第三十二話
2.生と死─三度目の死
瞼の裏にまで伝わる光が痛くて、小さく呻きをあげた。
それと同時に空気が動いた気配がして、傍に人がいるという事を肌で理解した。
チカチカと点滅して眩むのに耐えきれず、手で乱暴に目元を覆うとすると、その動作をそっと誰かに止められた。
「さん」
知らない女性の声が耳に届いた。
宥めるように私の手を覆う、その人肌を甘受しながら思案する。
──さんという呼び名の意味を。
音となって耳に届く響きは鮮明なのに、頭の中には■■と濁った綴りが浮かび上がる。
確かに鼓膜を震わせる、この響きの異物感はなんだろう。
何に違和感を覚えているのかも分からないまま、そっと瞼を開く。次の瞬間、私の視界に入ってきたのは白の景観だった。
天井も壁も床も白く、どうやら私が身を横たえているらしいベッドのシーツも、枕カバーも、清潔な白で統一されていた。
ただ、私の手を握る若い女性だけが違った色を持っている。
白い服を纏った彼女の黒髪黒目と肌の暖色。それだけが寝転んだ私の視界に入り込む唯一の色彩だった。
なぜ彼女は私の手を抑えたのか、見知らぬ彼女の役割がなんなのか?
考えずとも一目で全て分かってしまって、ぼろりと一筋頬に涙が伝ったのがわかった。
寝起きの頭はまるで働かない、現実感がまるでわかない。なのに、本能は察しが良い。
突然雫を落とす私を見て女性は瞠目して、しかしすぐに彼女は彼女の役割を全うしようと身を乗り出した。抵抗する気力も意味もなく、私はただ身を任せた。
──ぐらり、と落下したのを覚えている。固い地面に叩きつけられる直前、見えた景色も鮮明に。
「…あ」
生きるのはいつだって難しい。なのに、死ぬのはいつだって簡単で、その瞬間はあっさりと訪れるものだった。
「なんで私だったの。なんでもう少し待ってくれなかったの。なんで駄目だったの」
考えるのは、昔から変わらない同じ繰り返しだ。
不意をつかれなければ、背中を押されなかったなら、納得がいく形だったなら、
自分で足を踏み外しただけなら…せめてあの当てつけのように美しい朝焼けの中で死ななければ。
もうちょっとだけ形が違って、死に納得ができていたなら、私はこんな長く醜く生に縋り続けていない。命がほしいなんて乞わなかった。そんなどうしようもない事ばかりを唱え続ける。
この喉は潰れることはなく、願う声は未だ止まない。
私に進歩はなくて、心の奥底では未だに同じ悲鳴を上げ続けているのだと痛い程知る。
──ぐらりと眩暈がして、もう一度瞼を開く。
視線を少し動かすだけで、白い室内と生白い自分の手、ほとんど全てが目に入った。
遮る障害物もなく、青い空が広く見渡せる硝子窓。
備え付けの椅子には、白衣を纏った壮年の男が座っている。
その隣に控えているのは、同じく白い服を纏った先ほどの女性だった。
自己紹介されずとも、彼と彼女がどんな役割を担っているのか一目で分かるのが不思議だった。
当然のように現状を呑みこんでいる自分自身もそうだ。
険しく目を細めていた彼が明るい表情で頷くと、女性はほっとしたような表情をして、微笑ましそうに祝福する。
彼女らが話す子細を理解する気力もなく、右から左へ聞き流しながら、頭の片隅では現状を少しずつ把握していた。
彼らが医者と看護師なのだと言うことを一目で理解していたし、ここが病院なのだと言うことも一目瞭然だった。
扉を上げて部屋に出入りする人々の服装は統一されている。
扉の向こう、廊下を挟んだ向こうの壁には、向かい部屋の番号が記されているのがちらりと見えた。ここは病棟で間違いないだろう。
ただ、どうして今私がここにいるのかだけが分からない。
…というよりも、分かりたくはなかった。
どこかで察してしまっている事を、頭で明確に理解したくなくて必死に抵抗しているのだ。
ベッドにかけられた名前札に、「」という文字が綴られているのを目視した瞬間、心から思う。
──ああ、この場所こそが私にとっての地獄じゃないかと。
ここは間違いなく現世の病院で、闊歩する彼女らはあの世の医師じゃない。
私は人間の患者として、病棟の一画で眠っていたのだった。
──という日本人女性は、意識が戻らないままこんこんと眠り続けていた。
──は一月弱の時を費やしやっと目を覚ました。
もちろん…私は人間であり、おとぎ話に出て来る鬼なんかじゃない。
まるで人事のように目の前を傍観しているけれど、眼前に広がるこれこそが今の私の現実なのだった。
「……」
目を覚まして暫くして、私は長い間眠っていたのだと重々しく前置きされていた。
とは言っても、それが一ヶ月にも満たない間の事だったと聞いた時、あの世の時間の流れ方に慣れていた私は内心で短いなあと呟いていた。
人体への負荷を考えれば長い、けれど時間だけを切り取って考えるなら瞬きの間だ。
寝たきりだった割には衰えておらず、関節がぎしりと痛むだけの身体を動かして、ベッドから下りる。
この病室には今私以外に誰もいない。個室は静かで閉塞感があった。
けれど、連絡を受けた両親が幾らかすればやってきて、賑やかになるだろうと予想できた。
それを嬉しいとは思えないし、かと言って嫌だとも思わない。
あんなに望んでいたのに、駆けつけてくれるような親がいるという現状を手放しに喜べないまま、ただ何か堪えるように俯く。
首を振って鬱屈とした思いを振り払い、じっとしててもどうしようもないだろうと素足を床に下ろした。地面に触れたつま先からひんやりと冷たさが伝わってくる。
備え付けの収納棚の傍にかかった小さな鏡の前に歩み寄り、恐る恐る覗き込んだ。
まず血色の悪い手元がみえて、そのまま胸元、首、顔へと順に視線をあげていくと、これは何かの間違いだと現実逃避することも叶わなくなる。
そこには予感していた通りのものが映っていた。
何百年ぶりに見たのかも分からない、■■■■の顔だ。
共通しているのは凡庸な顔という所だけで、目も鼻もどこも似通った所がない。
肌の色も爪の形も、髪質も違う。黒目の彩度さえ違った。跳ねた毛先を撫でながら、茫然と呟く。
「…なんで」
こんなことになったのか。考えても答えは出ないのだろうと分かっていても、考えざるを得ない。
これは夢なのか?それとも私が今まで見てきた物事こそが夢だったのか?
前世の記憶が残るという現象は起り得ることだ。
不思議な話としてよく語られることで、それくらいの事なら疑わず信じる人間もちらほら居るだろう。
でも、過去に…大昔に遡るなんて、普通信じられない事だ。迷信どころの話ではない。
けれど。
前世があって、来世があって、
──再び「前世」に遡ってしまうなんてことは、もっと信じられない、あり得ないことだろう。
私その"あり得ない"現象を身を持って体験している真っ只中だった。
死後には来世が待っていた。来世があったからあの世での暮らしを謳歌できたのだ。
──じゃあなんで私は今、生きているの?
は運悪く死んでいたはずだ。病に倒れたのではなく、落下して、身を打ち付けられて。死んだという実感もあった。
でも、それじゃ辻褄が合わない。
今私が人間として生きている以上、あの世で暮らしていたというのはやっぱり私の脳みその作り話で、生死の境を彷徨っていた私が見た夢物語だという事になってしまう。
あんなに濃密で独特な世界、私の脳みそじゃ作るには限界があると思うんだけど。
──じゃあもしたまに聞く様に、あれが死後の世界に一時的に足を踏み入れたてしまった…という現象だったとしたら?
TVでもネットでもたまに語られる話だ。
一時的どころじゃない時間をかけてしっかり滞在していたけど…こう考える方が腑に落ちた。
眠った私の空想じゃなくて、どこかには存在している。
これだけでも大分不思議な絵空事だけど、私の脳みそ産の世界だというよりは大分納得がいく話だった。
そうだと仮定して。
生死の境をさまよっていた私は無事に意識を取り戻して、ぱっちりと覚醒してしまった。
二本の足でここに立っている。
三途の川を渡りかけるというのもよく聞く話で、危険な目にあった彼らは弾みで魂が抜けかけたのだろう。
寿命がまだ残ってるのにやってきてしまった人が、現世に戻ってから語り継いだ体験談が様々ある。
私のこの体験もその一環だと思えばいいのかもしれない。
反対に、そんなはずがないだろうとも思う。迷い込んだのではないと。私はもうとっくにあちらの住人だったのだ。
…その、はずだった。
──じゃあもし、何かの弾みでこちらに戻ってしまった私が、向こう側にまた戻りたいというなら…
その先を考えて、唾を呑んだ。冷や汗が出て、途端に手足が震え出すのが分かる。
想像するだけでこれなら、私にはこの手段は取れないだろうなと思う。
「…戻る」
戻るならば今度は自力で、自分の意志で手段を選ぶのだ。
──もう一度死んでしまうしかないだろう。
目を覚ます直前…あの時、階段から落ちた私はまた打ち所が悪くて"消滅"してしまったのかもしれないし、ただ何かの弾みで戻ってしまったのかもしれない、本当の所は考えても分からない。
あの世は死んでしまった亡者と、生きていない鬼や妖怪や神様たちが跋扈する世界だ。
生者が肉体を持って過ごせる場所ではないという事だけは確かだった。
死することを選択し、命を絶つために、生きた手足を動かすしか戻る手立てはない。
再び弾みで戻れるかもと淡い希望を抱くより、痛みに苦しんで、恐怖に呻きを上げて、孤独に胸を潰されて、絶望で足を震わせて。
その手法はなんでもいい。後先のことなど考えないで身勝手に、先の保障などされないまま死んでしまうしかもうない。
──そうまでしてでも、私は向こうに本当に戻りたいの?
普通なら、そこで迷わずうんと頷けたのだろうか。
戻りたいのかと言えばうんと言える。けれど、そうまで出来るのかと聞かれたら首を振るしかない。私は臆病者だった。
頭の中に暗い囁きがいつまでも反芻して、私の行動を促す。けれど足は縫い付けられたかのように動かない。
焦燥感に駆られても、恐怖が理性を取り戻させて、私を留めていた。突発的な衝動に突き動かされる事は、幸か不幸かないままだ。
私に死ぬ義務はない。誰に強要されている訳でもなく、こちら側ではなく、あの世の方に未練を残した私がただ葛藤しているだけなのだ。
さっぱり何もかも吹っ切れられる方が稀なんだろう。
けれど、云千年もじたばたするこの執念深さも稀有なんじゃないかと思う。これだけ過ごせば普通悩むのにも飽きて、どこかのタイミングで区切りをつけられているはずだし、つけるべきだった。
つけられなかった代償がこれで、今の現状は自らが招いてしまった事のだろうか。
「…未練なんて、なかったのになあ」
私は今、未練なく断ち切ったはずの世界に生きている。
戻りたいのはあの世で、足をつけていたいのは現世ではないのに。
どうやったって、現状はひっくり返らない。
その事実が背中に重たくのしかかって、耐えられなくなってしゃがみこんだ。
ただ顔を覆って、溢れそうになる激情を押し込む。
「長くは生きられない」というのは、物心もつかない小さい頃から唱え続けられていた脅し文句だ。
たまに語られるような、短命と呼称するのも大げさだ。けれど、虚弱で脆い身体が限界値まで老いることは恐らくできない。
私は自分があっという間に死んでしまうのが怖かった。
まるでカンニングするかのようにあの世を垣間見て来た。絶対に夢なんかじゃない、はずだ。
あんな賑やかな場所に行けるなら、死ぬのって悪くないのかもと笑おうとしても、強迫観念のようにいつまでも恐れてる。根っこまで刻み込まれた刷り込みみたいな物だった。
「…死ぬ?」
致命傷になるかもしれなかった…いや、なったはずだった、包帯の巻かれた頭をさする。
首に、心臓の上に、暖かい腹に、確かめるように順に手を下ろして触れて行く。
生きているのだ、当然そこには体温があって、脈打っていて、鼓動が聞こえて、肌は滑らかだった。
──戻りたいならば、生きていてはいけない。死ななければならない。それだけはきっと揺るがない。
きっと命が燃え尽きるタイミングを待つのではなく、肉体を自ら壊すようなことをしなければ、私が思うような形で彼らに会いに行くことなんてできないんだと理解していた。
この暖かな体が冷たくなるように、自ら仕組まなければならないのだ。
ぞっと足元から冷たい何かが這い上がってくる。
自分の限界ギリギリまで生きたとして、亡者になって裁判にかけられて、地獄に落ちるか天国に行くか転生するかの三択になるのだろうし、再びあちらで暮らしたいという理想は叶わない。
今の私は女鬼であるとは全く姿形も違うし、そもそも決意も出来ないまま亡者になった意気地なしの自分を誰にも見られたくなかった。
きっと、「何十年死のうかと葛藤し続けるが、××により××年××日××時、死亡」って鬼灯君に読み上げられる。
そんなに虚しくて恥ずかしい話があるだろうか。
「…ほんとうに?」
座りこんで痺れた足の甲をさすりながら、戸惑った独り言を漏らす。
生者のままだといけない、死んだならば会いにいける。それは確かなのかという疑問が付き纏う。
水掛け論とも違うけれど、あっちだこっちだと考えた所で、どれが確実なのかと知る手立てはないのだ。
そもそも、もしあの世の存在さえ嘘で、ただの夢だったというなら、私は無駄死にするだけ。天国も地獄も本当にあるのかなんて分からない。底も知れない未知の場所に逝くだけになる。
根本的な所を否定してしまうととことん話が進まない、と緩く首を振る。
私は濃くて膨大で、自分の脳じゃとても創造できなさそうな、個性的な思い出達を信じて、あの世は"ある"と仮定した。
じゃあ、死ねば戻れるというのはどうだろう。それも根拠なんてないけれど…私の中にはどこか漠然とした確信があった。
消えてしまったあの男神は、私に自ら行動させようと迫った。
私の強い意志や覚悟というものを欲しがっていたのは、信仰を得るためだったと分かった後も、それ以外の含みも確かにあったのだろうという事は察していた。
糧にしたかっただけなら、あんなに忌々しそうに吐き捨てないだろう。
「願いに生かされている」「特別な子」「とてもかわいい子」
私にどうしてか固執しているひとたちの言葉を鵜呑みにするなら。
私は"特別"だから、きっとそれが出来る。きっと誰かが私の事を大切に生かしてくれるだろう。
彼女らの予言めいた言葉たちは、もう尽く当たってしまったのだ。全面的に信用するしかないだろう。
どこか曖昧で、根拠のない確信なら幾らでもある。なのに、私の中には実行する勇気だけが存在していなかった。
2.生と死─三度目の死
瞼の裏にまで伝わる光が痛くて、小さく呻きをあげた。
それと同時に空気が動いた気配がして、傍に人がいるという事を肌で理解した。
チカチカと点滅して眩むのに耐えきれず、手で乱暴に目元を覆うとすると、その動作をそっと誰かに止められた。
「さん」
知らない女性の声が耳に届いた。
宥めるように私の手を覆う、その人肌を甘受しながら思案する。
──さんという呼び名の意味を。
音となって耳に届く響きは鮮明なのに、頭の中には■■と濁った綴りが浮かび上がる。
確かに鼓膜を震わせる、この響きの異物感はなんだろう。
何に違和感を覚えているのかも分からないまま、そっと瞼を開く。次の瞬間、私の視界に入ってきたのは白の景観だった。
天井も壁も床も白く、どうやら私が身を横たえているらしいベッドのシーツも、枕カバーも、清潔な白で統一されていた。
ただ、私の手を握る若い女性だけが違った色を持っている。
白い服を纏った彼女の黒髪黒目と肌の暖色。それだけが寝転んだ私の視界に入り込む唯一の色彩だった。
なぜ彼女は私の手を抑えたのか、見知らぬ彼女の役割がなんなのか?
考えずとも一目で全て分かってしまって、ぼろりと一筋頬に涙が伝ったのがわかった。
寝起きの頭はまるで働かない、現実感がまるでわかない。なのに、本能は察しが良い。
突然雫を落とす私を見て女性は瞠目して、しかしすぐに彼女は彼女の役割を全うしようと身を乗り出した。抵抗する気力も意味もなく、私はただ身を任せた。
──ぐらり、と落下したのを覚えている。固い地面に叩きつけられる直前、見えた景色も鮮明に。
「…あ」
生きるのはいつだって難しい。なのに、死ぬのはいつだって簡単で、その瞬間はあっさりと訪れるものだった。
「なんで私だったの。なんでもう少し待ってくれなかったの。なんで駄目だったの」
考えるのは、昔から変わらない同じ繰り返しだ。
不意をつかれなければ、背中を押されなかったなら、納得がいく形だったなら、
自分で足を踏み外しただけなら…せめてあの当てつけのように美しい朝焼けの中で死ななければ。
もうちょっとだけ形が違って、死に納得ができていたなら、私はこんな長く醜く生に縋り続けていない。命がほしいなんて乞わなかった。そんなどうしようもない事ばかりを唱え続ける。
この喉は潰れることはなく、願う声は未だ止まない。
私に進歩はなくて、心の奥底では未だに同じ悲鳴を上げ続けているのだと痛い程知る。
──ぐらりと眩暈がして、もう一度瞼を開く。
視線を少し動かすだけで、白い室内と生白い自分の手、ほとんど全てが目に入った。
遮る障害物もなく、青い空が広く見渡せる硝子窓。
備え付けの椅子には、白衣を纏った壮年の男が座っている。
その隣に控えているのは、同じく白い服を纏った先ほどの女性だった。
自己紹介されずとも、彼と彼女がどんな役割を担っているのか一目で分かるのが不思議だった。
当然のように現状を呑みこんでいる自分自身もそうだ。
険しく目を細めていた彼が明るい表情で頷くと、女性はほっとしたような表情をして、微笑ましそうに祝福する。
彼女らが話す子細を理解する気力もなく、右から左へ聞き流しながら、頭の片隅では現状を少しずつ把握していた。
彼らが医者と看護師なのだと言うことを一目で理解していたし、ここが病院なのだと言うことも一目瞭然だった。
扉を上げて部屋に出入りする人々の服装は統一されている。
扉の向こう、廊下を挟んだ向こうの壁には、向かい部屋の番号が記されているのがちらりと見えた。ここは病棟で間違いないだろう。
ただ、どうして今私がここにいるのかだけが分からない。
…というよりも、分かりたくはなかった。
どこかで察してしまっている事を、頭で明確に理解したくなくて必死に抵抗しているのだ。
ベッドにかけられた名前札に、「」という文字が綴られているのを目視した瞬間、心から思う。
──ああ、この場所こそが私にとっての地獄じゃないかと。
ここは間違いなく現世の病院で、闊歩する彼女らはあの世の医師じゃない。
私は人間の患者として、病棟の一画で眠っていたのだった。
──という日本人女性は、意識が戻らないままこんこんと眠り続けていた。
──は一月弱の時を費やしやっと目を覚ました。
もちろん…私は人間であり、おとぎ話に出て来る鬼なんかじゃない。
まるで人事のように目の前を傍観しているけれど、眼前に広がるこれこそが今の私の現実なのだった。
「……」
目を覚まして暫くして、私は長い間眠っていたのだと重々しく前置きされていた。
とは言っても、それが一ヶ月にも満たない間の事だったと聞いた時、あの世の時間の流れ方に慣れていた私は内心で短いなあと呟いていた。
人体への負荷を考えれば長い、けれど時間だけを切り取って考えるなら瞬きの間だ。
寝たきりだった割には衰えておらず、関節がぎしりと痛むだけの身体を動かして、ベッドから下りる。
この病室には今私以外に誰もいない。個室は静かで閉塞感があった。
けれど、連絡を受けた両親が幾らかすればやってきて、賑やかになるだろうと予想できた。
それを嬉しいとは思えないし、かと言って嫌だとも思わない。
あんなに望んでいたのに、駆けつけてくれるような親がいるという現状を手放しに喜べないまま、ただ何か堪えるように俯く。
首を振って鬱屈とした思いを振り払い、じっとしててもどうしようもないだろうと素足を床に下ろした。地面に触れたつま先からひんやりと冷たさが伝わってくる。
備え付けの収納棚の傍にかかった小さな鏡の前に歩み寄り、恐る恐る覗き込んだ。
まず血色の悪い手元がみえて、そのまま胸元、首、顔へと順に視線をあげていくと、これは何かの間違いだと現実逃避することも叶わなくなる。
そこには予感していた通りのものが映っていた。
何百年ぶりに見たのかも分からない、■■■■の顔だ。
共通しているのは凡庸な顔という所だけで、目も鼻もどこも似通った所がない。
肌の色も爪の形も、髪質も違う。黒目の彩度さえ違った。跳ねた毛先を撫でながら、茫然と呟く。
「…なんで」
こんなことになったのか。考えても答えは出ないのだろうと分かっていても、考えざるを得ない。
これは夢なのか?それとも私が今まで見てきた物事こそが夢だったのか?
前世の記憶が残るという現象は起り得ることだ。
不思議な話としてよく語られることで、それくらいの事なら疑わず信じる人間もちらほら居るだろう。
でも、過去に…大昔に遡るなんて、普通信じられない事だ。迷信どころの話ではない。
けれど。
前世があって、来世があって、
──再び「前世」に遡ってしまうなんてことは、もっと信じられない、あり得ないことだろう。
私その"あり得ない"現象を身を持って体験している真っ只中だった。
死後には来世が待っていた。来世があったからあの世での暮らしを謳歌できたのだ。
──じゃあなんで私は今、生きているの?
は運悪く死んでいたはずだ。病に倒れたのではなく、落下して、身を打ち付けられて。死んだという実感もあった。
でも、それじゃ辻褄が合わない。
今私が人間として生きている以上、あの世で暮らしていたというのはやっぱり私の脳みその作り話で、生死の境を彷徨っていた私が見た夢物語だという事になってしまう。
あんなに濃密で独特な世界、私の脳みそじゃ作るには限界があると思うんだけど。
──じゃあもしたまに聞く様に、あれが死後の世界に一時的に足を踏み入れたてしまった…という現象だったとしたら?
TVでもネットでもたまに語られる話だ。
一時的どころじゃない時間をかけてしっかり滞在していたけど…こう考える方が腑に落ちた。
眠った私の空想じゃなくて、どこかには存在している。
これだけでも大分不思議な絵空事だけど、私の脳みそ産の世界だというよりは大分納得がいく話だった。
そうだと仮定して。
生死の境をさまよっていた私は無事に意識を取り戻して、ぱっちりと覚醒してしまった。
二本の足でここに立っている。
三途の川を渡りかけるというのもよく聞く話で、危険な目にあった彼らは弾みで魂が抜けかけたのだろう。
寿命がまだ残ってるのにやってきてしまった人が、現世に戻ってから語り継いだ体験談が様々ある。
私のこの体験もその一環だと思えばいいのかもしれない。
反対に、そんなはずがないだろうとも思う。迷い込んだのではないと。私はもうとっくにあちらの住人だったのだ。
…その、はずだった。
──じゃあもし、何かの弾みでこちらに戻ってしまった私が、向こう側にまた戻りたいというなら…
その先を考えて、唾を呑んだ。冷や汗が出て、途端に手足が震え出すのが分かる。
想像するだけでこれなら、私にはこの手段は取れないだろうなと思う。
「…戻る」
戻るならば今度は自力で、自分の意志で手段を選ぶのだ。
──もう一度死んでしまうしかないだろう。
目を覚ます直前…あの時、階段から落ちた私はまた打ち所が悪くて"消滅"してしまったのかもしれないし、ただ何かの弾みで戻ってしまったのかもしれない、本当の所は考えても分からない。
あの世は死んでしまった亡者と、生きていない鬼や妖怪や神様たちが跋扈する世界だ。
生者が肉体を持って過ごせる場所ではないという事だけは確かだった。
死することを選択し、命を絶つために、生きた手足を動かすしか戻る手立てはない。
再び弾みで戻れるかもと淡い希望を抱くより、痛みに苦しんで、恐怖に呻きを上げて、孤独に胸を潰されて、絶望で足を震わせて。
その手法はなんでもいい。後先のことなど考えないで身勝手に、先の保障などされないまま死んでしまうしかもうない。
──そうまでしてでも、私は向こうに本当に戻りたいの?
普通なら、そこで迷わずうんと頷けたのだろうか。
戻りたいのかと言えばうんと言える。けれど、そうまで出来るのかと聞かれたら首を振るしかない。私は臆病者だった。
頭の中に暗い囁きがいつまでも反芻して、私の行動を促す。けれど足は縫い付けられたかのように動かない。
焦燥感に駆られても、恐怖が理性を取り戻させて、私を留めていた。突発的な衝動に突き動かされる事は、幸か不幸かないままだ。
私に死ぬ義務はない。誰に強要されている訳でもなく、こちら側ではなく、あの世の方に未練を残した私がただ葛藤しているだけなのだ。
さっぱり何もかも吹っ切れられる方が稀なんだろう。
けれど、云千年もじたばたするこの執念深さも稀有なんじゃないかと思う。これだけ過ごせば普通悩むのにも飽きて、どこかのタイミングで区切りをつけられているはずだし、つけるべきだった。
つけられなかった代償がこれで、今の現状は自らが招いてしまった事のだろうか。
「…未練なんて、なかったのになあ」
私は今、未練なく断ち切ったはずの世界に生きている。
戻りたいのはあの世で、足をつけていたいのは現世ではないのに。
どうやったって、現状はひっくり返らない。
その事実が背中に重たくのしかかって、耐えられなくなってしゃがみこんだ。
ただ顔を覆って、溢れそうになる激情を押し込む。
「長くは生きられない」というのは、物心もつかない小さい頃から唱え続けられていた脅し文句だ。
たまに語られるような、短命と呼称するのも大げさだ。けれど、虚弱で脆い身体が限界値まで老いることは恐らくできない。
私は自分があっという間に死んでしまうのが怖かった。
まるでカンニングするかのようにあの世を垣間見て来た。絶対に夢なんかじゃない、はずだ。
あんな賑やかな場所に行けるなら、死ぬのって悪くないのかもと笑おうとしても、強迫観念のようにいつまでも恐れてる。根っこまで刻み込まれた刷り込みみたいな物だった。
「…死ぬ?」
致命傷になるかもしれなかった…いや、なったはずだった、包帯の巻かれた頭をさする。
首に、心臓の上に、暖かい腹に、確かめるように順に手を下ろして触れて行く。
生きているのだ、当然そこには体温があって、脈打っていて、鼓動が聞こえて、肌は滑らかだった。
──戻りたいならば、生きていてはいけない。死ななければならない。それだけはきっと揺るがない。
きっと命が燃え尽きるタイミングを待つのではなく、肉体を自ら壊すようなことをしなければ、私が思うような形で彼らに会いに行くことなんてできないんだと理解していた。
この暖かな体が冷たくなるように、自ら仕組まなければならないのだ。
ぞっと足元から冷たい何かが這い上がってくる。
自分の限界ギリギリまで生きたとして、亡者になって裁判にかけられて、地獄に落ちるか天国に行くか転生するかの三択になるのだろうし、再びあちらで暮らしたいという理想は叶わない。
今の私は女鬼であるとは全く姿形も違うし、そもそも決意も出来ないまま亡者になった意気地なしの自分を誰にも見られたくなかった。
きっと、「何十年死のうかと葛藤し続けるが、××により××年××日××時、死亡」って鬼灯君に読み上げられる。
そんなに虚しくて恥ずかしい話があるだろうか。
「…ほんとうに?」
座りこんで痺れた足の甲をさすりながら、戸惑った独り言を漏らす。
生者のままだといけない、死んだならば会いにいける。それは確かなのかという疑問が付き纏う。
水掛け論とも違うけれど、あっちだこっちだと考えた所で、どれが確実なのかと知る手立てはないのだ。
そもそも、もしあの世の存在さえ嘘で、ただの夢だったというなら、私は無駄死にするだけ。天国も地獄も本当にあるのかなんて分からない。底も知れない未知の場所に逝くだけになる。
根本的な所を否定してしまうととことん話が進まない、と緩く首を振る。
私は濃くて膨大で、自分の脳じゃとても創造できなさそうな、個性的な思い出達を信じて、あの世は"ある"と仮定した。
じゃあ、死ねば戻れるというのはどうだろう。それも根拠なんてないけれど…私の中にはどこか漠然とした確信があった。
消えてしまったあの男神は、私に自ら行動させようと迫った。
私の強い意志や覚悟というものを欲しがっていたのは、信仰を得るためだったと分かった後も、それ以外の含みも確かにあったのだろうという事は察していた。
糧にしたかっただけなら、あんなに忌々しそうに吐き捨てないだろう。
「願いに生かされている」「特別な子」「とてもかわいい子」
私にどうしてか固執しているひとたちの言葉を鵜呑みにするなら。
私は"特別"だから、きっとそれが出来る。きっと誰かが私の事を大切に生かしてくれるだろう。
彼女らの予言めいた言葉たちは、もう尽く当たってしまったのだ。全面的に信用するしかないだろう。
どこか曖昧で、根拠のない確信なら幾らでもある。なのに、私の中には実行する勇気だけが存在していなかった。