第三十三話
2.生と死─ざまあみろ
あの子が…が忽然と姿を消したという話は、親しいもの達の口から口へと渡るついでにすぐに関係ない周囲へも広まりました。
ただの獄卒も耳傍をてて、あの子を好いてる神々は心配して、友好的に接してくれていた者たちは心配して。昔馴染はというと、またかという微妙な反応を見せて、苦笑していました。
彼らに心配がない訳ではないでしょうけど、事情あってあの子が失踪することは定期的にある事だったので、今回はどれくらいで帰ってくるだろうかと呆れ顔で話すだけでした。
概ね想定した反応だった。
ただその失踪について、怪談奇談のように一部で怪しく語り継がれるようになった事に関しては、疑問に思わざるを得ない。
ほんの些細な引っかかりを覚えつつも、私達は皆、あの子が消えても各々自分の日常を過ごしていた。あの子の抜け穴のせいで滞る業務はともかくとして。
消えた所で、営みに支障が出るものは、私含め誰ひとりいませんでした。
「消えちゃったわ」
それは、目の前にいる女性も同じ事だった。
くすくすと嬉しそうな、楽しそうな笑みを抑えきれず零して、彼女は失踪を語る。
長時間椅子に座りこんで、机仕事に追われている私を憚る気はないようでした。
山になっている紙束など見えていないようで、ただ私の筆を動かす手元だけを目で追っていた。
世間一般で言えば失踪なんてとんでもない事で、決して笑うものではない。
だというのに、ほらみたことかとでも言いたげな彼女…リリスさんは、無邪気な子供のように笑うのでした。
各地各国を歩き回るリリスさんでしたけど、日本の地獄にやってくる頻度は、気に入りのあの子がいるせいで高かった。
消えてしまったなら、これからその足は途絶えるだろうか。今回の来訪を最後に遠のき始めるだろうかと、頭の片隅ではどうでも良い事を考えていました。
彼女の愉しみに、私は同調する事は毛程も出来なかったのです。
「みんながいうみたいに、家出でも誘拐でも蒸発でもなんでもないと思うの」
「実際の所なんて、分かりませんよ。書置きも何もありませんでしたから。というか蒸発って」
「壊れちゃったのか、それとも何かに耐えられなくて逃げ出してしまったのかしら」
「…さあ」
「どっちにしたって一緒のことだと思わない?」
耐えられなくなった。あなたが責めるから。傷付けるから。
もしも原因がそれだったというなら、逃げても消えても家出でもなんでも、同じ話だとリリスさんは語る。
責めるようなことを言う割に、特に怒っている様子もなく、その声色はひたすらに楽し気でした。
途中部屋に出入りする獄卒も気にならないようで、話に夢中になっている。
気にしているのは、扉を開いた先にいた、思わぬ客人に釘付けになる獄卒ばかりで、彼らはちらほらと彼女に好奇の視線を送る。
だというのに、彼女はまるでそれに気が付かない。
慣れているから流しているのか、夢中になって気が付いていないのか、今回ばかりは分かりませんでした。
以前、ズルいから意地悪をしたのだと語っていた事を思い出した。
今回もそうなのだろうか。ざまあみろと思っているのかもしれません。
逃げられて良い気味だと。基本はさっぱりと奔放なひとで、少なくとも誰彼かまわず恨みをぶつけるような性根はしてはいない。
恨まれる程に私が気に障ったのか、それともただ悪意なく、無邪気なだけなのか。
私は掴みかねていました。
「あなたは誰の味方をしたいんですか。責めたいんですか、心を救いたいんですか、愛したいんですか」
リリスさんの気に入りのあの子の援護をしたいのか、あの子を苦しめた私を責めたいのか、ただ冷かして遊びたいのか。その真意は分かるようで分からない。
猫のように気まぐれなひとでした。
私が話しながら、筆を動かす手を止めないのは、時間に追われているせいでもあったし、顔を上げる気になれなかったせいでもある。
リリスさんは男性を愛する人だった。私にも当然その食指は動いて。
リリスさんの言葉を借りるなら、大切なものを壊してしまった…逃げられてしまった私という男を、女性として慰めてくれようとしている、という可能性もなくはないのです。
例えそれが恋敵のような存在であっても、彼女は等しく愛することでしょう。
机についたリリスさんの手の平が視界の端に映る。艶やかな爪が、乱雑な机の上に華を落した。
「その全部に決まってるわ」
あなたたちが可愛いし、愛しいし、楽しいし、見ていると面白いしと笑うリリスさん。
声だけで想像が出来るから、あえてその表情を伺う気にもなれませんでした。
誰だって彼女のように奔放になりきれたなら、きっと難しい事にはなっていないのだろうと溜息をつきそうになる。
「ねえ鬼灯様、あの間ね、あの子があたしの所に縋りにきてくれたのよ」
「…」
「あなたが責めるから、よく分からなくて苦しくて先が不安で」
子供が手柄を無邪気に自慢するように、嬉々としてその事実を話してくれた。
私はそれに少しだけ呆れて、ここで初めて手を止めて聞き返しました。
ペンを置いて彼女を見あげる。座る私は、自然と自分よりも背の低い彼女を見あげる形になっていました。
「…それで、助けてさしあげたんですか」
悪魔に縋るなんてあまり喜ばしいことではない。本人にとっては嬉しいことなのかもしれませんけど、力無き人間や鬼が悪魔に縋ってしまうなど、大問題です。
けれど、彼女の唇が紡ぐ返答は聞かずとも分かっていた。
本来ならば悪魔は願いを聞き届ける存在だ。だというのに、今回の状況は普通とは種が違っていて…そして当事者がリリスさんとあの子となると、展開は変わるだろうと予想がついた。
「あげないわよ。尽くすより尽くされたいもの」
そうだろうなと思いました。的中しすぎていて、当てた事を喜ぶどころか、どこかうんざりするくらいでした。
察するに、願いと称する程大げさなものではなかったのだろう。多分あの子が求めたのは恋情ではないにしろ、リリスさんからの感情の応酬でした。
弱っている自分に、優しくしてくれる心がほしかったのです。苦しくて縋るというのなら、きっとそうです。
しかし、リリスさんがそんなものを求められて、ただ応えてくれるはずがありません。
お互いが求め合うならともかく、彼女は慈愛の女神様ではない。
あの子が自分を愛してくれる訳でもないのに、一途に尽くすなど彼女の柄ではない。
私が放したペンを拾い、手のひらで転がして手遊びを始めた彼女は、どこまでもこちらを憚らなかった。
「まあ、悪魔が見返りなく尽くすなんて、想像つきませんし」
「そうなのよ。少しのご褒美もないまま働きかけるなんて、それこそあたし天使でも神様でもないもの」
彼女がひたむきに尽くす姿というのも想像がつかない物だし、彼女自身も自覚している所なようでした。
旦那様であるベルゼブブさんに買わせた山のような品物、節目節目で送られてくる世界中の殿方からの貢物。煌びやかで華やかなソレらは、どれも価値あるものばかりでした。
そういう部分だけを切り取って見ても、彼女は「尽くされる」女性だし、本人も「尽くされることを喜ぶ」性質なのだろうと分かる。
まあ、女性全般にそういう傾向があるのかもしれませんけど。
そもそもあの子自身、尽くすよりも尽くされるような性質なのですから、見返りを求めた所で不毛です。
いえ、世話を焼かれる性質といえばいいのでしょうか。
あの子が尽くす側に回ることがあったとして、それはほんの気まぐれなもので、全身全霊をかけた心からの物ではないに違いありません。
きっとそこにはリリスさんが望むような熱は孕まれていない。あの子の包容力なんてたかが知れていました。
ことんと音を立て、見飽きてしまったらしいペンを机に戻すと、今度は私と視線合わせた。
「ねえ、後悔してる?」
「するはずがありませんよ」
「どうしてそう言い切れるの。帰ってこないかもしれないのに」
帰ってこないかもというリリスさんの中では、あの子が自分の意志で逃げたんだと半ば確信しているようでした。
それとも、悪戯に惑わそうとしているのかもしれません。
どちらにせよ、置手紙もなく忽然と消えてしまったのだから、リリスさんの言う事も私が言う事も、全てが憶測にすぎません。
しかしそうだと仮定しても、どんな事情があろうとも。
「帰ってくるだろうから、後悔するはずがない」
と、私は迷わず言い切りました。
仕事する事を諦めた私の両手は腕を組み、背もたれは音を立てる。
あの子が自らの意志で消えることはないでしょう。いくら責めたてられて苦しくても、最後には私を許容することでしょう。
高が知れている子供じみた気質を持つあの子の包容力も、条件によっては少し事情が違ってきます。
ある一点を害さない限り、大事な物を取り上げようとしない限り。
きっと私だけは受け入れようとする。本人は無自覚ですけど、拒絶するという選択肢がまずないのでした。
それは「一番最初に出会い暮らした」私だからなんだろう。雛の擦り込みのように染みついてると言ってもいい。
家族を理想と語り、心のどこかで切れない縁を望み、疑うことなく、違和感を抱かず隣にい続けて。それはまるで確かに家族のようでした。
家族間での絶縁や捨て子などもよくある話だ。けれど、産み、育て、育てられて。血縁が傍にいるのは自然なことでした。
親は子を育て、放棄しないのが"生き物"全般の大概の当たり前で、絶やさないための本能のようなもの。
血の繋がりはなくても、赤の他人でも、名前のつかない関係でも。無自覚の擦り込みは早々には消えません。
それでも、絶対なんてあり得ない。
無自覚であることが許せず、なし崩しなんて嫌で、何かの拍子に崩れてしまうかもしれない危うい状態が我慢ならず、留めたいと足掻いてるのは、私の子供じみた我儘だ。
──当然のことにしてやろうと、言葉を尽くしてきたのは私の身勝手でした。
私の確信を聞かされると、リリスさんは先ほどまでの無邪気を消して、少し残念そうにしていました。それでも楽しそうなのは変わりません。
「お互い一途でひたむき。一直線」
「一直線?」
「あたしはフラれっぱなしで寂しいわ」
曲げない私に、リリスさんは落胆したように憂いを帯びた溜息をついた。心底気にしている風ではなかったけど、つまらなそうにしている。
仕事を途中放棄した私に気が付いた獄卒の幾人かは困ったような顔をしていて、けれどただならぬ空気を察し、何も言えないまま持ち場へと戻って行く。
私も私で彼らを憚る事が出来ないのだから、リリスさんと何も変わらないなと気が付く。
彼女は全然こちらを構ってくれないと言うけれど、結構頻繁に出かけているし、ある意味随分構っていると思うんですけど。
アポなしで突撃される事の多い私はまぁともかく、あの子とは個人的に出かけて、連絡だって取りあっているのも知っている。
「別にあの子は私の所に戻ってくるなんて言っていませんよ、残念なことに」
そう断言できたならいいのですけど。さっきまでの強気を一転し、弱気な発言を零したのを聞き、少し意外そうに瞳を瞬かせていました。
ひらりと一番上に重ねられた紙の一枚を指先でつまみ上げて、途中で止まった自分の筆跡を眺めた。話ながら、頭の片隅ではこの山をどう片つけた物かと考えている。
彼女がお喋りに満足する時はいつ来るのでしょう。いつかは来ると分かっているから、それなら待った方が賢いだろうと私も手を止めていた。
「じゃあどこに帰ってくるの」
「あなたの所」
「そういう風には思えないけど」
「お香さんのところ、ミキさんの所、閻魔大王のところ、あの子に関わりのある所全部の下に」
「ああ…そういう事。あたしにも負けず劣らず気が多い子なのね」
「まったくですね。その上好かれやすい子ですから」
そう付け足すと、意外そうにしていた瞳は細められ、納得したようでした。
身に覚えがある話なのでしょう。リリスさんだって特別あの子を好いている。
彼女は白い指先で机をなぞり、何事かを描く。一つ、二つ、三つ。何かを順に数えているようでした。
「じゃあ鬼灯様の所にも帰ってくるのね、あなたが一番じゃなくても」
一番、という言葉を使われたのを聞いて、引っかかりを覚えた。
立場も性別も関係なく、意志あるものが欲求する代表的な物なのかもしれない。
例えば恋に落ちた時。自分を殺し、二番目でいいと心から言えるのは稀な事だと、欲深い亡者を見てつくづく思わされていました。
地獄に落される罪人なら尚更欲深く、潔白である亡者だってそういう物でした。
人生の節目節目で、大なり小なり欲張りになっていた。
それ自体はとても自然な事で、罪ではないけれど。
天国行が決まるほどの…例えばあの正直者の、花咲爺さんほどの無欲な人間は希少だ。
ここであえて私はリリスさんに倣った例えを使って話した。
リリスさんのように指先をなぞらせるのではなく、自分の人差し指をなんとなしに一本立ててみて、じっと眺めながら。
「少なくとも、あの子を望んでるのも、あの子の結ばれてる縁も、私が一番強いと自負しています」
それだけは疑いようがない。この執念に勝るものなどあるはずがない。
これからどれだけ月日が流れようと、私が一番最初に見つけて、共に時間を積み重ねて、そういう事実を、後から来たものが覆せるはずもないのです。
想い合うのに時間は関係ないと言うけど。時間をかけて少しずつ知った悪癖や思考の癖など、一朝一夕で培えるものではない。
現時点で、あの子の理解者も何もかも、驕りでもなんでもなく、私が一番だと言えました。
これに限っては、一番であることに固執していた訳ではないのですが、それが有利に働くというならいくらでも主張していきましょう。
あの子と一番近いのも、一番望む存在も私なんだと。私のために帰ってくる訳ではないけれど、戻ってきて、一番に飛びこむのは私の元なのだと。
満足して、指を折り曲げ下げてしまった私の手の平の上に、リリスさんの手が重ねられた。それはあまりにも自然な動作で、蠱惑する女性の色は見えない。
底の方に隠してしまっているのか、そこには本当に色心などないのか。
「あの子は特別で、望まれてる子です」
「色んなひとたちに好かれてるものね。それだけ魅力的な子なんだわ」
「いえ、人望という意味ではなく…それもあるのかもしれませんけど。リリスさんだってわかっているんでしょう。あなたはとてもお強いから。…私は一介の鬼です、その辺は分かり切れない事ですけど」
好かれやすいという体質を理解しているリリスさんなら分からないはずがないと視線で釘をさすと、リリスさんは首を横に振って緩々と否定した。
「鬼灯様だってとても強いわ。特別な術が使える訳じゃなくても、神格がある訳じゃなくても。あたしみたいな悪魔でも特別力あると言われるくらいなら、あなただってとっくにそうよ」
「リリスさんとも閻魔大王とも違って、私はまったくの無名の変哲ない鬼ですが」
「謙遜もしすぎね。誰に祀られていようといなかろうと、秘めてるものがなくても、間違いなくあなたは強いでしょう。ある意味地獄や天国にいる誰よりもどこか」
だったらわかっているはず。だったらあなただってもうとっくに"そういう意味で"惹かれているはずだと、私を諭すように手の甲を撫でた。
赤く艶やかな唇は弧を描き、緩やかに紡いだその言葉通りならば、確かにそうなんだろうと納得した。"力ある者"の定義は思っていたよりもっと単純な事で、私でもそういうもの
に成り得るのかもしれない。
力なんて目に見えるものではないし、その辺りを確かめる術はなさそうですけど。
少なくとも、私も含めてあの子はその存在を切望され続けている。それは紛う事ない事実でした。
「力あるものはあの子に惹かれてその存在を望まれ続けていて。そうまでされてこちらに引き寄せられないはずがない」
結局の所、あの子が戻るという私の確信なんて、他力本願から来る物でもあったのですが。私を諭そうとする彼女のこの柔い手の平で、あの子は足首を掴まれているし、心はきっとどこか揺らがされている。
私だけが働きかけたのではなく、色んなものに繋ぎ止められて地に足をつけていたのです。
それでも、です。
「口説き落とせと、後押ししたのはリリスさんでしょう」
他力本願でおこぼれに与るなど冗談ではない。
それじゃ許せないという心情もあるし、結局の所、他人任せにするより、自分の手で掴んだ方が、何もかも確実だと知っていたからです。
私はリリスさんの手の平をひらりと交わした。解かれた手の甲からは、彼女から与えられた熱がどんどん逃げて行く。
施しも哀れみもいらない。私は私が望んだものを、私の意志で私の手に収めてしまいたい。
戻ってきたその時こそ、最後の一手をかける時だ。
責めてでも苦しめてでもなんでも、逃したりなどしない。
手加減なんていらないのでしょう。悪魔だって鬼だってそもそもが優しい存在ではなくて、強欲になったって構わないでしょう。
私は私の立場が奔放になることを許しませんし、規律に従うことは今やあの世この世の当然ですが。あの子を手に入れようと傲慢に足掻くことは、誰に咎められることでもない。
それを非道だと罵られようが、どうだって構わないのです。
繋がりが解けた手を残念そうにひらひらとさせながら、彼女は打って変わって静かな声色で話した。
「あたし、あなたはとても酷いひとだと思う。あの子は可哀そうで、誰かさんは悪魔みたいで。あたし本当はそれを責めるつもりなんてないの。嫌いじゃないから」
ぽつぽつと、リリスさんはなんとなしに心根を呟く。
途中濁された言葉が指していたのは、間違いなく私に違いありませんでした。
2.生と死─ざまあみろ
あの子が…が忽然と姿を消したという話は、親しいもの達の口から口へと渡るついでにすぐに関係ない周囲へも広まりました。
ただの獄卒も耳傍をてて、あの子を好いてる神々は心配して、友好的に接してくれていた者たちは心配して。昔馴染はというと、またかという微妙な反応を見せて、苦笑していました。
彼らに心配がない訳ではないでしょうけど、事情あってあの子が失踪することは定期的にある事だったので、今回はどれくらいで帰ってくるだろうかと呆れ顔で話すだけでした。
概ね想定した反応だった。
ただその失踪について、怪談奇談のように一部で怪しく語り継がれるようになった事に関しては、疑問に思わざるを得ない。
ほんの些細な引っかかりを覚えつつも、私達は皆、あの子が消えても各々自分の日常を過ごしていた。あの子の抜け穴のせいで滞る業務はともかくとして。
消えた所で、営みに支障が出るものは、私含め誰ひとりいませんでした。
「消えちゃったわ」
それは、目の前にいる女性も同じ事だった。
くすくすと嬉しそうな、楽しそうな笑みを抑えきれず零して、彼女は失踪を語る。
長時間椅子に座りこんで、机仕事に追われている私を憚る気はないようでした。
山になっている紙束など見えていないようで、ただ私の筆を動かす手元だけを目で追っていた。
世間一般で言えば失踪なんてとんでもない事で、決して笑うものではない。
だというのに、ほらみたことかとでも言いたげな彼女…リリスさんは、無邪気な子供のように笑うのでした。
各地各国を歩き回るリリスさんでしたけど、日本の地獄にやってくる頻度は、気に入りのあの子がいるせいで高かった。
消えてしまったなら、これからその足は途絶えるだろうか。今回の来訪を最後に遠のき始めるだろうかと、頭の片隅ではどうでも良い事を考えていました。
彼女の愉しみに、私は同調する事は毛程も出来なかったのです。
「みんながいうみたいに、家出でも誘拐でも蒸発でもなんでもないと思うの」
「実際の所なんて、分かりませんよ。書置きも何もありませんでしたから。というか蒸発って」
「壊れちゃったのか、それとも何かに耐えられなくて逃げ出してしまったのかしら」
「…さあ」
「どっちにしたって一緒のことだと思わない?」
耐えられなくなった。あなたが責めるから。傷付けるから。
もしも原因がそれだったというなら、逃げても消えても家出でもなんでも、同じ話だとリリスさんは語る。
責めるようなことを言う割に、特に怒っている様子もなく、その声色はひたすらに楽し気でした。
途中部屋に出入りする獄卒も気にならないようで、話に夢中になっている。
気にしているのは、扉を開いた先にいた、思わぬ客人に釘付けになる獄卒ばかりで、彼らはちらほらと彼女に好奇の視線を送る。
だというのに、彼女はまるでそれに気が付かない。
慣れているから流しているのか、夢中になって気が付いていないのか、今回ばかりは分かりませんでした。
以前、ズルいから意地悪をしたのだと語っていた事を思い出した。
今回もそうなのだろうか。ざまあみろと思っているのかもしれません。
逃げられて良い気味だと。基本はさっぱりと奔放なひとで、少なくとも誰彼かまわず恨みをぶつけるような性根はしてはいない。
恨まれる程に私が気に障ったのか、それともただ悪意なく、無邪気なだけなのか。
私は掴みかねていました。
「あなたは誰の味方をしたいんですか。責めたいんですか、心を救いたいんですか、愛したいんですか」
リリスさんの気に入りのあの子の援護をしたいのか、あの子を苦しめた私を責めたいのか、ただ冷かして遊びたいのか。その真意は分かるようで分からない。
猫のように気まぐれなひとでした。
私が話しながら、筆を動かす手を止めないのは、時間に追われているせいでもあったし、顔を上げる気になれなかったせいでもある。
リリスさんは男性を愛する人だった。私にも当然その食指は動いて。
リリスさんの言葉を借りるなら、大切なものを壊してしまった…逃げられてしまった私という男を、女性として慰めてくれようとしている、という可能性もなくはないのです。
例えそれが恋敵のような存在であっても、彼女は等しく愛することでしょう。
机についたリリスさんの手の平が視界の端に映る。艶やかな爪が、乱雑な机の上に華を落した。
「その全部に決まってるわ」
あなたたちが可愛いし、愛しいし、楽しいし、見ていると面白いしと笑うリリスさん。
声だけで想像が出来るから、あえてその表情を伺う気にもなれませんでした。
誰だって彼女のように奔放になりきれたなら、きっと難しい事にはなっていないのだろうと溜息をつきそうになる。
「ねえ鬼灯様、あの間ね、あの子があたしの所に縋りにきてくれたのよ」
「…」
「あなたが責めるから、よく分からなくて苦しくて先が不安で」
子供が手柄を無邪気に自慢するように、嬉々としてその事実を話してくれた。
私はそれに少しだけ呆れて、ここで初めて手を止めて聞き返しました。
ペンを置いて彼女を見あげる。座る私は、自然と自分よりも背の低い彼女を見あげる形になっていました。
「…それで、助けてさしあげたんですか」
悪魔に縋るなんてあまり喜ばしいことではない。本人にとっては嬉しいことなのかもしれませんけど、力無き人間や鬼が悪魔に縋ってしまうなど、大問題です。
けれど、彼女の唇が紡ぐ返答は聞かずとも分かっていた。
本来ならば悪魔は願いを聞き届ける存在だ。だというのに、今回の状況は普通とは種が違っていて…そして当事者がリリスさんとあの子となると、展開は変わるだろうと予想がついた。
「あげないわよ。尽くすより尽くされたいもの」
そうだろうなと思いました。的中しすぎていて、当てた事を喜ぶどころか、どこかうんざりするくらいでした。
察するに、願いと称する程大げさなものではなかったのだろう。多分あの子が求めたのは恋情ではないにしろ、リリスさんからの感情の応酬でした。
弱っている自分に、優しくしてくれる心がほしかったのです。苦しくて縋るというのなら、きっとそうです。
しかし、リリスさんがそんなものを求められて、ただ応えてくれるはずがありません。
お互いが求め合うならともかく、彼女は慈愛の女神様ではない。
あの子が自分を愛してくれる訳でもないのに、一途に尽くすなど彼女の柄ではない。
私が放したペンを拾い、手のひらで転がして手遊びを始めた彼女は、どこまでもこちらを憚らなかった。
「まあ、悪魔が見返りなく尽くすなんて、想像つきませんし」
「そうなのよ。少しのご褒美もないまま働きかけるなんて、それこそあたし天使でも神様でもないもの」
彼女がひたむきに尽くす姿というのも想像がつかない物だし、彼女自身も自覚している所なようでした。
旦那様であるベルゼブブさんに買わせた山のような品物、節目節目で送られてくる世界中の殿方からの貢物。煌びやかで華やかなソレらは、どれも価値あるものばかりでした。
そういう部分だけを切り取って見ても、彼女は「尽くされる」女性だし、本人も「尽くされることを喜ぶ」性質なのだろうと分かる。
まあ、女性全般にそういう傾向があるのかもしれませんけど。
そもそもあの子自身、尽くすよりも尽くされるような性質なのですから、見返りを求めた所で不毛です。
いえ、世話を焼かれる性質といえばいいのでしょうか。
あの子が尽くす側に回ることがあったとして、それはほんの気まぐれなもので、全身全霊をかけた心からの物ではないに違いありません。
きっとそこにはリリスさんが望むような熱は孕まれていない。あの子の包容力なんてたかが知れていました。
ことんと音を立て、見飽きてしまったらしいペンを机に戻すと、今度は私と視線合わせた。
「ねえ、後悔してる?」
「するはずがありませんよ」
「どうしてそう言い切れるの。帰ってこないかもしれないのに」
帰ってこないかもというリリスさんの中では、あの子が自分の意志で逃げたんだと半ば確信しているようでした。
それとも、悪戯に惑わそうとしているのかもしれません。
どちらにせよ、置手紙もなく忽然と消えてしまったのだから、リリスさんの言う事も私が言う事も、全てが憶測にすぎません。
しかしそうだと仮定しても、どんな事情があろうとも。
「帰ってくるだろうから、後悔するはずがない」
と、私は迷わず言い切りました。
仕事する事を諦めた私の両手は腕を組み、背もたれは音を立てる。
あの子が自らの意志で消えることはないでしょう。いくら責めたてられて苦しくても、最後には私を許容することでしょう。
高が知れている子供じみた気質を持つあの子の包容力も、条件によっては少し事情が違ってきます。
ある一点を害さない限り、大事な物を取り上げようとしない限り。
きっと私だけは受け入れようとする。本人は無自覚ですけど、拒絶するという選択肢がまずないのでした。
それは「一番最初に出会い暮らした」私だからなんだろう。雛の擦り込みのように染みついてると言ってもいい。
家族を理想と語り、心のどこかで切れない縁を望み、疑うことなく、違和感を抱かず隣にい続けて。それはまるで確かに家族のようでした。
家族間での絶縁や捨て子などもよくある話だ。けれど、産み、育て、育てられて。血縁が傍にいるのは自然なことでした。
親は子を育て、放棄しないのが"生き物"全般の大概の当たり前で、絶やさないための本能のようなもの。
血の繋がりはなくても、赤の他人でも、名前のつかない関係でも。無自覚の擦り込みは早々には消えません。
それでも、絶対なんてあり得ない。
無自覚であることが許せず、なし崩しなんて嫌で、何かの拍子に崩れてしまうかもしれない危うい状態が我慢ならず、留めたいと足掻いてるのは、私の子供じみた我儘だ。
──当然のことにしてやろうと、言葉を尽くしてきたのは私の身勝手でした。
私の確信を聞かされると、リリスさんは先ほどまでの無邪気を消して、少し残念そうにしていました。それでも楽しそうなのは変わりません。
「お互い一途でひたむき。一直線」
「一直線?」
「あたしはフラれっぱなしで寂しいわ」
曲げない私に、リリスさんは落胆したように憂いを帯びた溜息をついた。心底気にしている風ではなかったけど、つまらなそうにしている。
仕事を途中放棄した私に気が付いた獄卒の幾人かは困ったような顔をしていて、けれどただならぬ空気を察し、何も言えないまま持ち場へと戻って行く。
私も私で彼らを憚る事が出来ないのだから、リリスさんと何も変わらないなと気が付く。
彼女は全然こちらを構ってくれないと言うけれど、結構頻繁に出かけているし、ある意味随分構っていると思うんですけど。
アポなしで突撃される事の多い私はまぁともかく、あの子とは個人的に出かけて、連絡だって取りあっているのも知っている。
「別にあの子は私の所に戻ってくるなんて言っていませんよ、残念なことに」
そう断言できたならいいのですけど。さっきまでの強気を一転し、弱気な発言を零したのを聞き、少し意外そうに瞳を瞬かせていました。
ひらりと一番上に重ねられた紙の一枚を指先でつまみ上げて、途中で止まった自分の筆跡を眺めた。話ながら、頭の片隅ではこの山をどう片つけた物かと考えている。
彼女がお喋りに満足する時はいつ来るのでしょう。いつかは来ると分かっているから、それなら待った方が賢いだろうと私も手を止めていた。
「じゃあどこに帰ってくるの」
「あなたの所」
「そういう風には思えないけど」
「お香さんのところ、ミキさんの所、閻魔大王のところ、あの子に関わりのある所全部の下に」
「ああ…そういう事。あたしにも負けず劣らず気が多い子なのね」
「まったくですね。その上好かれやすい子ですから」
そう付け足すと、意外そうにしていた瞳は細められ、納得したようでした。
身に覚えがある話なのでしょう。リリスさんだって特別あの子を好いている。
彼女は白い指先で机をなぞり、何事かを描く。一つ、二つ、三つ。何かを順に数えているようでした。
「じゃあ鬼灯様の所にも帰ってくるのね、あなたが一番じゃなくても」
一番、という言葉を使われたのを聞いて、引っかかりを覚えた。
立場も性別も関係なく、意志あるものが欲求する代表的な物なのかもしれない。
例えば恋に落ちた時。自分を殺し、二番目でいいと心から言えるのは稀な事だと、欲深い亡者を見てつくづく思わされていました。
地獄に落される罪人なら尚更欲深く、潔白である亡者だってそういう物でした。
人生の節目節目で、大なり小なり欲張りになっていた。
それ自体はとても自然な事で、罪ではないけれど。
天国行が決まるほどの…例えばあの正直者の、花咲爺さんほどの無欲な人間は希少だ。
ここであえて私はリリスさんに倣った例えを使って話した。
リリスさんのように指先をなぞらせるのではなく、自分の人差し指をなんとなしに一本立ててみて、じっと眺めながら。
「少なくとも、あの子を望んでるのも、あの子の結ばれてる縁も、私が一番強いと自負しています」
それだけは疑いようがない。この執念に勝るものなどあるはずがない。
これからどれだけ月日が流れようと、私が一番最初に見つけて、共に時間を積み重ねて、そういう事実を、後から来たものが覆せるはずもないのです。
想い合うのに時間は関係ないと言うけど。時間をかけて少しずつ知った悪癖や思考の癖など、一朝一夕で培えるものではない。
現時点で、あの子の理解者も何もかも、驕りでもなんでもなく、私が一番だと言えました。
これに限っては、一番であることに固執していた訳ではないのですが、それが有利に働くというならいくらでも主張していきましょう。
あの子と一番近いのも、一番望む存在も私なんだと。私のために帰ってくる訳ではないけれど、戻ってきて、一番に飛びこむのは私の元なのだと。
満足して、指を折り曲げ下げてしまった私の手の平の上に、リリスさんの手が重ねられた。それはあまりにも自然な動作で、蠱惑する女性の色は見えない。
底の方に隠してしまっているのか、そこには本当に色心などないのか。
「あの子は特別で、望まれてる子です」
「色んなひとたちに好かれてるものね。それだけ魅力的な子なんだわ」
「いえ、人望という意味ではなく…それもあるのかもしれませんけど。リリスさんだってわかっているんでしょう。あなたはとてもお強いから。…私は一介の鬼です、その辺は分かり切れない事ですけど」
好かれやすいという体質を理解しているリリスさんなら分からないはずがないと視線で釘をさすと、リリスさんは首を横に振って緩々と否定した。
「鬼灯様だってとても強いわ。特別な術が使える訳じゃなくても、神格がある訳じゃなくても。あたしみたいな悪魔でも特別力あると言われるくらいなら、あなただってとっくにそうよ」
「リリスさんとも閻魔大王とも違って、私はまったくの無名の変哲ない鬼ですが」
「謙遜もしすぎね。誰に祀られていようといなかろうと、秘めてるものがなくても、間違いなくあなたは強いでしょう。ある意味地獄や天国にいる誰よりもどこか」
だったらわかっているはず。だったらあなただってもうとっくに"そういう意味で"惹かれているはずだと、私を諭すように手の甲を撫でた。
赤く艶やかな唇は弧を描き、緩やかに紡いだその言葉通りならば、確かにそうなんだろうと納得した。"力ある者"の定義は思っていたよりもっと単純な事で、私でもそういうもの
に成り得るのかもしれない。
力なんて目に見えるものではないし、その辺りを確かめる術はなさそうですけど。
少なくとも、私も含めてあの子はその存在を切望され続けている。それは紛う事ない事実でした。
「力あるものはあの子に惹かれてその存在を望まれ続けていて。そうまでされてこちらに引き寄せられないはずがない」
結局の所、あの子が戻るという私の確信なんて、他力本願から来る物でもあったのですが。私を諭そうとする彼女のこの柔い手の平で、あの子は足首を掴まれているし、心はきっとどこか揺らがされている。
私だけが働きかけたのではなく、色んなものに繋ぎ止められて地に足をつけていたのです。
それでも、です。
「口説き落とせと、後押ししたのはリリスさんでしょう」
他力本願でおこぼれに与るなど冗談ではない。
それじゃ許せないという心情もあるし、結局の所、他人任せにするより、自分の手で掴んだ方が、何もかも確実だと知っていたからです。
私はリリスさんの手の平をひらりと交わした。解かれた手の甲からは、彼女から与えられた熱がどんどん逃げて行く。
施しも哀れみもいらない。私は私が望んだものを、私の意志で私の手に収めてしまいたい。
戻ってきたその時こそ、最後の一手をかける時だ。
責めてでも苦しめてでもなんでも、逃したりなどしない。
手加減なんていらないのでしょう。悪魔だって鬼だってそもそもが優しい存在ではなくて、強欲になったって構わないでしょう。
私は私の立場が奔放になることを許しませんし、規律に従うことは今やあの世この世の当然ですが。あの子を手に入れようと傲慢に足掻くことは、誰に咎められることでもない。
それを非道だと罵られようが、どうだって構わないのです。
繋がりが解けた手を残念そうにひらひらとさせながら、彼女は打って変わって静かな声色で話した。
「あたし、あなたはとても酷いひとだと思う。あの子は可哀そうで、誰かさんは悪魔みたいで。あたし本当はそれを責めるつもりなんてないの。嫌いじゃないから」
ぽつぽつと、リリスさんはなんとなしに心根を呟く。
途中濁された言葉が指していたのは、間違いなく私に違いありませんでした。