第四十二話
2.生と死─理不尽な死
──理不尽に死ぬより好きな時に死にたいでしょ。
そう言った彼女の言葉を、今でもふと思い出すことがある。
酔っ払ったあの時のように、自棄になっているような様子は久しく見ていない。
暗い影を落した彼女のあの面差しは、すっかり満たされたものに変わっている。ふわふわと幸せそうな、穏やかな日々をつみ重ねていた。
友人が嘆き悲しんでいる事に心痛めることは出来なかった。けれどその代わり、幸せになれたことを心から祝福する事が出来た。
私はそれがとても嬉しかったし、彼女も私からの祝福を喜んで受け取ってくれた。
「ねえ、次はだね」
と、彼女は笑ったけど。私はそれを素直に受け取り頷く事なく、曖昧に笑って濁した。
私には出来っこないよとも言わなかったし、幸せになれたらいいなぁとも言わなかった。どちらにも思えなかった。
私がこれから辿る道は0か100かみたいな極端な二つしかなくて、それに幸も不幸もありやしないのだ。
そんな私はと言えば、現在過不足なく、相変わらず平坦な人生を生きていた。…表面はの話だけれど。
内面は焦燥感でいっぱいになっている。
前世の記憶がある事で、どこか冷めてしまったと嘆いた彼女と一緒だ。
私も自分の中のどこかが変質してきていると感じていた。
──それが何なのかは、分からない。
長生きは出来ないと言われ続けてきた私の人生のタイムリミットは、もう近いように思う。
長くも短くもなく、中くらいの人生が約束されてる体だ。もうそろそろ限界が来るのだろう。
人が百まで生きるような時代に生まれた私だけど、折り返し地点までの保障さえされていない。
健康体でも、事故か、急病か、色んなことが原因である日突然いなくなってしまうかもしれない。
誰もかれも天寿を全うできるかどうか、約束されてないというのは百も承知で、
それでも私は自分が持っているギリギリまで命を使って燃え尽きてしまいたかった。
死への理想が高すぎる。今でこそそれを自覚しているけど、それでも傲慢になることを止められない。
今のところ、生まれもっていた持病以外は大きな病気をすることなく、危ない事故もあの一度きりで、人間関係でのトラブルも起きてはいない。
私は安寧に生きている。
…全部、"今のところは"の話だった。先のことがどうなるかはわからない。
なので、
「死んでよ」
──こうやって首を絞められることもあるだろうなあと、突然の出来事をストンと受け止めていた。
しかし、それに抵抗するしないというのは別の話で、私は勿論当然のように逃れようと暴れた。
ギリギリと音を立てる勢いで、私の胴体に跨った女性が私の首を締めている。
器官がせき止められて苦しくて、喘ぐ声も吐息さえも漏れなかった。
虚ろな人形ではないのだ。頭で考えるよりも早く、半ば反射にも近い形で身体はジタバタと生きようともがいていた。
「やめてっ!」
一直線に首に伸びていた手をなんとか振り払い、肩を押すと、その人は背中を食器棚に打ち付けた。
あまり物の多くない、独り暮らしの閑散とした一室が、異質に変わった。
棚からは皿が零れ落ちて、床にぶつかり割れた。
散らばった白い破片をこれ幸いとばかりに掴むと、その人は私に再び向かってきて、破片を刃に変えてそれを付きつけて来る。
咄嗟に盾にするものを探したけれど、ソファーの上にある小さな文庫本くらいしか手の届く距離にない。盾にするにはあまりに心もとない。
「ムカつくのよ!腹が立つのよ!もらえて当然みたいな顔してないでよ!」
──彼女は激情した。咆哮した。慟哭と言ってもよかった。
腹の底から湧き上がった感情の矛先は、間違いなく私に向かっている。
休日出勤もなく、のんびりと過ごしていた、休日の朝の事だった。
その人が突然飛び込んできたのは、空は白んで、ようやく朝日が昇ってくるか来ないかくらいの時間帯だった。
独り暮らしの部屋には当然鍵はかけられていたはずで、どうやってそれを解いて侵入してきたのか。
そもそもオートロックをどうやって破ってきたのだろうか、それも分からない。
徹夜してるか、よほど早起きでなければ普通寝ている時間帯だ。
起床していた私がソファーでのんびり読書をしていたなんて、彼女にとっては想定外のことだったはずだ。
それでも彼女の行動に躊躇はなかった。
黒く長い髪を振り乱して迫ってくる鬼神迫るその姿、その悲痛な叫びに、私は既視感を抱いていた。
クッションを抱き締め腹を守り、負けじと叫びを上げる。いつまでも呆けていては、死んでしまうだろうと考えなくてもわかる。
「当然だったものなんて何もない!」
「うそつき!うそつき!嘘つくな!!」
避けると、ガンと壁にぶつかって粉々にくだけた。もう一度刃に変えられそうな破片を足元から拾い直して、彼女は大きく振りかぶる。
そこに躊躇いは微塵もなくて、よほど強い殺意の衝動に駆られているのだと知る。
「家族も友達も職場も才能もいいもの全部揃えて、それ以上何がほしいのよ!?もうやめて!もう何も奪わないでよ!!」
今度こそ仕留めようとして、大きく念入りに頭上に振りかぶられた一撃。
その分、私の体に届くまでに多少の時間がかかる。
私はそれを避けることが出来たけど、いっその事受けてしまおうかとも一瞬思った。
そうすれば私は死ねるのだろう。だって、彼女はきっと私を殺さなきゃ気が済まない。
この一刺しで死ねなくても、またその次を振りかざしてくれる。
そうすれば、きっとあの世に行けるのだろうと、死の魅力に誘惑された。
「…ッ」
この暴力的な誘惑に乗り死するのは、果たして不可抗力という事になるだろうか。それとも私の意志だという事になるだろうか。
──あの時、事故にあったのは不可抗力だった。仕方なく死んだから、仕方なく向こうに逝けた。
仕方なく死んでみたら、向こうでの暮らしはたまたまとても幸福なものだったのだ。
向こうから迎えに来てくれることなんておそらくない。
今ここで死んだとしても、亡者として裁判を受けて転生するか天国に行くか地獄に堕ちるかそれだけで、彼らと過ごすことは出来なくなるだろうなあ。
死んで目覚めたら女鬼の姿に戻ってるなんて都合のいいことは起こらないと思う。
意志を示せ、行動しろ、浅くなどないんだと知らしめろと、いつかどこかの男神が要求してきたように。
流されるように受け身のままではきっと私の理想通りにはならなくて──
けれど逆に考えれば、動けば再び奇跡は起こせるかもしれないということで。
たまたま幸福になるんじゃない、今度は望んで幸福にならなければならない。
私は誘惑を振り払い、流されないよう意志を強めた。
呆然としていた表情は打ってかわり、目的を持った私の眼光はきっと鋭くなっただろう。
「やめて!」
成すがままに逃げまどっていた私の豹変に、少しだけその人は怯んだ。
けれど相手も遊びでやっているのではない。すぐに構えを取り直した。
生きるか死ぬか。殺すか殺せないかの、お互い必死の二極を迫られているのだ。
──その瞬間縁起でもなく、走馬灯のように脳裏に過ったのは、あの言葉だった。
「理不尽に死ぬより、好きな時に死ぬことを選びたいと思わない?」
その言葉が脳裏から消え去るより前に、彼女の手から破片を奪い取る。
驚いた彼女の不意をついて、無防備だった体を足で蹴り飛ばすと、背中からフローリングに転がった。
破片を手に握り直して確かめる。ああこれじゃ駄目だ。こんな程度の刃じゃ、きっと私は"死ねない"。
部屋を見渡してみたけど、凶器といえるような代物は見当たらなかった。
怖くてこの二十年間、一人暮らしの部屋の台所で包丁を握ったことがない。
けれど備え付けの棚の中には、丁重に和紙に包まれた新品の包丁があった。一度も開けたことがない箱の上から固く固く紐で結ばれていて、少なくともこれは寝惚け眼では簡単にはほどけないだろう。
私は素早く戸を開いて、それを取りだし抱えて玄関から外に飛び出した。
通路を走り出した私の背中は、彼女から見れば必死に逃げる情けないものだったはずだ。
まさか死に場所を、死ぬ手段を探す背中だなんて思うはずもない。
視界の端を流れる景色はいつの間にか住宅街を抜け出て、近所の森林公園を突っ切っていた。
朝方のこの場所は閑散としていて、緑だけが茂り、風に揺られ賑やかに揺れている。
「…っはぁ」
普段運動しないツケなのか、ちょっと走っただけで肺が痛くなって、必死に酸素を取り込んだ。
部屋に取り残してきた彼女の形相が、悲痛な声が、脳裏に耳に焼き付いて消えてくれない。
奪わないでと叫んだあの彼女には好きな人がいた。その好きな人…私の同僚の彼は、どうやら私に好意を寄せてくれているようだった。
当人から直接その想いを聞かされていないものの、私も又聞きしていた。
もかしたら、ただの根も葉もない噂なのかもしれない。
けれど彼女はそれを信じ、好きな人を奪われたくなくて衝動にかられ、私は命を奪われたくなくて恐怖で必死に逃げている。
──奪われそうになった途端に、今心から死にたくてたまらなくなった。
私は今、死に場所を探しているのだ。
きっと地の果てまで追いかけてくるだろう彼女に殺されないために。自分の意志で死ねるように。
現金なやつだなあと心から思う。結局必要に迫られでもしなければ、何をすることも出来なかったのだ。
「はぁっはあ」
息切れのせいか、嗚咽なのか分からない苦しげな呻きが漏れた。
酔いが回った彼女の言うことは本当だった。なんて的確なんだろう。
こんな土壇場で長生きがしたいなんて高い理想を語ることなど出来ない。
だったら理不尽に殺されたくはない。好きなように死んでしまいたい!会いにいきたい!
寝惚け眼で死のうとしたことがあった。しっかりとした意識のままでは弱虫の私は死ねなかった。
恐怖でいっぱいになった今の私は正常ではなくて、異常な私は死に向かう事が出来る。
──そうだ、会いにいけるのだ。
やっとかと恐怖するのと共に安堵もする。あの世的に数えれば大したものではない時間を、人間的に数えると長い時間が過ぎ去っていた。
──それって本当に?死の先で彼らが待ってるって、本当?
もしかしたら全部うそで、もしかしたら全部幻。事故にあって死にかけた私がみた夢みたいなもの。云千年分の出来事は脳みそが作り出したデタラメの全部継ぎはぎだ。
「こわい」と、自然と呟きが漏れ出していた。体の表面を流れる風音に、乱れた足音に、かき消される程小さな弱音だった。
靴も履いていない裸足は泥濘を踏みつけて、泥の飛沫が舞った。
足は膝まで汚れて、服から露出した肌は、汗と切り傷だらけだ。
信じられる訳がない。本当だって言えるはずがない。
確信出来ていたなら、怖くても、既に飛び込めていたかもしれない。
死ぬのは怖いし一人は寂しい。もしも苦しんでのた打ち回って死んで、その先に誰もいなかったら?何もなかったなら?いったい私はどうしたらいい。
哀しい寂しい虚しい、それだけじゃ済まされない。絶望するだけで終われるはずがない!
共に死んでくれるヒトがいるはずがない。
昔、一緒に死のうと持ちかけてきた彼女の提案に乗ったとしても、行き着く先が…逝きたい場所が違ったはずだ。
私も彼女も、最期に辿り着く場所まで誰かと寄り添っていたかった。けれど、終着する所が彼女と私では違う。
幸福に満ち足りた彼女はもう二度と死にたいなんて思わないだろう。
待っていても何にもならないなら、自分で行動して結果を産み出さなければならない。
特別だろうと愛されていようと、私が死ななければいつだって何も始まらなかった!
幻に縋っているだけだったとしても、今会いたいと恋焦がれ苦しんでいるのは錯覚なんかじゃない。
なら、
「死にたい…ッ」
もうこれ以上生きたい死にたいと苦しみ続けるのは嫌。
苦しくてたまらないからこの葛藤から逃げたい。
早く楽になりたい。会いたい。救われたい。安心したい。守られたい許されたい。早く死んでここから消えてしまいたい!
木枝がピッと引っかかり頬を切って、血を流した。
泥に汚れた足元から顔を上げると、見あげたそこには綺麗な朝焼けがあった。
走って走ってどこまでも。この身体が逃げて、最後に行き着く先がどこなのか。
この公園は突っ切ると近道にもなる。重宝されていた。敷地が広く緑深かったから、付近住人のいい散歩コースにもなっている。
奥の奥まで探検に向かった事は、一度もない。我武者羅に走って、辿り着くのがどんな場所なのか、私にも分からない。
こんなに脆い人間の身とも漸くおさらばできる。
…はずだ。そうであるはずだ。そうでなければならないのだ。
太陽の登り切らない今、私の体には藍色交じりの影が落とされている。
黄昏時にも似た、どこか不明瞭な空間に私はいた。
景色の果てが見えないのだ。自分がもがくように伸ばした手の先さえも視認できないのは、意識が朦朧としているせいだろうか。
肺が痛くて、喉も痛くて、頭も痛くて、足も震えてる。
けれど目に映った空だけは、鮮明に捉えられた。
いつだって私が死ぬのは朝焼けの下でだ。夜空の下で笑いながら幸せに死ねたのはたった一度きりで、多分もう二度目はないだろう。
奇跡が、幸運がほしいなら。理想通りになりなたいなら、それを望むなら。
「しのう、死のう…ッしんでやる!会いに行ける!絶対に!」
張り上げた喉が痛みを訴えて、荒々しく咳き込んだ。
潰れてしまってももう良いと、痛みに構わず私は叫び続けた。
「だって私は特別なんだから!」
みんな揃って無責任にそんなこと言うのだ。
私はその言葉に強く後押しされて今死のうとしている。自己責任という言葉を念頭に置いて動いても、もしも嘘だったとしたなら、その恨むで済ませられるかわからない。
その時に恨む身体や自我がある状態なら、まだいい方なのかもしれないけど。
信じたこの先、想像に裏切られたらならどうしよう。とても怖い。
この行動をとることが正解だったかなんてわからないけど、少なくとも間違いだった時、
高らかに宣言した私自身を恨むだろう。
これを言わなければきっとここまで虚しくなることも、後悔することもなかっただろうにと。
自分を鼓舞するために必要だったとは言え、きっととても辛い。
高らかに叫んでも尚、不安感に胸が苛まれて辛いままだ。
私の足は、ある一点でついに立ち止まった。
赤い紐と紺の箱と白い和紙が、泥濘の上に投げ捨てられて染みを作って行く。
宛もなく逃げて走って死に場所を探して、今自分がどこまで走ってきたのかもわからない。
霧が立ち込めたように、周囲一面の景色が見えなくなっていた。
「う…っうぅ…あぁ…」
なんで泣いてるのか、我ながら理由が分からなくなるくらい、胸の中は混沌としている。
恐怖か、期待か、解放感からか、絶望か、入り混じりすぎて何故とは言い切れなかった。
やっぱり、一番は怖いからだろうと思うけど。
殺されかけるというのも恐怖体験だし、逃げ出した先でこんなことをしようとしているなんて、普通ではない。
生きていたいと散々もがいて来た私が、自死を選ぶなんて、こんなに酷い皮肉はない。
これが散々特別、特別と言われ続けた私の末路だ。平坦な道のりでも、"特別"幸福な人生でもなんでもなかった。欲しいものはいつだって、当然のように手に入ったことはなかったのに。
それは彼女だって誰だって一緒だったんじゃないだろうか。昔地獄で同じような事を私に言った、あの黒髪の彼女だって。
ぐ、っと冷たい物が腹に当たる。震える手では上手く力が入らず、もう一度腕に力をこめ直すと、少しずつ内臓が圧迫されていくような感覚を覚える。肉に埋もれていく銀の色。
見ていたくはない光景だったのに、瞼を閉じることは許されなかった。
私は大きく強く、何度も振りかぶる。
──私の身体を、冷たいものが貫いた瞬間を見た。鮮血が泥に滴り落ちる情景を見た。
と、同時にぐらりと身体が下へ、下へと落ちて行く。
恐ろしくて寂しくてたまらなくて、その現実から逃れるように、今度こそゆっくりと瞼を閉じた。
2.生と死─理不尽な死
──理不尽に死ぬより好きな時に死にたいでしょ。
そう言った彼女の言葉を、今でもふと思い出すことがある。
酔っ払ったあの時のように、自棄になっているような様子は久しく見ていない。
暗い影を落した彼女のあの面差しは、すっかり満たされたものに変わっている。ふわふわと幸せそうな、穏やかな日々をつみ重ねていた。
友人が嘆き悲しんでいる事に心痛めることは出来なかった。けれどその代わり、幸せになれたことを心から祝福する事が出来た。
私はそれがとても嬉しかったし、彼女も私からの祝福を喜んで受け取ってくれた。
「ねえ、次はだね」
と、彼女は笑ったけど。私はそれを素直に受け取り頷く事なく、曖昧に笑って濁した。
私には出来っこないよとも言わなかったし、幸せになれたらいいなぁとも言わなかった。どちらにも思えなかった。
私がこれから辿る道は0か100かみたいな極端な二つしかなくて、それに幸も不幸もありやしないのだ。
そんな私はと言えば、現在過不足なく、相変わらず平坦な人生を生きていた。…表面はの話だけれど。
内面は焦燥感でいっぱいになっている。
前世の記憶がある事で、どこか冷めてしまったと嘆いた彼女と一緒だ。
私も自分の中のどこかが変質してきていると感じていた。
──それが何なのかは、分からない。
長生きは出来ないと言われ続けてきた私の人生のタイムリミットは、もう近いように思う。
長くも短くもなく、中くらいの人生が約束されてる体だ。もうそろそろ限界が来るのだろう。
人が百まで生きるような時代に生まれた私だけど、折り返し地点までの保障さえされていない。
健康体でも、事故か、急病か、色んなことが原因である日突然いなくなってしまうかもしれない。
誰もかれも天寿を全うできるかどうか、約束されてないというのは百も承知で、
それでも私は自分が持っているギリギリまで命を使って燃え尽きてしまいたかった。
死への理想が高すぎる。今でこそそれを自覚しているけど、それでも傲慢になることを止められない。
今のところ、生まれもっていた持病以外は大きな病気をすることなく、危ない事故もあの一度きりで、人間関係でのトラブルも起きてはいない。
私は安寧に生きている。
…全部、"今のところは"の話だった。先のことがどうなるかはわからない。
なので、
「死んでよ」
──こうやって首を絞められることもあるだろうなあと、突然の出来事をストンと受け止めていた。
しかし、それに抵抗するしないというのは別の話で、私は勿論当然のように逃れようと暴れた。
ギリギリと音を立てる勢いで、私の胴体に跨った女性が私の首を締めている。
器官がせき止められて苦しくて、喘ぐ声も吐息さえも漏れなかった。
虚ろな人形ではないのだ。頭で考えるよりも早く、半ば反射にも近い形で身体はジタバタと生きようともがいていた。
「やめてっ!」
一直線に首に伸びていた手をなんとか振り払い、肩を押すと、その人は背中を食器棚に打ち付けた。
あまり物の多くない、独り暮らしの閑散とした一室が、異質に変わった。
棚からは皿が零れ落ちて、床にぶつかり割れた。
散らばった白い破片をこれ幸いとばかりに掴むと、その人は私に再び向かってきて、破片を刃に変えてそれを付きつけて来る。
咄嗟に盾にするものを探したけれど、ソファーの上にある小さな文庫本くらいしか手の届く距離にない。盾にするにはあまりに心もとない。
「ムカつくのよ!腹が立つのよ!もらえて当然みたいな顔してないでよ!」
──彼女は激情した。咆哮した。慟哭と言ってもよかった。
腹の底から湧き上がった感情の矛先は、間違いなく私に向かっている。
休日出勤もなく、のんびりと過ごしていた、休日の朝の事だった。
その人が突然飛び込んできたのは、空は白んで、ようやく朝日が昇ってくるか来ないかくらいの時間帯だった。
独り暮らしの部屋には当然鍵はかけられていたはずで、どうやってそれを解いて侵入してきたのか。
そもそもオートロックをどうやって破ってきたのだろうか、それも分からない。
徹夜してるか、よほど早起きでなければ普通寝ている時間帯だ。
起床していた私がソファーでのんびり読書をしていたなんて、彼女にとっては想定外のことだったはずだ。
それでも彼女の行動に躊躇はなかった。
黒く長い髪を振り乱して迫ってくる鬼神迫るその姿、その悲痛な叫びに、私は既視感を抱いていた。
クッションを抱き締め腹を守り、負けじと叫びを上げる。いつまでも呆けていては、死んでしまうだろうと考えなくてもわかる。
「当然だったものなんて何もない!」
「うそつき!うそつき!嘘つくな!!」
避けると、ガンと壁にぶつかって粉々にくだけた。もう一度刃に変えられそうな破片を足元から拾い直して、彼女は大きく振りかぶる。
そこに躊躇いは微塵もなくて、よほど強い殺意の衝動に駆られているのだと知る。
「家族も友達も職場も才能もいいもの全部揃えて、それ以上何がほしいのよ!?もうやめて!もう何も奪わないでよ!!」
今度こそ仕留めようとして、大きく念入りに頭上に振りかぶられた一撃。
その分、私の体に届くまでに多少の時間がかかる。
私はそれを避けることが出来たけど、いっその事受けてしまおうかとも一瞬思った。
そうすれば私は死ねるのだろう。だって、彼女はきっと私を殺さなきゃ気が済まない。
この一刺しで死ねなくても、またその次を振りかざしてくれる。
そうすれば、きっとあの世に行けるのだろうと、死の魅力に誘惑された。
「…ッ」
この暴力的な誘惑に乗り死するのは、果たして不可抗力という事になるだろうか。それとも私の意志だという事になるだろうか。
──あの時、事故にあったのは不可抗力だった。仕方なく死んだから、仕方なく向こうに逝けた。
仕方なく死んでみたら、向こうでの暮らしはたまたまとても幸福なものだったのだ。
向こうから迎えに来てくれることなんておそらくない。
今ここで死んだとしても、亡者として裁判を受けて転生するか天国に行くか地獄に堕ちるかそれだけで、彼らと過ごすことは出来なくなるだろうなあ。
死んで目覚めたら女鬼の姿に戻ってるなんて都合のいいことは起こらないと思う。
意志を示せ、行動しろ、浅くなどないんだと知らしめろと、いつかどこかの男神が要求してきたように。
流されるように受け身のままではきっと私の理想通りにはならなくて──
けれど逆に考えれば、動けば再び奇跡は起こせるかもしれないということで。
たまたま幸福になるんじゃない、今度は望んで幸福にならなければならない。
私は誘惑を振り払い、流されないよう意志を強めた。
呆然としていた表情は打ってかわり、目的を持った私の眼光はきっと鋭くなっただろう。
「やめて!」
成すがままに逃げまどっていた私の豹変に、少しだけその人は怯んだ。
けれど相手も遊びでやっているのではない。すぐに構えを取り直した。
生きるか死ぬか。殺すか殺せないかの、お互い必死の二極を迫られているのだ。
──その瞬間縁起でもなく、走馬灯のように脳裏に過ったのは、あの言葉だった。
「理不尽に死ぬより、好きな時に死ぬことを選びたいと思わない?」
その言葉が脳裏から消え去るより前に、彼女の手から破片を奪い取る。
驚いた彼女の不意をついて、無防備だった体を足で蹴り飛ばすと、背中からフローリングに転がった。
破片を手に握り直して確かめる。ああこれじゃ駄目だ。こんな程度の刃じゃ、きっと私は"死ねない"。
部屋を見渡してみたけど、凶器といえるような代物は見当たらなかった。
怖くてこの二十年間、一人暮らしの部屋の台所で包丁を握ったことがない。
けれど備え付けの棚の中には、丁重に和紙に包まれた新品の包丁があった。一度も開けたことがない箱の上から固く固く紐で結ばれていて、少なくともこれは寝惚け眼では簡単にはほどけないだろう。
私は素早く戸を開いて、それを取りだし抱えて玄関から外に飛び出した。
通路を走り出した私の背中は、彼女から見れば必死に逃げる情けないものだったはずだ。
まさか死に場所を、死ぬ手段を探す背中だなんて思うはずもない。
視界の端を流れる景色はいつの間にか住宅街を抜け出て、近所の森林公園を突っ切っていた。
朝方のこの場所は閑散としていて、緑だけが茂り、風に揺られ賑やかに揺れている。
「…っはぁ」
普段運動しないツケなのか、ちょっと走っただけで肺が痛くなって、必死に酸素を取り込んだ。
部屋に取り残してきた彼女の形相が、悲痛な声が、脳裏に耳に焼き付いて消えてくれない。
奪わないでと叫んだあの彼女には好きな人がいた。その好きな人…私の同僚の彼は、どうやら私に好意を寄せてくれているようだった。
当人から直接その想いを聞かされていないものの、私も又聞きしていた。
もかしたら、ただの根も葉もない噂なのかもしれない。
けれど彼女はそれを信じ、好きな人を奪われたくなくて衝動にかられ、私は命を奪われたくなくて恐怖で必死に逃げている。
──奪われそうになった途端に、今心から死にたくてたまらなくなった。
私は今、死に場所を探しているのだ。
きっと地の果てまで追いかけてくるだろう彼女に殺されないために。自分の意志で死ねるように。
現金なやつだなあと心から思う。結局必要に迫られでもしなければ、何をすることも出来なかったのだ。
「はぁっはあ」
息切れのせいか、嗚咽なのか分からない苦しげな呻きが漏れた。
酔いが回った彼女の言うことは本当だった。なんて的確なんだろう。
こんな土壇場で長生きがしたいなんて高い理想を語ることなど出来ない。
だったら理不尽に殺されたくはない。好きなように死んでしまいたい!会いにいきたい!
寝惚け眼で死のうとしたことがあった。しっかりとした意識のままでは弱虫の私は死ねなかった。
恐怖でいっぱいになった今の私は正常ではなくて、異常な私は死に向かう事が出来る。
──そうだ、会いにいけるのだ。
やっとかと恐怖するのと共に安堵もする。あの世的に数えれば大したものではない時間を、人間的に数えると長い時間が過ぎ去っていた。
──それって本当に?死の先で彼らが待ってるって、本当?
もしかしたら全部うそで、もしかしたら全部幻。事故にあって死にかけた私がみた夢みたいなもの。云千年分の出来事は脳みそが作り出したデタラメの全部継ぎはぎだ。
「こわい」と、自然と呟きが漏れ出していた。体の表面を流れる風音に、乱れた足音に、かき消される程小さな弱音だった。
靴も履いていない裸足は泥濘を踏みつけて、泥の飛沫が舞った。
足は膝まで汚れて、服から露出した肌は、汗と切り傷だらけだ。
信じられる訳がない。本当だって言えるはずがない。
確信出来ていたなら、怖くても、既に飛び込めていたかもしれない。
死ぬのは怖いし一人は寂しい。もしも苦しんでのた打ち回って死んで、その先に誰もいなかったら?何もなかったなら?いったい私はどうしたらいい。
哀しい寂しい虚しい、それだけじゃ済まされない。絶望するだけで終われるはずがない!
共に死んでくれるヒトがいるはずがない。
昔、一緒に死のうと持ちかけてきた彼女の提案に乗ったとしても、行き着く先が…逝きたい場所が違ったはずだ。
私も彼女も、最期に辿り着く場所まで誰かと寄り添っていたかった。けれど、終着する所が彼女と私では違う。
幸福に満ち足りた彼女はもう二度と死にたいなんて思わないだろう。
待っていても何にもならないなら、自分で行動して結果を産み出さなければならない。
特別だろうと愛されていようと、私が死ななければいつだって何も始まらなかった!
幻に縋っているだけだったとしても、今会いたいと恋焦がれ苦しんでいるのは錯覚なんかじゃない。
なら、
「死にたい…ッ」
もうこれ以上生きたい死にたいと苦しみ続けるのは嫌。
苦しくてたまらないからこの葛藤から逃げたい。
早く楽になりたい。会いたい。救われたい。安心したい。守られたい許されたい。早く死んでここから消えてしまいたい!
木枝がピッと引っかかり頬を切って、血を流した。
泥に汚れた足元から顔を上げると、見あげたそこには綺麗な朝焼けがあった。
走って走ってどこまでも。この身体が逃げて、最後に行き着く先がどこなのか。
この公園は突っ切ると近道にもなる。重宝されていた。敷地が広く緑深かったから、付近住人のいい散歩コースにもなっている。
奥の奥まで探検に向かった事は、一度もない。我武者羅に走って、辿り着くのがどんな場所なのか、私にも分からない。
こんなに脆い人間の身とも漸くおさらばできる。
…はずだ。そうであるはずだ。そうでなければならないのだ。
太陽の登り切らない今、私の体には藍色交じりの影が落とされている。
黄昏時にも似た、どこか不明瞭な空間に私はいた。
景色の果てが見えないのだ。自分がもがくように伸ばした手の先さえも視認できないのは、意識が朦朧としているせいだろうか。
肺が痛くて、喉も痛くて、頭も痛くて、足も震えてる。
けれど目に映った空だけは、鮮明に捉えられた。
いつだって私が死ぬのは朝焼けの下でだ。夜空の下で笑いながら幸せに死ねたのはたった一度きりで、多分もう二度目はないだろう。
奇跡が、幸運がほしいなら。理想通りになりなたいなら、それを望むなら。
「しのう、死のう…ッしんでやる!会いに行ける!絶対に!」
張り上げた喉が痛みを訴えて、荒々しく咳き込んだ。
潰れてしまってももう良いと、痛みに構わず私は叫び続けた。
「だって私は特別なんだから!」
みんな揃って無責任にそんなこと言うのだ。
私はその言葉に強く後押しされて今死のうとしている。自己責任という言葉を念頭に置いて動いても、もしも嘘だったとしたなら、その恨むで済ませられるかわからない。
その時に恨む身体や自我がある状態なら、まだいい方なのかもしれないけど。
信じたこの先、想像に裏切られたらならどうしよう。とても怖い。
この行動をとることが正解だったかなんてわからないけど、少なくとも間違いだった時、
高らかに宣言した私自身を恨むだろう。
これを言わなければきっとここまで虚しくなることも、後悔することもなかっただろうにと。
自分を鼓舞するために必要だったとは言え、きっととても辛い。
高らかに叫んでも尚、不安感に胸が苛まれて辛いままだ。
私の足は、ある一点でついに立ち止まった。
赤い紐と紺の箱と白い和紙が、泥濘の上に投げ捨てられて染みを作って行く。
宛もなく逃げて走って死に場所を探して、今自分がどこまで走ってきたのかもわからない。
霧が立ち込めたように、周囲一面の景色が見えなくなっていた。
「う…っうぅ…あぁ…」
なんで泣いてるのか、我ながら理由が分からなくなるくらい、胸の中は混沌としている。
恐怖か、期待か、解放感からか、絶望か、入り混じりすぎて何故とは言い切れなかった。
やっぱり、一番は怖いからだろうと思うけど。
殺されかけるというのも恐怖体験だし、逃げ出した先でこんなことをしようとしているなんて、普通ではない。
生きていたいと散々もがいて来た私が、自死を選ぶなんて、こんなに酷い皮肉はない。
これが散々特別、特別と言われ続けた私の末路だ。平坦な道のりでも、"特別"幸福な人生でもなんでもなかった。欲しいものはいつだって、当然のように手に入ったことはなかったのに。
それは彼女だって誰だって一緒だったんじゃないだろうか。昔地獄で同じような事を私に言った、あの黒髪の彼女だって。
ぐ、っと冷たい物が腹に当たる。震える手では上手く力が入らず、もう一度腕に力をこめ直すと、少しずつ内臓が圧迫されていくような感覚を覚える。肉に埋もれていく銀の色。
見ていたくはない光景だったのに、瞼を閉じることは許されなかった。
私は大きく強く、何度も振りかぶる。
──私の身体を、冷たいものが貫いた瞬間を見た。鮮血が泥に滴り落ちる情景を見た。
と、同時にぐらりと身体が下へ、下へと落ちて行く。
恐ろしくて寂しくてたまらなくて、その現実から逃れるように、今度こそゆっくりと瞼を閉じた。