第三十八話
2.生と死大人になる


仲のいい女友達がいた。
昔馴染ではない、目を覚ましてから比較的すぐに知り合った子だった。もう十五年の付き合いになる。
ふと彼女との付き合いの長さを数えてみると、同時に私が決断できなかった時間を突きつけられることにもなるから、少し苦々しくなるときもあった。

ひょんなことから出会ったあの日。もうそんなに経つのかと、彼女との出会いを感慨深く思いながらも、自分の意気地なしさに苦笑してしまう。
死ぬ勇気が出ない…なんて当たり前のことで、そんな物は持てなくてもそれでいいはずだ。
だけど私にとっては何よりも惨めなことで、けれど死は望ましいものではなくて、どんな拷問よりも苦痛を味わうもので。
生きようと、前向きで居られる方が望ましいはずだ。懸命に生きてて偉いねと、誰かに褒められることだってあるかもしれない。
長く生きられるほど偉い、凄い、頑張ったと称賛される。その理屈も分かるし、私もそう素直に思う。

──だというのに、私は悪い意味で潔く、思い切りのいい友人が、何よりも羨ましくて理想的だとも思っていた。


「ねえ、私と一緒に死んでよ」


お酒を片手にしながら彼女は冗談っぽく言ったけど、それが半分本気なんだと言うことはわかっていた。
居酒屋でほろ酔いになりながら半分冗談で、でももう半分は本気で、死のうよと誘える彼女が羨ましかったし、純粋に感心する。
私には出来ない事だ。土壇場で怖くなってやめちゃうかもしれないと不安になる。
崇高な覚悟を持っての事じゃなく、ただ自棄を起こしてぼやいて居るだけだったのだとしても、やっぱり凄いことだと思う。
生きたくても生きれない人がいるのと同時に、死にたくても死ねない人だっているのだから。口先だけの事だったとしても、恐ろしくてたまらなくなる。

彼女の人生は波乱万丈で、生きることはとても辛い事で、同時にやり甲斐のある事も幸せもな事もあって。
けれどやっぱり辛い方が上回る時もあるのだと、弱音を零すことがたまにあった。
彼女の人生の渦中で幾度もあった障害の中で、傍から見ていても今回のことが一番大きく辛いものだと分かる。
今度こそ耐えられなくなったのだろうなと、笑顔の裏にある思いを察していた。誘う言葉は冗談半分、その思いは心から。やっぱり彼女は本気なのだ。本気で死にたがっている。
きっと彼女は独りで死のうとするのだろう。共に道連れにする相手がいてもいなくても。
だから、私を誘う事にあまり意味はない。それでもなあ…と苦笑してしまう。


「生きたくても長生きできない人にそれを言うの」

私の体の事情を、それとなく彼女に話したことがある。
特にその話を深堀した訳ではなかったけど、短く告げただけで、事情は十分伝わっているはずだ。長生きはできない。そんなシンプルな事実が、遠回しで簡素な表現だったからと言って、相手に伝わらなかったと思えない。
少し呆れたように、でも子供を諭すように優しく言うと、分かっていると首肯された。

「だからこそだよ。一緒に死のうよ」
「なんでそうなるのかなあ…あ、もしかしてすっごく酔ってる?」
「酔ってるけど、すっごくは酔ってないよ」

手を大げさに振っている彼女。その手つきは変にゆらゆらしていて、とても素面だと思えない。すっごくと言っていいはずだ、悪酔いしているのだろう。
今にも瞼が落ちそうで、必死にその目に私を映そうとして重たそうな瞼を持ち上げている。
そして性懲りもなく再び酒に手を伸ばす。止める隙もなく追加の注文までしてしまって呆れた。残りを飲み干して空にした彼女はへらりと笑って言い切った。

「どうせ理不尽に死ぬなら、好きな時に死にたいって思うでしょ」
「……私は出来るだけ長くがいいなあ」

理不尽、という言葉が少し引っかかった。
自分の思う通り生きれない、死ねない事が理不尽な事だというなら、確かにそうだ。
けれど、うんと頷く事はできない。緩々と首を振ると、えーと聞き分けない子供のような不満そうな声が上がった。

「だから、一緒には死ねないよ」

なので、子供にするように柔らかく穏やかな笑顔で諭した。
それか困った酔っ払いをあしらう時のような表情をしていたと思う。
そっかーと机に突っ伏したけど、別段残念がっている様子はなくて軽い調子だった。
追加で届いたお酒は私が受け取って、そのまま口をつけてしまうと、彼女はこれ以上摂取することを諦めてくれた様子だった。この辺りは聞き分けがよくて良かった。
介抱するのは私だ。相手は女子とはいえど、自分と同じような体格の彼女が潰れてしまったら、運ぶのに骨が折れる。
意識朦朧、足元ふらふらでもいいから、どうにか歩いてくれないとどうしようもない。
突っ伏しながら、少し篭った恨みがましそうな声が聞えてきた。


「一緒にはってことは…一人では死ぬんだね、
「…なんか極端なこと言うなあ…」
「この死にたがり」
「うーん…私、死にたいなんて言ったことないのに。長生きしたいってずっと言ってるのに」

重たい物を背負ってる彼女にだからこそ、重たい言葉を重たくない調子で言えた。
良くも悪くも経験豊富で、あれもこれも通ってきた彼女だ。このくらいの事は受けとめる度量があると分かってる。
そういう物を背負ってきたからこそ、とうとう潰れそうになって、死に逃げたくなってしまったんだろうけど。
お互いに相手の重たい事情を軽々と受け止めて、さらりと流すことが出来た。ただの他愛ない雑談のように扱えた。
それが有難いと思うのと同時に、なんだかなぁとも思う。
こんなことが世間話も同様になるというのも嫌な話だ。世知辛い世の中だ。生きるのは楽でも簡単でもない。
死にたいと嘆く友人を心配するでもなく受け流す。それが正しい事なのか分からないけど、虚しいことではあると思った。友人の不幸を嘆き悲しめない。
自分のことのように心痛めて、なにも一緒に死んでやることはないだろう。けれど、どこかが乾いているなと感じる。

「理想が高いとか、よく言うよね」
「えーと…彼氏、旦那の理想とかそういうの?」
「そーそー。は人生の理想が高すぎる!」
「そんな変なこと言った覚えないんだけどなあ…」

趣味も特にないし特定の相手も探していない。そのどちらか一方だけでも充実していたら良かったかもしれないけど、これでも今の生活に満足している。
私が満足できないことと行ったら、やっぱり生きるか死ぬかの話くらいなのだ。
永遠に生きたいとは言わない。100まで生きたいとは言わない。90にも80にも70歳にも届かなくていい。
ただ自分の望んだ形で…奪われるような形じゃなく…理想の終わり方で、早すぎず遅すぎず。
ぐたぐだともたれている彼女を眺めつつ、そこまで考えてふと気が付く。
…過ぎたものを望んだ覚えはなかったつもりだった。けれど、確かに私のこれは物凄く我儘で、注文が多すぎるなと思った。


「死ぬための理想が高すぎるよ」
「……そうだね」

机から伏していた顔を上げて、じとーとこちらを見る彼女に、ずばりと言われてしまった。理想が高い。確かにこういう事を指して言うんだろう。反論できるはずもなく押し黙る。

「生きたくても生きれない人なんて沢山いるし、まったくの健康でもいつ死ぬかなんてわからないし。何かに恵まれても恵まれなくてもそんなの仕方ない。そういうものでしょ」
「…さっぱりしてるねえ…」
「さっぱりしてないには死ぬための理想があって、プランがいくつかあって」
「死のプランって…そんな滅多なことを…」

いーち、にー、と無邪気に指折り数えている彼女は子供みたいで、ふわふわしていて、そして明らかに酔っていた。さっきよりも更に回っている気がする。
でも、そんなふわふわしている状態の彼女に図星をつかれてしまった。凄く的確なことを言ってる。的を得てる。
これは過去にも言われたことがあったことだ。15年過ごしただけの彼女に、云千年過ごしたひとと同じような形で指摘されるなんて…
これは彼女が鋭すぎるのか、それとも私が単純すぎるのかの二極だろうなと思う。

「いつか、理想通りに死ねるのを待ってるんだね」

彼女はふやけた笑顔で、まるで少女のように夢見がちな語り方をしているけど。

「……そんなの冗談じゃない」

這うように低い声が出た。自分の物ではないような気がして、驚いて我に返る。
やっぱり私はこの手の話になると冷静になれず、感情的になってしまうなとなんとなしに髪を撫でる。
おそらく自分を抑えるために無意識に撫でつけたんだろうけど、あの世にいた時とは違うくせ毛に嫌悪感を抱いて、思わぬ形で胸の不快感を増させてしまった。
短くても伸ばしてもこうならいっそ切ってしまおう。事故にあった頃は短かった。その頃を思い出してしまうのが嫌で今まで伸ばしてきたけど、さっぱりしていた方が目に入らなくて多分まだマシだ。
思い出さないために毎朝アイロンをかけるのも、定期的に矯正をかけるのも、それじゃ本末転倒だなと思って見ないふりを続けてきたけど、もうどうしようもない。
彼女はうんと頷いてくれると思っていたようで、私の不機嫌そうな返答をきいて不思議そうにしていた。

「そう?嬉しくない?」
「それこそ、理想なんかじゃないよ」

待っていていつか死んでしまったら、多分私の"理想の通り"には彼らに会えなくなってしまう。
突然ぶすっと不機嫌になった私に変な顔をしつつも、だんだん本格的に睡魔に襲われ瞼を落し出した彼女を見て、これはもうお開きにした方がいいだろうなと席を立った。
季節は真冬だ。いくら飲んでポカポカしていても、外に出れば凍える。
眠そうな彼女にコートを着せて、お会計を済ませて彼女の腕を引きながら外に出た。
いつだって焦燥を腹に抱えて、でも何かに没頭することで現実と直面しないよう逃れてきた。けれどもう、危機感焦燥感を押し殺すことが出来なくなってきた。
表面に湧き出てきて、奥底に仕舞い込んでおくことが出来なくなってくる。
今まで見ないふりが出来てきた髪に苛立つくらだ、こんな些細なことで不安定になるくらいならもう潮時だ。

あの夜死のうよと零した彼女はあの後素敵な人と出会い、やっと心から幸せだと言えるようになれて、私がそれを祝福した時には、彼女と出会って既に17年の時が経っていた。
私は何も決意できないまま、17年ズルズルと生きていたのだった。


2019.4.20