第三十四話
2.生と死─未来あるもの
目が覚めたあと暫くして、はらりと一度涙が落ちた。
零れ落ちた理由は、この現状が耐え難かったからかもしれないし、死の恐怖に怯んでいたからかもしれない。
思い当る節はあれど、「どうして泣いてるの?」と誰かに聞かれた時、答えられるられる明確な理由は存在していなかった。
"理由なく"涙が止まらなくなった私を皆が困ったように見ていた。
怪我は未だ残るものの、受け答えはしっかりしていて、身体にも後遺症はない。
なのに壊れたように泣き続ける私の扱いに、両親も病院側も困らされていた。
私のソレは、明らかに生還できたことへの歓喜でもないし悲観でもない。
「辛い事や、痛い所があるんですか」と聞かれて、首を振ったのをみて更に判断に困っていた。
私も私で困っている。まさか、こんな風に涙が出る程打ちひしがれてるとは、自分でも気が付かなかった。
涙の理由は分からなくても、心当たりならある。
けれど、自死を選ばなければいけない状況に追い詰められてるなんて、そんな事を言えるはずもない。
元いた場所に帰りたいんですと言っても、誰にもその真意は通じない。
それは絶えることなく続き、眠りについてようやく涙が止まる。
泣いているせいか、慣れない病室のベッドで眠るせいか、その日私が寝つくのは遅かった。
眠りにつく事ができたのは、もう深夜の事だ。
「さん!?」と、切羽詰ったような大声が聞えて目が覚めた。
まず視界に広がったのはただの真っ暗闇で、夢現だった私はそこが病室だとすぐわからなかった。
どこか不思議な空間を漂っているような心地で、現実世界とはかけ離れた所にいるんだと漠然と思っていた。
だからこそ、非日常的なことを、躊躇いなく決断できたに違いない。
──そうだ、死ななければと思い立って、寝惚け眼でベッドから身を起こした。
私の姿は異様なものだったに違いない。夜間の巡回にやってきた看護師が、異変に気が付き声を上げた。
両手でめいっぱい喉を閉めて自分を壊そうとしている姿に血相を変えて、慌てて取り押さえる。
その頃には私も目が覚めて、サアッと血の気が引いていくのが分かった。
まるで現実感などなくて、自分がやった所業だとは思えない。
寝惚けていたあのままだったら、見つからないままだったなら。
そのまま死ねたのだろうと一瞬考えが過ると、また涙が零れ出た。
自分の手で絞殺するのにも限度がある。死ぬ事は案外簡単な事ではない。そんな怖い事は嫌だ。したくもない。私を止めた彼女を恨むはずもない。
むしろ止めてもらえて、ホッとしてしまったくらいだった。
おかげさまで私は傷一つないまま、ほとんど苦しまず、五体満足で生きてる。
弱虫な自分は、意識が朦朧とでもしていなければ、死のうと出来るはずがないのだ。
そんな決断なんて出来ないんだろうと改めて気が付かされて、惨めで余計に涙が溢れた。
次の日にやって来た私の両親は、医師から事のあらましと、容体の説明をされると泣いていた。
受け答えも問題なかった、検査も受けた、後遺症も残っていないだろうと診断が下された。
怪我が治る頃には退院して大丈夫だろうと結論が出て、ホッとしたのも束の間の事。
その宣告は両親にとって辛いものだった。
感情を制御する回路に支障が出てしまっているのかもしれない。心因的な問題があるかもしれない。もしかしたら、事故にあう直前から思いつめていた何かがあったかもしれないのだ。
両親と医者との間で色んな事が話し合われていたけれど、前者の方を強く疑われているようだった。
私のこの不安定さは事実、本当に内因的なもので、原因もわかっていること。でも、誰にも説明が出来ない"不思議な事"でもある。
再び実の親と再会しても、感動することも出来ず、懐かしいなとしか思えなかった。
暫くの間刺激をしないよう、面会禁止とされた事が救いだとすら思った。
人と会う事が制限されてしまえば、この無感動に苛まれずに済む。温度差が出ないように、取り繕う事にも限度があった。
この人生で親しかった友達たちに尋ねられても、来てくれて有難いなとは思っても、会えて嬉しいとは多分思えないだろうから、どうしたらいいのか困ってしまうのだ。
薄情だなと自分に心底呆れる。
けれど、この人生にある全てのものは結局私の中では既に「知識」や「経験」でしかなくなっていて、全てが他人事に代わっていた。
云千年の濃密さは、二桁しか過ごしてないこちらでの生活を上回ってしまったのだ。
人間だったは、あの時もう死んでしまったんだと認識していたからこそ出来た割り切り方でもあった。
彼女らを煩わせてしまって「申し訳ない」という罪悪感はわいても、昔、間にあったはずの情のようなものがもう感じられない。
が情を抱き、会いたいと心から願うひと達は、ここではない別のどこかにいる。
おそらく会いにいくための手段はわかってる。間違いはない。
ただ行動に移す勇気だけがわいてこない。
点滴の痕が未だに残っている自分の手をみる。生まれついて中途半端に脆く先が長くない身体だけど、今は十分に動かせる、まだ生きている。
事故にあったのは予想外の出来事であって、過不足なく過ごしていれば、私はそれなりに生きて暮らして行けたはずだった。
今の平均寿命に到底届かないんだと生まれついて決まっていても、短すぎることはない、そこそこの人生を生きられたはずだ。
事故死なんて思わぬ形でもなければ、私は「そこそこでもいいや」となんとか自分を納得させられたはずだったのだ。
そう納得するには、あの頃の私はまだ若すぎたんだろうと今なら思える。
自分だけが満たされないのではない。満足に生きられない人なんていくらでもいた。
それでもやっぱり当たり前のように生きられる人がズルくて悔しくて虚しいから、せめて自分は自分の限界値まで粘ってみたかったのだ。
「退院おめでとうございます」と、よく姿を見かけた看護師さんが穏やかに笑って見送ってくれた。
彼女とはたまに話すようになっていて、私も親しくなった彼女に心から笑みを返した。
作りものじゃない、自然な喜びを表現できる。
ここは夢幻の世界ではないし、彼女ら造り物じゃない。それと同じように、ここにいる私も喜怒哀楽を持った一人の"人間"だった。
駐車場には既に両親が車を停めていて、そこに乗り込めば、すぐに自分の家に帰ることができる。
退院する日。めでたい日。穏やかな日、日常。
過不足なく生きて、穏やかに暮らしているというこの満ち足りた現状を棄ててでも、いつか私は「死ぬ」ことを選ばなければならない。
いや、誰にも求められてなどいないのに、選びたいと思っている。
そんな事しない方が周囲のためになる。自分も怖い目に合わなくて済む。それでも。
「…会いたいなら、」
死ななければ。
"会いたい"の最後にはいつもその言葉が付き纏った。
私に死ぬ義務など存在しない。それはいつまでも変わらないままだ。
誰も私を裁く権利はなくて、死ぬように強制することはなくて、反対に生きることも義務つけられてはない。
全ては私の些事加減。常識、倫理、立場、そういう物に生死は左右されている。
私がもし死んだりすれば、それがどんな形だったとしても、家族も友人も悲しんでくれるだろうと思う。
でもずっといなくなったままなら、鬼灯くんもお香ちゃんも悲しんでくれると思う。
会いたい人は誰なのか?尊重したいのは誰なのか?
""が大切に思っているのは"と考えたら出る答えなんて一つしかないのに。
臆病な私はいつまでも選べない。
学業へ復帰して、遅れを取り戻すため我武者羅になって、時期が来れば就職する。
同じような一本の流れの中で、私もみんなと同じような道の上を歩いていた。
就労した後の私の働きぶりを見ると、昔の私を知る人は揃って驚く。
葛藤を振り払うように仕事に打ち込む姿は、前とは別人のようだと驚かれた。
鬼神迫るものがあったのだろう。
仕事に打ち込むことで、酔わないように誤魔化していたあの頃と同じことをしているなと気が付いた。
根は緩くて、葉鶏頭さんのように突き抜けてもなくて真面目でもなくて、
鬼灯くんのように優秀な仕事鬼でもなくて、お香ちゃんのように出来る器量よしでもない。
ただ没頭して、目の前の事に向かうしか出来ない。
だとしたらこのままいけば仕事に没頭しているうちに、あっという間に時間はすぎて、体の期限切れはすぐに来て、私はあっさりと死んでいくんだろうなとぞっとした。
その事に気が付いて、ふと顔を上げた頃には、もう季節が幾度も巡っていた。
「…暑い」
事故に合い、目を覚まして、両親を安堵させて泣かせて。
もう三年の時が経っていた。あの世の感性に毒されている私は、長いとも短いとも言えない。
けれど三年という月日は、何かを決断するには長すぎるなあと頭では理解できていた。
容体が悪化することもなく後遺症が残ることもなく、不安定だった精神面も安定して、晴れてこれで完治だとお墨付きをもらっていた。
非日常から日常へ戻るのはあっという間だ。通院する理由はもうとっくになくなっていた。
娘が事故にあったということで暫く青ざめていた家族も、ついでに私も、無事に今の暮らしに順応している。
じんわりと滲んだ額の汗が不快で、拭おうと顔を上げた。その時ちょうど瞳に差した太陽の眩しさに、目を細める。
人でごった返す街中で、視線を高くすると見知らぬ誰かと視線が合った。
大抵どちらからともなくそろっと逸らされるものだろう。
けれど、今回は相手にじっと凝視され、私もなんとなく外すに外せないままだった。
相手は行きかう人の間を縫って近づいてきて、もしかして知り合いだったかもしれないと思い至るも、心当たりが見つからない。
一直線にこちらへ歩いてきた彼女はやっぱり私に用があったみたいで、目の前で足を止めた。
私よりも背が低く、けれど見上げる彼女はどこか大人びている。なのにどこか幼くも感じられる。アンバランスな印象を受けた。
ヒールを履いていても尚私の視線よりも低い位置から見上げる彼女は、ぽつりと口を開く。
邪魔くさい私達二人の塊を、水を分けるようにして通行人は避けて歩いて行った。
「…ねえ」
「は、はい…?」
「あたし達、どこかで会ったことありますか」
あまりにも綺麗な女の子だった。綺麗な声、綺麗な肌。
少女というより、女性と言っていい年齢なのかもしれない。
華やかな容姿は、お香ちゃんをきっかけにして知り合いになった衆合地獄の子達で見慣れていたけど、拷問の一環…仕事とは言え彼女たちは誘惑するのがお仕事だったので、
妖艶で甘い毒のような雰囲気が所があった。
けれど、ただの人間である彼女からは純粋な美しか感じない。
相手が"ただの人間"であるからこそ、慣れているはずの私がここまで圧倒されるなんてと驚いた。
平均より随分飛びぬけている子なんだろうと思い至った瞬間、このシュチュエーションに引っかかりを覚えた。
もしかして美人局とかそういう類かと勘繰ってしまったけど、女の私に絡むというのはあるんだろうかと少し思案した。
知り合いの顔を順々に思い浮かべるけど、彼女に一切の覚えがない。
云千年過ごしていても、こちらの事は思い出というより"知識"として持ち越していたから、薄れてはいないのだ。
こんな時代だからそういうこともあるかもしれないと思い至り少し警戒する。
けれど、相手は首を傾げて少し引っかかったような様子を見せながらも、拍子抜けする程あっさりと踵を返してしまった。
「ごめんなさい、勘違いだったみたい」
長い髪を靡かせ、そのまま背を向けてしまった彼女の背になんと言葉をかけることも出来ず、ただ見送る。
変な裏はなくて、ただの人違いを起こしただけだったんだと納得して、私も目的地へと歩き出した。
好んで炎天下に晒されたくないけど、用事ができてしまえば仕方ない。
あの世は、天国と地獄に分かたれてから、土地の印象がスッと変わっていた。
太陽のない最近の地獄はある意味では天国だったなと、人間に舞い戻ってからたまに思う。
冷房がきいている建物に入りホッとする。
その後無事に必要な買い物を済ませて帰路につく。人違いを起こされたこと以外はなんの変哲もない一日が終わった。
──それから一ヶ月ほど経った頃だった。彼女の事なんてすっかり忘れて、忙しない日々を送っていた頃の事だ。
「…あっ」
休日、調べものをするため図書館に向かった時、席に座って本を読む女性が目に入った。
どこかで見たことがあるなと思うのに、思い出せない。
しかしまあ、綺麗な髪だなあ、と思った瞬間それが引き金になって思い出した。
私はあの女性に街中で声をかけられたことがある。
静かに、しかしけだるげに本を読んでいる彼女は確かにあの時の。
真夏の空の下で妙な遭遇をした彼女だった。
おおきな音を立てないように静かに着席する。離れすぎることもなく、近すぎることもない距離に。
ほどほどに混雑していた図書館では空席が疎らしかなく、彼女の近くになった事は、私の意図した事ではなかった。
「…あ」
彼女は気配に気が付くとちらりと視線をあげる。そして私の顔が目に入ると、ぱちりと目を瞬かせていた。
思わず零れてしまったそれ以上に声を発することもないまま視線を外して、私の手元にある本を見つけて凝視する。
一瞬の事ではない。暫くの間手元にある背表紙を見つめられ続ける。
あまりにも露骨に興味を示されて、なんとなく本を開く事も出来ない。
だから、思わず彼女に訪ねてしまった。
変わってる子だなあと思う。だって、この背表紙に印されたタイトルは。
「…こういうのに、興味あるんですか?」
分厚い本にはデカデカと「地獄」という文字が印刷されている。
他にも何冊も持ってきたけれど、全てその類のものだった。
民話集でも絵本でも伝記でもなんでも、それ関連のものであればなんでも持ってきた。
ともすればおどろおどろしく、普通の感性を持っていれば引いてしまいそうなソレに、普通そうな若者が興味を示すとは思わなかった。
怖い話で涼を取るという文化はあるにはあるけど、冷やすには物足りない物だと思う。
「うん」
こくりと肯定されて、私は驚いた。
こんな女の子が、本当にこういうものに興味を示すとは思わなかった。
頭からつま先まて抜かりなく整えられている彼女の手元には、旅行のガイドブック。とある国の歴史の本。なんの変哲もない並びだ。
むしろ年相応の物を持ってると思う。卒業旅行か何かのためだろうか。確かにそのくらいの年ごろに見えなくもない。
それだけ見たら、海外旅行にでもいくための下調べかと思う並び。
しかしその予想は外れ、その下からスッと彼女が一冊の本を引き出して見せてくると、私は再び驚かされる事になる。
「…死後の世界について」
あまりにも異質で、未来ある若者には不釣り合いな一冊。私が唖然としていると、「それと、ちょっと似てるね」となんでもないように彼女が言った。
それ、と言いながら指を指さしているのは、私が持つ地獄の本。
多分彼女の本には主に天国のようなものが描写されているんだろうなと思うと、いやあ似てるかなあ…と少し疑問に思った。
天国と地獄では大差がある。
どちらも死後の世界という共通点があるかと考えたら、ようやく腑に落ちて大きく頷いた。
「奇遇ですね」
じっと上目にこちらを見ながら彼女が言った言葉は、お互いが手に取った本が類似していることだけを指して言っているのでない。
再び遭遇したこの状況に対しても言っているのだと気が付いて、そうだね、偶然だねと、私は笑いを零して頷いた。
2.生と死─未来あるもの
目が覚めたあと暫くして、はらりと一度涙が落ちた。
零れ落ちた理由は、この現状が耐え難かったからかもしれないし、死の恐怖に怯んでいたからかもしれない。
思い当る節はあれど、「どうして泣いてるの?」と誰かに聞かれた時、答えられるられる明確な理由は存在していなかった。
"理由なく"涙が止まらなくなった私を皆が困ったように見ていた。
怪我は未だ残るものの、受け答えはしっかりしていて、身体にも後遺症はない。
なのに壊れたように泣き続ける私の扱いに、両親も病院側も困らされていた。
私のソレは、明らかに生還できたことへの歓喜でもないし悲観でもない。
「辛い事や、痛い所があるんですか」と聞かれて、首を振ったのをみて更に判断に困っていた。
私も私で困っている。まさか、こんな風に涙が出る程打ちひしがれてるとは、自分でも気が付かなかった。
涙の理由は分からなくても、心当たりならある。
けれど、自死を選ばなければいけない状況に追い詰められてるなんて、そんな事を言えるはずもない。
元いた場所に帰りたいんですと言っても、誰にもその真意は通じない。
それは絶えることなく続き、眠りについてようやく涙が止まる。
泣いているせいか、慣れない病室のベッドで眠るせいか、その日私が寝つくのは遅かった。
眠りにつく事ができたのは、もう深夜の事だ。
「さん!?」と、切羽詰ったような大声が聞えて目が覚めた。
まず視界に広がったのはただの真っ暗闇で、夢現だった私はそこが病室だとすぐわからなかった。
どこか不思議な空間を漂っているような心地で、現実世界とはかけ離れた所にいるんだと漠然と思っていた。
だからこそ、非日常的なことを、躊躇いなく決断できたに違いない。
──そうだ、死ななければと思い立って、寝惚け眼でベッドから身を起こした。
私の姿は異様なものだったに違いない。夜間の巡回にやってきた看護師が、異変に気が付き声を上げた。
両手でめいっぱい喉を閉めて自分を壊そうとしている姿に血相を変えて、慌てて取り押さえる。
その頃には私も目が覚めて、サアッと血の気が引いていくのが分かった。
まるで現実感などなくて、自分がやった所業だとは思えない。
寝惚けていたあのままだったら、見つからないままだったなら。
そのまま死ねたのだろうと一瞬考えが過ると、また涙が零れ出た。
自分の手で絞殺するのにも限度がある。死ぬ事は案外簡単な事ではない。そんな怖い事は嫌だ。したくもない。私を止めた彼女を恨むはずもない。
むしろ止めてもらえて、ホッとしてしまったくらいだった。
おかげさまで私は傷一つないまま、ほとんど苦しまず、五体満足で生きてる。
弱虫な自分は、意識が朦朧とでもしていなければ、死のうと出来るはずがないのだ。
そんな決断なんて出来ないんだろうと改めて気が付かされて、惨めで余計に涙が溢れた。
次の日にやって来た私の両親は、医師から事のあらましと、容体の説明をされると泣いていた。
受け答えも問題なかった、検査も受けた、後遺症も残っていないだろうと診断が下された。
怪我が治る頃には退院して大丈夫だろうと結論が出て、ホッとしたのも束の間の事。
その宣告は両親にとって辛いものだった。
感情を制御する回路に支障が出てしまっているのかもしれない。心因的な問題があるかもしれない。もしかしたら、事故にあう直前から思いつめていた何かがあったかもしれないのだ。
両親と医者との間で色んな事が話し合われていたけれど、前者の方を強く疑われているようだった。
私のこの不安定さは事実、本当に内因的なもので、原因もわかっていること。でも、誰にも説明が出来ない"不思議な事"でもある。
再び実の親と再会しても、感動することも出来ず、懐かしいなとしか思えなかった。
暫くの間刺激をしないよう、面会禁止とされた事が救いだとすら思った。
人と会う事が制限されてしまえば、この無感動に苛まれずに済む。温度差が出ないように、取り繕う事にも限度があった。
この人生で親しかった友達たちに尋ねられても、来てくれて有難いなとは思っても、会えて嬉しいとは多分思えないだろうから、どうしたらいいのか困ってしまうのだ。
薄情だなと自分に心底呆れる。
けれど、この人生にある全てのものは結局私の中では既に「知識」や「経験」でしかなくなっていて、全てが他人事に代わっていた。
云千年の濃密さは、二桁しか過ごしてないこちらでの生活を上回ってしまったのだ。
人間だったは、あの時もう死んでしまったんだと認識していたからこそ出来た割り切り方でもあった。
彼女らを煩わせてしまって「申し訳ない」という罪悪感はわいても、昔、間にあったはずの情のようなものがもう感じられない。
が情を抱き、会いたいと心から願うひと達は、ここではない別のどこかにいる。
おそらく会いにいくための手段はわかってる。間違いはない。
ただ行動に移す勇気だけがわいてこない。
点滴の痕が未だに残っている自分の手をみる。生まれついて中途半端に脆く先が長くない身体だけど、今は十分に動かせる、まだ生きている。
事故にあったのは予想外の出来事であって、過不足なく過ごしていれば、私はそれなりに生きて暮らして行けたはずだった。
今の平均寿命に到底届かないんだと生まれついて決まっていても、短すぎることはない、そこそこの人生を生きられたはずだ。
事故死なんて思わぬ形でもなければ、私は「そこそこでもいいや」となんとか自分を納得させられたはずだったのだ。
そう納得するには、あの頃の私はまだ若すぎたんだろうと今なら思える。
自分だけが満たされないのではない。満足に生きられない人なんていくらでもいた。
それでもやっぱり当たり前のように生きられる人がズルくて悔しくて虚しいから、せめて自分は自分の限界値まで粘ってみたかったのだ。
「退院おめでとうございます」と、よく姿を見かけた看護師さんが穏やかに笑って見送ってくれた。
彼女とはたまに話すようになっていて、私も親しくなった彼女に心から笑みを返した。
作りものじゃない、自然な喜びを表現できる。
ここは夢幻の世界ではないし、彼女ら造り物じゃない。それと同じように、ここにいる私も喜怒哀楽を持った一人の"人間"だった。
駐車場には既に両親が車を停めていて、そこに乗り込めば、すぐに自分の家に帰ることができる。
退院する日。めでたい日。穏やかな日、日常。
過不足なく生きて、穏やかに暮らしているというこの満ち足りた現状を棄ててでも、いつか私は「死ぬ」ことを選ばなければならない。
いや、誰にも求められてなどいないのに、選びたいと思っている。
そんな事しない方が周囲のためになる。自分も怖い目に合わなくて済む。それでも。
「…会いたいなら、」
死ななければ。
"会いたい"の最後にはいつもその言葉が付き纏った。
私に死ぬ義務など存在しない。それはいつまでも変わらないままだ。
誰も私を裁く権利はなくて、死ぬように強制することはなくて、反対に生きることも義務つけられてはない。
全ては私の些事加減。常識、倫理、立場、そういう物に生死は左右されている。
私がもし死んだりすれば、それがどんな形だったとしても、家族も友人も悲しんでくれるだろうと思う。
でもずっといなくなったままなら、鬼灯くんもお香ちゃんも悲しんでくれると思う。
会いたい人は誰なのか?尊重したいのは誰なのか?
""が大切に思っているのは"と考えたら出る答えなんて一つしかないのに。
臆病な私はいつまでも選べない。
学業へ復帰して、遅れを取り戻すため我武者羅になって、時期が来れば就職する。
同じような一本の流れの中で、私もみんなと同じような道の上を歩いていた。
就労した後の私の働きぶりを見ると、昔の私を知る人は揃って驚く。
葛藤を振り払うように仕事に打ち込む姿は、前とは別人のようだと驚かれた。
鬼神迫るものがあったのだろう。
仕事に打ち込むことで、酔わないように誤魔化していたあの頃と同じことをしているなと気が付いた。
根は緩くて、葉鶏頭さんのように突き抜けてもなくて真面目でもなくて、
鬼灯くんのように優秀な仕事鬼でもなくて、お香ちゃんのように出来る器量よしでもない。
ただ没頭して、目の前の事に向かうしか出来ない。
だとしたらこのままいけば仕事に没頭しているうちに、あっという間に時間はすぎて、体の期限切れはすぐに来て、私はあっさりと死んでいくんだろうなとぞっとした。
その事に気が付いて、ふと顔を上げた頃には、もう季節が幾度も巡っていた。
「…暑い」
事故に合い、目を覚まして、両親を安堵させて泣かせて。
もう三年の時が経っていた。あの世の感性に毒されている私は、長いとも短いとも言えない。
けれど三年という月日は、何かを決断するには長すぎるなあと頭では理解できていた。
容体が悪化することもなく後遺症が残ることもなく、不安定だった精神面も安定して、晴れてこれで完治だとお墨付きをもらっていた。
非日常から日常へ戻るのはあっという間だ。通院する理由はもうとっくになくなっていた。
娘が事故にあったということで暫く青ざめていた家族も、ついでに私も、無事に今の暮らしに順応している。
じんわりと滲んだ額の汗が不快で、拭おうと顔を上げた。その時ちょうど瞳に差した太陽の眩しさに、目を細める。
人でごった返す街中で、視線を高くすると見知らぬ誰かと視線が合った。
大抵どちらからともなくそろっと逸らされるものだろう。
けれど、今回は相手にじっと凝視され、私もなんとなく外すに外せないままだった。
相手は行きかう人の間を縫って近づいてきて、もしかして知り合いだったかもしれないと思い至るも、心当たりが見つからない。
一直線にこちらへ歩いてきた彼女はやっぱり私に用があったみたいで、目の前で足を止めた。
私よりも背が低く、けれど見上げる彼女はどこか大人びている。なのにどこか幼くも感じられる。アンバランスな印象を受けた。
ヒールを履いていても尚私の視線よりも低い位置から見上げる彼女は、ぽつりと口を開く。
邪魔くさい私達二人の塊を、水を分けるようにして通行人は避けて歩いて行った。
「…ねえ」
「は、はい…?」
「あたし達、どこかで会ったことありますか」
あまりにも綺麗な女の子だった。綺麗な声、綺麗な肌。
少女というより、女性と言っていい年齢なのかもしれない。
華やかな容姿は、お香ちゃんをきっかけにして知り合いになった衆合地獄の子達で見慣れていたけど、拷問の一環…仕事とは言え彼女たちは誘惑するのがお仕事だったので、
妖艶で甘い毒のような雰囲気が所があった。
けれど、ただの人間である彼女からは純粋な美しか感じない。
相手が"ただの人間"であるからこそ、慣れているはずの私がここまで圧倒されるなんてと驚いた。
平均より随分飛びぬけている子なんだろうと思い至った瞬間、このシュチュエーションに引っかかりを覚えた。
もしかして美人局とかそういう類かと勘繰ってしまったけど、女の私に絡むというのはあるんだろうかと少し思案した。
知り合いの顔を順々に思い浮かべるけど、彼女に一切の覚えがない。
云千年過ごしていても、こちらの事は思い出というより"知識"として持ち越していたから、薄れてはいないのだ。
こんな時代だからそういうこともあるかもしれないと思い至り少し警戒する。
けれど、相手は首を傾げて少し引っかかったような様子を見せながらも、拍子抜けする程あっさりと踵を返してしまった。
「ごめんなさい、勘違いだったみたい」
長い髪を靡かせ、そのまま背を向けてしまった彼女の背になんと言葉をかけることも出来ず、ただ見送る。
変な裏はなくて、ただの人違いを起こしただけだったんだと納得して、私も目的地へと歩き出した。
好んで炎天下に晒されたくないけど、用事ができてしまえば仕方ない。
あの世は、天国と地獄に分かたれてから、土地の印象がスッと変わっていた。
太陽のない最近の地獄はある意味では天国だったなと、人間に舞い戻ってからたまに思う。
冷房がきいている建物に入りホッとする。
その後無事に必要な買い物を済ませて帰路につく。人違いを起こされたこと以外はなんの変哲もない一日が終わった。
──それから一ヶ月ほど経った頃だった。彼女の事なんてすっかり忘れて、忙しない日々を送っていた頃の事だ。
「…あっ」
休日、調べものをするため図書館に向かった時、席に座って本を読む女性が目に入った。
どこかで見たことがあるなと思うのに、思い出せない。
しかしまあ、綺麗な髪だなあ、と思った瞬間それが引き金になって思い出した。
私はあの女性に街中で声をかけられたことがある。
静かに、しかしけだるげに本を読んでいる彼女は確かにあの時の。
真夏の空の下で妙な遭遇をした彼女だった。
おおきな音を立てないように静かに着席する。離れすぎることもなく、近すぎることもない距離に。
ほどほどに混雑していた図書館では空席が疎らしかなく、彼女の近くになった事は、私の意図した事ではなかった。
「…あ」
彼女は気配に気が付くとちらりと視線をあげる。そして私の顔が目に入ると、ぱちりと目を瞬かせていた。
思わず零れてしまったそれ以上に声を発することもないまま視線を外して、私の手元にある本を見つけて凝視する。
一瞬の事ではない。暫くの間手元にある背表紙を見つめられ続ける。
あまりにも露骨に興味を示されて、なんとなく本を開く事も出来ない。
だから、思わず彼女に訪ねてしまった。
変わってる子だなあと思う。だって、この背表紙に印されたタイトルは。
「…こういうのに、興味あるんですか?」
分厚い本にはデカデカと「地獄」という文字が印刷されている。
他にも何冊も持ってきたけれど、全てその類のものだった。
民話集でも絵本でも伝記でもなんでも、それ関連のものであればなんでも持ってきた。
ともすればおどろおどろしく、普通の感性を持っていれば引いてしまいそうなソレに、普通そうな若者が興味を示すとは思わなかった。
怖い話で涼を取るという文化はあるにはあるけど、冷やすには物足りない物だと思う。
「うん」
こくりと肯定されて、私は驚いた。
こんな女の子が、本当にこういうものに興味を示すとは思わなかった。
頭からつま先まて抜かりなく整えられている彼女の手元には、旅行のガイドブック。とある国の歴史の本。なんの変哲もない並びだ。
むしろ年相応の物を持ってると思う。卒業旅行か何かのためだろうか。確かにそのくらいの年ごろに見えなくもない。
それだけ見たら、海外旅行にでもいくための下調べかと思う並び。
しかしその予想は外れ、その下からスッと彼女が一冊の本を引き出して見せてくると、私は再び驚かされる事になる。
「…死後の世界について」
あまりにも異質で、未来ある若者には不釣り合いな一冊。私が唖然としていると、「それと、ちょっと似てるね」となんでもないように彼女が言った。
それ、と言いながら指を指さしているのは、私が持つ地獄の本。
多分彼女の本には主に天国のようなものが描写されているんだろうなと思うと、いやあ似てるかなあ…と少し疑問に思った。
天国と地獄では大差がある。
どちらも死後の世界という共通点があるかと考えたら、ようやく腑に落ちて大きく頷いた。
「奇遇ですね」
じっと上目にこちらを見ながら彼女が言った言葉は、お互いが手に取った本が類似していることだけを指して言っているのでない。
再び遭遇したこの状況に対しても言っているのだと気が付いて、そうだね、偶然だねと、私は笑いを零して頷いた。