第三話
1.言葉─生きること
男神が消え死に、前よりも終わりを意識するようになった。
どこか後ろ向きになっていた私が、鬼灯くんの元で生きると前向きな約束してから暫くが立つ。
とは言っても劇的に変わったものはない。
些細に変わったことと言えば、昔より減っていた一緒に過ごす時間が再び増えたこと。意識的に時間を作るようになったのだ。
それも今までに比べての話で、大昔よりはそれでも全然少ない時間だった。
拠点はあの頃暮らしていた我が家ではなくなり、各々帰る場所が出来た。
昔に戻るのはもう無理な話で、どれだけ足掻いたって鬼灯くんが年柄年中忙しないのは変わらないし、私だってそれなりに忙しなくしてる。
──だから何も変わっていないし、変わりようがないんですよと、もう何度目かも分からない説明をすると。
「じゃあ結婚しちゃえばいいのに」
と、隣を歩く彼女は言った。
金色の髪が太陽の光に透かされキラキラ輝いている。それを美しいと見とれてしまうより前に視線をそろりと逸らし、気を引き締め歩を進めた。
リリスさんに連れられて街を歩くのは久しぶりの事。今回で二回目だ。
一回目とは打って変って、引きずられるまま異国、アメリカの地を踏みしめていた。
直前まで日本観光をしいたというリリスさんと地獄の門前で待ち合わせして、現世に下り立ち、空港まで行き、目的も何も分からないまま連れられて今に至る。
事前に用意しておいてと持ち物をアレコレ指定されていたので、薄ら行く先は予想はしていたけど、まさかこんなお散歩感覚で気軽に海外に連れられるとは。
お願いがあると言われて頷いたのは前回と一緒だけど、今回は隣に鬼灯くんはいない。
どこへ向かうのかは内緒らしくて、ただ「女の子のお話相手になってあげてほしいの」と言われているだけだった。行けば私もきっと楽しめるとも断言されていた。
話す内容はなんでもよくて、ただ楽しく雑談したらそれでいいからと言われて、まぁそれなら私に出来ない事もないだろうしと素直に同行している。
地獄にやってくる度にお菓子やらお土産やら何やら持たされているので、お礼になればいいとも思っていた。
鬼灯くんはまるで餌付けだとか言っていたけど、薄々私も勘付いていた事だ。
渡されているのはリリスさんの手料理ではないけど、ある意味私は胃袋を掴まれようとしているのかもしれない。
そんなリリスさんはくすくすと楽しそうに笑いを零しながら、いつもと変わらない軽やかな足取りで街並を歩いていた。
私は見知らぬ土地で少し気後れしながら彼女の後を追う。店が立ち並び人で賑わう区域からだんだん逸れて、今は閑静な住宅街を歩いていた。
「じゃあって、簡単にいいますね…」
「あら簡単よ。こんな小さい紙に名前を書いて判を捺して、届を出せばいいの」
そりゃあそうですけどそうじゃないです…と小さな声で反論した。
リリスさんは人差し指と親指を使って小さな長方形を作っていたけど、その長方形の小さく薄い紙一枚にはとんでもない重みがあるはずなのだ。
私は前の人生でも今の人生でも縁がないものだから、その重みというのはただの聞きかじりでしかないけど、体験してなくても考えただけでわかる事。
歩いてみると、当然日本の現世とは違う造りをしている建物や植物が多くあって、視界に入る物全てから非日常を感じさせられていた。
…この国、この街に居るってことは、やっぱり外国の子なんだろうなあ。私英語でお喋りなんてあんまり出来ないんだけど。
長い時間があると気まぐれを起こすことが多かった。
言語の勉強する機会が今までにあって、一度目の時より上達しているとは思うけど、流暢に話すことは中々出来ない。
手芸全般を極めて見ようと思い至ることもあったし、盆栽をやってみようとも思ったし、何を思ったのか蕎麦打ちだってやった。
それを本当に極められたかはともかく。何千年も過ごせばそれなりに知識と経験は蓄積されていく。
無駄に積み重なった物たちが見知らぬ女の子との会話の糸口になればいいけどと、頭の中の引出を開ける準備をする。
頭の隅っこを回転させながら、リリスさんに向けて苦い笑いを零した。
「最近よく言われます。結婚がどうのこうのって。前はそういう仲なの?って疑われるだったのに」
「ずっと同じことだけなんて思わないし聞かないわよ。つまらないもの。その手の話で最後に行き着くところって、やっぱり結婚でしょう?」
なぜ?と不思議そうにしているリリスさん。
なぜとは私の台詞だと思っていたけどなるほど。そういう物かもしれないとも思えてきた。
人の興味も何も日々移ろい行くものだ。
恋人なの?付き合ってないの?と囃し立てられていた頃から更に性質が変わり、今に至っている。
劇的な変貌を遂げたものはないけど、些細に変化した物。これもその一端だった。
リリスさんは楽しそうに提案してくるけど、私達二人がするには的外れすぎる物。
親しい人達でさえそういう風に言ってくるようになって、私は少し困っていた。
お付き合いしているとなれば先のことを考えるのはおかしな事ではないだろう。けど私達に限ってはそれってどうなんだろう。
風が吹いて被っていた帽子が飛ばされそうになり、咄嗟に手で押さえた。
これで角や耳を隠しているので、外れて現地の人に目撃されでもしたら洒落にならない。…若者のファッションというか、コスプレだと思ってくれるかなあ。
「あたしだってあっちにこっちに遊び歩いてるけど、旦那様の処に必ず帰るわ。そういう約束だもの」
「約束だから帰るんですか…?」
帽子を深くかぶり直していると、様子を見ていたリリスさんが乱れた私の髪を手櫛で直してくれながら言った。
旦那さんのことは少しだけ聞いたことがある。リリスさんにメロメロで溺愛していて熱烈、猛烈に一途な人。
小悪魔的リリスさんに望んで翻弄されている男の人の代表格。
結婚する時に、リリスさんがどれだけ他の男と遊ぼうと一切束縛しない、干渉しないと約束したらしい。
「ちゃんと好きよ。とても可愛い人だから」
「そうですか…なんか…よかった…」
あの人の一方通行なのかと思うと、なんて不憫なんだと他人事なのに泣きそうになっちゃうし。
リリスさんは旦那様の魔法のカードを使って日々お買いもの三昧をしている。
言ってしまえばただの財布として使われているだけなんだとしたら…泣いちゃう。同情しちゃう。
ちょっと独特ではあるけど、ちゃんと情で結ばれている関係なんだろう。財布を目当てにしてるのも事実なんだろうけど。
目を細めながら広い空を眺める。遮る物がなくて青い空と雲がよく見渡せた。
「そういう風になるのも手よ」
「そういう風…?…え…鬼灯くんを…お、お財布に…?」
「確かにあたしの旦那様はお財布を預けてくれるけど、そっちじゃなくって」
困惑する私を見て、リリスさんは首を横に振った。
よかったびっくりした。補佐官様が財布にされるって響き凄いもんなあ。それは遠慮したい。
約束したからと言っても、他の男の人とリリスさんが遊んでいることを心から許容できている訳ではなくて、ベルゼブブさんが常に嫉妬していると知ってる。
それでもこの奔放な女性を繋ぎ止めておきたくて約束を守っているのだ。お互いが幸せならそれでいいんだろう。お財布がどうとか公言してしまっていてもそれで。
鬼灯くんは確かに収入は多くあるのかもしれないけど…
昔から送ってきた生活が生活だったので私は富にあまり興味がない。
最低限の暮らしが送れたらありがたくて、娯楽などに没頭できる豊かな暮らしが送れるならばこれ以上にない幸せで、ちょっと美味しいものがたまに食べれたら最高。
屋根と壁があればそれこそ天国、安心できる。
基準がソレなので、過ぎたお金、豊かさに心が動かされない。
備えあれば憂いなしだけど、最悪は身一つで生きていけることが実証されてしまっているのだ。
頑丈な鬼の身体だから病気も怪我も衰弱もあまりしなくて、慢心してしまっている部分もあるんだけど。
どん底からのし上がってみると、人生なんとかなると大抵のことを割り切れるようになる。
そういう遍歴があったせいで、物欲も結婚願望も何もわかないのかもしれないと今更気が付いた。
「ずっと旦那様の傍にいると約束する。好きでいる。じゃああとは傍にいながら楽しくやるだけ」
好きだから一緒にいる。傍にいたいから結婚する。この二つが一番代表的でシンプルな理由だろう。
この世の中、必ずしもその二つの理由だけで二人が一緒になる訳ではないだろうし、一筋縄ではいかない関係を築くというのもそれはそれでありだとも思うけど…。
「…私達がそれをしたら、なんだか仮面夫婦みたいになっちゃうよなぁ…わざわざそうなろうとするのはなあ…」
状況に迫られている訳でもないのにそうなるなんて、酔狂なんじゃないかな。
道路のコンクリートに散らばった砂利をつま先で踏みしめると、歪な音が木霊した。
「なぜ?」
リリスさんは不思議そうにしていた。
足元を注意深く見ている訳でもないのに、高いヒールで器用に小石や窪みを除けて美しく歩いている。
私達が想い合っていると少女のように純粋に信じてくれているリリスさんは、それで仮面になるということが理解できないようだった。
「愛情がないのに約束だけする。お二人はどんな形を取っていても、どんな約束をしていも、愛情がありますけど」
「そうかしら?」
リリスさんがこてんと小首を傾げると髪がさらりと流れて、華奢なピアスが揺れた。
「少なくとも鬼灯様の方にはあるわ」
「…あ、愛が?」
一瞬なんのことを言われているのかわからなかったけど、まさかあるのって…それ?
思わず足を止めて呆けると、リリスさんは少し違うわねと言って首を横に振った。
「執念みたいなもの」
「…ああ、なるほど、そうかも」
ここで納得してしまうのも変な話だけど、恋より愛より執念という言葉を持ち出された方が腑に落ちた。
私に対してどういう思いを抱いているのか正確なことは分からないけど、愛してるのだと言われるよりもなんだか得心がいく。
止めた足を進めながらリリスさんの話の続きを聞いた。
「片方にだけでもあったら十分でしょ?そのまま一緒にいたら好きになっちゃうかも」
これ以上否定し続けるのも野暮だと思ったので苦笑だけ零したけれど、一緒にいるだけで何か芽生える物だというなら、私達はこの何千年で熱烈カップル…いや熱々の夫婦になっているだろうなあと思う。
「傍で生きる」という約束をしたなら、それを確実に順守するために「結婚」という縛りを与えるのもいいと思うけど。
どうせ今の暮らしで満足しているのだ。今後自発的に意識的に、好い人が現れるのを待つつもりも探すつもりもなかった。
口約束だけでも私が手のひら返しをすることなんてないし、鬼灯くんも私が反故にすることはないとわかっているだろうし。
伊達に付き合いが長くない。わざわざ守らせるためだけにそこまで念入りにする必要はない。
「あ、ここよ。中に入らせてもらいましょう」
話しているうちに、リリスさんが一軒の建物の前で足を止めた。白い華奢な指がさしているのは、古びた大きな洋館だ。
建物全体に蔦が這っていて、庭全体に雑草が高く伸びきっている。窓硝子はヒビ割れていて、大きな玄関扉の取手は錆ついていた。
「え…ここ…?ほんとうに?」
「ほんとうよ。驚かそうなんて思ってないわ。…少なくともあたしは」
意味深な言葉に肩をこわばらせた。どう見ても朽ちかけ人の手が入っていない廃墟。薄暗く、虫の音も鳥の羽ばたきも聞こえず、不気味な空気が漂っていた。
ここに人が住んでいるとはとても思えなかった。
手入れはされていない様子なのに、人が内部に踏み込んだいくつかの足跡が地面に残っている。こちらに帰ってくる足跡はとても少ない。それがまた気味の悪さを増させていた。
もしかしてリリスさん、ドッキリでも仕掛けようとしているんじゃ…と思ったけど多分違うだろう。
…わざわざ強調しながらそんな風に言うってことは…。
あの世には鬼も神も妖怪もなんだっている。それと同じように現世にも神も妖怪も…亡者も漂っていることがある。
そしてここはアメリカ。ものっすごく曰くのありそうな外貌のお屋敷。生者はいないだろうけど亡者ならいそうだと思う。
…なら、もしかして?
錆びた取手を強張った手で握りしめて、両開きの扉をギイという音を立てさせながら開閉した。すると。
「〜ッ!」
──何かが勢いよくこちらへ飛び込んできた。
普段なら、何かぶつかる!と思って反射的に目を瞑っていただろうけど、今の私はそれから目を離せない。
ガアッと襲い掛かってきたそれは、ホラー映画やゲームに出て来るお化けのような姿形をしていた。
映画やドラマで見るのとも、お化け屋敷で直に脅かされるのとも違う。それらとは比にならないほどの生の迫力、肌に風を感じるほどの激しい勢い、脳髄に響くような咆哮、全身が痺れるような人ならざる物特有の空気感。これはもしかしなくてもアレだ。アレしかない。
「名物ホラーハウスだ…!」
目を輝かせてぱちぱちと拍手すると、ピタリと襲い掛かって来たお化けが動きを止めた。
その後ろでこちらに大きな家具を投げようとしていた幽霊数人も妙な表情をして硬直している。
…もしかしてコレは萎えというやつだろうか。
相手を怖がらせようとしているのにこんな反応されたらそりゃ嫌だよね、遣り甲斐ないよね。嫌な客だなあ私と反省した。
外国人が忍者!サムライ!といってテンションを上げるように、日本人だってその国ゆかりのものにテンションが上げたりする。
ご当地の食べ物や美しい景色は勿論、このホラーハウスもきっとその一つだ。
前者のもの達と違って後者のハウスは人を選ぶだろうけど、少なくとも私はアトラクションのような刺激的なものだと捉えていて、好奇心がくすぐられていた。
一度目の人生ではそんな好奇心は抱けなかっただろう。
けれど、あの世で生活するようになってから見える世界が変わって、興味が向かうところ、好奇心がくすぐられるポイントも変わったのだ。いや妙な方向へズレはじめたと言い変えた方がいいのかも。
「やっぱりなんだか似たもの同士ね」
おそらく屋敷の中に何があるのか最初から分かっていたリリスさんは、一歩後ろで控えていた。
背後から投げかけられたその言葉の意図を考えてるうちに、前方から気配が消えていることに気が付く。
どこへ行ったのだろうときょろきょろと屋敷内を見渡すと、視界の端っこ…自分の目線よりすこし下の方に可愛らしい女の子が佇んでいるのが見えた。
いつの間に。なぜそんなに微妙そうな顔して意気消沈しているんだろう。
「どちらさま?…ん、どこの子?こんなところにいたら危ないよ」
足元は瓦礫でいっぱい、空気が埃っぽく湿っぽい、壁や柱が崩れて来そうなところもある。
まだ少女のように見えるので、老婆心を働かせて迷子の子に接するように尋ねてしまったけど、流石にすぐに失言に気が付いた。
リリスさんが事前に示していた反応、この子の背後に構えている透けている男性たち。
さっき襲い掛かってきたお化け。そうだった。ここはホラーハウスなのだ。
さっきの恐ろしい姿を目視した次の瞬間、それとはかけ離れた生身の少女の外見を目にしたから、その落差で一瞬勘違いしてしまった。
さっきのお化けもこの少女も同じ巻き髪、長い金髪だ。訂正する間もなくわなわなと震えた少女が口を開く。
「あたしはここの主よ!もうこないだから何なのよアンタら!」
ガアッと怒りに染まった表情で少女が大きな叫びをあげた。
視線は私の背後のリリスさんに向かっている。
この間から…ということはリリスさんはやっぱり前からちょっかいをかけに来ていたんだろう。
話相手になってほしいとお願いされてここに来たという事を忘れかけていたけど、相手はこの子ってことでいいのかな。
異国の地に来る事になるとも最初は思わなかったし、幽霊相手にそれをするとも思わなかった。
なぜそうしてほしいのかはわからないけど…来れば私も楽しめるはずというリリスさんの言葉は本当だった。
ここは楽しい観光スポットの一つ。どこか浮き足立ち、心躍っているのが分かる。
そういう発想こそが少女の逆鱗に触れるものだということを、まだこの時は知らなかった。
1.言葉─生きること
男神が消え死に、前よりも終わりを意識するようになった。
どこか後ろ向きになっていた私が、鬼灯くんの元で生きると前向きな約束してから暫くが立つ。
とは言っても劇的に変わったものはない。
些細に変わったことと言えば、昔より減っていた一緒に過ごす時間が再び増えたこと。意識的に時間を作るようになったのだ。
それも今までに比べての話で、大昔よりはそれでも全然少ない時間だった。
拠点はあの頃暮らしていた我が家ではなくなり、各々帰る場所が出来た。
昔に戻るのはもう無理な話で、どれだけ足掻いたって鬼灯くんが年柄年中忙しないのは変わらないし、私だってそれなりに忙しなくしてる。
──だから何も変わっていないし、変わりようがないんですよと、もう何度目かも分からない説明をすると。
「じゃあ結婚しちゃえばいいのに」
と、隣を歩く彼女は言った。
金色の髪が太陽の光に透かされキラキラ輝いている。それを美しいと見とれてしまうより前に視線をそろりと逸らし、気を引き締め歩を進めた。
リリスさんに連れられて街を歩くのは久しぶりの事。今回で二回目だ。
一回目とは打って変って、引きずられるまま異国、アメリカの地を踏みしめていた。
直前まで日本観光をしいたというリリスさんと地獄の門前で待ち合わせして、現世に下り立ち、空港まで行き、目的も何も分からないまま連れられて今に至る。
事前に用意しておいてと持ち物をアレコレ指定されていたので、薄ら行く先は予想はしていたけど、まさかこんなお散歩感覚で気軽に海外に連れられるとは。
お願いがあると言われて頷いたのは前回と一緒だけど、今回は隣に鬼灯くんはいない。
どこへ向かうのかは内緒らしくて、ただ「女の子のお話相手になってあげてほしいの」と言われているだけだった。行けば私もきっと楽しめるとも断言されていた。
話す内容はなんでもよくて、ただ楽しく雑談したらそれでいいからと言われて、まぁそれなら私に出来ない事もないだろうしと素直に同行している。
地獄にやってくる度にお菓子やらお土産やら何やら持たされているので、お礼になればいいとも思っていた。
鬼灯くんはまるで餌付けだとか言っていたけど、薄々私も勘付いていた事だ。
渡されているのはリリスさんの手料理ではないけど、ある意味私は胃袋を掴まれようとしているのかもしれない。
そんなリリスさんはくすくすと楽しそうに笑いを零しながら、いつもと変わらない軽やかな足取りで街並を歩いていた。
私は見知らぬ土地で少し気後れしながら彼女の後を追う。店が立ち並び人で賑わう区域からだんだん逸れて、今は閑静な住宅街を歩いていた。
「じゃあって、簡単にいいますね…」
「あら簡単よ。こんな小さい紙に名前を書いて判を捺して、届を出せばいいの」
そりゃあそうですけどそうじゃないです…と小さな声で反論した。
リリスさんは人差し指と親指を使って小さな長方形を作っていたけど、その長方形の小さく薄い紙一枚にはとんでもない重みがあるはずなのだ。
私は前の人生でも今の人生でも縁がないものだから、その重みというのはただの聞きかじりでしかないけど、体験してなくても考えただけでわかる事。
歩いてみると、当然日本の現世とは違う造りをしている建物や植物が多くあって、視界に入る物全てから非日常を感じさせられていた。
…この国、この街に居るってことは、やっぱり外国の子なんだろうなあ。私英語でお喋りなんてあんまり出来ないんだけど。
長い時間があると気まぐれを起こすことが多かった。
言語の勉強する機会が今までにあって、一度目の時より上達しているとは思うけど、流暢に話すことは中々出来ない。
手芸全般を極めて見ようと思い至ることもあったし、盆栽をやってみようとも思ったし、何を思ったのか蕎麦打ちだってやった。
それを本当に極められたかはともかく。何千年も過ごせばそれなりに知識と経験は蓄積されていく。
無駄に積み重なった物たちが見知らぬ女の子との会話の糸口になればいいけどと、頭の中の引出を開ける準備をする。
頭の隅っこを回転させながら、リリスさんに向けて苦い笑いを零した。
「最近よく言われます。結婚がどうのこうのって。前はそういう仲なの?って疑われるだったのに」
「ずっと同じことだけなんて思わないし聞かないわよ。つまらないもの。その手の話で最後に行き着くところって、やっぱり結婚でしょう?」
なぜ?と不思議そうにしているリリスさん。
なぜとは私の台詞だと思っていたけどなるほど。そういう物かもしれないとも思えてきた。
人の興味も何も日々移ろい行くものだ。
恋人なの?付き合ってないの?と囃し立てられていた頃から更に性質が変わり、今に至っている。
劇的な変貌を遂げたものはないけど、些細に変化した物。これもその一端だった。
リリスさんは楽しそうに提案してくるけど、私達二人がするには的外れすぎる物。
親しい人達でさえそういう風に言ってくるようになって、私は少し困っていた。
お付き合いしているとなれば先のことを考えるのはおかしな事ではないだろう。けど私達に限ってはそれってどうなんだろう。
風が吹いて被っていた帽子が飛ばされそうになり、咄嗟に手で押さえた。
これで角や耳を隠しているので、外れて現地の人に目撃されでもしたら洒落にならない。…若者のファッションというか、コスプレだと思ってくれるかなあ。
「あたしだってあっちにこっちに遊び歩いてるけど、旦那様の処に必ず帰るわ。そういう約束だもの」
「約束だから帰るんですか…?」
帽子を深くかぶり直していると、様子を見ていたリリスさんが乱れた私の髪を手櫛で直してくれながら言った。
旦那さんのことは少しだけ聞いたことがある。リリスさんにメロメロで溺愛していて熱烈、猛烈に一途な人。
小悪魔的リリスさんに望んで翻弄されている男の人の代表格。
結婚する時に、リリスさんがどれだけ他の男と遊ぼうと一切束縛しない、干渉しないと約束したらしい。
「ちゃんと好きよ。とても可愛い人だから」
「そうですか…なんか…よかった…」
あの人の一方通行なのかと思うと、なんて不憫なんだと他人事なのに泣きそうになっちゃうし。
リリスさんは旦那様の魔法のカードを使って日々お買いもの三昧をしている。
言ってしまえばただの財布として使われているだけなんだとしたら…泣いちゃう。同情しちゃう。
ちょっと独特ではあるけど、ちゃんと情で結ばれている関係なんだろう。財布を目当てにしてるのも事実なんだろうけど。
目を細めながら広い空を眺める。遮る物がなくて青い空と雲がよく見渡せた。
「そういう風になるのも手よ」
「そういう風…?…え…鬼灯くんを…お、お財布に…?」
「確かにあたしの旦那様はお財布を預けてくれるけど、そっちじゃなくって」
困惑する私を見て、リリスさんは首を横に振った。
よかったびっくりした。補佐官様が財布にされるって響き凄いもんなあ。それは遠慮したい。
約束したからと言っても、他の男の人とリリスさんが遊んでいることを心から許容できている訳ではなくて、ベルゼブブさんが常に嫉妬していると知ってる。
それでもこの奔放な女性を繋ぎ止めておきたくて約束を守っているのだ。お互いが幸せならそれでいいんだろう。お財布がどうとか公言してしまっていてもそれで。
鬼灯くんは確かに収入は多くあるのかもしれないけど…
昔から送ってきた生活が生活だったので私は富にあまり興味がない。
最低限の暮らしが送れたらありがたくて、娯楽などに没頭できる豊かな暮らしが送れるならばこれ以上にない幸せで、ちょっと美味しいものがたまに食べれたら最高。
屋根と壁があればそれこそ天国、安心できる。
基準がソレなので、過ぎたお金、豊かさに心が動かされない。
備えあれば憂いなしだけど、最悪は身一つで生きていけることが実証されてしまっているのだ。
頑丈な鬼の身体だから病気も怪我も衰弱もあまりしなくて、慢心してしまっている部分もあるんだけど。
どん底からのし上がってみると、人生なんとかなると大抵のことを割り切れるようになる。
そういう遍歴があったせいで、物欲も結婚願望も何もわかないのかもしれないと今更気が付いた。
「ずっと旦那様の傍にいると約束する。好きでいる。じゃああとは傍にいながら楽しくやるだけ」
好きだから一緒にいる。傍にいたいから結婚する。この二つが一番代表的でシンプルな理由だろう。
この世の中、必ずしもその二つの理由だけで二人が一緒になる訳ではないだろうし、一筋縄ではいかない関係を築くというのもそれはそれでありだとも思うけど…。
「…私達がそれをしたら、なんだか仮面夫婦みたいになっちゃうよなぁ…わざわざそうなろうとするのはなあ…」
状況に迫られている訳でもないのにそうなるなんて、酔狂なんじゃないかな。
道路のコンクリートに散らばった砂利をつま先で踏みしめると、歪な音が木霊した。
「なぜ?」
リリスさんは不思議そうにしていた。
足元を注意深く見ている訳でもないのに、高いヒールで器用に小石や窪みを除けて美しく歩いている。
私達が想い合っていると少女のように純粋に信じてくれているリリスさんは、それで仮面になるということが理解できないようだった。
「愛情がないのに約束だけする。お二人はどんな形を取っていても、どんな約束をしていも、愛情がありますけど」
「そうかしら?」
リリスさんがこてんと小首を傾げると髪がさらりと流れて、華奢なピアスが揺れた。
「少なくとも鬼灯様の方にはあるわ」
「…あ、愛が?」
一瞬なんのことを言われているのかわからなかったけど、まさかあるのって…それ?
思わず足を止めて呆けると、リリスさんは少し違うわねと言って首を横に振った。
「執念みたいなもの」
「…ああ、なるほど、そうかも」
ここで納得してしまうのも変な話だけど、恋より愛より執念という言葉を持ち出された方が腑に落ちた。
私に対してどういう思いを抱いているのか正確なことは分からないけど、愛してるのだと言われるよりもなんだか得心がいく。
止めた足を進めながらリリスさんの話の続きを聞いた。
「片方にだけでもあったら十分でしょ?そのまま一緒にいたら好きになっちゃうかも」
これ以上否定し続けるのも野暮だと思ったので苦笑だけ零したけれど、一緒にいるだけで何か芽生える物だというなら、私達はこの何千年で熱烈カップル…いや熱々の夫婦になっているだろうなあと思う。
「傍で生きる」という約束をしたなら、それを確実に順守するために「結婚」という縛りを与えるのもいいと思うけど。
どうせ今の暮らしで満足しているのだ。今後自発的に意識的に、好い人が現れるのを待つつもりも探すつもりもなかった。
口約束だけでも私が手のひら返しをすることなんてないし、鬼灯くんも私が反故にすることはないとわかっているだろうし。
伊達に付き合いが長くない。わざわざ守らせるためだけにそこまで念入りにする必要はない。
「あ、ここよ。中に入らせてもらいましょう」
話しているうちに、リリスさんが一軒の建物の前で足を止めた。白い華奢な指がさしているのは、古びた大きな洋館だ。
建物全体に蔦が這っていて、庭全体に雑草が高く伸びきっている。窓硝子はヒビ割れていて、大きな玄関扉の取手は錆ついていた。
「え…ここ…?ほんとうに?」
「ほんとうよ。驚かそうなんて思ってないわ。…少なくともあたしは」
意味深な言葉に肩をこわばらせた。どう見ても朽ちかけ人の手が入っていない廃墟。薄暗く、虫の音も鳥の羽ばたきも聞こえず、不気味な空気が漂っていた。
ここに人が住んでいるとはとても思えなかった。
手入れはされていない様子なのに、人が内部に踏み込んだいくつかの足跡が地面に残っている。こちらに帰ってくる足跡はとても少ない。それがまた気味の悪さを増させていた。
もしかしてリリスさん、ドッキリでも仕掛けようとしているんじゃ…と思ったけど多分違うだろう。
…わざわざ強調しながらそんな風に言うってことは…。
あの世には鬼も神も妖怪もなんだっている。それと同じように現世にも神も妖怪も…亡者も漂っていることがある。
そしてここはアメリカ。ものっすごく曰くのありそうな外貌のお屋敷。生者はいないだろうけど亡者ならいそうだと思う。
…なら、もしかして?
錆びた取手を強張った手で握りしめて、両開きの扉をギイという音を立てさせながら開閉した。すると。
「〜ッ!」
──何かが勢いよくこちらへ飛び込んできた。
普段なら、何かぶつかる!と思って反射的に目を瞑っていただろうけど、今の私はそれから目を離せない。
ガアッと襲い掛かってきたそれは、ホラー映画やゲームに出て来るお化けのような姿形をしていた。
映画やドラマで見るのとも、お化け屋敷で直に脅かされるのとも違う。それらとは比にならないほどの生の迫力、肌に風を感じるほどの激しい勢い、脳髄に響くような咆哮、全身が痺れるような人ならざる物特有の空気感。これはもしかしなくてもアレだ。アレしかない。
「名物ホラーハウスだ…!」
目を輝かせてぱちぱちと拍手すると、ピタリと襲い掛かって来たお化けが動きを止めた。
その後ろでこちらに大きな家具を投げようとしていた幽霊数人も妙な表情をして硬直している。
…もしかしてコレは萎えというやつだろうか。
相手を怖がらせようとしているのにこんな反応されたらそりゃ嫌だよね、遣り甲斐ないよね。嫌な客だなあ私と反省した。
外国人が忍者!サムライ!といってテンションを上げるように、日本人だってその国ゆかりのものにテンションが上げたりする。
ご当地の食べ物や美しい景色は勿論、このホラーハウスもきっとその一つだ。
前者のもの達と違って後者のハウスは人を選ぶだろうけど、少なくとも私はアトラクションのような刺激的なものだと捉えていて、好奇心がくすぐられていた。
一度目の人生ではそんな好奇心は抱けなかっただろう。
けれど、あの世で生活するようになってから見える世界が変わって、興味が向かうところ、好奇心がくすぐられるポイントも変わったのだ。いや妙な方向へズレはじめたと言い変えた方がいいのかも。
「やっぱりなんだか似たもの同士ね」
おそらく屋敷の中に何があるのか最初から分かっていたリリスさんは、一歩後ろで控えていた。
背後から投げかけられたその言葉の意図を考えてるうちに、前方から気配が消えていることに気が付く。
どこへ行ったのだろうときょろきょろと屋敷内を見渡すと、視界の端っこ…自分の目線よりすこし下の方に可愛らしい女の子が佇んでいるのが見えた。
いつの間に。なぜそんなに微妙そうな顔して意気消沈しているんだろう。
「どちらさま?…ん、どこの子?こんなところにいたら危ないよ」
足元は瓦礫でいっぱい、空気が埃っぽく湿っぽい、壁や柱が崩れて来そうなところもある。
まだ少女のように見えるので、老婆心を働かせて迷子の子に接するように尋ねてしまったけど、流石にすぐに失言に気が付いた。
リリスさんが事前に示していた反応、この子の背後に構えている透けている男性たち。
さっき襲い掛かってきたお化け。そうだった。ここはホラーハウスなのだ。
さっきの恐ろしい姿を目視した次の瞬間、それとはかけ離れた生身の少女の外見を目にしたから、その落差で一瞬勘違いしてしまった。
さっきのお化けもこの少女も同じ巻き髪、長い金髪だ。訂正する間もなくわなわなと震えた少女が口を開く。
「あたしはここの主よ!もうこないだから何なのよアンタら!」
ガアッと怒りに染まった表情で少女が大きな叫びをあげた。
視線は私の背後のリリスさんに向かっている。
この間から…ということはリリスさんはやっぱり前からちょっかいをかけに来ていたんだろう。
話相手になってほしいとお願いされてここに来たという事を忘れかけていたけど、相手はこの子ってことでいいのかな。
異国の地に来る事になるとも最初は思わなかったし、幽霊相手にそれをするとも思わなかった。
なぜそうしてほしいのかはわからないけど…来れば私も楽しめるはずというリリスさんの言葉は本当だった。
ここは楽しい観光スポットの一つ。どこか浮き足立ち、心躍っているのが分かる。
そういう発想こそが少女の逆鱗に触れるものだということを、まだこの時は知らなかった。