第二十七話
1.言葉郷愁


小さく出そうになる悲鳴を呑みこんで、鬼灯くんの後ろの死角になる位置へと移動して、身を隠した。緊張で張り付いた喉からでた、か細いく頼りない声で拒絶する。

「じ、地獄の鬼なので…メイドとか絶対向いてませんし…」
「いるだけでいいのよ?洋服が落ちつかないなら、和装でも作る?」
「それじゃもっと向いてません…あとそういう問題でもありません…」


どっちかっていうと和服より洋装の方が動きやすいけどそういう問題ではない。絶対違う。
給仕の仕事をするのも向いていないと思うけど、居るだけの観賞用になるなんてもっと無理だ。
そもそもサタン様もなんか良いとか曖昧なことを言ってノリ気になっていたけど、どうやったら私が美しいメイドさん達の隣に並べるだろう。なぜ並べてもいいと思ったのだろう。
日本人は着物を着る時が一番美しいと聞くけど、その補正がかかったとしても誤魔化されないだろう。
城内を闊歩しているメイドさん達は地獄の美女鬼たちに負けず劣らない美しさで、仕草も声も何もかも鮮麗されていた。
彼女らは鑑賞用になるにふさわしい芸術的な造形をしているかもしれないけど、私はどうやったってそうなれない。
もし美しい顔立ちをしていたとして、この引きつり青ざめた表情は絶対に観るに向かない。

「残念だわ。せっかく来てもらったのに」
「攫ったの間違いでは」
「遊びにきてくれたのよ。ね?」

鬼灯くんは眉間に皺を寄せながら冷たく切り捨てるけど、リリスさんも同じように否定した。埒のあかない二人だけの問答をやめ、私に改めて訪ね直したけど、私は二人の言葉どちらにも頷けず、苦く笑う。
攫われたというのは仰々しすぎるけど、遊びにきたという程軽くはない。
ほどほどに重たい行動を取ったその割には、リリスさんはもったいぶる事もなく、あっさりと解放してくれた。
帰りたいと言えば、トンと背中を押して帰してくれたリリスさんの真意はよくわからない物だった。
これがちょっとした意趣返しだと言うのならそうなんだけど、本当にそれだけだと捉えていいものなのだろうか。
こういう飄々とした所があるからこそ、私は彼女に思わせぶりに接した所で、傷つくとは思えなかったのだ。
リリスさんは名残惜しそうになどしなかったけど、広間に運ばれた大量の衣装たちは役目も果たせず無念そうに散乱していた。
傍らにいるサタン様もそうで、ベルゼブブさんはどちらかと言うとただひたすら困惑しているようだった。


「またね」

ひらひらと手を振りながら、いつも変わりない笑顔で退室する私達を見送ってくれる。
入口で待機していたメイドさんが、城外まで誘導してくれようと無言で控えていた。
サタン様は不機嫌そうな鬼灯くんに気後れしているのか、引き抜きたいうという意向の一端も紡げず名残惜しそうに、ベルゼブブさんは妻の行動が信じ難いのだろう、未だに言葉にならない言葉をはくりと開閉する口から零しながら。


気まずい沈黙を耐え抜きながら鬼灯くんの隣を歩いた。
春とはいえ、夜になると風は冷たくなる。私がここにやってきたのは晴天の空が眩しい時間帯だった。時計を見ている余裕もなかったせいで、外に出て初めてどっぷりと陽が落ち切っている事に気が付く。
顔色を窺う度胸もなく、メイドさんに見送られてからは、ただ無言でひたすら帰りの道を辿る。
出来るのは空を眺めて一番星を探す事くらいだった。
しかし地獄にたどり着くまでの道中を無言で帰るだけの度胸がないのも確かだった。


「…怒らないの?」

とうとう堪えきれず聞いてしまった。
彼はちらりとこちらを一瞥して、立ち止まって長いため息を吐いた。
暗闇と街灯の光が混ざり合って影を作り合っている。けれど十分に周辺を照らしきっているとは言い難い。
外に出たばかりで目が慣れず、未だに暗闇の中はっきりしない視界。見えにくいながら、鬼灯くんが目を細めた事はわかった。
彼は低い声で問いに答える。


「怒った所でどうにかなるなら、そうするでしょうね」
「……ごめんなさい」

地雷を踏んだ自覚はある。同じようなことを繰り返したのだ。自分の至らなさと、また一大事を引き起こしかけた罪悪感、怒る価値もないと心底呆れられたことが辛くて項垂れた。
鬼灯君の普段の立ち回りを考えると、自業自得だ、自分でどうにかしろと言って放っておかれてもおかしくなかった。けれど情けない救援を聞いて、素直に私に縋られてくれた。手を掴まれてくれたのだ。

「…なんでそこまで呆れてるのに、来てくれたの?」

叱咤する価値もないからと言われてしまえばそれまでだし、拗れれば国際問題にまで発展しかねない、ただの尻拭いなんだと言われてもそうなんだろうけど。
仕方ないと慈愛の心で許すことなどしない人だ。親しい友であろうとまだ初々しい部下であろうと、躊躇いなく鉄槌も下すし左遷も言い下す。
ミスをすれば厳しい叱咤、暴力での折檻も免れない。それが地獄で、それが鬼灯くんの立ち回り方なのだ。

「……恋人だからでは?」
「それもう自然消滅してる頃だと思うよ、時効」

いやいやと手を振って否定した。そもそも恋人だからというだけでなんでも許すような健気な性格してないでしょ。今回かなりどうしようもないことをやらかした自覚はある。
けれど鬼灯くんも主張をやめることなく、釘をさす様に強く言う。


「そもそも、なんで私がお付き合いがどうのと言い出したのか思い出してみなさい」
「……傍にいてほしいから?」
「そうです。掠め取られるようなことを許すはずがないでしょう。あなたのための救いの手ではなく、これは私のための行動ですよ」

掠め取られるって…凄い言いかたをするなぁと呆気にとられてがくりと肩を落とした。
潔い自分本位な宣言に、漸く納得する。
ハイハイそれでもう分かりましたと、立ち止まっていた鬼灯くんの背中を押して再び歩みを進めた。往復するのにも結構な時間がかかる。忙しくしている鬼灯くんに時間を取らせてしまうのは忍びなかった。


「でも、嬉しかったなぁ」

ようやく十分な灯りが足元を照らしたのが見えて、顔を上げた。
今までとは一変して、気が抜けたような声を出したこちらに、鬼灯くんが視線を落とすのが見えた。


「メイド服着たくなかったし」

お遊びで試着するだけならまだしも、それを来て毎日働くなんてそれこそ地獄だ。
それだけは耐えがたくて、自分のことは自分でという決意もすぐに崩れ去ったのだ。

「…あなたも自由ですねぇ」

すると深い溜息を吐かれてしまった。

「自由って、なにが」
「迎えに来てくれて嬉しかったとか、帰れて安心したとかないんですか。理由がそれって」
「どうにかして帰るつもりだったし…連れられた事より、鬼灯くんのお叱りの方が怖かったよ」
「…そうですか。それはよかったです」
「今の何がよかったの?」

しみじみと言う事かなと驚いて二度見してしまった。何もよい事は言っていない。


「そんなに地獄が好きですか。あなたの気に入ってる現世よりも、友達のいるこの国よりも」
「……好きっていうか」


なぜ改めて聞かれるのだろうと疑問だった。けれど聞かれたからには答えなければなるまいと、頬に手をあてて、遠くに視線をやりながら考えてみる。
視界にはもう通いなれてきた、けれど自分の目にはいつまでも馴染まない異国の景色を眺める。
匂いも喧噪も、風の温さも踏みしめる土の感触も、何もかもがどこか違ってる。
そんな異国で暮らす自分を想像する。全然楽しそうな顔をしていない。何度角度を変えて再生し直してみても、場面が移り変わっても、どこで何をしていても想像の中の私はどこか居心地悪そうにして、郷愁にかられている。想像力の限界だ。振り払うようにして首を横に振ると、いつも甘受しているのとは違った空気が頬を撫でて消えた。


「気に入ってる場所があっても、友達がいても、帰る家は地獄にある訳だし」
「家ですか。あの寮が?」
「寮だって自分の家だよ。ていうか、野ざらしでもそこが家って決めたら私の家だよ」
「随分逞しいですね」
「鬼灯くんだってやろうと思えばできるでしょ、まだ」

いくら娯楽を得ようと恵まれた食生活を送ろうと、便利な時代に適応しようと。昔の心もとない生活習慣はまだ身に染みて残っているはずだ。
定住地などあってないような生活が長く続いたあの頃を思い出す。

「まぁ、必要に迫られれば。このご時世、流石に早々そうはならないとは思いますけど」

ここがそうだと決めたらどこでも私の家だと思える。その理屈なら、異国の地だろうとどんな辺境の地だろうと、そう思えるのだろうと、つま先で地面を踏みしめてみる。
仕事を探す事も住居を探す事も、異国の習慣に成れる事も、言語を習得する事も、それこそ必要に迫られればきっと今の私なら簡単にできる。
今眼前に広がる、慣れないこの景色に囲まれる生活を、容易く日常に変えられる事だろう。けれど。


「他の国に行くなんて、考えたこともなかった」

一度目で人格形成がなされて、それを今生に引き継ぐ形になって、一度目で培った思考なんかは私の根底に強く残ったけど。
一度目はたかだかxx年しか生きていないのだ。あの頃過ごした場所に惹かれるよりも、云千と過ごしたあの世の方がもう住みなれているし、心惹かれる土地だ。そこから移住するなんて考えたこともない。

「鬼灯くんがいてくれたから、ひもじくても寂しくはなかったし」

助け合いのおかげでなんとかやってこれたし、心は折れなかった。
欠乏した暮らしぶりが苦しい思い出として今残ってしまっていたなら、もしかしたら良い思い出のないここを捨ててどこかほかの場所に行きたいと、ふらり思い立ったかもしれない。
…結局、場所に思い入れがあるというよりは、ひとに思い入れがあるのだろう。
鬼灯くんとか、昔馴染たちに引き止められて今地に足つけて立っているんだなと改めて自覚する。
その中でもやっぱり苦楽を共にした…死さえも共にした鬼灯くんは別格なのだ。
それはいくらリリスさんだろうと、幼馴染の誰だろうと、生涯覆せない。
あの長い時間も出来事も、なかったことにはもう出来ないのだから。
違う誰かとあの濃密な云千年を改めて一からつみ重ねるなんて、現実的ではない。
そもそも気が付いたら過ぎ去っていたという感覚なのだ。
意識的に果てない時間を誰かと過ごそうとするなんて、気が遠くなって出来ない。そうは言っても、覆そうとする必要なんてないんだけど。


「それは、よかった」

私の思いの丈を聞くと、鬼灯くんはもう一度頷いた。

2019.3.9