第三十六話
2.生と死─特別なもの達
特別目を惹く子というのはどこにでも存在する。
大勢の中に紛れていてその存在は浮彫になる。遠目にみても視線がそこへと吸い込まれた。
ハッと息を呑んで思わず振りかってしまうような子がこの世にはいるのだ。
ただ、この世で一握りの"特別"な存在だったとして、「この世で一人しかいない」とまで言うほど希少という話でもなかった。数えれば圧倒的に少ない存在だとわかるけれど、一人だけが特別なのではない。
私もある意味では特別扱いをされてきたけれど、私一人を中心に世界が回っている訳ではなかった。
この人生での友人にもそういう子がいた、お香ちゃんもそうだった。
──私の目の前で、難しそうな本を読んでいる彼女もそうだった。
読書をして目を伏しているだけだというのに、なんとなしに視線が向かう。纏う空気が違ってる。
作り物のように肌は滑らかで白く、睫毛は長くて開かれた瞳は大きく力強い。靡く髪は艶やかで美しい。
つま先からてっぺんまで特別な子だったけど、この子の場合、姿形だけではなく、他にも特別なものを持っていた。
降り注ぐ日差しが肌に痛い夏に出会い、冬が来て春が来て、また夏がやってきて。
どれだけの季節が廻っただろう。
お互い図書室通いの習慣があったから、示し合せなくても定期的に顔を合わせるようになっていた。
冷房の効いた図書室にこもって、たまに小さな声でぽつぽつと話をする。
友達と言う程ではないけれど、ただの知り合いだと言い切るのは違和感覚える。
けれど確かに親しみを感じている、この子との関係性。
それになんと名をつけたらいいのか分からなかったけど、多分お互い分からないままでいいのだろう。
「さんって」
「うん」
いつものように前触れもなく、本から視線も上げないまま会話が始まった。
彼女の言葉は小雨のように短くて小さい。
ぽつぽつと通り雨のように過ぎ去るものだったので、図書室での会話は控えましょういう暗黙の了解も破り話をするのが習慣になっていた。
「変な人ですね。…違うか、不思議な人かな」
「…そうなの?普通だねってよく言われるけど」
「へえ。意外」
意外なのはこっちの方だった。彼女は本から視線を上げないままだけど、私は驚いて彼女を見遣った。
不思議な人と思われていたのも驚いたけど、この平凡な風貌と性格を知っているのに、"意外"だと言い切った事にも驚いた。
とてもじゃないけど普通以外には見えないだろう。よく言われるねと言われたら、そうだろうねと返されるのが常だった。
極的でもなく外交的でもなく、華やかでもなく地味でもなく。可もなく不可もない内外見て、どうして心から意外だと思えたんだろうか。
「どこかで見たことがあるの」
その子は、少しだけ懐かしむように目を細めながら言った。頬杖をついて、視線はどこ遠くを見ている。
机の上には相変わらず地獄や天国や妖怪、死後の世界といった、不思議なタイトルが刻まれた大小様々な本ばかり並んでいた。
「どこにでもいる顔だし…だからそう思うんじゃない?」
「そうじゃなくて、本当に見たことがあるの」
ぺらりとページを捲りながら、彼女は語る。今日はいつもより少し饒舌な方だった。
「さんの傍は安心するな」
ふうんと相槌を打つと、彼女はそのまま文字を追うのに没頭してしまった。
私も彼女の傍は居心地がいいと感じている。
彼女の穏やかで凛とした人となりも、勿論理由の一つだ。けれど、昔の知り合いではない、最近面識を持ったばかりだという事実に私は安心していたのだった。
本から手を離して、揃って休憩スペースへ移動した。
そこで声を普通の音量に戻して、いつもよりお喋りな彼女は、いつもはしないような話を切り出す。
夏場にあるには似つかわしくない、暖かいお茶が彼女の両手の平に納まっている。冷え性なのかもしれない。
落ち着いた雰囲気と言えば聞こえはいいけど、あえて悪く言うならば、少し冷めた所のある彼女。
「今まで言った事、なかったけど」
彼女の手が紙コップを摩っていた。暖を取ろうとしているようだ。
季節を問わず、体温も変に低くて嫌なんだといつか零していたのを思い出した。
私の手の中にあるのは夏場にあってもおかしくはない、なんの面白みも変哲もない冷えた紅茶だった。
「私、前世を覚えてるの」
私は反対に涼を取りながら、手元に視線を落していた。
けれど、すぐにバッと顔を上げさせられる事になる。今なんと言ったのか。
すぐに脳が理解できることはなく、暫く困惑に揺らされていた。
「…前世…?」
「とは言っても薄らだけど。小さい頃はもっと覚えてたけど、今はもうこれだけ」
片手をコップから離して目の高さまで持ち上げて、ほんの少しを表す様に人差し指と親指を近づけた。
私はそれに何を言える事もなく、ただその様子を見ていた。
いつもと変わりのない彼女の少し眠そうな表情をみて、ただ「そうなんだ」とだけ言った。
「よく聞く話なのに、これ話すとみんな引くよね」
「……そう分かってて、なんで今、私に話したの?」
「さんならそうなんだ、って受け流すだけだと思ったし、実際そうだった。」
「そ、そうだったけど…」
そういう認識を受けているというのも、なんだか複雑な話だった。
半ば確信を持って予想出来るくらい単純で、流してしまうくらい適当な性格をしていると思われていたのだ。
別にそれに不満はないけど、あまり喜ばしい話でもない。
一般的に適当というのは褒め言葉として使われない。大ざっぱな性格というのも善し悪しだ。
「それに…」
あの世にいようと現世に居ようと、どこに行っても同じような評価を受けるんだなと苦笑しながら、そこに続く言葉を待つ。
前世の話というのは興味深いなと単純に思う。
こういう背景があったから、彼女は調べものをしていたんだろうと、今初めて腑に落ちた。
私はなんせ、それが夢か幻かは置いといて…あの世に居て、閻魔庁で働いていた経験がある。記憶が残ったまま再び生まれてしまう事があるというのは、たまに聞く話だった。転生措置を受けた子なんだろうか。
覚えているというのは前の人生の話だけで、あの世で裁判を受けたりした記憶はないのかなと色々興味は湧いて出たし、個人的にも前世や転生という言葉には惹かれる。決して他人事ではないからだ。
私は地獄の鬼女で、元人間で、転生しているからだ。…そのはずだ。
そのくらいの、彼女の言う通り軽くて適当な好奇心で、その話を聞く体勢に入った。
けれど、軽く聞くには重たすぎる話だったと、予想は裏切られる事になる。
「私の前世にはさんが出て来て」
「…え?」
「…ああ、違うか。さんに似た人が出て来るの。雰囲気とか、話し方とか、そういうのがそっくり」
そう言われてしまえば、いつ、どこで、どんな形で…と考えて、心当たりがあるのは一つしかない。
「…それは…」
「特別でしょ」
「…それが」
それとどんな関係があるの。どうしてそれだけで特別という言葉を持ち出すの。
前世を覚えているというのは、確かに人とは違う特殊な事で、特別と言い代えてもいいかもしれない。
だけど、私がその言葉通りに捉えず、引っかかりを覚えているのは。これが私にとって、もっと別の、深い意味を持っている言葉だからだろう。
私が何を聞き返すより前に、じっと見上げられながら断言された。
「あなたもそうでしょ」
「……」
──特別目を惹く子がいる。特別なものを持つ子がいる。特別不思議なものを抱える人がいる。
それが言わずとも、相手に伝わることもある。
同族嫌悪というのは無意識のうちに起って、同族だと察知するのは理屈ではない。
訳もなくいがみあって、理由なく邪険にする。
特別なものを特別と認識するのに理由はなく、言い切ることに躊躇いを覚えることはない。
そういうものだろうか。いやそうなんだろうと今までの経験を鑑みて思った。
凶霊の少女に、あなたもそうでしょと前世があることを言い当てられたことを思い出した。
理屈じゃなく察せるものだとしたら、じゃあ私はなんで気づけないんだろう。
私の方は相手のことを分からないのに、相手は私のことを察知するなんて、一方的でとてもズルい話だなと思う。
「……うん」
俯きながら頷いた。否定をする理由も繕う理由もなかった。
まるでいつかの日を踏襲しているようだなと、少し不思議な感覚を覚える。
彼女はやっぱりだと、納得したように頷いてから、唇を開く。
「私は死んで、また生まれた記憶があるんだけど、」
「うん」
「………こういう話をして普通に頷いてくれた人はじめてだな」
語る途中で一度言葉を止めて、感慨深そうに溜息を吐いていた。
凶霊であるあのスカーレットという少女は現世にいたけど、ある意味あの世の住人だ。
不思議な事を起こり得ると、身を持って知っている。不思議な事を語ることに抵抗はなかったはずだ。
私も…元、と言った方がいいのかわからないけど、あの世の住人だ。だからすんなりとこういう話をするけど、あちらに毒されて感覚がズレてしまっているからだろう。
普通は変な顔をされる類の話で、あり得ないと否定されてしまう話。
この子は、私に頷いてもらえて、少し安心できたのかもしれない。
私がもしかしたらあの世なんてなかったのかも…と疑ったように、前世が本当にある、なんて証拠はないのだ。
仕切り直して、一度脱線してしまった話を彼女は続けた。
「いってらっしゃいって、見送ってくれたのさんだったよ」
「……」
「前世がよく聞く言葉なら、転生だってよく聞くものでしょ。あの時よかったねって言ってくれたじゃない」
──そうだね、と言って私は頷いた。
私は記録課で働いてる女鬼で、転生する亡者を目にする機会は普通そうない。
ただ、私は鬼灯くんの後ろについて、賽の河原に行く機会がたまたま何度かあった。
特別な理由があったのではなく、ただ流れで付き添ったとしか言いようがないけど。
そんな、数少ない記憶を辿れば、彼女が"誰"なのかはすぐ思い至れた。
若くして死んでしまった女の子で、修行をして、救済措置を取られる日を待ち、日々熱心に修行をしていた。
「転生するのはあなたです」と地蔵菩薩様に名指しされていたあの日、私は自分のことのように嬉しくなって、「よかったね」と声をかけてその女の子の頭を撫でた。
転生先でも再び女の子として生まれていたのを知っている。赤ん坊の姿を一度見たっきりだから、こんなに別嬪さんになっているとは知らなかった。
河原にいた頃の彼女もとても可愛い子だったけど、所謂系統違いというやつで、多分前世の彼女だったら、今のようには成長はしていなかっただろうと思う。
転生を見届けたあの子は名前も容姿も変わり、今は、ただ落ち着いている雰囲気だけが似通っている、まったくの別人になっていた。
「普通こういうの、忘れちゃうはずなのにね。これってあの世的には大問題なんだろうなぁ」
「こんなこと別に言いふらさないし、記憶も少ししかないんだし…大丈夫なんでしょ」
彼女はお茶を口に含んで、喋ったことで乾いた舌を潤している。
彼女はとてもあっさりとしていた。未練だとか、感傷だとか、後悔だとか。そういう物が感じられない。
だから何か訪ねた所で、返ってくる答えは半ば予想できていたけれど。どうしても気になったことを私はあえて聞く。
「…前の方がよかったとか、戻りたいとか思わない?」
「なんで。思っても無駄でしょ」
無駄、という言葉が私の胸を深く突き刺した。
戻りたくても戻れない場所がある。いくら願ったって取り戻せないものがある。
本当なら私も事故死して、ここには帰れぬ人になるはずで。戻りたくてもどこにも戻れないはずだった。
それがなんの偶然か二度目なんてことがあって、三度目もあって、今度はまた一度目の世界に戻ってきて。
あり得ないことの繰り返しで、私の意思ではどうにもならない。あちこちコロコロと転がされて遊ばれているような気分だった。
思っても無駄。足掻いても無駄。戻りたくても無駄。
自分ではどうしようも出来ない事ばかりだった今まで。だったら、今回のこともそうなんだろうか。
いいや、違う。私はなんの根拠がある訳でもないのに、決して"行動"する事が無駄ではないと確信していた。
確信はある。けれどただそれだけだ。何も出来ない…というよりも、私は何もしないまま、もう何年も経ってしまった。
ぐずぐず"前の事"を引きずっている私とは正反対に、あっさりと割り切れている様子の彼女に問う。
「ただのもしもの話だけど…、…戻れるなら戻りたい?」
「別に、戻りたくない」
「そっか。あなたにとっては、こっちの方が居心地がいいのかな」
「よく覚えてないけど…昔の方がよかったんじゃないかな。ちの親、適当だし」
今世の親のことで、随分苦労したこともあると語るその顔は、随分と苦々しいものだった。
反対に昔のご両親についての記憶は少ないながら、いい印象は残ってるようだ。
ハッキリと「幸せです!」と言いきれる人生歩める人も中々いないのかもしれないけど、
彼女は今より、昔の方がまだ幸せな人生を送れていたと言い切れてる。
「よかったのに、それでも戻りたくないんだ」
「というより…戻れないから戻らないんだけど。…ああ。もしも戻れるとしても、それでも戻らないかな。…だってもう手遅れだから」
少し自嘲気味に語る彼女は、こちらから視線を外して目を伏せた。
「私が会いたいと思ってる過去の人達は、今の私にはきっと会いたくない。冷たいけど根は優しい子って言われる今の私じゃなくて、大人しいけど優しい子って言われてた昔の私に会いたいんだよ」
前の記憶があるせいか今の人生での経験のせいか、どこか冷たくなってしまった今の自分に会いたいんじゃない。
変わってしまったものはもう元通りにはならい。戻れる戻れないの前に、もう戻る資格なんてないし、望まれてもいないんだと淡々と語った。
彼女のはあっさりとした言動は、割り切りなんじゃなくて、ただの諦めなんだと悟る。
いや、ただの事実として、現実を受け入れてるだけなのかもしれない。
過去に引きずられても仕方ない、現状は変わらないと賢く考えられた。ただ聡いだけなんだろうと思う。
思い出して郷愁に駆られる事もあるかもしれない。けれど、焦がれて心の拠り所にすることもない。
…じゃあ私は?
「さんは、戻れるなら戻りたい?」
再び見上げられたその目から、視線をそらせなかった。
いつか少女に尋ねられた時みたいに、今度は俯いて顔を隠すことはできない。
その代償なのか、自然と片方の目から涙が零れて、それに続いてもう片方からも零れて、ぼろぼろと頬を伝って、とてもみっともない。
彼女はそれに動じることもなく、ただ鞄からハンカチを取り出して手渡してくれた。可愛い花柄をしたそれを受け取りながら、彼女からの問い掛けに答える。
「……私は戻りたいなあ」
戻る資格なら十分ある。戻る手立てもある。"特別"というのが自惚れでなければ。あの経験が、夢幻でなかったのなら。
ただ、戻る勇気がわいて来ないのだ。戻るために必要な行動に移すのは、とても恐ろしい事だった。
私の持病が悪化することもなく、人生の分岐点が訪れることなく、転職も転勤も結婚もなんの節目もないまま平坦に過ごして。あれからもう十年の月日が経っていた。
2.生と死─特別なもの達
特別目を惹く子というのはどこにでも存在する。
大勢の中に紛れていてその存在は浮彫になる。遠目にみても視線がそこへと吸い込まれた。
ハッと息を呑んで思わず振りかってしまうような子がこの世にはいるのだ。
ただ、この世で一握りの"特別"な存在だったとして、「この世で一人しかいない」とまで言うほど希少という話でもなかった。数えれば圧倒的に少ない存在だとわかるけれど、一人だけが特別なのではない。
私もある意味では特別扱いをされてきたけれど、私一人を中心に世界が回っている訳ではなかった。
この人生での友人にもそういう子がいた、お香ちゃんもそうだった。
──私の目の前で、難しそうな本を読んでいる彼女もそうだった。
読書をして目を伏しているだけだというのに、なんとなしに視線が向かう。纏う空気が違ってる。
作り物のように肌は滑らかで白く、睫毛は長くて開かれた瞳は大きく力強い。靡く髪は艶やかで美しい。
つま先からてっぺんまで特別な子だったけど、この子の場合、姿形だけではなく、他にも特別なものを持っていた。
降り注ぐ日差しが肌に痛い夏に出会い、冬が来て春が来て、また夏がやってきて。
どれだけの季節が廻っただろう。
お互い図書室通いの習慣があったから、示し合せなくても定期的に顔を合わせるようになっていた。
冷房の効いた図書室にこもって、たまに小さな声でぽつぽつと話をする。
友達と言う程ではないけれど、ただの知り合いだと言い切るのは違和感覚える。
けれど確かに親しみを感じている、この子との関係性。
それになんと名をつけたらいいのか分からなかったけど、多分お互い分からないままでいいのだろう。
「さんって」
「うん」
いつものように前触れもなく、本から視線も上げないまま会話が始まった。
彼女の言葉は小雨のように短くて小さい。
ぽつぽつと通り雨のように過ぎ去るものだったので、図書室での会話は控えましょういう暗黙の了解も破り話をするのが習慣になっていた。
「変な人ですね。…違うか、不思議な人かな」
「…そうなの?普通だねってよく言われるけど」
「へえ。意外」
意外なのはこっちの方だった。彼女は本から視線を上げないままだけど、私は驚いて彼女を見遣った。
不思議な人と思われていたのも驚いたけど、この平凡な風貌と性格を知っているのに、"意外"だと言い切った事にも驚いた。
とてもじゃないけど普通以外には見えないだろう。よく言われるねと言われたら、そうだろうねと返されるのが常だった。
極的でもなく外交的でもなく、華やかでもなく地味でもなく。可もなく不可もない内外見て、どうして心から意外だと思えたんだろうか。
「どこかで見たことがあるの」
その子は、少しだけ懐かしむように目を細めながら言った。頬杖をついて、視線はどこ遠くを見ている。
机の上には相変わらず地獄や天国や妖怪、死後の世界といった、不思議なタイトルが刻まれた大小様々な本ばかり並んでいた。
「どこにでもいる顔だし…だからそう思うんじゃない?」
「そうじゃなくて、本当に見たことがあるの」
ぺらりとページを捲りながら、彼女は語る。今日はいつもより少し饒舌な方だった。
「さんの傍は安心するな」
ふうんと相槌を打つと、彼女はそのまま文字を追うのに没頭してしまった。
私も彼女の傍は居心地がいいと感じている。
彼女の穏やかで凛とした人となりも、勿論理由の一つだ。けれど、昔の知り合いではない、最近面識を持ったばかりだという事実に私は安心していたのだった。
本から手を離して、揃って休憩スペースへ移動した。
そこで声を普通の音量に戻して、いつもよりお喋りな彼女は、いつもはしないような話を切り出す。
夏場にあるには似つかわしくない、暖かいお茶が彼女の両手の平に納まっている。冷え性なのかもしれない。
落ち着いた雰囲気と言えば聞こえはいいけど、あえて悪く言うならば、少し冷めた所のある彼女。
「今まで言った事、なかったけど」
彼女の手が紙コップを摩っていた。暖を取ろうとしているようだ。
季節を問わず、体温も変に低くて嫌なんだといつか零していたのを思い出した。
私の手の中にあるのは夏場にあってもおかしくはない、なんの面白みも変哲もない冷えた紅茶だった。
「私、前世を覚えてるの」
私は反対に涼を取りながら、手元に視線を落していた。
けれど、すぐにバッと顔を上げさせられる事になる。今なんと言ったのか。
すぐに脳が理解できることはなく、暫く困惑に揺らされていた。
「…前世…?」
「とは言っても薄らだけど。小さい頃はもっと覚えてたけど、今はもうこれだけ」
片手をコップから離して目の高さまで持ち上げて、ほんの少しを表す様に人差し指と親指を近づけた。
私はそれに何を言える事もなく、ただその様子を見ていた。
いつもと変わりのない彼女の少し眠そうな表情をみて、ただ「そうなんだ」とだけ言った。
「よく聞く話なのに、これ話すとみんな引くよね」
「……そう分かってて、なんで今、私に話したの?」
「さんならそうなんだ、って受け流すだけだと思ったし、実際そうだった。」
「そ、そうだったけど…」
そういう認識を受けているというのも、なんだか複雑な話だった。
半ば確信を持って予想出来るくらい単純で、流してしまうくらい適当な性格をしていると思われていたのだ。
別にそれに不満はないけど、あまり喜ばしい話でもない。
一般的に適当というのは褒め言葉として使われない。大ざっぱな性格というのも善し悪しだ。
「それに…」
あの世にいようと現世に居ようと、どこに行っても同じような評価を受けるんだなと苦笑しながら、そこに続く言葉を待つ。
前世の話というのは興味深いなと単純に思う。
こういう背景があったから、彼女は調べものをしていたんだろうと、今初めて腑に落ちた。
私はなんせ、それが夢か幻かは置いといて…あの世に居て、閻魔庁で働いていた経験がある。記憶が残ったまま再び生まれてしまう事があるというのは、たまに聞く話だった。転生措置を受けた子なんだろうか。
覚えているというのは前の人生の話だけで、あの世で裁判を受けたりした記憶はないのかなと色々興味は湧いて出たし、個人的にも前世や転生という言葉には惹かれる。決して他人事ではないからだ。
私は地獄の鬼女で、元人間で、転生しているからだ。…そのはずだ。
そのくらいの、彼女の言う通り軽くて適当な好奇心で、その話を聞く体勢に入った。
けれど、軽く聞くには重たすぎる話だったと、予想は裏切られる事になる。
「私の前世にはさんが出て来て」
「…え?」
「…ああ、違うか。さんに似た人が出て来るの。雰囲気とか、話し方とか、そういうのがそっくり」
そう言われてしまえば、いつ、どこで、どんな形で…と考えて、心当たりがあるのは一つしかない。
「…それは…」
「特別でしょ」
「…それが」
それとどんな関係があるの。どうしてそれだけで特別という言葉を持ち出すの。
前世を覚えているというのは、確かに人とは違う特殊な事で、特別と言い代えてもいいかもしれない。
だけど、私がその言葉通りに捉えず、引っかかりを覚えているのは。これが私にとって、もっと別の、深い意味を持っている言葉だからだろう。
私が何を聞き返すより前に、じっと見上げられながら断言された。
「あなたもそうでしょ」
「……」
──特別目を惹く子がいる。特別なものを持つ子がいる。特別不思議なものを抱える人がいる。
それが言わずとも、相手に伝わることもある。
同族嫌悪というのは無意識のうちに起って、同族だと察知するのは理屈ではない。
訳もなくいがみあって、理由なく邪険にする。
特別なものを特別と認識するのに理由はなく、言い切ることに躊躇いを覚えることはない。
そういうものだろうか。いやそうなんだろうと今までの経験を鑑みて思った。
凶霊の少女に、あなたもそうでしょと前世があることを言い当てられたことを思い出した。
理屈じゃなく察せるものだとしたら、じゃあ私はなんで気づけないんだろう。
私の方は相手のことを分からないのに、相手は私のことを察知するなんて、一方的でとてもズルい話だなと思う。
「……うん」
俯きながら頷いた。否定をする理由も繕う理由もなかった。
まるでいつかの日を踏襲しているようだなと、少し不思議な感覚を覚える。
彼女はやっぱりだと、納得したように頷いてから、唇を開く。
「私は死んで、また生まれた記憶があるんだけど、」
「うん」
「………こういう話をして普通に頷いてくれた人はじめてだな」
語る途中で一度言葉を止めて、感慨深そうに溜息を吐いていた。
凶霊であるあのスカーレットという少女は現世にいたけど、ある意味あの世の住人だ。
不思議な事を起こり得ると、身を持って知っている。不思議な事を語ることに抵抗はなかったはずだ。
私も…元、と言った方がいいのかわからないけど、あの世の住人だ。だからすんなりとこういう話をするけど、あちらに毒されて感覚がズレてしまっているからだろう。
普通は変な顔をされる類の話で、あり得ないと否定されてしまう話。
この子は、私に頷いてもらえて、少し安心できたのかもしれない。
私がもしかしたらあの世なんてなかったのかも…と疑ったように、前世が本当にある、なんて証拠はないのだ。
仕切り直して、一度脱線してしまった話を彼女は続けた。
「いってらっしゃいって、見送ってくれたのさんだったよ」
「……」
「前世がよく聞く言葉なら、転生だってよく聞くものでしょ。あの時よかったねって言ってくれたじゃない」
──そうだね、と言って私は頷いた。
私は記録課で働いてる女鬼で、転生する亡者を目にする機会は普通そうない。
ただ、私は鬼灯くんの後ろについて、賽の河原に行く機会がたまたま何度かあった。
特別な理由があったのではなく、ただ流れで付き添ったとしか言いようがないけど。
そんな、数少ない記憶を辿れば、彼女が"誰"なのかはすぐ思い至れた。
若くして死んでしまった女の子で、修行をして、救済措置を取られる日を待ち、日々熱心に修行をしていた。
「転生するのはあなたです」と地蔵菩薩様に名指しされていたあの日、私は自分のことのように嬉しくなって、「よかったね」と声をかけてその女の子の頭を撫でた。
転生先でも再び女の子として生まれていたのを知っている。赤ん坊の姿を一度見たっきりだから、こんなに別嬪さんになっているとは知らなかった。
河原にいた頃の彼女もとても可愛い子だったけど、所謂系統違いというやつで、多分前世の彼女だったら、今のようには成長はしていなかっただろうと思う。
転生を見届けたあの子は名前も容姿も変わり、今は、ただ落ち着いている雰囲気だけが似通っている、まったくの別人になっていた。
「普通こういうの、忘れちゃうはずなのにね。これってあの世的には大問題なんだろうなぁ」
「こんなこと別に言いふらさないし、記憶も少ししかないんだし…大丈夫なんでしょ」
彼女はお茶を口に含んで、喋ったことで乾いた舌を潤している。
彼女はとてもあっさりとしていた。未練だとか、感傷だとか、後悔だとか。そういう物が感じられない。
だから何か訪ねた所で、返ってくる答えは半ば予想できていたけれど。どうしても気になったことを私はあえて聞く。
「…前の方がよかったとか、戻りたいとか思わない?」
「なんで。思っても無駄でしょ」
無駄、という言葉が私の胸を深く突き刺した。
戻りたくても戻れない場所がある。いくら願ったって取り戻せないものがある。
本当なら私も事故死して、ここには帰れぬ人になるはずで。戻りたくてもどこにも戻れないはずだった。
それがなんの偶然か二度目なんてことがあって、三度目もあって、今度はまた一度目の世界に戻ってきて。
あり得ないことの繰り返しで、私の意思ではどうにもならない。あちこちコロコロと転がされて遊ばれているような気分だった。
思っても無駄。足掻いても無駄。戻りたくても無駄。
自分ではどうしようも出来ない事ばかりだった今まで。だったら、今回のこともそうなんだろうか。
いいや、違う。私はなんの根拠がある訳でもないのに、決して"行動"する事が無駄ではないと確信していた。
確信はある。けれどただそれだけだ。何も出来ない…というよりも、私は何もしないまま、もう何年も経ってしまった。
ぐずぐず"前の事"を引きずっている私とは正反対に、あっさりと割り切れている様子の彼女に問う。
「ただのもしもの話だけど…、…戻れるなら戻りたい?」
「別に、戻りたくない」
「そっか。あなたにとっては、こっちの方が居心地がいいのかな」
「よく覚えてないけど…昔の方がよかったんじゃないかな。ちの親、適当だし」
今世の親のことで、随分苦労したこともあると語るその顔は、随分と苦々しいものだった。
反対に昔のご両親についての記憶は少ないながら、いい印象は残ってるようだ。
ハッキリと「幸せです!」と言いきれる人生歩める人も中々いないのかもしれないけど、
彼女は今より、昔の方がまだ幸せな人生を送れていたと言い切れてる。
「よかったのに、それでも戻りたくないんだ」
「というより…戻れないから戻らないんだけど。…ああ。もしも戻れるとしても、それでも戻らないかな。…だってもう手遅れだから」
少し自嘲気味に語る彼女は、こちらから視線を外して目を伏せた。
「私が会いたいと思ってる過去の人達は、今の私にはきっと会いたくない。冷たいけど根は優しい子って言われる今の私じゃなくて、大人しいけど優しい子って言われてた昔の私に会いたいんだよ」
前の記憶があるせいか今の人生での経験のせいか、どこか冷たくなってしまった今の自分に会いたいんじゃない。
変わってしまったものはもう元通りにはならい。戻れる戻れないの前に、もう戻る資格なんてないし、望まれてもいないんだと淡々と語った。
彼女のはあっさりとした言動は、割り切りなんじゃなくて、ただの諦めなんだと悟る。
いや、ただの事実として、現実を受け入れてるだけなのかもしれない。
過去に引きずられても仕方ない、現状は変わらないと賢く考えられた。ただ聡いだけなんだろうと思う。
思い出して郷愁に駆られる事もあるかもしれない。けれど、焦がれて心の拠り所にすることもない。
…じゃあ私は?
「さんは、戻れるなら戻りたい?」
再び見上げられたその目から、視線をそらせなかった。
いつか少女に尋ねられた時みたいに、今度は俯いて顔を隠すことはできない。
その代償なのか、自然と片方の目から涙が零れて、それに続いてもう片方からも零れて、ぼろぼろと頬を伝って、とてもみっともない。
彼女はそれに動じることもなく、ただ鞄からハンカチを取り出して手渡してくれた。可愛い花柄をしたそれを受け取りながら、彼女からの問い掛けに答える。
「……私は戻りたいなあ」
戻る資格なら十分ある。戻る手立てもある。"特別"というのが自惚れでなければ。あの経験が、夢幻でなかったのなら。
ただ、戻る勇気がわいて来ないのだ。戻るために必要な行動に移すのは、とても恐ろしい事だった。
私の持病が悪化することもなく、人生の分岐点が訪れることなく、転職も転勤も結婚もなんの節目もないまま平坦に過ごして。あれからもう十年の月日が経っていた。