第四十五話
3.慰め嫌悪と赦し
「これじゃ、心中っていうか、事件みたいになっちゃったね」


血が足りていないせいか朦朧としていて、舌もあまり回っていない。だというのに、くだらない話をいつまでもしたがりました。
日常とはかけ離れた時間を過ごす中、神経が冴えて饒舌になるというのも分かる話だ。
けれど、いざ血に濡れた姿で元気にされても、安心する所か、そのアンバランスさに呆れが引き出される。
怪我した女子を半ば引きずって歩く成人男子。この図を見た時誰がどう思うかは、おそらく三者三様だろう。

「加害者だと疑われるのは私ですよ。冗談じゃない」
「あはは、ちゃんと介抱してくれるひとに見えてるよ、多分」
「多分では困ります」


過去に血みどろにさせてしまってから、私は彼女に触れることに躊躇いを覚えるようになっていた。私の知る人体への力加減など無意味です。
亡者よりも脆いのかもしれない、とすら思うこの身体が、こんな傷に耐えられていることが不思議でした。
この子の腹部、着物の上に滲み出た赤い染み。その広がった範囲を鑑みるに、かすり傷とは思えない。
そもそも、急所を怪我したという事自体、尋常ではない。
消えた25日の間に何がどうあったかなんて、この子が語らなければ、察する事は出来ない。
神隠し同様、理屈では説明がつけられないような、摩訶不思議な何かを再び起こして来たのだろうかと予想を立てる。

背中に片腕を回して介抱する。
この子に触れている自分の手の平、その部分から通じて、嫌悪感のようなものが湧いて
身体中を這い回ったのを感じる。
最早慣れた感覚だった。この子の傍にいようするなら、逃れようがない。
昔から嫌いだった。この子に触れることに、理屈では言い現しようのない、嫌悪を覚えていました。
それに明確に気が付いたのは、いつの頃だったでしょう。

「ほんとに、戻ってこれてよかったあ」


この白い肌が、黒い髪が、瞳の色が、全部大嫌いでした。
ぞっとするのは理屈ではありません。
しがみついて来られた幼い頃、私は抵抗していた。
アレは意地や気恥ずかしさが理由じゃなくって、本当に心からの拒絶だったんでしょう。
出来るならば昔のようにバッと払いのけて、触れられるより前に逃げてしまいたい。
けれど、潔癖症のように触れ合う事を拒否し続けていれば、いつかは何故?と追求されるだろう。
私はその疑問に答える事を善しとはしていなかった。

──気持ち悪い。恐ろしくて不快で苦痛でない。
触れる肌から伝わる温もりみたいなものが、なんだか耐えがたいのです。
この子自身に対する嫌悪というより、接触することへの理由ない抵抗でした。


「医務室に行きましょう。病院も開いていませんし」
「うん」
「まァ、曲がりなりにも鬼ですから」

出血の具合を目視で確かめて、ある程度の受け答えが出来るのも確認して。
杖の代わりにと私の腕を掴む手にも力もこもっている。それなら十分かと、閻魔殿にある医務室で簡易手当てすることに決めて、目的地を定めて歩く。
明日病院に連れていくとして。容体が悪化するようなこともないだろうと判断を下す。


再び閻魔殿にとんぼ返りして、たどり着いた夜更けの医務室は、予想の通りの無人状態だ。
何かの気配も音もしないけれど、薬の匂いだけは日中から充満し続けている。

診療椅子に座らせてから、私は棚から手当に必要な一式を探して取り出す。
傍目には何に使うか分からないような治療器具や薬瓶が、整理もされずに散乱していた。
この部屋の主の性格が伺えるようだった。


「鬼灯くん、前に私のことからかったよね」
「突然なんですか。というか、何…いつのことですか」

からかったりした事など、付き合いが長ければ星の数ほどある。
話しながら、ひざ掛けをかけ着物を緩め、患部のある腹を露出させるよう促す。
そうして見えて来たのは、やはりすり傷でもなく切り傷でもなく、間違いなく深い刺し傷だった。

「色々言って、私のこと怒らせたりして…」
「それは、からかいじゃないですね」
「じゃあ何だろう、意地悪って言ったらいいのかな」
「そういう話でもないと思いますが」

何の事を指しているのか、この子が言いたいことに思い当りました。けれど、その予想は全然検討外れだと、否定するように首を横に振る。

「こっちが気にする言葉を選んでたって。あれ、わざとやってたんだって言ってたよね」
「そうですね、そんなこともありました」
「じゃあもしかして、この前の…最近…のこともそうなのかな?って思うようになった。責められてるのかなって、それまではずっと考えてたんだけど」

ついこの間のことなのに、あやふやな言い方をするのを見て、おそらく神隠しされていた時同様、ズレが生じているのだと悟る。
そうでなければ、頭でも打って記憶が混濁したのだろう。たかが25日の間に時系列があやふやになるなんて、普通ではない。
ベッタリと濡れた患部の血を拭って、消毒と止血を施す。


「じゃあ、今度は何を探してるのかな。何を言ってほしいんだろう」


やはり全部お見通しのようでした。
ハッキリと事情を知らされている訳ではないのに、根本的なことを察知するのがとても上手です。清潔にして、薬を塗布する。
あまり痛がる様子がなかったのは、痛覚が麻痺したせいか、それとも見た目に反して怪我の程度が軽かったのか。
視線を手元に落としながら、なんと答えるべきかを考える。


「…それは」


──あなたに望まれたかった。
一言で言うならそうでした。
私はこの子がほしくって、そしてこの子にも自分をほしがってもらいたい。
そうしなければ、私の理想は成り立たないと思っている。
私の執着に匹敵するだけの、同等の執着を抱いてほしい。

それを口にするのは気恥ずかしいどころの話ではなかった。子供のじたばたよりも尚性質が悪い、幼い願望でしかない。
けれど母のように包容されたかったのではないし、ただ誰かに傍にいてほしいのでもない。
触れることに嫌悪を覚えているというのに、ひと肌恋しく寂しいだなんて、そんな理由であるはずもない。

それでも望まれたかった。情がほしかった。どんな種類でもいいから強固なもの。
離れられないくらいのものを。
手段を選ばなけば、傍に留めるということは、案外容易いことだった。選り好みしてしまったからこそ、こんなに苦心しているのです。
しかしそれを言えるはずもない。

内心を告白して、それで要求を呑んでくれるなら、喜んで暴露しましょう。
きっとこの子はやはりそうなれるように努めてくれるでしょう。なし崩しに折れてくれるでしょう。
でも、それでは駄目です。それでは許せない、それでは生ぬるい。
それはいつか解けてしまうものであるというなら、やはり自発的にそう成ってくれるのを待つしかないのです。


「…好きになってほしいんだよね。全部、そうだったんだよね」

紆余曲折所ではない捻じれた過程を踏んで、ある程度話していた事だ。大まかな所は既に分かってはいるようです。
手当の段階を全て終えると、気持ち悪そうな顔をしながら血濡れの着物を着直していた。
寮の自室に帰らないと、着替える服はない。
適当に帯を締めると一息ついて、じっと再びこちらを見上げられる。その瞳に、全て見透かされているような心地がした。

「…やっぱり私は、なし崩しなんかじゃない、傍にいたいからいるだけだって、同じことしか言えない」
「…」


それは以前と変わらない、漠然とした、この子の直感から来る言葉です。


「…でもね、」


──しかし、そこに新たに加わる言葉がありました。


「ちゃんと好きみたい」

みたい、なんて曖昧な言葉を放つ割には、その姿は毅然としている。確信を持った揺るがない響きでした。


「…あのね、私のこの傷、刺されたとかじゃなくて…自分で刺したの」
「…は?」

それは、予想しない事だった。刺し傷だとは見てとれていたけど、まさか自傷行為だなんて思うはずがない。
不慮の事故か、何か悪意に晒された結果だろうと自然と考えていた。
そんなことは、この子に出来るはずがなかった事なのだから。

「説明するの難しいんだけど…自分で死ななきゃ、もう会えなくなるんだろうなぁって思って。だから、刺したの」
「…」


──生きたいと渇望するこの子が、そんな自棄にも似た果敢さを持てるはずがない。
そもそもが荒事に向いていない。破壊衝動など持っていないのです。
殺されたって人を恨めない。
刹那的な思考に追いやられることはなく、いかに切迫した状況でも、目の前の事を淡々といなしてきました。
自暴自棄になど、なることは無かった。…必要に迫られていたとして。


「何十年もかかったけど、大人になるくらいかかったけど、みんなにまた会いたかったから。…一番会いたいと思ったのは、鬼灯くんだったんだよ」


昔から、些細なことで泣きも笑いもする子だった。
けれど、こんなにも無表情に泣く姿は見たことがない。いつの間に頬を伝った涙は、ぽたりと落ちて、この子の着物を汚しました。

「なし崩しじゃない。なんとなくじゃない。ちゃんと私の意志だった。たぶん、会いたくて、死んじゃえるほど好きなんだよ。…それが家族愛でも、恋でもなんでも。もう、それじゃ駄目かな」


語気が強くなり、少し言葉に熱がこもる。縋るように見上げて熱弁する。


「私は私のこと意気地なしだって思う。もっと早くどうにか出来てばよかったのにって。…でも、鬼灯くんには勇気ある行動だったって、褒めてほしい」


とんでもなく身勝手な事を言う。わがままで矛盾している所も、相変わらず変わらないままだ。


「私が居たくて傍にいるんだって…好きでここにいるんだって、認めてよ」


私が頷かなければきっと、この子の勇気も自棄も決意も、全て報われることはないのでしょう。そんな事は、こんな風に言われなくとも。


「……認めます」


それは、願ったり叶ったりのことでした。
どこか悲痛なこの子の訴えは、自棄にも似ていた。けれど、勢いでも嘘偽りでもなく、正しくこの子が望んだ事には代わりはない。
種類はなんでもいい。この子が強く心から望んだことならばどんなものだって。
"生"に直結した、今回の出来事から浮かび出てきた衝動。上出来すぎるくらいの代物でした。
その姿を見て、憐れだと思った。血にも塗れて、痛みも抱えて、けれど温情など与えてやるものか。
経緯など知りません、どこにどうやって消えてしまったのかもわかりません。
けれど。

──私はこの手で、この子を掴みとれた事を知る。
地道にまいてきた種が、時間をかけて芽吹き、花咲き、実を結んだことを知る。

私の意志です。私の行動がもたらした結果です。私が責めたて続けたから、この子もはこういう形で叫びをあげたのです。
私が責め立てなければ、何喰わぬ顔で帰るだけだったでしょう。いや、この様子だと、帰ってきたのかどうかも分からない。
大昔から、私が"焦った顔"とやらをしてしなければ、"ほしい"という言葉にも真実味が帯びなかったことでしょう。
こうして、認めてほしいと求めようとも思わなかったはず。
積み上げた全てが今、報われたと理解しました。

優しくしてあげてと、お香さんや閻魔大王が望んだ通り。
頷いた今の私はきっと寛容で、優しくて、この子にとって喜ばしい事だったでしょう。
──悪魔みたい、と言ったリリスさんの言葉が脳裏に過る。
それを否定するように一度瞼を瞑った。

これは私の意志。あれもあの子の意志。
お互いが望み合っているなら、もうそれでいいじゃありませんか。
優しいとか厳しいとか、冷たいとかどうとか。そんなに構うことでしょうか。
この子が何か決意するのに10年かけようと、20年かけようと。私には何も関係ないこと。
この子が最期にたどり着く場所はここでした。傍にという約束は形だけのものではなく、心からの望むものにきっと今、漸く成れた。
この子の自棄も衝動も、私の渇望も怨恨も実を結んだのです。


「認めますよ」


──私は意図的に、触れることも嫌悪するような、大嫌いな彼女の肌に手を滑らせました。
片手は頬に、片手は手に。罪人を許すように、子供を褒めるように優しく穏やかに。
嫌悪も不快も、いつものように押し殺して。

──望んだ通りに手に入って、心から安堵する。多幸感や充実感とは、きっとこういう感覚の事を指して言うのでしょう。
そういう清々しさとは裏腹に、刺々しくしてやったりな気分でもありました。
ざまあみろと言いたくなる時がある。何に舌を出してやりたいのか、何も分からないままに。

2019.8.4