第四十一話
2.生と死20年(20日)の空白


見初められやすい体質だったから、あの子がほしい、あの子に触れたいと望む誰かは多かったけど、あの子自身が望むモノは本当に少なかった。

ささやかで慎ましやかな生活を望んだし、華美よりも質素なものを選んだ。
あの子が行動するときの基準は「これをしたら死ぬか生れるか」で、物を選ぶときの基準は「生きるために必要か必要かないか」でした。
実際そこまで厳しく徹底していなかったけれど、極端に言えばきっとこんなものだったはずです。
生きるに必要なもの以外は全て道楽娯楽で、嗜好品を摂ることは必要最低限を大幅に越えた贅沢でした。
今は貧困している訳ではない。躊躇する事なく、贅沢もしたし娯楽も手にしていたけど、あれもこれもと無節操に手を伸ばすことはなかった。
それらは意図された節約でもなく、昔の習慣から来た強迫観念でもなく、切迫していたことによる反動ではない。
最低限が得られるだけで十分だと満足できるからこその、心からの無欲さでした。

この点に置いては、天国に行けるほど綺麗に物欲も執着もありません。
全てのハードルが低いから、琴線に触れるのは困難だと思っていた。とはいえ、あの子にも人間味…鬼味はある。実際の所、無欲ではなかった。
私自身捻じ曲がってるだのなんだの言われますけれど、あの子も大概です。
激情させられる程の琴線を見つけ、繋ぎ止める。そんな形だけの約束をする事すら、やっとのことでした。
積み重ねたものがある。もう十分だと思いつつ、まだ足りないと裏腹に思う。
どうしたらあの子に心からの執着を抱かせる事が出来るのか。私の歪なソレと同等なモノを、いつかその腹の内に抱く事を望んでいるのです。そこに至るには、まだまだ足りない。十分ではない。
──私の脳は自然と、あの子が帰ってきた後のことを考えていました。
帰ってくるか否かの審議は必要ないと、自然と思っていた。

机にかじりついて、部屋に籠ってどれくらいの時が経っただろうか。
時計を見ようとしたけれど、疲れて霞んだ目ではすぐに針を目視出来なかった。
目の辺りを揉んでいるうちに、部屋の扉が叩かれる音が響く。入室を促すと、そこにいたのは見慣れた女性でした。
私が疲れたように目の辺りを触っているのを見て、長く籠っていたのだと悟ったようだ。
静かに扉を閉めて、壁際に設置された机の方に歩み寄ってくる。
まさか遊びに来たのではない。蛇の帯を巻いた彼女は、明らかに忙殺されている私にこれ以上の仕事を増やす事を躊躇いつつ、それでも自分の運んできた仕事を全うしようと口を開き、私もそれを聞く体勢に入る。
話こんでいる内に、いつの間にか霞んでいた視界が鮮明になっていると気が付く。彼女の表情も、手元の時計や紙の上の豆粒のような文字も確かに見えるようになった頃。

「心配じゃありませんか」

机を挟んだ向こうに佇む彼女…お香さんは、苦さの隠せない声色でふと問い掛けをした。
そこに主語はなくても、何を指して言っているのかはすぐに理解できる。
仕事の事ではないというのは明白で、話に区切りがついた今、私的に話す事は一つだろうと目あてをつけ言葉を返した。

「そうは言っても、お香さんだってあまり心配してませんよね」
「女の子が一人でいなくなったんだもの。心配しますよ。…そうね、確かに皆よりはハラハラしてないかもしれないけれど」

自分の言葉を途中で打ち消してから、ちらりと私の方を見る。
私は必要以上に淡白なのだろう。けれど、昔馴染も淡白といえば淡白でした。

「アタシは友達が心配だけど。鬼灯様は恋人が心配にならない?」

そこに深刻そうな響きはなく、からかうように言いました。
恋人、という言葉には柔らかな笑いが含まれていた。決して意地悪いものではなく、親しいものがするからかいでした。
恋人だという事実を疑ってはいないだろう。けれど、真に受けてはいないからこそ、こうしてからかうのです。
きっとどこか捻くれた関係性を築いているのだろうという妙な信頼が透けて見えました。
「ちゃんと好きですよ」と言えば「そうよねえ」と素直に頷かれる。そう納得しているなら、何故からかうのか。
何度目かも分からない反論と訂正をしつつ、つい最近起こったばかりの出来事を親しいひとに吐露する。

「その辺、何度も疑われてるんですけどね」
「ええ、アタシも何度も見て来たわ」
「…あの子に告白をしました」

真っ当じゃないと疑われる私が、真っ当な事をした。
その返事が「それって本当に恋なの?」だったと告げると、お香さんは額を抑えていた。
普段は見下ろしているけれど、座った状態の今、その苦悩の表情を自然と見あげる事になる。見下ろすよりもその表情がよく見えた。
お香さんは額に手を当てたまま、どこか苦しく詰まったような声色で返答する。

「アタシは鬼灯様が、ちゃんとのことが好きだって思ってるわ」
「どうやらそれ、少数派みたいですよ。冷かす割に揃って半信半疑なんですよ」

烏頭さんも蓬さんもそうだった。仮にそれが私の人徳、身から出た錆だとして。
散々恋だの愛だの邪推はするのに、いざこちらが好意を肯定すれば、手の平を返したように疑う周囲はあまりに身勝手で、酷い話でした。
視線を宙へ浮かせながら少し思案し、言葉を選んでから先を放つ。

「私がお香さんの言うように、"ちゃんと"好きだったとして」
「はい」
「愛していたとして」
「ええ」
「それでも、やる事はきっと何も変わりません。今私が心配しようが、しまいが」

告げると、お香さんは困った子供を見るように目を細めた。仕方ないなとでも言うような、柔らかな笑みを湛えていました。
昔から包容力のある人で、そんなお香さんに、あの子も懐いていた。教え処のみんな男女問わず、お香さんを慕っていました。
私も親しい昔馴染である彼女の人柄に、安らぎのような物を覚えている。それは烏頭さんも蓬さんも同じでしょう。お香さんは先生からも有難がられていました。
そんなお香さんは、どこか脈絡のない返答をした。

ってかわいい子よね」
「まぁ、そうなんでしょうね」

お香さんと同じように柔らかい人柄をしているし、どちらかと言うと人懐こい方だ。
その上、散々と神々に特別だの可愛いだの言われてきている。それが裏付けだろう。
けれどそれは人格者だからだとか、容姿端麗だからだとか、そういう理由ではない。惹きつける魅力という物を、きっと持っている。けれどそれが何なのか、私にも本人にもいつまでも分からない。

「鬼灯様も可愛い人。似た物同士ねえ」

それは、流石に聞き捨てならない、頷けるはずのない言葉でした。
どうして今の話からそこに飛躍したのでしょう。
くすくすと笑いを零しているお香さんは、私の尖った視線を意に介さない。
昔馴染と言えど今は立場がある。普段は角が立たないよう一線を引いているけれど、今ばかりはそこに遠慮もなく、近しい者のただの親愛がありました。
沈黙すると、テレビもラジオもつけていない部屋には秒針の音だけが響くようになる。
少し考えるようにしていたお香さんが口を開くと、やっと静寂が途切れた。

も寂しがりだし、鬼灯様も寂しがりなんでしょう」
「…」
「あら、当たってました?」

意味深に言った割にはただの当てずっぽうだったようで、視線を外して押し黙る私の姿を見て驚いていた。
図星を突かれたのではなく、突然何を言うのかと呆れて返す言葉もなかっただけだった。しかし、沈黙した事で肯定だと見なされてしまった。
その勘違いを正す気もタイミングもない。おかしそうに笑ったまま、お香さんは話を続けた。

「帰ってきたら、今度こそ気持が通じ合えるといいですね」

お香さんの言う通り、私達は……私はあの子と"通じ合いたい"のでした。
じれた私は、ほしいという欲求を、愛しているという求愛だと擦り替えた。
私にも、あの子にも、お互いに向かう確かな"想い"というものがなかったから。
案外それは的を得ていると思っていたのに、ただの誤魔化しでしかなかったのでしょうか。
そう言い代えれば、私はあの子を"愛している"のだろうと心から納得がいったのです。
この衝動は愛に近いものなのだろうと、腑に落とす事が出来たはずなのです。

けれど、結局の所、私の根っこにあるものは、大昔から変わる事はない。
あの子が言う通り、その体に触れてみたいとも思わないし、もっと近くに寄り添いたいとも思わない。
ただ手に入れたいという、執着からくる欲があるのみでした。
随分と拗らせてきたけれど、本当は単純な話なのだと消える前のあの子に私は言った。
あの時言ったこれは、長い間を経て出た最終結論だとも言えたし、ただの投げやりだとも言えた。
理由なんてどうでもいい、こんなに拗れるくらなら、強引に収めてしまえ。そういう横着がなかったとは言わない。
何はともあれ、お香さんが今心から願ってくれているようになるのは…

「……無理でしょうね」
「あら珍しい。本当にの事になると弱気なのねえ」


どこか煮え切らない返事をする私を見て、お香さんは不思議そうに首を傾げていた。
芽生え、想い合い、通じ合い、共に寄りそって行く。
そういう温かで睦まじい過程を踏む事など、もうとっくに出来なくなっていた。
全部手遅れでした。
私は消えたあの子を強引に引き寄せている。リリスさんと話したように、強い力を持ったものが、強い想いを持って望んだならば、何の理由があってもなくても、戻らない訳がないのです。
私はあの子を暴力的な感情で呼び寄せた。今までだって、柔い気持ちを持って傍にいた事はない。
あの子も、きっと恋しい愛しいなどという、柔い気持ちでは戻っては来ないだろうと予測していた。
あの子が動されるのだとしたら、もっと苛烈な原動力が必要となる。あの子の根底にあるものは、優しくなどない。
今どこで何をしているのかも分からないあの子の事を、分かった気でいました。

──全ては、私の幼い執着がはじまりだ。
それはとても醜い感情でした。この心は、淡い心には二度と変わらない。
愛していると言い代えることが出来たとしても、それは結局の所──…

「アタシには、初々しい二人にしか見えないけれど。確かに、少し面倒臭いけど」

ふふと上品に笑って、去っていく華奢な背中を眺める。まるで主の代わりに挨拶するように、彼女の帯蛇が頭を下げた。
扉がバタンと音を立て閉まり切れば、後は妙な静寂が一人きりの部屋を支配する。
机仕事をするための集中力もいつの間にかなくなって、ただ上澄みをすくうような中身のない事しかできなくなっていた。
羅列された文字を読解する事もなく、ぼんやりとなぞるだけの単調な作業を繰り返す。
最早無意識で動く手は淡々と仕事を進めて、頭では手元とは違う考え事をする。

──帰ってくるか来ないかという点においては、確信がありました。そこに確かな根拠などない。
あの子は約束を反故にはしないだろうという信頼。愚直に律儀にここに帰ってくるという予測。
その上こんなに沢山の者に心配されて、望まれて、戻ってこない訳がないのです。
間違いなくあの子の帰るべき場所、おさまるべき場所は、ここでした。

お香さんの所、リリスさんの所、ミキさんの所、親しくしている全てのひとの下に。
あの子はとっくにあの世の住人で、自分を受け入れてくれるひとが居るこの地に帰ってきたがるだろうと。
博愛のような態度で万人に接するくせして、中身は私の負けず劣らず我儘で子供で、自分本位でした。

自分の中に揺るがない新たな情を造るのは、お互いにとても困難なことだ。
私も私でどこか屈折していて、彼女も彼女で変に頑固で、周りの空気に流されてくれない。
流されて愛してしまえたなら、あの子ももっと楽に過ごせたはずだろうと、憐れまずにいられません。
「愛するひとの傍にいる」とうあり触れた風景を、誰もが認める自然な関係を作り上げることができていたはずなのです。

「……ほしい」

なんとなく、その三文字を舌で転がしてみても、そこには恨み事ような湿り気も、切望するような儚さも何もなく、ただ淡々とした響きだけがありました。
相変わらずそれを口にすることに違和感はなく、自分の舌によく馴染む。
反対に手には力が籠り、べきりと鈍い音を立てて握っていたペンが折れる。
脳と体がバラついたような状況に違和感を覚えふと顔を上げると、自分の足元に座りこんでいるものに気が付きました。
白い耳を立てた犬と、茶色い毛並を纏った猿と、机を止まり木替わりにした鳥。
かの有名な桃太郎の三匹のお供がこちらを見あげていました。
入室に気が付かないほど、いつの間にか考えに没頭していたようだ。
彼らの何対かの目は、心配そうな色も湛えていたけれど、どこか畏れているようでもありました。体もどこか後ろに引き気味です。


「鬼灯様どうしたの?疲れてるの?何かおこなの?」
「…綺麗に真っ二つに割れたなあ…」
「また何徹もしてんだろうな…」

かけられた複数の声で、ぼやんりとしていたじ意識がじわりと鮮明に浮上して来る。
机にあった時計はずいぶんと進んでいて、お香さんが退室た後も、書類仕事に長い間没頭していたことに気が付く。
取り留めのない考えごとに没頭していたけれど、手元は止まることなく、我ながら器用に並行作業できていたようでした。

「いえ、今日はしっかり睡眠はとれてますね。別に怒っていませんよ」
「じゃあ何?あ、ペンの代わりがほしいとか?わざわざ買いに行くの面倒だねー」
「そんなの、探せば予備とかあるんじゃないのか?」

柿助さんが言うと、「あ、そっか」と納得言った様子のシロさんが机に飛びつきました。

「おいコラシロ、人の机を勝手にあさるな」
「漁ってないよ!探してるだけだよ!」
「せめて断ってからにしろ。無断でいじるな!」

シロさんが私の足元に滑り込んできて、白い足を弾ませて、机の引出を開こうとしていました。
残念ながら犬の足ではその高さには届かず、引出を開ける事はできない。
ただ爪が家具を引っ掻く音だけが木霊していた。
少し屈んでその頭をポンと撫でて、気にしなくていいと首を振る。

「ちょうど終えた所だったので、気にしなくて大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「そお?あ、ねえねえ。じゃあ一緒に休憩しようよー」
「ちょうど昼飯取りに行く所だったんです。それでここ通りかかってシロが…」
「鬼灯さま何してるかな〜?って言って。仕事してんに決まってるだろって言ったんですけど」
「だってえ!もしかしたら遊んでるかもしれないじゃん」

ここに三匹揃ってやって来た経緯は、ルリオさんと柿助さんの言葉で十分わかりました。
私はシロさんの提案に乗って、長く沈めていた椅子から腰を上げた。
昼の時間帯、足が向う先はいつも通りの場所です。

あの子がいようと居なかろうと変わらず月日は過ぎていくし、血なまぐさくも、平穏な日常が続いて行く。
──結局、大昔からお互いがいようが、いまいが、何も変わりはないのです。
ただ話し相手が出来て、退屈が紛れた程度で、何が変化する事もなかったあの頃から。
だというのに、あの子は時間が経つほどに、その存在を強く望まれ続けます。
私から、多くのものから。好きでも愛してるでも友情でも親愛でも、なんでも。どんな形でも。

居なくなって20日。許容範囲内、想定内の失踪期間だ。
一ヶ月二ヶ月くらいじゃ、周囲はともかく、私は過剰に問題視したりしません。
感情は別の話で、業腹ではありますが。
本当に今更の事でした。事情は違えど、あの子の失踪自体はザラにあること。不思議に居なくなるという感覚に、不本意ながら慣れていました。
今回は前触れもなく、欠勤という形になり、失踪は周知の事実となりましたけど。
男神との事情を知らない周囲は当然動揺しました。
それとは反対に平然とした態度を取れば、冷徹な鬼だと批難される。元から私は鬼ですと軽口を叩く気もなく、淡々とした日々を過ごす。


「鬼灯さま〜はやくはやく〜」
「今行きます」

真っ二つに折れたペンをぽいとゴミ箱に捨てて、部屋を出ました。
落ち着かなくなるような焦燥感はなく、日常だけがそこにありました。


2019.5.3