第四話
1.日常前世と遭遇

名前のある持病というモノを持っていない訳ではないけれど、あえて私の体質を説明するならば、言うべきは虚弱体質の四文字だろう。

それでも、ずっとベッドの上で寝ている訳にもいかない。
脆いとはいえまだ若い体に鞭を打ち、近所に真っ直ぐ伸びている河川敷を歩いた。
普段働かないせいで、たまに引きつる足をぱしりと叩き鼓舞しながら、往復してほんの1時間程度の散歩を定期的にしている。
休憩をしっかり挟むから、歩いている時間は実質1時間に満たない。

本当に大変だと溜息が出る。健康だった頃はよかったなと、失って初めて分かる健康体の有難味を実感していた。
前世での私は、病に倒れるまでは、人並みに暮らせていたのだ。
季節の変わり目には風邪を引く。不調なんて、その程度の事だけだった。
ちょっと無理をしたら発熱して病欠するなんて、前世の健康だった頃の自分ではあり得ない事だ。
こうやって前世の自分を思いだすと、連動するように思い浮かぶのはいつも同じ事だった。


前世で…まだ健康だった頃の私は、とある集まりに定期的に参加していた。
小、中、高、様々な年ごろの子供達が集まって、大人達は催し物をする。
地域ぐるみの…という程大々的なものではなく、身内同士が寄りあうささやかな楽しみだった。
定期的とは言っても年二回ほどのその中で、大人組に回っていた私は、「好きな人物ランキング」という物を作って楽しもうと、子供達に手製のアンケート用紙を配った。
パーティー中、壁に張りだすだけの、ほんのお遊びだ。
二十人も子供が集まらない規模の小さいこの集まり。わざわざ機材を使わなくても、手書きで十分だろうと高をくくっていた。

──それが間違いだった。私は「真波山岳:弱虫ペダル」という文字を100回は紙に手書きするはめになったのだ。
熱狂的なファンがいたらしい。匿名で箱に投入されたその清き…100票。どれも特徴的な丸い字で、同一人物が出したに違いなかった。
真波山岳:100票と省略してしまえばよかったのかもしれないけど、時既に遅い。
もう作ってしまった用紙の雛型は融通がきかなくて、そうは出来るようになっていなかった。
私は徹夜でその名を書き込み、当日ランキング発表が壁に張りだされた時にはドッと笑いが起きていた。
匿名アンケートなので、誰の仕業かは分からない。誰だ誰だと子供たちはおふざけで犯人捜しをしていたけど、結局見つからなかったようだ。

私はその名前が憎たらしくなるのと同時に、気になってもいた。
調べると、弱虫ペダルというのは漫画のタイトルなのだと知れた。
どんなキャラクターだろうとかと本屋に向かった瞬間、私は目を剥く。
……長い。長すぎる。ほんの好奇心で手を出すには多すぎる冊数が発刊されていたのだった。
けれど女に二言はない。というか、ここまで来て後には引けないだろう。
なんとしてもあの憎たらしい名前を持った人物を確かめなければ気が済まない。
この本屋には買い物カゴもない、一人の腕でレジに運ぶには3往復は必要だろうか。
財布への負担と湧き上がる羞恥心。見積もりを終えた私は腹を括って、大人買いを実行した。

「…いやむりだ」

というのに。
100回の書き込みをするよりも膨大な時間を要する読書になると悟った時、私の心は折れた。
息巻いて重たい本を家まで運んだというのに、この体たらく。
まず3巻まではじっくりと読んでみた。が、それにかかった時間がとんでもなく膨大で、これは駄目だと挫折してしまったのだ。
馴染のない自転車…ロードレースの用語を読解しようとすると、大変な労力がかかった。
それからはパラパラと流し読みするだけで、特定のキャラクターに深入りする事もなく、ただあらすじだけを追った。
真波山岳というキャラクターは要所要所で登場したけど、この漫画は彼が主人公という訳でもなく、その一人だけにはかかずらっていられない。
冊数も膨大なら出て来るキャラクターも膨大な数だった。
目的が"真波山岳を知る"という所から"まんべんなく漫画を読破する"にすり替わり、
流し読みを終えた時にはベッドに倒れ込み、寝不足だった私はそのままこんこんと眠り続けた。


──だから、真波山岳という小さなお隣さんとの初対面で、ああ私は漫画の世界にやってきてしまったのかと、その奇縁に気が付くのは一瞬だった。
そもそも前世の記憶があるという時点で不思議すぎる話だし、漫画の世界に転生というのも荒唐無稽だとは言い切れないなと思ったのだ。
それからたまに、聞き覚えのある名を持つ人物と出会う事があった。
散歩をする時、よく出くわす彼もその中の一人だ。

今回も散歩中、見知った背中を見つけて声をかけた。
制服姿とジャージ姿、たまに私服。出くわすときに着ているのはその三種類のどれかだ。今回の場合はジャージだった。自転車競技用の、肌にしっかり纏わりつく、独特のユニフォームだ。彼が今着ているものには、箱根という文字が刻まれている。

「荒北くん」
「あ?…ああ、なんだお前かヨ」
「何してるの」
「みりゃわかんだろ」

なるほどそれはそうだ。彼は現在休憩中らしい。その手にはコンビニの袋が下げられていて、丁度中から飲み物を取り出そうとしている所だった。
彼が空いた片手で指さした先には、彼の愛用しているロードバイクが柵に立てかけてある。

「最近どう?」

河川敷の道より少し下った所に座りこんでいる。同じように降りて行きながら、他愛無い雑談を振った。
彼はこちらを振り返らずに、言葉を濁す。

「別にどうってこともねェ…あー、いやあんな」
「やっぱ3年になると大変かな」
「そりゃ上がったせいもあるけどォ…つーか、変な1年がなァ…」

そうか、もう三年生になるのかと、三年生なりの苦労を語る彼を見て、改めて感慨深く思いながら相槌を打つ。
荒北くんとの出会いは2年前に遡る。
私はほんの些細なことがきっかけで、家出をした事があった。
家出といっても、山岳とちょっとした喧嘩をして、頭を冷やそうとしただけだったんだけど。
そんな時、帰りの荒北くんに声をかけられて、迷子でもしているのかと親身になってもらったのだ。
荒北くんが高1で、私が中二の頃のことだ。
元不良だった彼は…この2年でリーゼントからさっぱりした短髪に代わり、更生したり自転車に跨り出したりと、目まぐるしい変化を遂げている。けれど、たまに会う私は何も変わっていない。
相変わらず学校は休みがちで引きこもりがちで、健康維持のため、たまに散歩をするだけの日々だった。

「そいつ不思議チャンでヨ、どういう思考回路してんだか意味わかんねェ」
「へえ。天然ってやつ?」
「あー、そうかもな」

嫌だ嫌だと渋った顔をしつつも、実際は言葉とは裏腹なんじゃないかと勘繰って、切りこんでみる。

「でも気に入ってるんだ」
「なんでだよ」
「気にかけてるから」
「気に掛けるしかねェだろ、そいつ1年レギュラーなんだっつーの」

予想は外れたようで、実際はそうせざるを得ない理由があったという事だった。
荒北という名前は元々知っていた。けれど、彼は膨大に出て来るキャラクターの一人でしかなくて、彼の学校の人間関係までは詳しく覚えていない。なので彼のその苦労までは計り知れない。
だいたい登場人物の名前と、それに加えて学年も覚えていれば上々くらいの記憶しか保持していないのだ。
大まかな道筋だけを覚えている。決してつまらない漫画だった訳じゃないけど、あの頃の私はとにかく疲れやすくて、長い時間を読書に費やす気力がなかった。
今思えば、あれは病気の初期症状だったんだろうけど。

「…それは凄いね。ていうか大変だね」
「ケッ。大変っつーかよ、面倒くせーヨ。腹立つし」
「いや、なんだかんだ面倒見いいから、荒北くんに心労が…」
「っせ」

荒北くんは年上で、先輩というやつだ。なのにタメ口なんて聞けば目くじらを立てられそうな物だ。けれど、出会いが出会いだったのだ。
会う場所も校内じゃない。友達同士…いや近所のお兄さんと妹って感じの関係なのかもしれない。
そもそも、荒北くんは私が箱学生だという事を恐らく知らない。
私は漫画の知識と、彼の纏っている制服を見て知ってる事だけど、何か私がのっぴきならない事情を抱えているらしいと察したらしい彼は、出会った当時から事情を深く聞かないのだ。
朝も昼も夕も問わず、いつもフラフラ息切れしながら徘徊しててる私をどう思ってるのか。
昔の荒北くんのように、授業をサボった不良には見えないだろうから、登校拒否を起こしているモヤシだと思われているかもしれない。

「荒北くんも頑張ってるから、私も頑張るかな」
「いや俺ががんばんなくてもお前もちっとは頑張れヨ」
「今までもそれなりには頑張ってたけど、もっと頑張る」
「そうかよ」

荒北くんはそれだけ言って、立ち上がって愛車に手をかけた。じゃあなと手をひらひら振って、それに跨り走り去って行く。
軽快に進むその乗り物を、私はよく目にしていた。
散歩コースの河川敷を歩いていても、道路脇を通っていても、どこでも颯爽と通りすがって行く。
それは憎たらしくもあり、なんでだか愛しくもある乗り物だった。

「…遅れて登校するのは目立つなぁ…」

憂鬱だけど、そこら辺頑張るしかない。ここ数年は回復の兆しを見せていた病状。
成長と共に土台がしっかりしてきたのかもしれない、これならなんとか通学できるだろうと希望を抱いたのも束の間の事。
入学直前に具合を崩し、新学期までに回復が間に合わなかった私は、暫く遅れで教室に踏み入れる事になった。
だからと言って伏してばかりにもいられない。単位を取得するために、高熱を出しながらも課題に追われ、時間に追われ。"頑張る"はしてきたけど、これはそれからも継続しなければいけない事だろうし、登校もするようになるとなれば、もっともっと頑張らなければいけない。
ああそうだ。本格的に登校を始める前に、事前に荒北くんに自己紹介をしておかなければと思い立ったものの、その後タイミングよく荒北くんと会うことはなかった。


2019.4.10