた。
俺はそれが嫌いだった。それが天命だと言わんばかりに、現状を甘受しているが嫌いだった。
すっかり板についてきた、自分の体と相談をする姿が嫌いだった。
頑張れと、相手に言えない歯痒さで胸が締め付けられていた。
頑張ると、相手が言わなくても仕方ないと、どこかでは諦めている自分が嫌いだった。
俺は生きてほしいと思っている。
それと同時に、苦しみ抜いてほしいとも思っている。
日々淡々と、ただのルーチーンをこなすように脆い体を動かしてやる。それに苛立ちを覚えていたのだ。
そんなのは身勝手。そんなのは傲慢。境遇が一緒だったとしても、体の状態はまったく一緒ではない。
俺とは違う人間で、心持だって違う。我が身の事のように現状に痛みを覚えてるからと言って、思い通りにならないに苛立ちを覚えるというのは、確かに我慢のきかない子供のする事だ。
ぐらりと、ついにの体が傾いていくのを見た。
地面に吸い込まれようとしている体に、俺は咄嗟に手を伸ばして支える。
見慣れた三件の家が、ちらちらと小さく遠くに見え始めた頃の事だった。
どうやらの意識は朦朧としている様子で、発熱しているらしい体は燃えるように熱い。全身に鞭打ってここまで歩いてきたの体は途中で糸が切れて、自力で自宅まで辿り着くことは出来なかった。
が思っていたよりも負荷はかかっていて、きっと判断に失敗してしまったのだ
もう陽も沈む頃だというのに、蝉の声が未だに木霊して煩い。
今の季節を象徴する生ぬるさと音に囲まれ、夏の夕闇に埋もれながら、の体からはどんどん力が逃げて行った。