第三十五話
2.生と死─三年(三日)の空白
あの子がいなくなってからしばらくが経っていました。
一週間や二週間、酷い時にはぽっかり三ヶ月以上いなくなる時もあったので、慣れたことと言えば慣れたことです。
もっとも神隠しされたとわかる状態と、忽然と理由なく消えた状態では話が違うでしょうけど。
消えたのはおそらく、丁度私と早朝に話した直後のことで、あの後何があったのかと疑問に思わない訳ではない。心配に近い気持ちも抱くには抱きます。
ただ、失踪という事自体に大きく動揺する事がないのは、やはり慣れでした。
慣れているのは近くで過ごしてきた私や昔馴染ばかりで、閻魔大王は付き合いが長い方といえど、あまり耐性はない。
どこか不安そうな面持ちでこちらをちらちらと見遣るそのひとは、ずっと心配をしているようだった。
「ねえ鬼灯くん…落ち着いてきいてくれる?」
恐る恐る、こちらの機嫌を伺って、精一杯損ねないようにしながら話しかけて来る。
これは一連の流れがあったから腫物扱いをしているというよりも、別件で何かあったのだろうなと察する。
察しつつも、あえて気が付いたという事を知らせる必要もなく、ただ問いに対してだけ答えた。
閻魔大王が法廷でゲームをしたりと、堂々と怠けるのは常だ。
けれど、心配して上の空になっている時には、手は無意識に淡々と動くようだ。
このヒトは私がいくら尻を叩いても懲りないのに、あの子は妙な形で素晴らしい貢献をするなと不思議な気持ちでいた。
「いつだって私は落ち着いてますよ」
「嘘つけよ!君って静かに常時狂ってるタイプでしょ!?」
「静かに狂ってる鬼に地獄の多くを任せる閻魔大王もある意味狂ってますよね。大らかって言えばなんでもオブラートに包めますけど」
「きみはオブラートに包めるのに包もうともしないよね」
一通り思うがままにツッコミを入れた後、そうじゃなくてねと話を戻した閻魔大王は、場所を移そうと提案してきました。
確かに法廷で話すのは悪目立ちをする。耳傍立てる獄卒が行きかうのはどこだって一緒だったけど、その中でも特にここはお喋りをするのに適した場所ではない。
広々としすぎているし腰を落ち着ける場所もない。
この話をするならば、地蔵菩薩にも加わってもらった方がいいという事で、彼が居る元へと歩き出した。
通路に出ると、それまでの気の抜けた表情を一変させ、閻魔大王は神妙な面持ちで固い声を発する。どこかに留まるよりも、歩きながらの方がお互い逆に気楽でいられるようでした。
「もしかして…手違いで転生させちゃったかもって…亡者とかじゃなくて、賽の河原の子供でもなくて、獄卒の子を」
「……は?」
そんなの、前代未聞の事態でした。思わずぴたりと足を止めて閻魔大王を見あげると、
気まずそうに目を逸らされた。
確かにこんな話をされるのなら、冷静に聞ける事前に釘をさしたのも納得がいく。
賽の河原の子供にとっつかまって反乱を起こされたり、亡者に泣かされたり、酒を奪われたりとヘマをした獄卒は多くいれど、そんな大きな手違いを起こすことは早々にありません。
このレベルの手違いばかりが起こっていては、滅茶苦茶なことになって、とっくに地獄は揺るいでることでしょう。
そしておそらく、この様子だと他にも話をし難くする理由があるのだろう。
ちょうど立ち止まっていた私達の元へ地蔵菩薩の方からやってきてくれて、閻魔大王はフォローを求めるかのように彼へと視線を向けていた。
「それで、はっきりしてないけど、多分…その子って…」
「はい、恐らくは」
そして再びもごもごと口を開いたそのひとを見て、やはり釘をさしておいて妥当な話だったなと頷きました。懸命な判断です。
耳を疑うような話でした。もしも本当だとしたら、腸が煮えくり返る所じゃ済まされないような話でした。地獄が揺るぐ前に、私という存在が揺るぐようなお話です。
持っていた金棒をがつりと音を響かせながら床に立てると、閻魔大王は肩を震わせてた。
地蔵菩薩は困ったような顔を見せるばかりでした。
「…だとしたら、どこへ行くんです。元人間といえど、今は立派な鬼ですよ」
──もしかしたら転生したのはかもしれない。
寝耳に水のようなその話を聞いたとき、とてもじゃないけれどすぐに信じることは出来ず、まずはじめに疑いました。
信じたくないという話ではなく、実際信じられるような話ではないのです。
鬼は生きてはいない。純粋な地獄生まれの鬼であればあるほど、生者とはかけはなれている存在ということになる。
例えば秦広庁の篁さんなんかは元人間なので、まったく可能性がないとは言いません。
けれどあの子ぱ地蔵菩薩や閻魔大王に告げた通り、今はもう鬼なのです。
もし鬼火が溶けこんだばかりの大昔だったなら土台が不安定で、定着しきらなくて、鬼火が抜け出して再び肉体の活動が止んで亡者となり、それでお終いだったかもしれないけど。
「…もしかしたら定着していなかったってことも、ありえるんじゃないのかなあ」
「…そりゃ、確認するような手段もないですしね」
云千年という月日は定着させるに十分な接着剤で、起り得ない証明だと私は思っているけれど。
それでも知る手立てはない。
まだ不安定な状態だったのかもしれないと思って疑ったことなんて一度もなかった。
黄泉にやってきて、生活するのに精いっぱいで。
日々懸命に生きていればあっという間に時間は過ぎ去って、気が付いた時には十分な時間が経っていた。そんな"もしかしたら…"を考える余暇などなかったのです。
「でも、それにしたって」
どちらにせよ、あの子が人間の括りにされて、転生措置が施されたとしたのだとしたら、今頃腹から生れ落ちて赤ん坊になってしまっていることだろうけど。
「何故そんな話になったんです。手違いで転生なんて、そんな事自体流石にそうは起りません。本当にうっかりを起こしてしまったんですか」
深刻そうな割には話があやふやで、確証もない、かもしれないレベルの話し方だった。
だいたい地蔵菩薩が転生させると主に判断するのは、弱者…子供達で、全てが全てこの人の管轄だという話でもない。
あの子は子供ではない。成長期はつい最近まで来なかったけど、それでもとっくに成人に近い体をしていました。何故あえてこの方がこう言うのでしょう。
不躾だと思いつつも、まるで値踏みするように見つめる。
多くを語らず、静観を貫く地蔵菩薩は、静かに話した。
「かもしれない、なんとなく」
「…なんとなく?」
「そんな予感がしているだけ、ですね」
「…相手があの子であるということも、なんとなく?」
実際の所はどうあれ、なぜ第一に上げられたのがあの子なんでしょう。嫌な話です。
いつの時代も些細なミスから大きな不祥事まで後を絶たない。絶対の保証がされたものなどない事は承知ですが。
これが一介の獄卒…鬼の言うことであれば、そんな馬鹿な話が起こってたまるかと思わず一蹴したくなりますが、地蔵菩薩のような超常的な存在に言われると、私のような変哲もない鬼にはパッと否定することも出来ません。
ただ、事が起こった以上、"不思議な出来事"という一言で片つけることは出来ない。
どうにか事態を把握しなければならない。
あの子が体を持って活動していた以上、失踪する直前までの足取りは必ず残っているはずです。
消えた誰かがあの子でない鬼だった場合も同様です。雇用されているモノ達の誰が居る居ないの確認は取ろうと思えば取れます。
──結局漏れもなく調べた結果、"居ない"のはあの子だけ、という事で間違いがありませんでした。
改めて一室に三人で寄り集まり直し、私は腕を組みながら閻魔大王の報告を聞く。悪い予感は当たるものと言えばいいのでしょうか。半ば予想していた通りの事でした。
「確認してもらったけど、やっぱりちゃんどこにもいないって」
「天国は?現世に向かった形跡は?」
「どっちもないってさ。ワープなんて無理だし、最近規制厳しいし、目を盗んでっていうのも簡単じゃないと思う」
そりゃあそうだろうと思う。神だろうとなんだろうと、今は厳重に監視が行き届いています。
姿が見えないことを良いことに現世で悪巧みをしないよう細工したり、人間と恋に落ちないようにとルールを設けたり、現世とあの世が繋りを持つことに対して、地獄側はある程度慎重になっている。
ちょっとそこまでという感覚で出かけられる訳ではないのです。
目を光らせている者がいる以上、こっそりバレないようにというのは難しい話だ。
抜道が一切ない訳ではないでしょうけど、そこまでして悪巧みをしようとするものもあまりいないし、あの子に限ってはそんな高等なこと出来ないに違いありません。試みようとも思わないだろう。
「…本当にかもしれない、なんとなくなんですか」
じっと、閻魔大王の隣で静観している地蔵菩薩を見て訪ねる。
多くを語ろうとしない姿から、神聖なものの立ち振る舞いを感じていました。
彼は神という存在と括っていいのかは迷うけれど、少なくとも平凡な存在ではない。
そんな領域にいるモノの感覚など、理解しようにも理解できない。
まぁ、それで言ったら閻魔大王だって普通ではないのですが。
"不思議"なものが言う不思議な事だからと言って、その全てを鵜呑みにする事もできない。こちらはこちらで、分からないなりに最善を尽くすほかない。
改めて根本的な事を考える。本当にそんなことが起こり得るのか?そもそもこの方が言っている曖昧な言葉は本当なのでしょうか?
嘘ではなくても、何かの方便かもしれないと疑ってしまうのも無理はない。
地蔵菩薩という存在の本質を考えると、いたずらに惑わすような悪質な方便は使わないでしょうが、その言葉通りとはどうしても思えないのです。
私の疑わしげな視線を動じず受け止めて、彼は静かに切り返しました。
「……あの子は特別な子でしょう」
──ああ、あなたもそうおっしゃるんですね。
善の塊のような地蔵菩薩。裏も含みも毒っ気の一つもないこの方が言うと、疑いたくても、真実味は帯びるばかりだ。
あの子が特別視される存在なのだとはとっくに分かっていることだったと言っても、うんざりとした気持ちになります。
「私だって特別に感じているんですよ」
「…だから」
だから、なんでしょう。特別だから感応しやすかったとでも言うんでしょうか。
気配が辿れるんでしょうか。足取りが残るんでしょうか。
──特別だから転生させてあげたとでも言うんでしょうか。
不快そうな顔を隠しもせずに受け答えすると、彼は苦笑していました。
閻魔大王は板挟みになって慌てるばかりだ。
それがもし故意になされた事にせよ、不慮の事故にしろ、"転生"は特別な事なんでしょうか。
特別な子になされる、特別な事なのか。
確かに、賽の河原の子供たちにとっては有難い救済措置です。あの世にやってきた大人の亡者にとっても、次の人生に向かうべく取られる前向きな措置だ。
転生と天国行きは悪い事ではなく、地獄に落ちる事は後ろ向きな事。
「…なんにしても…前代未聞だなあ…」と閻魔大王が頭を抱えると、数回のノック音が響いた後、その背後にある扉が開いた。
「いやまだかもしれないって話なんでしょう。とりあえず詳しい事、聞いてみないと」
扉を開いて、現れたのは篁さんだった。篁さんより背の低い男鬼を引っ張ってくると、その背中を押して入室した。
青ざめた顔をしている彼は、閻魔庁の者ではない。秦広庁で見かける獄卒の一人でした。
外まで会話が筒抜けだったのでしょうか。
彼がそわそわと落ち着きなくしている理由は、この異様な雰囲気に呑まれたから…という訳ではないようだ。
「彼、目撃情報持ってるそうですよ」
「なぜ秦広庁のあなたが?」
「い、いや、その…篁さんにおつかいを頼まれて…」
篁さんにほらほらと促されると、冷や汗をかきながら、視線をそらし物凄く言いづらそうに彼が証言してくれた。
自分にとって都合の悪いことを暴露されているというのに、篁さんは平然としていた。
閻魔殿にまで部下に足を運ばせて頼んだおつかいが何かなんて、決まってました。
最近の篁さんは漫画にかぶれていて、しかしこれでもとても忙しい人。
自分で来るのが難しいときはお願いしているんでしょう。
言わずとも察した私の事を篁さんも察して、お使いの詳細を説明することなく、次に進もうとする。
しかし私はそこでいったん手をかざして、進むのを止めてもらいます。
少しだけ考えてから、本題に入る前にひとつ質問をしてみることにする。
「篁さん元人間ですよね。あなたはご自分が転生できると思いますか?」
「私ですか」
何故そんな突飛な事を聞くのかときょとんとしていた篁さんだけど、この場でまさかなんの関係もない雑談をもちかけられたとも思わなかったのでしょう。冗談で返すでもなく、至極真面目に、簡潔に返答してくれました。
「いや〜転生した事もないし、正直わからないけですけど」
「まぁ、そりゃそうでしょうねえ」
「できても出来なくてもタダじゃ済まなそうだよね…」
転生歴がない事など分かっていました。分かり切った事を聞いた私に、分かり切った返答をした篁さん。閻魔大王もそれにうんうんと頷いていました。
篁さんは気にした様子もなく話を続けます。
「頑張ればできそう。でも頑張らないと出来無さそう?」
「あやふやですね」
「そりゃそうでしょ、試したこともなければ手違いを起こされたこともない」
それももっともな話でした。憶測でしか語れないなら、曖昧になるのも仕方のない話です。
分かり切った話の繰り返しになるのだとしても、それでも私は聞いておきたかった。
本人から明確な証言をとった訳ではない。
これも憶測でしかありませんが、あの子はもしかしたら一度転生を体験しているかもしれない子なんですから。
それに加えて"特別な子"だ。地蔵菩薩が含みのある言い方をするくらいには妙な存在だ。
だとしたら、何かしらの大きな力が、大きな意思が働いたとするなら。
摩訶不思議なことが起こっても、荒唐無稽だと言い切れないのかもしれないと。
「……あの子は特別なんですからね」
地蔵菩薩に向けて少し棘のある言い方をすると、彼は少し困ったように眉を下げてしまいました。
彼が諸悪の根源でないというなら、私のこれはただの八つ当たりにすぎません。
周囲もよく分からないやり取りを見て、漂う剣呑な雰囲気を察し、驚いたように私達を見ている。私はふうと息を小さく吐いて、胸の靄を逃し、やっと本題に入りました。
2.生と死─三年(三日)の空白
あの子がいなくなってからしばらくが経っていました。
一週間や二週間、酷い時にはぽっかり三ヶ月以上いなくなる時もあったので、慣れたことと言えば慣れたことです。
もっとも神隠しされたとわかる状態と、忽然と理由なく消えた状態では話が違うでしょうけど。
消えたのはおそらく、丁度私と早朝に話した直後のことで、あの後何があったのかと疑問に思わない訳ではない。心配に近い気持ちも抱くには抱きます。
ただ、失踪という事自体に大きく動揺する事がないのは、やはり慣れでした。
慣れているのは近くで過ごしてきた私や昔馴染ばかりで、閻魔大王は付き合いが長い方といえど、あまり耐性はない。
どこか不安そうな面持ちでこちらをちらちらと見遣るそのひとは、ずっと心配をしているようだった。
「ねえ鬼灯くん…落ち着いてきいてくれる?」
恐る恐る、こちらの機嫌を伺って、精一杯損ねないようにしながら話しかけて来る。
これは一連の流れがあったから腫物扱いをしているというよりも、別件で何かあったのだろうなと察する。
察しつつも、あえて気が付いたという事を知らせる必要もなく、ただ問いに対してだけ答えた。
閻魔大王が法廷でゲームをしたりと、堂々と怠けるのは常だ。
けれど、心配して上の空になっている時には、手は無意識に淡々と動くようだ。
このヒトは私がいくら尻を叩いても懲りないのに、あの子は妙な形で素晴らしい貢献をするなと不思議な気持ちでいた。
「いつだって私は落ち着いてますよ」
「嘘つけよ!君って静かに常時狂ってるタイプでしょ!?」
「静かに狂ってる鬼に地獄の多くを任せる閻魔大王もある意味狂ってますよね。大らかって言えばなんでもオブラートに包めますけど」
「きみはオブラートに包めるのに包もうともしないよね」
一通り思うがままにツッコミを入れた後、そうじゃなくてねと話を戻した閻魔大王は、場所を移そうと提案してきました。
確かに法廷で話すのは悪目立ちをする。耳傍立てる獄卒が行きかうのはどこだって一緒だったけど、その中でも特にここはお喋りをするのに適した場所ではない。
広々としすぎているし腰を落ち着ける場所もない。
この話をするならば、地蔵菩薩にも加わってもらった方がいいという事で、彼が居る元へと歩き出した。
通路に出ると、それまでの気の抜けた表情を一変させ、閻魔大王は神妙な面持ちで固い声を発する。どこかに留まるよりも、歩きながらの方がお互い逆に気楽でいられるようでした。
「もしかして…手違いで転生させちゃったかもって…亡者とかじゃなくて、賽の河原の子供でもなくて、獄卒の子を」
「……は?」
そんなの、前代未聞の事態でした。思わずぴたりと足を止めて閻魔大王を見あげると、
気まずそうに目を逸らされた。
確かにこんな話をされるのなら、冷静に聞ける事前に釘をさしたのも納得がいく。
賽の河原の子供にとっつかまって反乱を起こされたり、亡者に泣かされたり、酒を奪われたりとヘマをした獄卒は多くいれど、そんな大きな手違いを起こすことは早々にありません。
このレベルの手違いばかりが起こっていては、滅茶苦茶なことになって、とっくに地獄は揺るいでることでしょう。
そしておそらく、この様子だと他にも話をし難くする理由があるのだろう。
ちょうど立ち止まっていた私達の元へ地蔵菩薩の方からやってきてくれて、閻魔大王はフォローを求めるかのように彼へと視線を向けていた。
「それで、はっきりしてないけど、多分…その子って…」
「はい、恐らくは」
そして再びもごもごと口を開いたそのひとを見て、やはり釘をさしておいて妥当な話だったなと頷きました。懸命な判断です。
耳を疑うような話でした。もしも本当だとしたら、腸が煮えくり返る所じゃ済まされないような話でした。地獄が揺るぐ前に、私という存在が揺るぐようなお話です。
持っていた金棒をがつりと音を響かせながら床に立てると、閻魔大王は肩を震わせてた。
地蔵菩薩は困ったような顔を見せるばかりでした。
「…だとしたら、どこへ行くんです。元人間といえど、今は立派な鬼ですよ」
──もしかしたら転生したのはかもしれない。
寝耳に水のようなその話を聞いたとき、とてもじゃないけれどすぐに信じることは出来ず、まずはじめに疑いました。
信じたくないという話ではなく、実際信じられるような話ではないのです。
鬼は生きてはいない。純粋な地獄生まれの鬼であればあるほど、生者とはかけはなれている存在ということになる。
例えば秦広庁の篁さんなんかは元人間なので、まったく可能性がないとは言いません。
けれどあの子ぱ地蔵菩薩や閻魔大王に告げた通り、今はもう鬼なのです。
もし鬼火が溶けこんだばかりの大昔だったなら土台が不安定で、定着しきらなくて、鬼火が抜け出して再び肉体の活動が止んで亡者となり、それでお終いだったかもしれないけど。
「…もしかしたら定着していなかったってことも、ありえるんじゃないのかなあ」
「…そりゃ、確認するような手段もないですしね」
云千年という月日は定着させるに十分な接着剤で、起り得ない証明だと私は思っているけれど。
それでも知る手立てはない。
まだ不安定な状態だったのかもしれないと思って疑ったことなんて一度もなかった。
黄泉にやってきて、生活するのに精いっぱいで。
日々懸命に生きていればあっという間に時間は過ぎ去って、気が付いた時には十分な時間が経っていた。そんな"もしかしたら…"を考える余暇などなかったのです。
「でも、それにしたって」
どちらにせよ、あの子が人間の括りにされて、転生措置が施されたとしたのだとしたら、今頃腹から生れ落ちて赤ん坊になってしまっていることだろうけど。
「何故そんな話になったんです。手違いで転生なんて、そんな事自体流石にそうは起りません。本当にうっかりを起こしてしまったんですか」
深刻そうな割には話があやふやで、確証もない、かもしれないレベルの話し方だった。
だいたい地蔵菩薩が転生させると主に判断するのは、弱者…子供達で、全てが全てこの人の管轄だという話でもない。
あの子は子供ではない。成長期はつい最近まで来なかったけど、それでもとっくに成人に近い体をしていました。何故あえてこの方がこう言うのでしょう。
不躾だと思いつつも、まるで値踏みするように見つめる。
多くを語らず、静観を貫く地蔵菩薩は、静かに話した。
「かもしれない、なんとなく」
「…なんとなく?」
「そんな予感がしているだけ、ですね」
「…相手があの子であるということも、なんとなく?」
実際の所はどうあれ、なぜ第一に上げられたのがあの子なんでしょう。嫌な話です。
いつの時代も些細なミスから大きな不祥事まで後を絶たない。絶対の保証がされたものなどない事は承知ですが。
これが一介の獄卒…鬼の言うことであれば、そんな馬鹿な話が起こってたまるかと思わず一蹴したくなりますが、地蔵菩薩のような超常的な存在に言われると、私のような変哲もない鬼にはパッと否定することも出来ません。
ただ、事が起こった以上、"不思議な出来事"という一言で片つけることは出来ない。
どうにか事態を把握しなければならない。
あの子が体を持って活動していた以上、失踪する直前までの足取りは必ず残っているはずです。
消えた誰かがあの子でない鬼だった場合も同様です。雇用されているモノ達の誰が居る居ないの確認は取ろうと思えば取れます。
──結局漏れもなく調べた結果、"居ない"のはあの子だけ、という事で間違いがありませんでした。
改めて一室に三人で寄り集まり直し、私は腕を組みながら閻魔大王の報告を聞く。悪い予感は当たるものと言えばいいのでしょうか。半ば予想していた通りの事でした。
「確認してもらったけど、やっぱりちゃんどこにもいないって」
「天国は?現世に向かった形跡は?」
「どっちもないってさ。ワープなんて無理だし、最近規制厳しいし、目を盗んでっていうのも簡単じゃないと思う」
そりゃあそうだろうと思う。神だろうとなんだろうと、今は厳重に監視が行き届いています。
姿が見えないことを良いことに現世で悪巧みをしないよう細工したり、人間と恋に落ちないようにとルールを設けたり、現世とあの世が繋りを持つことに対して、地獄側はある程度慎重になっている。
ちょっとそこまでという感覚で出かけられる訳ではないのです。
目を光らせている者がいる以上、こっそりバレないようにというのは難しい話だ。
抜道が一切ない訳ではないでしょうけど、そこまでして悪巧みをしようとするものもあまりいないし、あの子に限ってはそんな高等なこと出来ないに違いありません。試みようとも思わないだろう。
「…本当にかもしれない、なんとなくなんですか」
じっと、閻魔大王の隣で静観している地蔵菩薩を見て訪ねる。
多くを語ろうとしない姿から、神聖なものの立ち振る舞いを感じていました。
彼は神という存在と括っていいのかは迷うけれど、少なくとも平凡な存在ではない。
そんな領域にいるモノの感覚など、理解しようにも理解できない。
まぁ、それで言ったら閻魔大王だって普通ではないのですが。
"不思議"なものが言う不思議な事だからと言って、その全てを鵜呑みにする事もできない。こちらはこちらで、分からないなりに最善を尽くすほかない。
改めて根本的な事を考える。本当にそんなことが起こり得るのか?そもそもこの方が言っている曖昧な言葉は本当なのでしょうか?
嘘ではなくても、何かの方便かもしれないと疑ってしまうのも無理はない。
地蔵菩薩という存在の本質を考えると、いたずらに惑わすような悪質な方便は使わないでしょうが、その言葉通りとはどうしても思えないのです。
私の疑わしげな視線を動じず受け止めて、彼は静かに切り返しました。
「……あの子は特別な子でしょう」
──ああ、あなたもそうおっしゃるんですね。
善の塊のような地蔵菩薩。裏も含みも毒っ気の一つもないこの方が言うと、疑いたくても、真実味は帯びるばかりだ。
あの子が特別視される存在なのだとはとっくに分かっていることだったと言っても、うんざりとした気持ちになります。
「私だって特別に感じているんですよ」
「…だから」
だから、なんでしょう。特別だから感応しやすかったとでも言うんでしょうか。
気配が辿れるんでしょうか。足取りが残るんでしょうか。
──特別だから転生させてあげたとでも言うんでしょうか。
不快そうな顔を隠しもせずに受け答えすると、彼は苦笑していました。
閻魔大王は板挟みになって慌てるばかりだ。
それがもし故意になされた事にせよ、不慮の事故にしろ、"転生"は特別な事なんでしょうか。
特別な子になされる、特別な事なのか。
確かに、賽の河原の子供たちにとっては有難い救済措置です。あの世にやってきた大人の亡者にとっても、次の人生に向かうべく取られる前向きな措置だ。
転生と天国行きは悪い事ではなく、地獄に落ちる事は後ろ向きな事。
「…なんにしても…前代未聞だなあ…」と閻魔大王が頭を抱えると、数回のノック音が響いた後、その背後にある扉が開いた。
「いやまだかもしれないって話なんでしょう。とりあえず詳しい事、聞いてみないと」
扉を開いて、現れたのは篁さんだった。篁さんより背の低い男鬼を引っ張ってくると、その背中を押して入室した。
青ざめた顔をしている彼は、閻魔庁の者ではない。秦広庁で見かける獄卒の一人でした。
外まで会話が筒抜けだったのでしょうか。
彼がそわそわと落ち着きなくしている理由は、この異様な雰囲気に呑まれたから…という訳ではないようだ。
「彼、目撃情報持ってるそうですよ」
「なぜ秦広庁のあなたが?」
「い、いや、その…篁さんにおつかいを頼まれて…」
篁さんにほらほらと促されると、冷や汗をかきながら、視線をそらし物凄く言いづらそうに彼が証言してくれた。
自分にとって都合の悪いことを暴露されているというのに、篁さんは平然としていた。
閻魔殿にまで部下に足を運ばせて頼んだおつかいが何かなんて、決まってました。
最近の篁さんは漫画にかぶれていて、しかしこれでもとても忙しい人。
自分で来るのが難しいときはお願いしているんでしょう。
言わずとも察した私の事を篁さんも察して、お使いの詳細を説明することなく、次に進もうとする。
しかし私はそこでいったん手をかざして、進むのを止めてもらいます。
少しだけ考えてから、本題に入る前にひとつ質問をしてみることにする。
「篁さん元人間ですよね。あなたはご自分が転生できると思いますか?」
「私ですか」
何故そんな突飛な事を聞くのかときょとんとしていた篁さんだけど、この場でまさかなんの関係もない雑談をもちかけられたとも思わなかったのでしょう。冗談で返すでもなく、至極真面目に、簡潔に返答してくれました。
「いや〜転生した事もないし、正直わからないけですけど」
「まぁ、そりゃそうでしょうねえ」
「できても出来なくてもタダじゃ済まなそうだよね…」
転生歴がない事など分かっていました。分かり切った事を聞いた私に、分かり切った返答をした篁さん。閻魔大王もそれにうんうんと頷いていました。
篁さんは気にした様子もなく話を続けます。
「頑張ればできそう。でも頑張らないと出来無さそう?」
「あやふやですね」
「そりゃそうでしょ、試したこともなければ手違いを起こされたこともない」
それももっともな話でした。憶測でしか語れないなら、曖昧になるのも仕方のない話です。
分かり切った話の繰り返しになるのだとしても、それでも私は聞いておきたかった。
本人から明確な証言をとった訳ではない。
これも憶測でしかありませんが、あの子はもしかしたら一度転生を体験しているかもしれない子なんですから。
それに加えて"特別な子"だ。地蔵菩薩が含みのある言い方をするくらいには妙な存在だ。
だとしたら、何かしらの大きな力が、大きな意思が働いたとするなら。
摩訶不思議なことが起こっても、荒唐無稽だと言い切れないのかもしれないと。
「……あの子は特別なんですからね」
地蔵菩薩に向けて少し棘のある言い方をすると、彼は少し困ったように眉を下げてしまいました。
彼が諸悪の根源でないというなら、私のこれはただの八つ当たりにすぎません。
周囲もよく分からないやり取りを見て、漂う剣呑な雰囲気を察し、驚いたように私達を見ている。私はふうと息を小さく吐いて、胸の靄を逃し、やっと本題に入りました。