第三話
1.日常宣言
「ロードはじめたんだ」


と、幼馴染の男は言った。
毎日の報告会で話されるのは他愛ない日常の一部で、改めてなにかを宣言をされる事はなかった。
だというのに、初めて畏まって言われたのがこれだ。
何をいまさらと開いた口が塞がらなかった。痴呆か、天然か、寝ぼけているのか。この男の場合わからない。
なんせよく昼寝するし、よくボケた発言をするし、今本当に真面目に正気で話しているのか疑わしかった。
中学の制服を纏う彼は、年齢と共に体格がよくなってきた。成長期はまあまあ早めにやってきたようだ。まだ伸び代があるかもしれない。
寝癖もなく落ち着いた髪と、慣れたように着こなした制服が、体格や顔付き以上に本人を大人びて見せた。

「だから、箱根学園に入ることにした」

ああ、なるほどと私は納得した。屈指の強豪校であり、自転車競技をやるならば最適…という事は以前から本人から聞かされていたのだ。
だからと言って、なんで再三一から説明しようとしたのか分からないけれど。その決意表明の意図はなんなんだろう。
山岳の額には汗がじんわりと滲んでいて、けれど一っ走りしてきた彼はどこかさっぱりした面持ちをしていた。


「ねえ、も入るでしょ」
「ええー…まあ…」

うんと濁しながら頷いた。私は近所の好で昔からよくしてもらっていた。
同じ穴のムジナで病気に理解があり、双方の家で協力し合っていた山岳家はともかく、隣隣りの彼女の家からもフォローしてもらっていた。
体調が回復してきた今、通学にも問題はないだろう。それでも心配は付き纏う。お隣さんたちが通う高校に進学してもらった方が安心だ。
それが両親の意向だからでもあったし、そうしたら?とお隣さんたちがノリ気だったからでもあった。
私の進学希望なんてあってないようなもので、強制的に先は決まっていた。
山岳が入るのだと言えば入るし、彼女も入るというならなおさら入る。
何も介助を頼みたい訳じゃない。誰かの目があるというだけで一安心だという両親の気持もわかっていた。
見知らぬ道端で倒れられて、気づかれなくても、困るだろう。
同じ時間帯に通学して下校するなら、変な言い方をすると、朝、夕の二度の生存確認はしてもらえる。


「それなら三人で通えるし」
「あ、そうなの」

彼女ももう決めているとは知らなかった。二人は今受験生で、部屋に入り浸り駄弁る時間はさけない。
最近は雑談が減って、そういう話をする機会が少なくなっていた。
二人はクラスメイトだ。教室でそういう話をするタイミングがあったのかもしれない。

「それならまあ、なんとかやれるかな」

言うと、山岳の眉がぐっと寄った。もともと機嫌はよさそうでなかったのに、更に不機嫌が加速したのがわかった。

「なんとかとか…そういうのやめてよ」
「そういうのって何」
「それなりに、とか言わないで」
「いや、全力ではムリだって。倒れるから」
「それは…」

山岳は口を噤んだ。それなりでなく、全身全霊で学校生活を謳歌しようと思えば、スナミナ切れして倒れる。それどころか、一歩間違えたら私は死んでしまうかもしれない。
それを山岳も分かっていた。
病弱だった頃の山岳自身も、無理が祟ればどうなるか分からなかったのだ。
自分の身を持って知っていることだ、無理強いは出来ないと思ったのか、それ以上は強く言わなかった。

「…がんばってみるけど」
「けどじゃなくて、普通に頑張って」
「そうは言ってもさぁ…」

少し無理をしたら熱を出す身体で、簡単に拗れる。馬鹿みたいに慎重に腫物に触るように気遣わなければ、この身体は真っ当には生きれない。
わかっていたから、山岳も「頑張れ」以上の、本当に言いたい言葉を飲み込んでいる。
それがもどかしくてイラついているのと、単純に私の覇気のないぼんやりとした態度が癇に障るのだと思う。
普段緩々としていて、受け流す事は上手そうなのに、こういう点に関しては、頑なに嫌がる理由もよくわかっていた。


前世での積み立てがある分、要領のいい私は、机に向かう時間が少ないはずなのに、難なく合格出来た。
試験当日、運悪く発熱していた私が、会場までたどり着くか否かの方が難関だった。
哀しい事に雪も振っていて、足元は悪く、風に凍らされそうになり、ガリガリと削られた私は最早これまでかと覚悟したものだ。
必死になった分努力は報われた。
晴れて春先から箱根学園一年生になる…という頃になって、私の身体はぷつりと糸が切れたように倒れこんでしまった。
お隣さんたちが朝、新品の制服を纏って出かける姿を二階の窓から眺め、手を振って見送り、午前午後とベッドの中でぐったりと寝ころび過ごす。
初っ端から躓いてしまった事はもう仕方ない。
せめて遅れが出ないようにと体に鞭打って勉強は進めた。もともと頭には入ってる事だけど、積み立てるにこした事はない。
今回のように、いつ具合を崩すかわからない私は、出来る時に先んじて積み立てておく事が肝心なのだ。

17時をすぎる頃には、外から夕の陽が差し込むようなってきた。
勉強机からふと顔を上げ振り返ると、床に濃い影が作られている事に気が付く。
ぼんやりと眺めていると、コンコンと小さなノック音が二回響く。どうぞと促すと、静かにドアが開かれた。

「ただいま」
「あ、おかえり」

訪ねてきてくれたのは、予想通り彼女だった。
律儀に返事を待ってくれる所はさすが彼女で、さすが女の子か。
山岳は待つには待つけれど、中の住人に配慮しているというよりも、ただルールを守っているだけという体で、なんだか雑な所があった。

「学校、どう?」
「落ち着いたわ」

勉強机に広げられたノートや教科書を覗きこみながら、彼女はなんでもないように答えた。

「学校楽しい?」
「まあ、そうね」
「それはよかった」

一区切りまで書き終えて、走らせていたペンを止める。ノートを閉じながら、彼女の方へ振り返った。
すると、ついさっきまで穏やかな面持ちで話していたはずの彼女は眉を寄せていて、言い難そうに口を重たくしていた。

「…あのね、山岳が…」
「山岳が?」
「…部活に入ったわ」
「うん」

それはもう聞いてるよと頷いた。
私は椅子に座ったまま、彼女はすぐ傍の床上にすとんと腰を下ろして。
目線が違ったまま、いつも通りの他愛ない会話を続けた。

「部活に入って…自転車にのめり込んで…」
「うん」

けれど、今回は他愛ない話ではないらしく、どこか不穏な口調だ。
山岳が自転車にのめりこんでるのは昔からの事だ。それも知っている。
彼女が本当に言いたい事はそこではないのだ。
私はその先を待つと、ふつふつと静かに彼女の中で湧き上がっていた怒りは沸点を越えてしまったようで、喉から大きな叫びをあげさせた。

「遅刻するし居眠りするしプリントやらないしっ!!どうしようもないわ!!」

拳を握って怒り狂っている彼女をみて、なるほどと取り巻く現状を理解した。

「入学早々、ほんととんでもないね」
「でしょ!!?でしょ?」

入学して、しばらく学校生活を送って、どんどん下がり調子になっていくならともかく、初っ端からこうも緩々しているというのは相当だ。
あの男と同じクラスで幼なじみ。それだけでも苦労させられそうだと言うのに、クラス委員長という立場にいる彼女には頭が上がらない。
かかっている負担、痛めつけられる胃袋、その心中察する。

「部活だって、ちゃんとやってるのかしら。迷惑かけてるんじゃないかって心配で」
「あーうん…ちゃんとってのは期待できないだろうね」

心配にもなるだろうなと思った。一番身近であの緩々とした男を眺めていれば、相当不安だろう。
競技を熱心にやる事と、部活動をちゃんとやる事は違う。
マイペースな気のある山岳が、ちゃんと協調性を持って活動できているのか、一抹どころではない不安を抱く。
その予想は杞憂には終わらず、案の定的中しているのだった。

2019.4.4