第三十一話
1.言葉朝焼け

瞼がぴくりと一度震えた後、徐々に意識が覚醒していく。
寝惚け眼で手を伸ばした枕元には、午前4時を指す目覚まし時計がある。
探り当て、その数字を目視した私は、はー…と溜息を吐きながら枕に突っ伏した。


「…朝だぁ」

電灯のつかない部屋は薄暗い。まだ起きるべき時間ではなかったけれど、二度寝をする気にもなれない。
まだ今朝一度も鳴り出してない目覚ましを止めてから、布団を畳んで寝間着を着替える。
手早く身支度を済ませている内、早々に空腹を訴え出した腹を撫でながら、履物をはいて自室の扉に手をかける。


「…なんでかなあ」

つい零れた呟きは明るい調子ではなかった。
早くに目覚めてしまったせいでもなく、空腹が辛いせいでもなく。
ただ、午前4:44分という中途半端な時間にきっかり目が覚めてしまった事が、私を憂鬱にさせた。
不吉な数字だ…なんて些細な事を気にしている訳ではないけど、気分がよくない並びなのも確かだった。
やっぱりこの時間帯には人気はなく、寮外へと繋ぐ通路には、私の履物が踏み鳴らす音以外何も反響しない。
静寂を甘受しながら歩き、考えた。

云千年暮らしてきて、この時間きっかりに目覚めた事がなかった訳ではないのだ。
けれど、"目覚まし時計"を見て、秒針の音を耳にして、朝の清涼な空気を吸い込むという三拍子は中々ない事だった。
時計がこうも気軽に手に入るくらい普及したのも、最近といえば最近の話なのだ。
箪笥の中を吟味する事なく、適当に選んだ着物と帯は、柄も色も合わずちぐはぐで、明らかに見栄えがよくない。それもまた気を滅入らせた。


「あ」


歩いているうち、通りすがった給湯室から妙な物音が聞えた。どうやらヤカンで湯を沸かす音だと気が付く。シュンと煙る音が時折外まで聞こえてきていた。
こんな時間に誰が居るのだろうと、開いた扉の隙間から中を覗き見ると、見覚えのある背中がヤカンの鈍色を眺めているのが見えた。
黒い着物に黒い直毛。長身のそのシルエットを見間違う事はない。
気心知れた相手だと知り、ノックもせずに入りこむと、振り返った彼の目の下に隈が見える。一瞬で彼の状況を悟った。
何をしているのかと問うと、答えは端的に返ってきた。

「…湯を沸かしてるんですけど」

見れば分かる事だった。私の聞き方も悪かっただろうなと、何徹したのかと改めて聞いてもさぁとしか帰ってこない。
眠そうな彼は無意味に濁しただけで、はぐらかしたつもりもきっとない。本当にたった一言を答えるのが億劫だったんだと思う。
一服しようとしたはいいけど空腹で、その胃袋に熱い湯を注ぐのもどうかとかとぼんやり悩んでいたらしい。

なんでも良いなら持ってくるよ、なんでもいいならと再三念を押しながら元きた道をとんぼ返り。
自室に備蓄してあったパン数種類を持って帰ってきた。
多くの獄卒同様、朝昼晩と食堂の世話になり、自炊する事が少ない生活を送っているから、まともな食材の蓄えは殆どない。
丁度お湯が沸いた直後に戻れたようで、冷めていないようだ。
編みカゴに一纏めにしてきたそれらを机の上に広げながら、壁際に設置されてある電子レンジを指さして、使っていいかと聞いた。頷かれたのを見てから、暖めるとさらに美味しいという触れ込みの菓子パンを温めにかかる。

「随分手際がいいですね」
「え、なにが」

ぼんやりと一連の動作を眺めていた鬼灯くんが、これもまたぼんやりと私の背中に感想を投げかけた。
まさか温めた事を指して言っているのだろうかと驚いた。
何かを作ると称するのは烏滸がましすぎる、単純な手順で作業だ。
今は眠そうな彼に代わりお茶を注ぐ仕事を任されて、私の手はヤカンから急須にお湯を注ごうとしている真っ只中。
それともこっちの事を言ってるのかと更に困惑する。
湯と茶葉を使うだけで完成する物を褒められても困る。
それで絶品ならともかく、私は達人でも器量よしでもない。深みも何もなく、人並みな味しか引き出せなかった。

「ここの給湯室、普段使ってるんですか」
「ええと、…二、三回?お湯借りただけだったかな」
「じゃ、ここの機械は全部触るのは初めてだったんですね」

肌寒い朝だ。空調が設備されている事を確認すると、一見分かり辛い場所にあるスイッチを探して押した。
電子レンジ自体は初操作ではないけど、ここの機械は初めて使う。
今までの経験があるから、説明書など読まなくてもすぐに操作できたし、スイッチがある場所も勘で探れた。
こういうのは大抵基盤は一緒で、普通そう困らないだろうと首を傾げると、

「現代っ子の鬼はともかく…昔から居る鬼は、今でも扱いに困る者も多いそうですよ。いつまでも不慣れで」

言われて、機械操作に四苦八苦していた、一度目の頃の祖父母を思い出した。
時代が変わればそんな物だ。あの頃私は教える側だったけれど、いつか若い子に教えてもらう立場になるのだと思う。
いや、今既にその立場に移り変わって来ているのかもしれない。
教えてもらわなくても、自分で学べたらそれが一番いいだろうけど、そこにはどこか宿命めいた流れがあった。
独学でやれる者、やれない者がいるのは当然の事だろうと思う。

古くからいる鬼の中でも、例えば蓬くん烏頭くん鬼灯くんは最新機器だろうが、誰に教わらずとも自分で操作できる方だ。
それは仕事柄でもあるし、元々そういうのが好きで、その方面に特化しているからでもあった。
けれどそうでない…機械音痴だったり、そういう物に興味や馴染がないひとは、どんどん操作に苦労するようになってくる。
どちらかと言うと、私も後々苦労するようになるだろう無頓着なタイプなんだろう。
けれど、現実は違っている。

「あなたはそうではないんですね」

言った後、受け取った湯呑を傾けて、ひと口啜った。
鬼灯くんの言葉が示唆する意味はわかっている。全ては一度目での土台があったからこそ出来る事だったのだ。

あなたはどこか違うんですね。節々で流れに逆らうんですね。ちょっと違和感、こんな些細な事が目について行く。どうしてあなたは他と違っているんでしょうか。

そんなような、声にならない問い掛けをされているような気がしていた。
いや、事実、そうだったんだろう。
そういう問答は、一旦保留すると前に言われた。頃合いを見てまた聞くと言われたのも覚えてる。それが今だったという話なのだ。
鬼灯くんも未だになんだか半分寝惚け眼で、真剣な話合いを深刻にしているという訳でもないようだ。
けれど、簡単には答えられない質問をされた。
菓子パン一つなどすぐに平らげてしまって、続いて新たなパンを渡した。見越していた通り、胃袋はまだまだ空いているらしい彼は、先ほどと衰えない勢いで食べ続けてた。


「…私に秘密があったとして」
「あるでしょうね」
「…秘密が、あるけど」
「はい」

ぐ、と言葉を詰まらせながら、使い終わったヤカンを定位置に戻す。

「鬼灯くんは、本当に知りたい?本当に教えてもらいたいと思ってる?」
「…物によりけりですよね。全てを知りたいなんて野暮ったい事言いません」
「じゃあ、例えば、私が物分りがいい理由は?」

絶えず続いていた問答。一瞬、間ができたのが分かった。

「例えば、苦労しないでアレもコレも使える理由は。…ちょっと変だよね。私、器用じゃないのに」
「そうですね」
「なんでか、知りたい?」
「…それが貴女の核心であるというなら、なおさら」
「……どうしてなの?」

困り果てて、途方に暮れて、蹲りそうで蹲れない。そんな心境だった。
備え付けの台拭きで、途中、弾みで散ってしまった水滴を拭っている中。

「あなたが好きだからです」

その声が耳に届いて、私は思わず振り返った。
備え付けの机と椅子に腰を落ち付けている彼を唖然と見る。

「……なんで」
「理由なんているんですか。好意に理由がなきゃ気が済みませんか」
「…違う。いや、そうなんだけど、そうじゃなくて……あの」

傍にいてほしいと、口説き文句にもプロポーズにも聞える言葉は幾度もかけられていた。
私はそれに頷いて、共に過ごす約束を交わしたのだ。
付き合うという事にもなった、けれどそれは形ばかりの物で、そこに恋情など湧き出なかった。…と、私は思っていた。
芽生えないという事を散々残念がっていたのは、鬼灯くんも一緒だったはずだ。
こんなに面倒臭い事を続けるくらいなら、いっその事そういう間柄になれたなら話は簡単なのに、と。


「私のこと、好きなの?」

──私に好きになってほしいのかと、呆気にとられた事を思いだした。
子供のようだなと、あの時呆れた物だ。
男神のように、私から強い想いを徴収したがっていた彼は、私からの言葉も多分欲しがってた。好きだと言って欲しかったのだ。
その理由は、「傍にいてほしい」から。
じゃあ私に傍にいてほしいのって、なんでだろう。
思い返せば、道を違えず、共にこの場で働く事を望んだのも鬼灯くんだった。
私は彼にしては珍しい事を言うんだなと思いつつも、当時は疑問視する事はなかった。
嫌な事や無茶言われた訳ではなかったのだ。猜疑心に駆られる事などなく、ただ言葉通りに受け止め、今に至る。
…あれも傍にいてほしい、の一端だったのだろうか。今になって今更そう思う。
傍にいてほしいと思う異性がいる。単純にその意味を考えるなら、つまりは…

「いいえ」

温度のない黒い瞳と、困惑に揺れた私の瞳がかち合った瞬間、

「愛しています」

と、迷いなく断言された。
──つまりは、単純に考えるなら、普通はそういう事なのだ。
幸か不幸か…彼も…まぁ私もたぶん普通ではなかったから、一直線にそこには繋がらなかった。
周囲からの冷やかしの声を聞いても、違うと否定し続けた。それは長く傍に居続けたせいでもあった、けれど。

「子供で、我儘で、矛盾ばかりで、でも達観していて。そうなった理由があるというなら、私は知りたい」
「…知らなくても、このままで居られると思うよ」
「そうですね。さっきも言いましたけど…問いただすのも野暮だとも思います。
けれど、それで居られたとしても、…愛したヒトの全てを知りたいというのは間違いではないと。どこかのヒトが言っていましたよ」

決して熱に浮かされていない彼は、淡々と私を口説いた。
告白した。心情を吐露した。それと引き換えに私の心も曝け出せと、無言で要求した。

「このまま、今のままで居られたんだとしても。私は今以上の関係であなたと居たい」

鬼灯くんが現状維持を許さないのは、自分自身のためなのかもしれない。隠し事をされるのは癪で、単に不服なだけのかもしれない。
けれど、諦めずに働きかけてくれる事は嬉しくもあり、同時にそれに応えられない事で罪悪も積もった。
自然と、「…好きになれたらよかったのにね、本当に」と、口から落胆がこぼれ出た事に自分でも驚く。
私の大嫌いな、因縁さえある朝の空気がとことん私を滅入らせているようだ。
変に後ろ向きな発言を聞いて、彼が眉を寄せる。

「諦め腰なんですね」
「諦めっていうか…これからの事なんてまだ分からないと思うよ。でも、もうとっくに好きになれてたらよかったのにって。こんなに難しくもならなかったのに。本当に、今更だけど…」

本人はこれに関して、ただの自己満足で、自分本位な行為なのだと言うけど。
よくある言葉が脳裏に思い浮かんでいた。
そこまで想ってもらえるヒトは、幸せものだねっていうやつだ。
頭に掠めた言葉通り、きっと私は幸せ者なんだろうと告げると、それはどうでしょうねと首を振られた。

「好きになってはくれませんか」

そう尋ねられて、私は…おそらく残酷な、けれど純粋な疑問を投げ返す。

「……それは、本当に恋なの?」

好きな人の全てを知りたいと思うのは間違いではない。
それと同時に、好きな人に触れたいと思う事もまた自然な事なのだと、私も知っていた。
鬼灯くんが私に触れたがらない事を、私はずっと前から知っていたのだ。
親しいのは間違いないし、気を使わない仲だとも思う。
けれどどこか壁があるのも知っていた。どことなく乾いた距離があるのはずっと昔から。
私が嫌いだからそうしているとは思わない。けれど、まさか好きだからこそ距離を作るなんて事、あり得ないだろう。
彼が照れて距離を取ってしまうなんて性質をしていない事も知っている。

「ほしいを愛してると言い代えたって。何も変わらないんだと、最近気が付きました」

答えなど端から求めていないかのように、ぽつりと独白を零した。

「傍にいてください。私はあなたを好きで、愛しているから、そうしたい。
そう出来たなら私は満足です。たったそれだけの単純な話なんです。それだけで終わりにしましょう、いい加減」
「…」
「私の心情がどうとか、あなたの心情がどうとか。いちいち憚るから拗れる」

それに、と続く。

「らしくなく世間体を気にしてるでしょう」
「らしくないって…」

身の丈に合わないとか、釣り合わないとかどうの…と続けた。
釣り合わない云々というのは、彼に相応しくないこんな自分が…と己に卑屈になって言った訳ではなくて、…まあやっぱり世間体というヤツを気にしての事なのかもしれない。
どこかの席で、冗談交じりに笑いながら謙遜したのであって、本気で気に病んでいる訳でもないけど。
私だってそういう事は、少しばかりは考える。いったいどれだけ無頓着だと思われてたんだろう。

「周囲の事は、まったく気にしなくていいものではないけど、第一優先にすべき事でもない」

どうしてそうなったかどうか何て理屈は置いて、納得して、額縁通りにに捉えて、たったそれだけで良いんだと言う。
あなたも私も心から望む通りにと。




「明るくなってきたね」
「はい」

一服を終えて揃って外に出ると、窓の外から差し込む朝の色を受け目を細めた。
肺が綺麗な朝の空気で満たされるのがわかる。
地獄も明暗がハッキリしないながら、時間帯によって空気感が入れ替わったなというのはハッキリと感じる。
それは四季がハッキリした暮らしを知っている、私の錯覚なのかもしれないけど。
気持ちいいなと思うのと共に少し複雑な気分になる。私は夜は好きだけど、再三言っている通り、朝が嫌いだった。
どちらかというと朝方の生活を送っているけど、それでも朝は嫌いで起きる度に憂鬱で、出来るだけ空を見上げないようにしている。
嫌なことは出来るだけ思い出したくない蘇らせなくてもいい。
だというのに、たまたま視界に入ってしまった空に、嫌なものがあった。

「…虹だ」

朝焼けの色、清涼感のある空気、そして空似かかった神秘的な虹。吉兆にさえ思えるその三拍子の何が不満なのかと聞かれても、簡単には答えられない。
ただ嫌だった。不快に思えた。見たくはなかった。

「珍しいですね」

そもそも、季節や場所がどうであれ、まだ太陽なんて顔も出さない時間帯だ。
どういう条件が揃ってあれが上空に浮かんでいるんだろう。原理はわからないけど、いいものが見れてラッキーだとは思えない。
むしろ私にとって、アレは不吉の象徴、その前兆だ。
普段めったに出現しないものが姿を現したからこそ、不気味に感じる。
頑なに見上げてこなかったのに、たまたま見た時たまたま虹がかかってた。この偶然に眉が寄る。
暫くお互い何を言うでもなく、ただそれを眺めていた。


朝から働かせてすみませんと謝られて、いやいやと手を振る。
働かされたなんて思いはなく、お疲れ様と相手を労わる気持ちの方が強い。
ただ、その返答に覇気がなかったのか、「…もしかしなくても眠いですか」と怪訝そうに問われ、それにも否定するように手をひらひらと振った。
だというのに、冴えない顔色は早起きのせいで眠いのだと勝手に納得してしまったようで、独りで頷いていた。

「ああ、そうだ」

ちょっとここで待っていてくださいと言いながら、鬼灯くんが踵を返す。
廊下の片隅で長く待ちぼうけけを食らう事もなく、五分も経たない内に戻ってきた彼の手の中に、見覚えのある物がおさまっていた。

「これ好きでしょう。たまたま通りかかる機会があったので」

鬼灯くんの手にあったのは、私が好きなお店屋さんの印が押された小箱だった。
通販なんかはしていないないので、現地調達しか手はないけれど、遠方なので中々手に入れる機会はない。
鬼灯くんのその親切が微笑ましいし、嬉しい。
礼を言いながら受け取りつつも、喜びきれず、どこかざわざわと胸騒ぎがしているのを感じていた。

──どこかで聞いたことがあるセリフだ。どこかで見たことのある景色だ。
荒れた手が簡素なご飯を作って、誰かの元にそれを運んでいる。運んだ先に机にかじりついた誰かがいる。
誰かはそれを完食するとお礼を言って、思いついたように小箱を取り出し、手渡した。
頭の中に突如浮かんだ断片的な映像。それを繋ぎ合わせ、照合して、これがはいったいなんなのか探る作業をする勇気も出なくて、ただ無言で茫然としていた。
デジャヴに近いのかもしれない。けれどそれにしては輪郭がハッキリしていて鮮明だ。


「…どうしました?」

返事はなく、ただ押し黙ってしまった私に怪訝そうな声がかかる。私は「なんでもないよ」と言いながら小箱を受け取った。
たったそれだけの動作をするだけなのに、手を伸ばすのはとても勇気がいった。
唇が紡いだのは心にもない言葉だった。今の私の顔には、不格好な作り笑いが浮かんでいる事だろう。きっと繕ったことに相手も一目で気が付く。
怪訝に思われると分かっていても、どうしても繕いたくなる。
相手を誤魔化すためにというよりも、動揺している自分自身を誤魔化して、落ち着けるために必要なことだった。
ここで己の動揺を認めて、素直に気が動転してしまえば、感情の波に呑まれそうで恐ろしかった。

──私は今、まるでいつかの朝を繰り返してるみたいだ。
そんな突飛で不審な事を馬鹿正直に言えるはずがないし、私自身そうだと認めたくもない。


「能天気だねえ」

と、よく言われる。マイペースだとかのんびりだという評価に、毎度付属してくる物だった。
悩みなんてなさそうと言われるし、あってもすぐ忘れるだろうと言われる。
それは事実だった。悩みの種はいくらでもあるし、その時々増えてなくならないけど、それにいつまでも心底煩わされることはあまりない。
しかし私だって神様仏様ではないし、聖人君子でもない。
嫌いな食べ物も苦手なひともいるし避けて通りたい道もある。
トラウマとでも言った方がぴったりなくらいの、所謂地雷みたいなものだって、こんなお気楽な私にもあった。
脚がもつれてふらついた拍子に、腕を掴まれた。

具合でも悪いのかと尋ねられるも、すぐに返せない。
もつれた弾みで床を向いた顔を上げると、そこにいたのは当然鬼灯くんで、他の誰にすり替わってるはずもない。
彼の背後に窓枠があり、硝子の向こうには朝焼けの空にかかる虹が未だにある。
気遣わしげに声をかける相手に、私は言うのだ。

「大丈夫だよ。元気だよ」と。空元気で笑って、ぐっと拳を握ってみせる。
そうすれば相手は安心すると、私は知っていた。
──一度目の人生で両親は、それでホッと安心してくれたのだ。
私は朝から通勤…通学…通院…?分からないけど、とにかくどこかへ向かうために早朝から家を出た。
父は元から早起きな人で、軽食を作ってくれた私に、スッキリとした顔付きをしながら、礼だと言わんばかりに小箱を渡してくれた。
眠そうな顔をしていた母も、律儀に玄関先まで見送ってくれた。
私は本当は不調を抱えていたんだけど、それを押し隠し心配かけまいと気丈に玄関を潜り抜けた。
ラッシュ時ではないながら、パラパラと人影が見えはじめた時間帯に、電車に乗ってどこかへと向かう。

そして…
──私は死んだのだ。
私はいつかのように今、繕っている。頭が痛くて、心臓も痛い。背中に変な汗をかいているし、手が震えてる。
これはたぶんデジャヴってやつで、よくある現象で、特別な意味なんて何もないはずだ。
私の考え過ぎだ。
過去…前世と同じ事を繰り返しているなんて、そんな馬鹿な。荒唐無稽な話だ。
そう言い聞かせるけど、ぞわぞわと厭なものが身体を這ってやまない。

「じゃあね。私戻るね」

食べ終えて、話にも区切りがついて、ここで別れるのは自然な流れだった。
自分から手を振り背を向けながら、私は矛盾したことを考えていた。
──どうか引き止めて欲しい。いつかの時のように、このまま手を振って見送らないでほしい。
何故かと追及されてもそれには答えられないだろうけど、このまま足を進めるのが怖いのだ。
そんな身勝手な願いが届くはずもなく、相手に届けるつもりもなく。
鬼灯くんは何かを言おうと一瞬薄く口を開いたあと、無言で手を振った。
それは見送りに他ならならなかった。

別れて暫く歩いても、動悸は収まらない。一歩一歩が重たく、心臓が逐一軋んで痛かった。キンと耳鳴りがして、頭がズキズキと痛んで眉間に皺が刻まれる。
首を振って自分に喝を入れるけど、私の顔は恐らく青白いままだ。

「…あ」

向かう先に、階段が見えた。目的地に向かうためには、この道は避けて通れない。
付近まで辿り着くと、私は恐る恐る爪先を下した。一段一段を慎重に。間違っても踏み外さないようにゆっくりと。
けれど、いくら足元を気を付けていても、その他はどうしたって無防備で疎かになる。

もしも背中を強く押されてしまったら、もうどうしようもないだろう。不安定な足場にいるのだ、宙に浮いて落下する事は免れられない。
けれど、早々にそんな危ないことは起きないはずだ。
…本当にそうなんだろうか?
──今日は朝から、早々に起きないことが沢山起きていた。
嫌な予感がしている。虫の知らせめいたソレは、根拠もない、理屈も通らないのに、何故だか大抵当たる物だ。
思っていた通り、想像は現実になる。


ドン、と背中に強い衝撃が与えられた。


「…!」


何かに押された身体はぐらりと傾いて、下へと落下していく。
時間の流れがゆっくりに感じられて、自分が地面に近づいていくのをはっきりと視認していた。
こうなる事は半ば予想していたことだったのだ。恐怖で身は固くなっているけど、頭が真っ白になりきる事もなく、思考する余地があった。
いつかの日を踏襲している一日だ。だとすると、私はこのまま固い地面に打ちつけられて、あちこちを痛めて、何かにぶつかって、切れた皮膚から血が沢山出て、そのうち瞼を開くことができなくなる。
──そうしてあっけなく人生が終わってしまう!

二度あることは三度あると言う。一度あった事が二度起るのは、当然の道理なのかもしれない。
こんな事が三度目も起るなんて冗談じゃない。
終わってしまいたくなんてなかった。絶やされる事などなく、命の続きがほしい。
惨い自分の姿を見てしまう前に、ぎゅっと固く瞼を閉じる。そうすれば視界は一瞬で黒く染まって、鮮血を見る事はなかった。

2019.3.25