第二十八話
1.言葉─屋敷にて
ボロボロになったカーテンや、裂かれたテーブルクロス、亀裂の走った壁。
薄暗い室内のあちこちに、もう元の形を保てなくなった残骸や、壊れかけた家財が散乱していた。
とても退廃的で、居心地のいい場所とは言い難い。
埃っぽく湿気た空気が漂っているのは、恐らく汚れているだけが理由でなはない。人の出入りがないからなのでしょう。
亡者しかいないこの屋敷には時間と共に塵が積み重なり、劣化を進ませていた。
換気する機会はたまに、肝試しにやってくる者たちが扉を開く時くらいの物でしょうか。
物々しく息のし辛いこの場所にいることに抵抗はなく、それは目の前の女性も同じなようでした。
「なぜですか」
汚れたソファーに綺麗なお召し物で座る事にも抵抗はないようで、扉を潜ると勝手知ったと言わんばかりの気軽さで、そこに腰を下ろしていた。
私はどこに座りこむこともなく、彼女と対面できる位置にただ佇み、冷たく見下ろした。
床に散らばった破片を踏みつける音が木霊して、後は暫く静寂だけが続く。
どこかで固唾を呑む音が聞えた気がしたけれど、気に掛ける事はできず、ただ睨め付けた。
厳しい表情をしているだろう私を見上げるその女性の瞳は力強く、臆する様子は微塵もない。
それ所か、どこか浮かれたような、弾んだ声色で赤い唇から言葉を紡ぎました。
「何故って、なにが?」
「なぜ今更になってその気になったのです」
「そうね、気に入っちゃったからよ」
「…それはもう、散々聞きました」
あの城に引き止めようとした理由も、あの子を気に入ってるという事実も。
喉から声を滑らそうとして、吸い込んだ湿った空気が肺を蝕んだ。
咳こそする事はないけれど、器官が錆びつくようなザラついた感覚を覚える。
私が聞きたいのはそういう事ではないと、分かり切った事を紡ぐ事はできなかった。
なぜ今になってなのか?という事が疑問なのです。
彼女もそれは承知の上で、私をからかって遊んでいるのでした。
「もっと気に入っちゃったの。もっと好きになっちゃった。あなたもあの子も全部あたしがほしいわ」
「…それだけの事?」
「それ以上の理由なんてないわよ。…他があると思ったの?あって欲しかった?」
口の端を緩々と上げる彼女の表情は、美しい毒を孕んでいた。
いつの日か、私のやり口や、行動、全てを指してまるで悪魔だと酷評された事があった。
悪魔はどっちでしょうか。私は鬼で、彼女こそが真性の悪魔。これは彼女の性分なのでしょう。
いつかと同じように気まぐれな理由で、いつかと同じような形であの子を掠められそうになった。
許し難い事でした。腹の底から湧き上がる熱を、怒りを抑えきれず、私は彼女に厳しく問い質している。
彼女…リリスさんは、足を組み直し、余裕を失わないまま、問いに対する返答をこちらへ渡しました。
「これからあの子に…そうね、災難が降りかかるわ」
「…」
「あたしは神様じゃないし、天使様でもないけど。一応"力"あるものだから、こういうの分かっちゃうみたいね。なんだか不思議」
「……そうですか」
それじゃあ、私が分からない理由は、力ないものだからということでしょうか。
事前に何かが起るのを察知できるならば、防ぐのも容易くなる事だろう。
羨む気持ちがないとは言わない、けれどそれでもいい。もとより自分が秀でてるなど自惚れていない。
力がないというなら、無いなりのことをする他ないのです。それは大昔から変わりません。
昔取った杵柄と言えばよいのでしょうか。
足掻いた末に自分の中に蓄積した産物が沢山あって、それが自分の盾になっている。上手くやれているつもりでした。
過不足のない生活を送っているけれど、0から足掻く事には慣れていた。
「その時あなたはあの子に縋るのかしら。行かないでほしいって。消えないでほしいって」
「…まさか」
私があの子に縋るなんて、滑稽なことです。
乾いた吐息を漏らしながら、緩慢に首を振ってその言葉を打ち消しました。
私がなんのためにあの子と中身のない問答を繰り返し続けたというのでしょう。
あの子は泣きそうに表情を歪めて、泣きそうにか細い拒絶と頼りない肯定を繰り返す。
私はそれを見下ろして、淡々と冷めた温度で暴き続ける。
意味などないように感じられる物にも、本当は一つ一つ十分な意味が含まれていた。
「縋るのはあっちです」
弱さを見せたのはあちらが先でした。
何千年経って、力のない私がようやく探り当てたものです。
思い返せば、あの子は初対面の頃から図太くてお節介だった。
泣きながらもしぶとく生きていたし、死んだ後だって、絶望に打ちひしがれる事なく精一杯暮らしていた。
儚く崩れて逃げ出すような柔な子ではないのです。
──悪魔だと言われた所業。責め立てていると言われた問答。積み重ねてきたその全ては無駄ではなかったのだと、日々の暮らしぶりや、あの子の言葉の端々から実感する。
私の放った言葉はあの子の骨の髄まで根付いていて、素直に吸収していました。
昔馴染からの友情を甘受して、嬉しそうに笑う。恩師からの親愛を享受して、くすぐったそうにする。閻魔殿の中にある豊かさにホッと安堵して、感謝する。
──私の存在に救われて、傍にある事が心地がよいと思っている。それは自惚れでもなんでもない。
厳しい叱咤も、責めるような物言いも、信念の否定さえも。
ある意味では"心地よい"と思っているのでしよう。
「責められたくらいで消えるものですか」
あの子は嗜虐されることを好んでいる訳ではありません。
けれど、私に傷つけられた時の痛みさえも、"いきる"中で得た大事な物の一つとして、後生大事に仕舞っていくのだろうと、私は確信していました。あの子の脆い部分を、最近になって初めて知った。それと同時に、貪欲な部分がある事ももう分かっていました。
「じゃあ、賭けられる?」
「賭けられますとも」
迷うことなどありません。私は首肯しました。
コツコツと何かを叩くような音がした。
振り返ると、苛々とした様子で劣化した机を指先で叩いている少女の姿が視界に入りました。
その背後には、腕を組んだり顔を覆ったり、視線を宙へやっている者達が複数佇んでいる。
金の髪を背中に流した少女は、何かを堪えるように俯いていた顔を上げて、こちらへと言葉を放ちました。
「…あのさぁ…そういうのうちの屋敷でやるのやめてくんない…?」
「美女とイケメンの修羅場って迫力あるな」
「迫力で済まされねえよ」
「美の相乗効果」
私達が睨み合いをしながら言い合いをしたのは、最早馴染みになった幽霊屋敷の一角でした。
家主である凶霊の少女は心底うんざりとしていて、ゴーストの彼らは元々悪かった顔色を更に悪くして、恐れ慄いている様子だった。
「修羅場するための隠れ家でも、たまり場でもないのよ」
「私はちゃんと用事があってきましたよ」
「あたしは今日はそれについてきただけ」
身軽な動作で椅子から立ち上がると、徐に私の腕を組んで、リリスさんは朗らかに告げた。
剣呑な空気も一瞬で消え去る。この方は、元より私と敵対する気など少しもないのです。
特定の誰かがほしいのではなく、世界中の男性を等しくあいしてる。
夫であるベルゼブブさんは流石に別枠でしょうけど。私とあの子を奪い合っているからと言って、私との間に溝が出来ることはありません。
彼女がほしいのはあの子だけじゃない。私も同じなのですから。
「あのー…質問」
ゴーストの一人が手を上げたので、はいどうぞと手を振って促した。
そばかすを浮かべた彼は恐る恐る問いかけた。
「この綺麗な人、既婚じゃなかったっけ…」
恐ろしくとも好奇心を殺せなかったらしい。、
そろりと視線をリリスさんへとやりながら、気まずそうにしながら…けれど意を決したように訪ねてきました。
「はい、そうですね」
「かわいい夫がいるわよ」
「…それで、あんたは恋人がいたはずだよな…?」
「まぁ、一応は」
ふふと悪戯っ子のように笑うばかりだったリリスさんに変わって、私が返答しました。
そうするとやっと自分の口で補足した。
すると今度は彼の好奇心の矛先がこちらの方へと向かって、私は渋々頷きました。
「…それで、つまりどういうこと?」
「簡単に言えば、四角関係ってことですね」
「真顔で何言ってんのこいつ!!?」
その場にしゃがみこみ、床に降り積もった埃に指先を埋めて、「ベルゼブブ→←リリス→→←鬼灯」と分かりやすいように図を書き出す。
何言ってんのって言われましても。事実説明を求められて、それに答えただけです。
「いやその説明いらない!!!」
「あら、それじゃ矢印が足りないわ。リリス→鬼灯って足してちょうだい」
「より泥沼になった!大人ってほんといや!」
凶霊の少女は両手で頭を抱えながら高い声で叫びました。
「お家でうるさくしてごめんなさいね。そうねえ、大人は我儘なのよ」
「いや大人だからこそ大人しくしててよ」
「あなたは容姿がソレだものね。その頃のまま純粋なんでしょうけど、あたし達はそうじゃないのよ」
「…ソレ、私も含めて話してますか」
「当然でしょう。こんな押し問答しておいて、自分は純粋無垢ですなんて言わないわよね」
大人になるほど汚い欲に塗れていくのだと、リリスさんは10代没の子供に対面しながら丁寧に説明しました。
まさか自分が無垢だなんて言うはずがない。当然のように断定されたことが少々癪で皮肉っただけでした。
「まー分かるよ。大人になった方が妙な物欲とか野望とか出て来るの」
「そうですか?私は大人しくなった方ですよ」
「俺は別に変わらなかったな。やんちゃなまま育って肝試しなんかしておじゃん」
リリスさんの言葉に続くようにして、ゴースト(死者)たちが生き物の成長について語るという、シュールな光景が広がって行った。
私はそれを面白く思いながら眺め、凶霊の少女はただひたすら疲れたような表情を浮かべ、そしてリリスさんは。
「あたしは物より何より、あの子がほしいわ」
私に向かい直すと、そう言い切った。再びしんと静まり返る。
あの子とは、私の恋人のことです。夫を持った美しい女性が、相手のいる女性を欲しがっているのです。あらゆる意味で彼らは戦慄していました。
「…それはどうせ今だけの、一過性のものでしょう」
「じゃああなたのそれは、どうして永遠に続くなんて言えるの」
「そんなこと、言えません。言えるはずがない。…けれど、その終わりは飽きではないことはわかります」
飽きたと言って放り投げた物は思えばとても少ない。一区切りついたからと離れたことはありましたけど。
気まぐれ、その時の気分、今はそうだから、楽しいから。
そんな気持ちで向き合ったことはありません。
むしろ苦しく悩ましいばかりなのです。そういう苦い気持ちは、どろどろとした執念へと変わっていきます。執念は執着を深めさせ、どんどん加速させます。
この循環が止む気配はいつまでもない。
「恋人なんて形だけで、結局心は手に入れられていないくせに」
意地悪そうな声色で、そして棘のある言葉の割には穏やかな笑みを湛えながらリリスさんが言います。
ゴースト達はひっと息を呑み、少女は腕を組みながら傍観していた。
「いいえ、形だけでも十分でした」
いくつもの枠組みを用意して失敗した。その次の段階を踏もうとした。形を変えて模索し続けた。
失敗、失敗、また失敗。
けれど十分なものを積み重ねてきたとという確信はそれでも得られた。十分籠絡できたのだと私は傲慢にも信じていました。
「もう成功などしなくても、十分です」
「どうして、何が」
「あの子は逃げ出しも壊れもしませんよ。心地がいい、ここに居たいと思えるだけの物は、やっと与えられたようです」
泣いて叫んで、傷つけられて、苦しんで。それでもあの子は自分の中に愛しい傷を残して来たあの世に、友人に、恩人達に、そしてこの私に愛着を抱かざるを得ない。
あの子は痛みも苦しみも、不幸も幸福もひっくるめて、培ってきたその全てを手放したくないと執着していた。
どれか一つのおかげではないのです。果てない時間の中での多くのつみ重ねが、あの子の足を地につけさせていた。
「居たいのは鬼灯様の傍ではないのに?」
「それでもいいです」
手段など選ばず、理想を高く持ち過ぎなければ、私の願いは思ったよりも簡単に叶うことでしょう。
傍にいて欲しいという願いは、恋人になんてならなくても、家族にならなくても。私のすぐ隣にいなくても叶うものだ。
目の届く範囲…会おうと思えばいつでも会える今の状況下で十分なはずでした。
けれど私は理想を高く持った。きっと叶える、きっと叶います。あの子は未来永劫、その身が朽ちない限り、私の一番傍にいる事を選ぶ。約束を守るのだと。
私は首を傾げました。なぜそうも私の行動を疑問視するのでしょうか。分かりやすいのではないかと思うのですが。それこそ謎です。
「言葉で殺してなどいませんでした。言葉で留めようと、健気に尽くしているんですよ」
愛しい人に必死に尽くそうとしているみたいだと、目の前のあなたが言ってくれたんじゃありませんか。
甚振るのってきっと楽しいことなんでしょう。壊したってきっと後悔しないんでしょう。衝動のままやり切れたなら満足なんでしょう。
楽しくて気持ち良ければそれでいい。相手が苦痛でも自分が快感だと思えるならそれはそれで
あなただって妲己さんが言っていたそれにも一理あると、最後は頷いていたじゃありませんか。
だったら文句なんてありませんよね。強引なことをしても、あの子がほしいという他の美しい女性さえも蹴落としても。
お互いが望み合い愛し合う、世間一般で言われる理想形にならずとも。歪な形で結ばれたって、どうだって。
「それも手ですよね」
私の言葉を聞いたリリスさんは尚も挑発的笑い、凶霊の少女は気持ち悪そうな苦い表情を浮かべ、ゴーストの彼らは青ざめて震えていました。
霊体になっても鳥肌が立つものか、私達の方へ歩み寄ってきた凶霊の少女は問いました。
「……こういうのさぁ、あの子に話してるの」
「こういうの、とは?」
「あんたら二人のやばい発言」
「やばいことなんて言ったかしら」
「ええー…自覚がないとか性質悪すぎでしょ…」
少女に更に引かれてしまいました。好感度を図るメーターがあったなら、どんぞこの数値にまで下がっていそうです。
「さっきまで話していたようなことは何も」
「欲しいって事は、あたしも鬼灯様も直接言ってるはずだけど」
私とリリスさんはどちらからともなく顔を見合わせました。
それでも、私達の間で交わされるている不毛な問答など、知る由もないでしょう。
あの子にはこれらを知る術もないし、おそらく知る気もないのです。
「…かわいそう」
ぽつりと、独り言のように少女はその唇の隙間から声を漏らした。
「一方的なままにするのって趣味が悪い。フェアじゃない」
そうは言いつつも、私達を咎める気はないようでした。本当に独り言のようなもので、自己完結しているものなのでしょう。
「知らせないのは私達ですけど、聞かないのはあの子ですよ。何かあるとは分かっていてもそのまま放任するんです。フェアじゃなくても、それでいいんでしょう」
「聞いてるあたしはあっちがかわいそうになるわよ」
「そりゃあ友達ですから」
「女の子は女の子に肩入れしたくなるわよね」
リリスさんはリリスさんで頷いていましたけど、ゴーストの彼らも別の意味うんうんと深く頷いていました。
畏れをなしているのか、肝の座っている少女とは違い、一定の距離を保ったまま私達に言い放つ。彼らは私達が剣呑な空気で訪問した当初から、ただならぬ空気を察して壁の近くで固まったままだった。
「いや俺らもあの女の子がかわいそう」
「普通に同情するわ」
「荒んでるというか拗らせているというか病んでいるというのか…」
どうやら味方はここには居ないようでした。いや、居なくても構わないんですけど。
リリスさんもリリスさんで、私と同様に、批難の目で見られたことを気にした様子なく、最後まで一貫して飄々としていました。
1.言葉─屋敷にて
ボロボロになったカーテンや、裂かれたテーブルクロス、亀裂の走った壁。
薄暗い室内のあちこちに、もう元の形を保てなくなった残骸や、壊れかけた家財が散乱していた。
とても退廃的で、居心地のいい場所とは言い難い。
埃っぽく湿気た空気が漂っているのは、恐らく汚れているだけが理由でなはない。人の出入りがないからなのでしょう。
亡者しかいないこの屋敷には時間と共に塵が積み重なり、劣化を進ませていた。
換気する機会はたまに、肝試しにやってくる者たちが扉を開く時くらいの物でしょうか。
物々しく息のし辛いこの場所にいることに抵抗はなく、それは目の前の女性も同じなようでした。
「なぜですか」
汚れたソファーに綺麗なお召し物で座る事にも抵抗はないようで、扉を潜ると勝手知ったと言わんばかりの気軽さで、そこに腰を下ろしていた。
私はどこに座りこむこともなく、彼女と対面できる位置にただ佇み、冷たく見下ろした。
床に散らばった破片を踏みつける音が木霊して、後は暫く静寂だけが続く。
どこかで固唾を呑む音が聞えた気がしたけれど、気に掛ける事はできず、ただ睨め付けた。
厳しい表情をしているだろう私を見上げるその女性の瞳は力強く、臆する様子は微塵もない。
それ所か、どこか浮かれたような、弾んだ声色で赤い唇から言葉を紡ぎました。
「何故って、なにが?」
「なぜ今更になってその気になったのです」
「そうね、気に入っちゃったからよ」
「…それはもう、散々聞きました」
あの城に引き止めようとした理由も、あの子を気に入ってるという事実も。
喉から声を滑らそうとして、吸い込んだ湿った空気が肺を蝕んだ。
咳こそする事はないけれど、器官が錆びつくようなザラついた感覚を覚える。
私が聞きたいのはそういう事ではないと、分かり切った事を紡ぐ事はできなかった。
なぜ今になってなのか?という事が疑問なのです。
彼女もそれは承知の上で、私をからかって遊んでいるのでした。
「もっと気に入っちゃったの。もっと好きになっちゃった。あなたもあの子も全部あたしがほしいわ」
「…それだけの事?」
「それ以上の理由なんてないわよ。…他があると思ったの?あって欲しかった?」
口の端を緩々と上げる彼女の表情は、美しい毒を孕んでいた。
いつの日か、私のやり口や、行動、全てを指してまるで悪魔だと酷評された事があった。
悪魔はどっちでしょうか。私は鬼で、彼女こそが真性の悪魔。これは彼女の性分なのでしょう。
いつかと同じように気まぐれな理由で、いつかと同じような形であの子を掠められそうになった。
許し難い事でした。腹の底から湧き上がる熱を、怒りを抑えきれず、私は彼女に厳しく問い質している。
彼女…リリスさんは、足を組み直し、余裕を失わないまま、問いに対する返答をこちらへ渡しました。
「これからあの子に…そうね、災難が降りかかるわ」
「…」
「あたしは神様じゃないし、天使様でもないけど。一応"力"あるものだから、こういうの分かっちゃうみたいね。なんだか不思議」
「……そうですか」
それじゃあ、私が分からない理由は、力ないものだからということでしょうか。
事前に何かが起るのを察知できるならば、防ぐのも容易くなる事だろう。
羨む気持ちがないとは言わない、けれどそれでもいい。もとより自分が秀でてるなど自惚れていない。
力がないというなら、無いなりのことをする他ないのです。それは大昔から変わりません。
昔取った杵柄と言えばよいのでしょうか。
足掻いた末に自分の中に蓄積した産物が沢山あって、それが自分の盾になっている。上手くやれているつもりでした。
過不足のない生活を送っているけれど、0から足掻く事には慣れていた。
「その時あなたはあの子に縋るのかしら。行かないでほしいって。消えないでほしいって」
「…まさか」
私があの子に縋るなんて、滑稽なことです。
乾いた吐息を漏らしながら、緩慢に首を振ってその言葉を打ち消しました。
私がなんのためにあの子と中身のない問答を繰り返し続けたというのでしょう。
あの子は泣きそうに表情を歪めて、泣きそうにか細い拒絶と頼りない肯定を繰り返す。
私はそれを見下ろして、淡々と冷めた温度で暴き続ける。
意味などないように感じられる物にも、本当は一つ一つ十分な意味が含まれていた。
「縋るのはあっちです」
弱さを見せたのはあちらが先でした。
何千年経って、力のない私がようやく探り当てたものです。
思い返せば、あの子は初対面の頃から図太くてお節介だった。
泣きながらもしぶとく生きていたし、死んだ後だって、絶望に打ちひしがれる事なく精一杯暮らしていた。
儚く崩れて逃げ出すような柔な子ではないのです。
──悪魔だと言われた所業。責め立てていると言われた問答。積み重ねてきたその全ては無駄ではなかったのだと、日々の暮らしぶりや、あの子の言葉の端々から実感する。
私の放った言葉はあの子の骨の髄まで根付いていて、素直に吸収していました。
昔馴染からの友情を甘受して、嬉しそうに笑う。恩師からの親愛を享受して、くすぐったそうにする。閻魔殿の中にある豊かさにホッと安堵して、感謝する。
──私の存在に救われて、傍にある事が心地がよいと思っている。それは自惚れでもなんでもない。
厳しい叱咤も、責めるような物言いも、信念の否定さえも。
ある意味では"心地よい"と思っているのでしよう。
「責められたくらいで消えるものですか」
あの子は嗜虐されることを好んでいる訳ではありません。
けれど、私に傷つけられた時の痛みさえも、"いきる"中で得た大事な物の一つとして、後生大事に仕舞っていくのだろうと、私は確信していました。あの子の脆い部分を、最近になって初めて知った。それと同時に、貪欲な部分がある事ももう分かっていました。
「じゃあ、賭けられる?」
「賭けられますとも」
迷うことなどありません。私は首肯しました。
コツコツと何かを叩くような音がした。
振り返ると、苛々とした様子で劣化した机を指先で叩いている少女の姿が視界に入りました。
その背後には、腕を組んだり顔を覆ったり、視線を宙へやっている者達が複数佇んでいる。
金の髪を背中に流した少女は、何かを堪えるように俯いていた顔を上げて、こちらへと言葉を放ちました。
「…あのさぁ…そういうのうちの屋敷でやるのやめてくんない…?」
「美女とイケメンの修羅場って迫力あるな」
「迫力で済まされねえよ」
「美の相乗効果」
私達が睨み合いをしながら言い合いをしたのは、最早馴染みになった幽霊屋敷の一角でした。
家主である凶霊の少女は心底うんざりとしていて、ゴーストの彼らは元々悪かった顔色を更に悪くして、恐れ慄いている様子だった。
「修羅場するための隠れ家でも、たまり場でもないのよ」
「私はちゃんと用事があってきましたよ」
「あたしは今日はそれについてきただけ」
身軽な動作で椅子から立ち上がると、徐に私の腕を組んで、リリスさんは朗らかに告げた。
剣呑な空気も一瞬で消え去る。この方は、元より私と敵対する気など少しもないのです。
特定の誰かがほしいのではなく、世界中の男性を等しくあいしてる。
夫であるベルゼブブさんは流石に別枠でしょうけど。私とあの子を奪い合っているからと言って、私との間に溝が出来ることはありません。
彼女がほしいのはあの子だけじゃない。私も同じなのですから。
「あのー…質問」
ゴーストの一人が手を上げたので、はいどうぞと手を振って促した。
そばかすを浮かべた彼は恐る恐る問いかけた。
「この綺麗な人、既婚じゃなかったっけ…」
恐ろしくとも好奇心を殺せなかったらしい。、
そろりと視線をリリスさんへとやりながら、気まずそうにしながら…けれど意を決したように訪ねてきました。
「はい、そうですね」
「かわいい夫がいるわよ」
「…それで、あんたは恋人がいたはずだよな…?」
「まぁ、一応は」
ふふと悪戯っ子のように笑うばかりだったリリスさんに変わって、私が返答しました。
そうするとやっと自分の口で補足した。
すると今度は彼の好奇心の矛先がこちらの方へと向かって、私は渋々頷きました。
「…それで、つまりどういうこと?」
「簡単に言えば、四角関係ってことですね」
「真顔で何言ってんのこいつ!!?」
その場にしゃがみこみ、床に降り積もった埃に指先を埋めて、「ベルゼブブ→←リリス→→←鬼灯」と分かりやすいように図を書き出す。
何言ってんのって言われましても。事実説明を求められて、それに答えただけです。
「いやその説明いらない!!!」
「あら、それじゃ矢印が足りないわ。リリス→鬼灯って足してちょうだい」
「より泥沼になった!大人ってほんといや!」
凶霊の少女は両手で頭を抱えながら高い声で叫びました。
「お家でうるさくしてごめんなさいね。そうねえ、大人は我儘なのよ」
「いや大人だからこそ大人しくしててよ」
「あなたは容姿がソレだものね。その頃のまま純粋なんでしょうけど、あたし達はそうじゃないのよ」
「…ソレ、私も含めて話してますか」
「当然でしょう。こんな押し問答しておいて、自分は純粋無垢ですなんて言わないわよね」
大人になるほど汚い欲に塗れていくのだと、リリスさんは10代没の子供に対面しながら丁寧に説明しました。
まさか自分が無垢だなんて言うはずがない。当然のように断定されたことが少々癪で皮肉っただけでした。
「まー分かるよ。大人になった方が妙な物欲とか野望とか出て来るの」
「そうですか?私は大人しくなった方ですよ」
「俺は別に変わらなかったな。やんちゃなまま育って肝試しなんかしておじゃん」
リリスさんの言葉に続くようにして、ゴースト(死者)たちが生き物の成長について語るという、シュールな光景が広がって行った。
私はそれを面白く思いながら眺め、凶霊の少女はただひたすら疲れたような表情を浮かべ、そしてリリスさんは。
「あたしは物より何より、あの子がほしいわ」
私に向かい直すと、そう言い切った。再びしんと静まり返る。
あの子とは、私の恋人のことです。夫を持った美しい女性が、相手のいる女性を欲しがっているのです。あらゆる意味で彼らは戦慄していました。
「…それはどうせ今だけの、一過性のものでしょう」
「じゃああなたのそれは、どうして永遠に続くなんて言えるの」
「そんなこと、言えません。言えるはずがない。…けれど、その終わりは飽きではないことはわかります」
飽きたと言って放り投げた物は思えばとても少ない。一区切りついたからと離れたことはありましたけど。
気まぐれ、その時の気分、今はそうだから、楽しいから。
そんな気持ちで向き合ったことはありません。
むしろ苦しく悩ましいばかりなのです。そういう苦い気持ちは、どろどろとした執念へと変わっていきます。執念は執着を深めさせ、どんどん加速させます。
この循環が止む気配はいつまでもない。
「恋人なんて形だけで、結局心は手に入れられていないくせに」
意地悪そうな声色で、そして棘のある言葉の割には穏やかな笑みを湛えながらリリスさんが言います。
ゴースト達はひっと息を呑み、少女は腕を組みながら傍観していた。
「いいえ、形だけでも十分でした」
いくつもの枠組みを用意して失敗した。その次の段階を踏もうとした。形を変えて模索し続けた。
失敗、失敗、また失敗。
けれど十分なものを積み重ねてきたとという確信はそれでも得られた。十分籠絡できたのだと私は傲慢にも信じていました。
「もう成功などしなくても、十分です」
「どうして、何が」
「あの子は逃げ出しも壊れもしませんよ。心地がいい、ここに居たいと思えるだけの物は、やっと与えられたようです」
泣いて叫んで、傷つけられて、苦しんで。それでもあの子は自分の中に愛しい傷を残して来たあの世に、友人に、恩人達に、そしてこの私に愛着を抱かざるを得ない。
あの子は痛みも苦しみも、不幸も幸福もひっくるめて、培ってきたその全てを手放したくないと執着していた。
どれか一つのおかげではないのです。果てない時間の中での多くのつみ重ねが、あの子の足を地につけさせていた。
「居たいのは鬼灯様の傍ではないのに?」
「それでもいいです」
手段など選ばず、理想を高く持ち過ぎなければ、私の願いは思ったよりも簡単に叶うことでしょう。
傍にいて欲しいという願いは、恋人になんてならなくても、家族にならなくても。私のすぐ隣にいなくても叶うものだ。
目の届く範囲…会おうと思えばいつでも会える今の状況下で十分なはずでした。
けれど私は理想を高く持った。きっと叶える、きっと叶います。あの子は未来永劫、その身が朽ちない限り、私の一番傍にいる事を選ぶ。約束を守るのだと。
私は首を傾げました。なぜそうも私の行動を疑問視するのでしょうか。分かりやすいのではないかと思うのですが。それこそ謎です。
「言葉で殺してなどいませんでした。言葉で留めようと、健気に尽くしているんですよ」
愛しい人に必死に尽くそうとしているみたいだと、目の前のあなたが言ってくれたんじゃありませんか。
甚振るのってきっと楽しいことなんでしょう。壊したってきっと後悔しないんでしょう。衝動のままやり切れたなら満足なんでしょう。
楽しくて気持ち良ければそれでいい。相手が苦痛でも自分が快感だと思えるならそれはそれで
あなただって妲己さんが言っていたそれにも一理あると、最後は頷いていたじゃありませんか。
だったら文句なんてありませんよね。強引なことをしても、あの子がほしいという他の美しい女性さえも蹴落としても。
お互いが望み合い愛し合う、世間一般で言われる理想形にならずとも。歪な形で結ばれたって、どうだって。
「それも手ですよね」
私の言葉を聞いたリリスさんは尚も挑発的笑い、凶霊の少女は気持ち悪そうな苦い表情を浮かべ、ゴーストの彼らは青ざめて震えていました。
霊体になっても鳥肌が立つものか、私達の方へ歩み寄ってきた凶霊の少女は問いました。
「……こういうのさぁ、あの子に話してるの」
「こういうの、とは?」
「あんたら二人のやばい発言」
「やばいことなんて言ったかしら」
「ええー…自覚がないとか性質悪すぎでしょ…」
少女に更に引かれてしまいました。好感度を図るメーターがあったなら、どんぞこの数値にまで下がっていそうです。
「さっきまで話していたようなことは何も」
「欲しいって事は、あたしも鬼灯様も直接言ってるはずだけど」
私とリリスさんはどちらからともなく顔を見合わせました。
それでも、私達の間で交わされるている不毛な問答など、知る由もないでしょう。
あの子にはこれらを知る術もないし、おそらく知る気もないのです。
「…かわいそう」
ぽつりと、独り言のように少女はその唇の隙間から声を漏らした。
「一方的なままにするのって趣味が悪い。フェアじゃない」
そうは言いつつも、私達を咎める気はないようでした。本当に独り言のようなもので、自己完結しているものなのでしょう。
「知らせないのは私達ですけど、聞かないのはあの子ですよ。何かあるとは分かっていてもそのまま放任するんです。フェアじゃなくても、それでいいんでしょう」
「聞いてるあたしはあっちがかわいそうになるわよ」
「そりゃあ友達ですから」
「女の子は女の子に肩入れしたくなるわよね」
リリスさんはリリスさんで頷いていましたけど、ゴーストの彼らも別の意味うんうんと深く頷いていました。
畏れをなしているのか、肝の座っている少女とは違い、一定の距離を保ったまま私達に言い放つ。彼らは私達が剣呑な空気で訪問した当初から、ただならぬ空気を察して壁の近くで固まったままだった。
「いや俺らもあの女の子がかわいそう」
「普通に同情するわ」
「荒んでるというか拗らせているというか病んでいるというのか…」
どうやら味方はここには居ないようでした。いや、居なくても構わないんですけど。
リリスさんもリリスさんで、私と同様に、批難の目で見られたことを気にした様子なく、最後まで一貫して飄々としていました。