第四十四話
3.慰め夜空の下
痛い、痛い、痛い。熱い、苦しい。
でも一番痛いのは心臓だ。心臓が痛いのは、多分心がギシギシと軋んでいるからだ。
嫌な気持ちになった時、締め付けられるのはいつもその辺り。
息も絶え絶えで身体が悲鳴を上げてる上、私の心には今重たい負荷がかかっている。
だからこんなにも苦しいのだ。
ぽたりと米神を伝った汗は、きっと肉体的疲労から来るものだった。けれど、心が上げた悲鳴に応じて流れたようにも感じられた。


「きれ、い」
と、一言。
ぽつりと、私の口からは心にもない、掠れた声が漏れ出ていた。
天を見あげた私の瞳には、きっと星の海が映りこんでいる。
出た言葉とは裏腹に、世界の絶景ベスト3にだって入れそうなこの情景が、私には美しいと思えなかった。

好ましいと思うヒトと食べる食事は、一人で食べるよりも、何倍も美味しく感じるというのは本当だ。立証されてる。
それと同じように、綺麗な景色を綺麗と思うためには、少なくとも私は誰かと一緒じゃなければならなかったようで。
あの星は遠い彼方で輝いているのだろう、それは事実として認めよう。
けれど、アレがうつくしく"煌めいて"るとは感じられなかったし、写真に残しておきたいほど惜しいものだと今の私には思えない。



──なんでなの。



「なんで私だったの、なんで奪うの、なんで死ぬの、なんで生きるの苦しいの、」

見あげていた視線を下げれば、自分の腹から滲む生暖かい血が、地面に広がるのが暗闇でもわかった。
土に座れて赤黒く変色したソレが、私が自死を選んだ事が夢ではなかったと証明してくれている。
私が追い立てられ、とうとう孤独に死んでいく事を選んだのは、嘘ではなかった。
──私はきっと、あの時本当に一度死んだのだ。
「あはは、」と涙とともに笑いが零れてきた。なんてひどい皮肉だろうと、思わずにいられない。
生きたい、死にたくないと鬼灯くんと問答を続けて、私は交わした約束にズルズルと縋り続けた。
その末に待っていたのがこれで…因果応報というべきか。
優柔不断だった私に下された罰なのかとすら思う。


「なんでいきるの」

あの世の鬼だ。正確には生きてはいないのだと何度正されようが、私は生と死という概念を自分から切り離す事ができないままだった。
人間の身体から、今再び鬼女の苗字名前の身体に戻っていて、尚更その問答を続ける事に意味はなくなったというのに。
私はまた死に恐怖して泣いている。

──こんなに苦しいならばいっそ、私がしがみつくより前に…いっそのこと"初め"から存在しなければよかった。
産まれ、自我が芽生え、が生死の理想を抱くより前に。生きる死ぬも関係ないよな、無の世界でいつまでも揺蕩っていたかった。
そんな夢みたいなことでも考えなければ、この虚しさを逃せない。
私にとっての一番の夢物語は、きっとこんな物なのだ。とても不毛で、果てもない、現実味もないもしも話。
特別な子と呼ばれ続けた私が思い描く理想の世界は、こんなにも夢も希望もない物だった。



──草原の上から上半身を起こした。鬼の身体は頑丈で、治癒力も高い。
腹部は未だ刺し傷が残っているというのに、その割には元気だ。
血の匂いと草の匂いがむわりと混じり入る。
長い髪がぱらりと垂直に落ちるのが横目に見えた。
血で濡れた髪はがちりと固まっている。
短いくせ毛とは違う綺麗な直毛だ。
角の生えた鬼の身体に戻ってるという摩訶不思議な現状を驚きもせず、気が付けば当たり前のように甘受していた。
半ば予想していた事だったとはいえ、順応力が我ながら高いなと思った。
…戻ってるというべきか、変わってしまったというべきか。それも悩み所だ。
平凡な出で立ちの人間の身体から、平凡な風貌の鬼の身体に瞬きの間に入れ替わったのだ。

なぜ?どうして?と考えても、やはり応えはでない。けれど、最初の頃と違って判断材料は格段に増えていた。
──私が特別な子だからだ。夢の中にいるような暮らしを送っているからだ。
また夢のような境遇に落されたのだ。理屈はそこにはなくて、その言葉だけで全てが済まされた。
それに納得してしまう自分がいる。自惚れでもなく腑に落ちてしまう自分がいる。
血で汚れた拳を胸元で握ると、願いに生かされてると言った男神の言葉が脳裏に過った。
私はいつだって自力で生きることは叶わず、綱渡りのように何かに生かされ続けているのだ。
何かに後押しされるように舞い戻ってきて、また特別に生きろというのだろう。
それは今度こそ私自身が心から願った通りのことで、幸せなことで、だけど酷く虚しい事だ。

ぐっと身体に力を込めると、患部から新たに血が滲んで止まらなくなる。
おそらく人間の身では致命傷だっただろうに、ただ痛い苦しいと感じるだけで今は済まされている。
自分はあの時本当に死ぬつもりだったのだ。致命傷レベルの損傷を負ってなければ、逆におかしい。
──だから戻ってこれたんだ。
──私は自分の意志で戻ってこれたんだ。
──今の私は生かされてるんじゃない。
──私は自分の望み通りに今、生きてる。

例え決意するのに何十年かかったとしても、瀬戸際で決断を迫られていたんだとしても、あんな行動がとれた。
あんなに怖かったのに。あんなに震えていたのに。私、すごく偉い。とても立派じゃないだろうか。

おぼつかない足取りで山を下りはじめる。舗装されていないけもの道は足元が悪い上、
足には力が上手く入らず、何度も転んだ。その度何度も起きあがった。
意識はどこか朦朧としていて、このまま土の上でも構わず眠ってしまいたいと思ったけど、それでも一生懸命進んでどこかへ帰ろうとしている。

ぱきり。茂みを掻き分ける音と枝が折れる音が、その時同時に木霊した。
音の方へと視線を向けると。

「…!」


そこにあったのは物凄く懐かしい姿で、それが急に視界に飛びこんできたことに驚いた。
見間違えるはずがない、あれは鬼灯くんだ。
彼の黒髪黒目、黒い着物は闇に融けこみ切らず、私の目はその姿をはっきりと捉えていた。
夜と山と鬼灯くんと私という組み合わせには、既視感がありすぎた。

そこでふと、「ああ、ここ、前に夜空を眺めたあの山かぁ」と今更気付いた。
二人で流星群を見あげたあの土地だ。
鬼灯くんはなんでここに?
私がここに降ってくると予感していて、それに加えてベストタイミングで迎えにもきてくれた?そうだとしたら凄いなぁ、なんてぼんやりとした感想を抱いて彼を見ていた。
連絡なんて当然していない。そもそも私は今までどこで何をしていたのかわからない。
■■■■は心中…自殺してきたけど、という鬼女は、今まで何していた事になっているんだろう。
階段から脚を踏み外したら、人間の姿に戻っていたことは覚えている。
一度目の■■■■として目が覚めたのだ。
そしてまたという鬼女の姿に舞い戻り…
それで、なんでここにいるんだろう。やっぱり分からない。
こういう時、目覚めたら医務室で、白い天上を眺めていた…って方が自然だと思うけど。
動く度にずきんと患部が痛むけれど、立っていられない程ではない。
茂みを掻き分けた鬼灯くんの着物には葉がついていて、それをはらってやりながら訪ねた。

「…あの、あれから何日経った?」

もっということがあったはずなのに、朦朧とした頭では相応しい言葉を捻りだすことが出来なかった。
階段を踏み外したのは朝方で、今は夜更け。
もしかしなくても、件の神隠しの時のように、私は消えていたのではないかと思い至った。
鬼灯くんは痛々しそうに眉を顰めていたけど、すぐに見覚えのある呆れ顔へと変えて、「25日です」と短く告げた。私のお節介をやく手を掴んで止めさせながら、淡々と先を続ける。

「それじゃーなんで、私ここに…」
「なんではこっちのセリフです」


うんと頷いた。それはそうだろうと思う。
また鬼灯くんと会ったなら、「どうだ、偉いでしょう」と胸を張ってみせるつもりだったのに、自然と背中は丸まって俯いてしまった。
人間の感覚でいうと25日…いや25年というと相当な年月で、感動の再会の場面なんだろうけど、あの世的に言うと相当短くてなんでもない日数。
仕事してたらいつの間にか過ぎ去って、いつの間にか帰ってきたくらいの気持なんだろうなあ。
時間にズレが生じるのは神隠しのアレコレで慣れているので、動揺することもなかった。
云千年も一緒にいる相手だと、25年のブランクなんて感じずいつも通りに話せたし。

けれど内心は不安でいっぱいだ。
「偉いでしょ、褒めてくれ」なんて言葉は、ただの虚勢だ。威張れるはずがない。強がりもできない。後ろめたくて仕方ない。
悲しくて虚しくて、ただ苦しい。
焦がれた人との再会には歓喜も感動もなくて、予想に反してただ胸が締め付けられて痛いだけだった。

それでも。
締め付けられて痛い以外に何の感慨もない…なんて、それこそが虚勢だったようだった。
どこか未だに夢現の頭が、心さえもぼんやり麻痺させていただけのようで。


「ごめんなさい」


深層にあり続けた罪悪感が、私の口から零れ出てきていた。
虫の音が耳に痛いほどに響き渡る山の腹の中、私は街灯に阻害されない純粋な夜空の下で、どろりとした懺悔を零していた。
血に濡れたのは何も腹だけではない。いつの間にか顔にも手にも、鮮血はこびりついていた。


「鬼灯くん、わたし大人になっちゃった」

唇には随分前から血が付着していたらしくて、喉を震わせ口を開くと、乾いた音を立てる。
へらりと笑った瞬間に、悲壮感のない自然な涙が私の右目から零れ伝っていた。


「もー大人になっちゃったよ」
「…」
「10年も20年も悩んで生きてみなかったら、決断できなかった」
「……」


何を言ってるのか訳がわからない、と言った様子を隠さない鬼灯くんは、無言で私を見おろしている。私はその困惑をわかっていながら、それでも謝った。


「ごめんなさい」


折り返し近くに立って、こわくなるまで死ねなかった。焦燥感がなければ会いにこれなかった。生きるよりも死ぬこと取れなかった。やっと会えるんだって笑顔で死ぬことも出来なかった。
存在すら疑って呪詛のように恨み言を叫んでいた。
謝ったって何にもならない、だというのに、必ず口をついて出る言葉がはいつも懺悔なのだ。

「…話は、貴女が手当を受けてからです。いつまでもここで長話する訳にもいきませんから。降りましょう」
「うん」


促されて素直に頷いた。
私もこんな所にとどまりたい訳ではないし、あえて拒絶する理由もない。
舗装もされていない夜山を怖がらずにいられるのは、一重に街灯もない不便な時代を生き抜いてきた経験があるからと、大抵の事は冷静に対処できてしまう鬼灯くんが隣にいるからだった。

歩こうとして、不意にふらついた身体を支えようとしてくれたらしい。
横から伸びてきた手を拒むことなく私は受け取った。私の腕を掴んだ彼の手から、ひんやりとした冷たさを感じて眉を寄せる。
氷のように…とまではいかないけど体温が低く冷えている。


「…冷たい」
「それは、そうでしょう」
「なんで?寒いの?…今何月だっけ…」
「寒くも暑くもないですよ」
「だよね…鬼灯君、そんなに冷え性だったっけ」
「さあ」

今現在の気温なんて分からないけれど、私の体感的には高くも低くもない。

暑がりでも寒がりでもなく、低体温でも高体温でもない、彼は至って普通の身体をしていたと思っていた。だからこそ冷えた手先を変に思って尋ねると…
なんだか心当たりはある風なのに、はぐらかされてしまった。
言いたくないことをわざわざ暴き立てるような趣味もない。不調だからそうなっている訳ではないなら大丈夫だろうと、見ないふりで流す事にした。
それでも気になって、ちらりと隣にいるひとを見上げる。
支えられながら一歩、二歩と、昔懐かしい、不安定な足場を着実に踏みしめて行く。

「…なんですか」
「…べつに」
「なんでもないのに、じろじろ見ますか」
「普通は見ないね」


なんだか仕草も表情もぎこちない気がする。そう思ってじろじろ不躾に眺めていたのだった。
勘違いだったなら、睨まれ損だ。不機嫌に細めれた彼の目から視線をそらし、溜息をついて、重たい足をまた動かした。
暫くして、木々の隙間から人の灯した灯りがちらほらと見えてくる頃になっても、鬼灯くんの冷たい手は暖まらないままだった。


2019.8.3