第四十七話
3.慰め破滅願望
朝、目覚まし時計が鳴るより早く目が覚めた。
布団から身を起こすと、じくりと腹部が痛む。
その鈍痛のせいで目が覚めたのかと勘繰るけれど、実際は違ったようだ。
かけ布団をめくって腹を摩っても、傷口に障った風には感じない。
寝返りを打たず熟睡していた身体は、節々が重くて痛かった。
夢も見ることなく熟睡した事による、小さな代償だ。
十分眠れすぎて、自然覚醒したんだろうと寝惚け眼で納得し、朝の身支度のため、洗面台へと向かった。

いつもより少し早い時間に、自室の玄関を潜った。
25年ぶりにみた履物は、あの当時のまま当然劣化していない。
鼻緒の柄に一目ぼれして、大事に履いていたのを覚えている。新品同様のそのままだ。
早くと言っても、食堂は既に開いてる時間。何の問題もなく、朝ご飯を頂こうと軽い足取りで廊下を歩いた。


「…あ、おはようー」

視界に入った人に挨拶をした。
手を振ろうと思ったけれど、生憎トレーを持って両手が塞がっている。
一瞬それを忘れて手を動かしてしまったため、その振動で味噌汁が少し零れてしまった。
相手は私の落ち着きのない動作を見て、いつもの呆れ顔を湛えて、ぶっきらぼうに挨拶を返してくれた。


「…いつもそうですね」
「え、あ、うん?」
「寝たら全部忘れる」
「そうかな…うん、そうかもねえ。……あ、ねえ鬼灯くんも今から朝ごはん?一緒に食べよ」
「……あなたのその適当さってなんなんでしょう」


大抵のことは寝てリセットされるのは昔からのことで、今に始まったことではない。
昨日のことなどなかったかのようにあっさりとしている様子をみて、鬼灯くんは呆れているらしい。
こちらこそ何を今さらと少し言いたくなる。

そうは言っても、リセットされるのは感情だけ。負の念を引きずらないというだけで、悩み事態は消えたりしない。
つまり、私が失踪した事も、無かった事にはならない。
気まずい気持ちとか、罪悪感とか、それなりにはあるし。これから一ヶ月弱ぶりに各所に顔出しして、一体なんて説明したらいいのか…とか、これでも人並みに葛藤はしてる。

食堂には人が疎らで、混み合う時間からはまだ外れているらしい。
朝のピークは、これから30分もしない内にやってくるだろう。
湯気の立つ定食を適当な席まで運び、机を挟んで対面する形で座る。
目の前の鬼灯くんをなんとなく見ると、卵を割っていた。
そんな光景を見てしまえば、こちらも卵の口になってしまう。
いいなあ、私も卵かけご飯したかったなぁなんて内心ぼやいた。納豆卵かけご飯が出来れば尚よしだ。
自分のただの目玉焼きに箸をつけていると、鬼灯くんがぽつりと短く呟く。


「傷は」
「え…あーうん、可もなく不可もなく」
「歩けるくらいには良いんですね」
「そうだね。昨日より全然しっかり歩けてる」
「山道下るよりは、それはいいでしょうけど」

そう言えば、そんな冒険をしてここまで帰ってきたんだなぁと今更思い出した。
まだ寝惚けてるのかもしれない。昨日の記憶が、今になって鮮明に蘇ってきた。


「致命傷にならなくてよかったですね」
「…致命傷になーれーと思ってやったんだけどな」
「あなたも地獄の鬼らしくなりましたねえ」
「…これが地獄の鬼…?」


そういう思いきりが大切なのだろうか。
自分への思いきりのよさを持つよりは、亡者を拷問するため…他者を害するための思いきりのよさがほしいんじゃないかと思うんだけど。
どっちにしたって、紙一重なのかもしれないなと納得する。
どちらに必要なのも、何かを害するための勇気だ。
随分聞こえの悪いそれが、良い物か悪い物かと聞かれたら答えに困るけど…ここは地獄だからまあ…うん…それはそれで良いんだろう。
暴力が横行している世界という訳ではない。ただ、ここのヒトたちは規格外で、人間の頃の常識も良心も必ずしも当てはめられはしない。

「…いつかあなたを壊してしまうだろうと、忠告されました」


定食の目玉である一尾の魚をほぐしていると、唐突に言われて反応が遅れた。
箸を止めて、頭の中で復唱してみるけれど、あまりに脈絡なさすぎて、全然言葉の意味が理解ができない。
鬼灯くんは生姜焼きを箸で突きながら、黙々と咀嚼と会話を器用に続けている。


「私は、致命傷にでもならなければ、壊れてもそれでいいと思っていたんですけど」
「ええ…やだよ…勝手に人のこと壊さないで…致命傷にならなくても、もう痛いのは嫌…」
「痛くなければいいのか」
「苦しくなくて、特に問題も起らないなら…まぁいいかなあ」
「……大ざっぱというより、結構狂ってますよね」
「酷いこと言わないでよ…」
「ちなみに私は静かに常時狂っていると言われました」
「……へえ」
「なんなんですかその目」


見た通り、納得している目だと思うけど。藪蛇をつつきそうなので、特に何も言わないでおく。

「壊すって、どういう事を言ってるのか、よくわかんないけど…」


メンタルを壊すとか身体を壊すとか、どっちもよく言う事だし、どこの部分を指していってるのか知らないけど。それとも何かの比喩だろうか。
──私は性懲りもなく。一度自死を選んだ今でも、まだ"生きて"いたいと思っている。
痛いのも、これからやってくる結末に怯えるのも、もう懲り懲りだ。
健康に生きられなくて、みんなと同じようなことが出来なくて、そのうち思いもよらない形で若くに死んで、未練はたくさんあって。

──私は二度目の生を謳歌した。やり直しができることは、嬉しかった。
でもそれは、前の人生の続きを始めたいんじゃなかった。今目の前にいる人たちと、今ここにいるとして、生きていきたかったのだ。

だからなんの間違いか、一度目の■■■■という人間の人生を再スタートすることになって、絶望したのだ。

もう振り返りたくはない。過去を思い出して懐かしんだりしたくない。
過去がある、という事は、必ずしも私にとって悪いものではなかったけれど。
現代を生きていた頃に得ていた知識や経験があって、私はその恩恵を与って生き延びて来たのだ。
ただ、前世と縁が途切れないせいでこんなややこしい事態に陥るというのなら、もう完全にぶつ切ってしまいたい。
縁も知識も経験もいらない。懐かしい友人知人が全く恋しくない訳ではないけれど、それらは普通転生したら忘れてしまうものなのだ。だったら私だって、真っ新になれてもよかったはずなのに。
覚えていたからこそ生き延びることが出来た。覚えていたからこそ今の自分が形成された。
その今の自分を、鬼灯くんも、幼馴染の彼らも気に入ってくれてる。
昔があるから今があるなんて事はわかっている。けれど、薄情だと言われてもいい。
もうそろそろ全てお役御免という事で、いいんじゃないだろうか。

昔の自分が消えてくれなくて、事あるごとに浮き彫りなって、今のの足元がゆらりと崩れ去ってしまうくらいなら。


「壊してくれても、別にいいよ」

致命傷にならないのなら、痛くもないなら、問題ないものなら。
"過去のこと"というのは、私の中にある、亡くして、壊してくれてもいいリストに既に入ってるのだから。
他には何が入っているかと言えば…なんだろう、色々だ。
差支えのない、くだらないものなら山ほどある。
よく考えず、博打のように物事を決める悪癖とか。すぐ堕落したがる所とか。なかなか深刻になれない所とか。どうぞどうぞと差し出したくなるような物は結構ある。
どうぞこの私の悪い所を壊してほしい。
そして私は、叩かれてもやましい事が何も出ないような、真人間になるのだ。
…なんて冗談じみた事を考えながら、口の中にプチトマトを一口に突っ込む。
頬をトマトで膨らませた私を胡乱そうな目でみやり、鬼灯くんはひとこと。


「………悪癖」
「ええ?」

吐き捨てるように言われて、口元をもごもごとさせながら、困ってしまった。
トマトをどうにか咀嚼した後、どうした物かと思案しながら、今度は解し終えた魚の身を口に運んでいく。
鬼灯くんは今度はこちらをちらりとも見ず、なんでもなかったかのように話を続けた。


「それで」
「それで?」
「認められてどうしたいんですか」
「……え?ああ、えー」
「どうなりたいんですか」
「どう、かあ」


じっと見つめながら聞く。
一瞬なんのことやらとピンと来なかったけど、昨日の話の続きなんだと気が付いて改めて考えた。
責めるでもなく淡々としている様子をみて、また何かこちらの出方を伺っているのかと思ったけど、ただの素朴な疑問のような物なのかもしれないとも感じた。
いちいち疑心暗鬼になっても仕方ないし、酷いことされたらその時酷いと怒ればいいやと考えることを止めた。


「……傍にいたい、かなぁ」
「…」
「ずっと傍にいたいし、ここに帰ってきたい。……だけ?」


自発的に望んだこと。わきでた欲求。私の確固たる意志。だからこそ起こせた行動。
良いよと言って、それらを認めてくれるというなら、私の行き着くところは、今度こそもう決まった。


「それはどういう意味で?」
「どういうって言われても…」
「愛した人のもとにいたいとか」
「えー、そうじゃないけど」

迷う素振りもなく愛ではないと言い切ると、また呆れたような目でみられた。
本当にそうであればよかったのにねと私も思う。
ちょっとくらいもしかして…なんて迷えたらよかったのに。綺麗に迷いのない、天晴な程の即答だった。

けれど、愛してるんじゃなくても。
「死ねるほどに好き」という熱意はもう伝わっているだろう。
じゃあ、後は何を伝えようか。どう言ったら、鬼灯くんはもっともっと認めてくれるだろう。
焦りのような物を潜めて、安心してくれるだろう。
私が認めてほしいと縋りついたあの時、頷いた鬼灯くんは、確かに安堵していたのを見た。
私よりも背丈の小さい、幼い頃から彼の中にあったであろう確執のような物が、解けていくのを確かに肌に感じていた。
私を見やるその黒い瞳は、焦燥ではなく、はじめて安堵の光を浮かべた。
たった一夜で、云千年あり続けた彼の中の凍てつきを溶かしたのだ。
私が一番欲しい言葉を彼にもらえたように、おそらく鬼灯くんも、一番ほしかった言葉を、本人の納得の行く形でもらう事が出来たのだと思う。


「それに、もう嫌なの」
「なにが」
「どうせここに帰ってきたいって思うのに」
「…のに?」
「離れたくないなぁ。傍にいなきゃ…きっとまた色々頑張らなきゃいけないの。すっごく大変だったから、それはもうやだなぁ」

また離れて、また鬼灯くんたちに会いたくなって、また自死を迫られる…なんて展開はもう懲り懲りだ。
すると、「へえ」と感心したように呟かれた。何がへえなんだろう。
どうせ妙なこと言われるだけだろうと思って、追及せず流した。


「また腹切りしなきゃいけないんだよ…そんなのやだ…」
「普通そういうこと軽く言いますか」
「鬼灯くんだって、昔のこと軽くみんなに話すでしょ」

生贄にされ死した時の事について、鬼灯くんは何も気にした様子もなく、軽々と周囲に語っているようだ。だったら腹切り云々と口にする事くらいただの些事だろう。

「今回のことも、軽く言ったっていいでしょ」
「それとコレとは話が違う。あれは不本意な他殺で、今回は意図的な自殺なんでしょう」

生贄にされたことについて話していても、やはりお互い軽い。
凶霊のあの子も、凄惨に殺された過去をさらりと話していたなと思い出した。あの世特有の感性なのかもしれない。どんどん染まって行くなぁ私も。
がやがやとした人の賑わいが大きくなってきた。食事もそろそろ終える頃だし、
席を長々陣取らず、早めに退席した方がいいだろうかと頭の片隅で思案する。


「昔はみんな切腹とかしてたよ…」
「あの人らの腹切りそんな軽くないからな。あとみんなでもない」
「私だって別に軽くないよー」
「口調がもう軽い」


武士の腹切りを会話の中で引き合いに出す機会もそうないだろうな、貴重だなと的外れなことを頭の隅で考えた。
示し合せたでもなく、「ごちそうさまでした」と二人して手を合わせ、席から立ち上がる。
混雑してきた食堂の人波の中、知り合いの顔はないだろうかと横目に探してみるも、どうやらいそうにない。

「でもきっと、これも進歩だよね。色々前進したよ」
「いや、退化かもしれませんね」
「なんでそういうこというの…」
「一歩進んで二歩下がる」
「もっと楽観的に捉えたらいいのに」
「あなたのそれは楽観的ではなく、適当というんです」


ああ言うばこう言う。
屁理屈を言うというか一筋縄じゃないという素直じゃないというか…
どっちもどっちかもしれないけど、最後に言いくるめられるのは大抵私の方なのだ。鬼灯くんの方が多分酷い。

「でもようやくだねえ」

ガタリと音を立て椅子を引きながら、思わずふふと笑みを零す。

「なにがですか」
「鬼灯くんが私に望んで、ついに私も望んで。それが愛でも恋でもなくても、やっとだよね」
「…」
「でも言う通り、満足なんて出来なかったね」

もっともっとと、それ以上を望むようになるといつの日か断言されていた。
結局、私もその通りみっともなく求め続けたし、今もそうだ。
欲に果てはない。ややこしい。
今回のことだって、私達は今度こそ晴れて丸く収まったんだということで、単純に完全に納得してしまえたならばいいのに。
もっと上手いことやれるんじゃないか?と、頭のどこかでは、常に違う形を探し続けている。
適当に頷いて、相手を蔑にしたくないと、尊重しているといえば聞こえはいい。
悪く言うならこれはただの臆病で、優柔不断だ。
ちょっと自嘲気味に言うと、「当たり前でしょう」と返された。


「私もあなたも出来た性格してません」
「…そうかも…」

自分だけではなく、私の事も平等に下げていく物言いに遠い目をする。
席を立つと、これ幸いと見知らぬ獄卒が入れ替わるように着席した。
それを振り返らずに、空き皿を返却して、二人して廊下へと歩いて出る。

「でも、多分」
「うん?」
「面倒でもなんでも、見切りをつけさえしなければ、きっといつかまた変化する」
「…変化かあ…」
「私もあなたも、一応お互いが望むような形になれた。いつか、もっとよりよい形に整うでしょう」
「そんな…物をこねくり回すみたいな言い方を…」
「さして変わりない」
「結構変わりあるよー…」

変わり映えのない毎日とは程遠く、いつも地獄は忙しない。
まるで都会を歩く人々のように、閻魔殿を闊歩する鬼達の姿は忙しなかった。
平坦な道のりではなかったし、これからもそうだろう。けれど、時間はかかってもきっといつかもっとよくなる。どうにかなる。
究極の他力本願な気もするけど、考えても仕方ない事というのがコレなんだろう。
流されるのが正解な事だってきっとある。

「それに」

短く言うと、鬼灯くんは立ち止まり、私のことをじっと見た。

「私の事、好きなんでしょう。死んでしまえるほどに」

端から違う答えなど求めていない、確信を持った言葉だった。
確かにその通りである。臆病な私は、好きで好きで、会いたくてどうしようもなくて、そして死んでしまえた。

私は鬼灯くんの事が、今も昔も…はじめて出会った幼い頃から、大好きだった。
私の好きは年月と共に変化した。
あの頃の淡い心は、こんなに強烈なものではなかったはずだ。
会いたい、だから死ななければとこちらの世界に焦がれていた時の私は、会いたい人に会えないと焦れる、恋する女の子の無垢さとはかけ離れていたように思う。
いや、それとも紙一重なんだろうか。

「だとしたら、やっぱり進歩ですね」
「…」

今度は私の方が呆れてしまって言葉が出なくなる。
すぐに前言撤回して手のひら返す。この調子のいい所についても、もう考えるだけ無駄だろうと諦め、はぁと溜息をついた。



2019.8.29