第二十九話
1.言葉地獄


時間というのは何故こうも早く過ぎ去るのだろう。
そういう万人が共通して持っているであろう感覚は、一度目の頃から私にもあった。
けれど、あの世の住民となってからはそれよりももっと、顕著に実感している。
四季は瞬く間に巡る。節分が終われば桃の節句で、端午の節句が終わればまた次が来る。
五月も過ぎ去り、梅雨の雨がしとしと降り注ぐ。雨の匂いと肌に纏わりつく生温い空気を感じ取りながら、雨宿りもかねて凶霊の少女の屋敷にお邪魔していた。
ここには春以来来ていなかった事になるのに、つい昨日遊びにきたばかりのような気がしていた。

「あなたも大変ね」


鞄の中に詰めていたタオルで濡れた体を拭く。すると、そんな私をじっと見ていた少女に気の毒そうに言われた。
私は前フリもない、脈絡がない唐突な話だと思っていたけれど、ゴーストの彼らはうんうんと少女と同じような温度で頷いていた。
私のどこを気の毒に思われているのか少しも伺い知れない。なのに彼らは事前に話合っていたのか、通じ合っているようだ。

先ほどより勢いの弱まった雨粒が、曇った窓を打ちつけるのが見えた。
それを眺めながらどう答えたものかと悩んでいると。


「あいつといてなんのメリットがあるの?」

椅子に座りながら、少女は嫌そうな顔をしながら続けて問い掛けてきた。
私はその言葉で少しだけ言わんとしている事を理解する。
タオルを畳んで鞄に仕舞い、まだ少し濡れている服を抑えながら同じように空いている椅子に座る。
好き嫌いの次はメリットデメリットの話になるのかぁと自然と苦い笑いが零れる。
あいつと鬼灯くんのことで間違いない。大変ねという言葉が出てきたのも、多分鬼灯くんに関係の何かが原因なのだろう。両極端だなと思う。
つま先をぷらぷらと小さく動かし遊ばせながら、少女に向けて返答した。


「それが聞きたくて呼んだの?」

行動力があるといえばいいのだろうか。リリスさんは日本の地獄に頻繁にやって来る。
日本だけでなく、各国各地を歩き回っているのだろうと思う。
そんなリリスさんが陶芸体験をしに来た際に、凶霊の少女…スカーレットちゃんが話したそうにしていたと教えてくれた。
何をしていてもしなくても時間が早く過ぎ去るもの。何かに没頭していれば尚更早く過ぎ去るもの。
忙殺されていた私の周りは丁度落ち着いた頃で、その言葉をきっかけにして久しぶりに足を運ぶ事になったのだった。
肘かけに片肘をついて、日本人から見たら13歳とは思えない、大人びた仕草をしながら口を開いた。


「まぁ、半分はそうね」
「もう半分は?」
「……遊びたかったからよ」


そっぽを向いて、凄く小さな声で言われた。自然と自分の頬が緩み出すのが見なくても分かった。


「私も。ほんとはもっと沢山会いに来たいんだけどなあ。鬼灯くんの方が来やすいんだよねえ、忙しくしてなければ」
「……」


忙しくて身動き取れなく過ごしているのは鬼灯くんの方だけど、普段視察やなんやで定期的に行き来している分、現世に来るのは慣れているし多少は融通もきく。
地獄から天国に行くのも若干手間がかかる。現世に行く手続きをするのにはもっと手間がかかるのだ。近所に散歩に行く感覚で一介の女鬼が繰り出す事は出来ない。
少女は私の言葉を受けて頬を赤らめた。けれどすぐにその色を失い、少し影った色が差しこんだ。


「あなたは素直ね。捻くれたひと達とは大違い」
「いや主、捻くれじゃ済まされないくらい捻くれましたよ」
「そうね。全体的にぶっ壊れてたわ」

いつも保護者のようににやついて…いや基本微笑ましそうに佇んでいるゴーストの彼ら数人が、珍しく喰い気味に割りこんできた。
少女はげんなりと顔を顰めながらも冷静だったけど、彼らにはどこか鬼神迫るものがあった。


「どこがよくて付き合ってるんすか?」
「やっぱり顔ですか」
「ケッあれもこれも顔!世の中全部顔!」
「いや顔で選ぶ余地もなかったし…」


少女とはおそらく違った意味で、彼らは揃ってげえーと嫌そうな顔をしていた。
神父の彼はそれに同調する事なく冷静だったけど。
あの頃、選り好みしている余裕がなかったというのも一つの理由だけど、顔で相方を選ぶという発想がまず私の中になかった。
一般的に顔がいいとされるヒトと長く暮らすことになったのは偶然のことだ。
顔がいいリリスさんに気に入られることになったのも偶然。
リリスさんのことはややこしいので一旦おいといて…私が鬼灯くんに見惚れたことは恐らく一度もない。
いつだか聞いた"鑑賞用"としての役割は担った事がないのだ。近くに居すぎて、彼の顔が整っているという事実にすら暫く気が付けなかった。
視線を彷徨わせて、正面で座っている少女のけだるそうな姿や、その背後に佇み興奮している彼らの姿を目に入れながら唸り考える。
だとすると…


「良い事なんて、何もないよ」
「うわ言い切った…」
「一緒にいると幸せだから…って言っても多分、曖昧で納得できないんだよね」
「へえ、分かってるわね」


感心したように言われたけれど、感心されるべき事ではないと思う。
今まで私達の関係について問い掛けられて、返答しての繰り返しをしてきた。
その経験から、こういう受け答えをしても相手は納得しないだろう事はもう分かっていた。
脱力しながら背もたれによりかかると、古びた天井が視界に入る。四隅に蜘蛛の巣が張っていて、天井の高いこの屋敷では掃除も一苦労だなと取り留めのない事を考えた。


「…本当に何もないんだけど」


ぼんやりと天井の染みでも数えるようにしながら思案し、答えを紡ぐ。
結婚は生活のための協力だと言うし、お互いの利害が一致した状態だと言えるのだろう。
そこには好きだから、幸せだからという気持ち以外の、目に見えた実利が生まれる。
だとしたら、共同生活を送っていた昔の私達は、そういう物を得られていたのかもしれない。じゃあ今はどうだろう?
暮らしは別々になり、昔よりも生活サイクルがズレるようになって。
けれど付き合おうがどうしようが、わざわざ時間を取ってすり合せようとする事はなかった。
食事は一緒に摂るようにしていたけど、それは以前からの事だ。
でも、そもそも。いったいそれになんの意味があるというんだろう。一緒に食べると美味しく感じる。精神的に満たされる。たのしい。うれしい。
ふわふわしたそれだけで、少女が言うメリットなんて物は何も得られていない。
動悸も眩暈も体温が上がる気配もいつまでもない。
私はだからこそ、鬼灯くんとの関係に恋も愛も、ついでに利害の一致も何もないだろうと思っていたんだけど。


「…今は利害みたいの、できちゃったけど…」


鬼灯くんは私に傍にいてほしくて、私は消えないで生きていてもいいのだと認められたくて。
お互いの願いが一致したのだ。その約束が今は一緒にいる理由になるんだろう。


「曖昧な物しかないのになあ」


恋人が一緒にいるときの幸福感も、私が鬼灯くんの傍にいるときの安堵感も、きっと感じているものに大差はないだろうと思っている。
そもそも、友人と一緒にいる事に理由などないし、普通探しもしないだろう。
お香ちゃんと一緒にいると楽しいから、嬉しいから。居心地がいいから。傍にいたい。
そんなシンプルな理由だけだ。
出来れば私は鬼灯くんとの関係も、ややこしく考えないでたったそれだけの理由で済ませたい。
けれど、男女だから、いい年齢だから、彼は目立つヒトだから。
色んな理由があって、私達の関係性に明確な名前が付いていないと疑問視されてしまう。
ない物を出せと言われても困るし、出そうと頑張って二人して画策してみた結果、現状はどうだろう。昔とは変わった物はいくつもあったけど、名前がつけられるようになる程の変化は生まれなかった。


「……かわいそう」
「かわいそう?」

ぽつりと遠い目をした少女に呟かれる。
少女のように言葉にはしない物の、背後の彼らの表情にもかわいそうの五文字が浮かんでいるかのようだった。


「あなたはそんな風に曖昧にしてても、きっとあっちハッキリとした何かがあるのよ」
「そうかもねー」


だって鬼灯くんそんな適当な性格してないし。
ぴちょんとどこかで水滴が滴り落ちる音を聞き取り、思わず見回して発生源を探した。
雨漏りか何かかかなと探す片手間に生返事をしてしまったけど、彼女らが気にする様子はない。外では未だに雨が降りつづけていた。


「…やっぱ分かってたの」
「強かですね…」
「大人しそうな顔して…」
「そりゃあんな人らと居るんだしなぁ…」


やっぱりという言葉を使いつつ、どこか唖然とした様子の少女の後ろで、ヒソヒソこそこそと彼らは身を寄せて囁き合っていた。私にも聞えてるのだから、少女にも聞えている事だろう。
反射的にノリ良く囁きあってしまっただけで、隠したかった訳ではないのかもしれない。
やっぱりとか、分かってたとか、そうは言われても。


「分かってるっていうか…察してるっていうか?」
「…ほんと曖昧ね」
「だって本当になんとなくなんだもん。…あ、あとは何もないはずがないっていう信頼とか?」
「ああ…」

少女はようやく腑に落ちたように息を吐き出しながら椅子にもたれた。
付き合いはまだ長いとは言えないこの子にも、鬼灯くんの突飛さはよく伝わっている。
真っ直ぐに一直線なはずがないのだ。ある意味竹を割ったような潔い性格をしているとも言えるのかもしれないけど。あんなに変化球ばかり投げて来る子を私はみたことない。
見聞きしたという証拠はないけど、経験則はあると言うと、少女は深く納得していた。ゴーストの彼らも、何度かの訪問だけでその片鱗は十分垣間見ていたらしく頷いている。
雨漏りを発見してしまって気がそぞろになっていた私に向けて、少女がぽつりと語り出した。


「あなたのそのふんわりした曖昧なのを良いように利用されて」
「利用って…」

逸れていた意識が物騒な言葉をきっかけに戻ってきて、振り返ると少女の猫目と視線が交わった。

「あっちにこっちに手の平で転がされて」
「わぁ悪い人だね」
「それでもあなたはそれに気づけず」
「私も鈍いしあっちも言ってくれないしね」
「あっちだけは何もかもわかってて、そんなズルい状況で事を進めるの」

物凄い言われようだ。この発言にも同調している様子の背後の彼らが発言を自重していなかったら、袋叩きにされていたに違いない。

「それってもうエイリアンじゃなくて、まるで悪魔みたい」

ぽそりと、強風に当てられ音を立てている窓硝子を遠い目で見ながら言った。
この子は鬼という概念がよく分からず、エイリアンだとという認識をする方がしっくりくるようだった。
けれど、ここに来て少女にも馴染みのあるだろう、悪魔という認識にすり替わってしまったらしい。


「恋って地獄みたいね」
「齢13歳にして凄い悟り開いてるね…」
「いや他人事じゃないのよ…ていうか、本当に分かろうともしてないのね。どうしようもないわコレ」

私の理解力に乏しいせてもあるけれど、やれやれと肩をすくめている少女の言った通り、私自身が積極的に分かろうとしていないのも事実だった。
鬼灯くんは私のいない所で何か少女に何か告げ口したらしい。どうしようもないとまで言われてしまった。どんどん呆れられていくばかりだ。
鬼灯くんが裏で変なことをしていようと過激なことをしていようと、私の株を落すような告げ口をしていようと。その辺を詳らかに分かってても分からなくても、何も変わらない。
そういう苛烈な一面もどうしようもない所も全部ひっくるめて、呆れたり嬉しく思ったり一喜一憂しながら一緒に居続けて来たのだから。何もかも今さらだ。
知る努力もせずあくまで横着し続けようとする私を見て、言葉が出ないようだった。
暫くすると華奢な腕を組みながら、ぽそりとその次を紡ぎ出した。


「…知らないままの方がいいことってあるけど」
「うん」
「知ることが武器になる場合もあるわよ」
「武器って」


この流れからして、武器を手にした私が対戦する相手は鬼灯くんということになるんだろう。全然想像がつかない。いや、比喩表現なのは分かっているけど、対立する私達の図というのが想像できないのだ。これ、喧嘩するとか可愛らしい状況を想定して言ってる訳じゃないだろうし。


「やられっぱなしなんてどうしようもないわよ」
「やられてるのかな」
「やられてるのよ!知らないだけよ」
「いやー…なんかあるのは知ってるよ」
「あ〜話が通じないっ」

イライラとした様子で地団駄を踏んでいた。亀裂の入った床から土埃が舞った。
この屋敷に足を運ぶ人たちは当然土足で踏み入って来る。埃などの塵汚れ以外にも、侵入者が残したのだろう土汚れが目立っていた。
その中には私の靴底が残した物もある。雨が降る中上がり混んできたので、両開きの玄関扉から中心部に向けて、泥の足跡が点々と続いていた。
軒先に汚れ落としが親切に敷かれているはずもないのだ。もうどうしようもない。


「この二人、このままで幸せなんじゃないですかね主…」
「案外これがいい形なのかもしれませんよ」
「駄目に決まってるでしょ!このままで均衡とれたとしても、引っ掻き回してくるヒトがいるんだもの」
「あー…」


昔はそれはそれは綺麗だったはずだろうに、今は見る影もない。床に広がった砂利や塵汚れを私が残念そうに見渡す中、屋敷の住人である彼らは特に気に病む様子もなく、討論を続けていた。

2019.3.13