第二十五話
1.言葉─家族みたいなもの
出会った頃。自然と傍にいる誰かがいるがとても嬉しかった。
家族みたいに近しくいられる。独りぼっちの私には、それはとても幸せな事だったのだ。
鬼灯くんに一時期荒れている頃があったみたいに、私も不安定な時期があった。
小さな子供の身体は親を求めていて、けれど餌を待つ雛みたいに口を開いていても、ついに誰も顧みてくれないまま今に至る。
漠然とした喪失感、受けとめてくれる誰かがいない孤立感。
そういう時、何をしてくれる訳ではなかったけど、ただそこにいてくれる鬼灯くんの存在は、ある意味薬のようなものになってくれていた。
私は傍に彼がいてくれることに心底安堵していたのだ。お互い帰る場所も受け止めてくれる誰かもいなかったけど、幸いに寄り添う相手はいた。
鬼灯くんは私のことを心の支えになんてしていなかったかもしれないけど。
他愛のない話を聞いてくれるヒトがいること。
静まりかえらない部屋に、誰かの気配があること。おかえりと迎えること、迎えられること。
こんな安らぎは、食料や物資やとは違って、頑張れば手に入るものではない。私が得られたのは僥倖で、これらは何よりも価値あるものだったのだ。
「家族みたいに感じてるの。そうなりたい、それが理想なの」
何も気負わず言えたあの頃を思い出す。今のように人目を憚る事なく、自分がそう思るならばそれで良いと心から言えた。
腐れ縁を越え、家族を越え、紆余曲折あって恋人になり、今度は夫婦だなんて揶揄されるようになった。
昔言ったように夫婦も家族だ。なれたなら、きっと私の理想通りになるだろう。
けれど、そこに辿りつく事が本当に最善なのだろうか。
皆に認められながら、確かな意志で二人約束をして、寄り添い合うことになる。
それって鬼灯君と交わした「傍で生きる」という約束を果たす事になるのだろうか。
家族みたいになりたいという私の理想は、それで叶うのだろうか。
鬼灯くんは私の傍でどうなりたくて、私は鬼灯くんの傍でどうなりたいんだろう。
昔みたいに迷わず断言できなくなった私は、何の答えも出せず、煩悶し続けていた。
「…逆転してるなぁ」
と、思わず笑ってしまった。昔は悶々と考え捻るのは鬼灯くんの方で、私は適当に受け止める側だったのだ。
今は鬼灯くんの方が多分サッパリしてる。自分の中でどこか納得いっていて、私の方は納得がいっていない。違和感を覚えていて、この関係に疑問を抱いてる。
大人になるってこういうことなのかなと思う。理由がなければ共にいることも難しくなって、周りの目を気にするようになって。
昔馴染に理解してもらうみたいに、受け身のままではいられない。周囲の理解を得るためには自ら働きかける必要性がある。
私達はゴシップになろうが揶揄されようが気にするような性質ではなかったけど、わざわざ荒波を立てる訳にもいかない。
配慮するようになった。適切なことを考えるようになった。私達はいったい何なのかを考えるようになった。
傍にいたいのは私だって一緒で、居れたなら、きっと嬉しくなれるんだと知っているけど。
「生きる以上に。それ以上にあなたは何を望みますか」
あの時言われた何度も言葉が、頭に浮かんでは責め立てる。反芻して忘れさせない。まるで戒めるみたいだと思った。
そうだ。満たされた後には何が待っているんだろう。
これだけで満足だと思っていたのに、得られた途端に高望みしてしまう人の性みたいなものを、この身をもって体験している。
もう少しだけ生き永らえられただけで満足できるはずだった。それなのに、云千年経ってもそれ以上を渇望し続けた私の強欲さ。
──その次は?生きることを許された私は今きっと満たされていて、けれど自分の心がふとした瞬間、再び何を望み出すのか知るのが怖かった。
どうせ今だけ、どうせ満足できなくなる。
あの子は賢さがその口から的を得た言葉を放たせる。私はそういうのが、鬼灯くんの身を守る盾にになるだろうと喜ばしくも思っていたけど、見透かされそうで怖いなぁと昔はただ笑っていた。
今は笑いごとではなくなってしまった。最近はそんな、色んな変化ばかりが訪れている。
人通りの激しい駅前。駅構内に向かおうとする人の流れを避ける位置に佇む女性がいた。金色の髪を耳にかけて、次の瞬間風に弄ばれたスカートの裾を咄嗟におさえた指は白い。形のいい爪が一瞬艶めくのが遠目に見えた。
何度見ても慣れない輝きに気圧されつつ、私が一歩彼女に近づくと、向こうの方も私に気が付いてくれたようだ。変わらぬ微笑を湛えて、彼女は再会した私を歓迎した。
「あなたから誘ってくれるなんて、珍しいわね」
手を振って迎えてくれたリリスさんは、短い挨拶を終えるとすぐに疑問を口にする。
そして上品なコートの小さなポケットから、思いついたように飴玉を取り出して、私へと差し出した。
まさか彼女の懐から飴玉が出て来るとは思わず面食らう。
大人の女性が取った仕草とは良い意味で思えず、微笑ましくて肩の力が少し抜けた。
確かに私から連絡するのは初めてのことだった。ばったり出くわすか、それとも鬼灯くんとリリスさんの用事に同行するか、リリスさんに個人的に誘いを受けるか、そのどれかしかなかったのに。
春風に煽られて、私の長い髪が宙に舞った。押さえつけるけど、現世に居る時のように慌てて角まで隠す必要はない。
髪を撫でながら、ちらりと伺うように隣を見遣る。
「…迷惑でしたか?」
「全然」
「そうですよね」
やっぱりなと薄ら笑って頷くと、反対に彼女は笑みをなくして、ただ珍しそうに瞬きをしていた。
私の襟元がよれていたのを見つけると、まるでリリスさんは新妻のようにそれを直してくれながら言う。
「あたしなら断らないと思った?喜ぶと思った?」
「うーん…喜んでくれますよね」
ほとんど確信をもって自惚れたことを言ってしまった。けれど気に障った様子はなく、それどころか満足そうにもちろんだとリリスさんは唇を引き上げた。
リリスさんの人柄なら、もし迷惑だったとして、あえて角が立ついい口はしなかったかもしれない。けれど、人柄云々とは別の所で、快く頷いてくれるだろうと確証を得ていたのだ。
「でも珍しいのね」
「なにがでしょうか」
「自分でも珍しいと分かっててやってるでしょう?へりくだらないのも、積極的なのも」
それに答えず曖昧に笑うとリリスさんも察したようだ。「適当に歩きながら話しましょう」とこちらも珍しい提案をした。
行き場所がある事が殆どで、目的なく歩くことはなかった。
当てなく進み話す事が目的の珍しい逢瀬。
あの世鉄道の駅構内に入ると、特定の行先を決めないまま滑り込んできた電車に乗車する。
視界に入った空席に二人で並んで座ると、ほどなくして発車した。
乗車客の入りはそこそこで、僅かな空席が残されているだけだった。
車体の音を遠くに感じながら、リリスさんの声に耳を傾ける。
「私、昔から好かれやすいみたいで…」
「鬼灯様みたいな、拗らせたお人に?」
「……間違いじゃないのかもしれませんけど…」
私は神様に好かれるんですと告白しようとした瞬間、リリスさんにからかわれ脱力した。
ある意味神様はみんなどこか拗らせているし、同じようなものかもしれない。
鬼灯くんは拗らせてるというか捻じ曲がっているというか。とにかく真っ直ぐでないことは確かだった。
それで言ったら隣に座るリリスさんだって、真っ直ぐなひとではない訳で。
今だって、友人にはしないような仕草で…でも度が過ぎない範疇で寄りかかってきている。
この絶妙なラインは意図的に引かれているものだ。それで純粋なはずがない。
美女が平凡な若い鬼女に寄りかかっている図というのは、周囲にはどう映るものだろう。
リリスさんが乗車した瞬間、ハッと目を奪われた乗客がいたのを見た。不躾にじろじろ見られる事はないけれど。
寂しい独り身が遊んでもらっているのだろうとでも思われているかもしれない。
「リリスさんは私のことが好きなんですか」
「ええ、好きよ」
リリスさんが猫のように笑みを深めると、ふわりと甘い香りが漂った。
絶妙なタイミングで香ったそれは、香水なのか持ち前なのかは分からないけど、余計彼女の魅力を引き立てた。
「…私は女なのに?」
「今時そんなの些細なことじゃない」
「リリスさん的には些細なことではないと思います」
じっと胡乱げに見つめながら私が言うと、くすくすと零れた笑いを口元にやった手で殺していた。
リリスさんは男の人を虜にする人で、女の人は対象外だろう。
そういう特性を持っていることは周知の事実だった。分かり切ってるからこそ鵜呑みにできない。
窓の外に流れる景色が一変し、建物が密集した閉塞感ある街並みが、広く辺りを見渡せる景観に移り変わった。あまり遠くに行きすぎると戻るのが大変だなと頭の片隅で考える。
リリスさんは足を組み直しながら話す。
「一目惚れしたの。とてもかわいい子だなと思って」
「…そうかなぁと思いました」
「アタシの言葉は鵜呑みにするの?それって信用してるからじゃないでしょう。まだそこまで仲良くなれてないもの」
「…なんというか…今までもこういうことが沢山あったので」
「へえ。じゃあ大変だったのね。苦労して来たんだ」
今現在苦労させられてる女性から労われるという事態に苦笑した。そういう自覚があったのか。
途中でリリスさんは窓の外に映った珍しい景色に気を取られ、指さしてアレは何コレは何と私に問い掛け、意識をこちらから逸らした。そうしてたまに会話を脱線しながら、気まぐれに無邪気に進める。
「リリスさんは神様じゃないですけど…」
「そう、悪魔よ。真逆なものに好かれて大変ね。鬼灯様だって鬼神で、祟神?あなたって本当に辛そう」
「…辛そう?」
「その身体は重たそうねって話よ」
耳に聞こえてきた言葉に目を見張る。いつか白澤さんに言われた言葉に似ていたのだ。
次に、やっぱりそうなのかと自嘲気味に笑った。
そういえばリリスさんは白澤さんと親しくしているんだっけ。波長が合うというか、同類だったというか。だとしたらやっぱり私が想像している通りなのかもしれない。可能性は高そうだ。
トンネルに差し掛かって暗くなると、車内に響いていた一変して、耳の奥に籠った音が伝わる。それが何故だか私の緊張を助長した。
「…私、これからどうなるんでしょう」
「どうって?」
「…リリスさんならもしかしたら…って思ったんです」
先のことを言い当ててくれそうだから。不安になったから縋りにきたのだと言うと少し目を瞠って、笑った。
年上のお姉さんに、もしくは母親に弱音を吐いて縋るみたいだなと思っていたけど、客観的にみたら私の行動はもっと違うものだったとリリスさんの言葉で今更気が付く。
「悪魔に縋るなんてもう末期ね」
「…ああ…そう言われたらそうなのかも…」
リリスさんの声は大きくなかったけど、その言葉はガタンゴトンといつまでも響き渡る轟音にかき消されなかった。
聞こえてしまったその言葉に苦笑する。悪魔に頼ったもののいい末路なんて聞かない。
「私を特別気に入ってくれたのは、リリスさんのほかに二人いたんですけど」
あの男神と白澤さんのことだった。白澤さんが女の子に優しくて、気にかけてくれるのはお決まりのことだけど、私はその中でも少しだけ種の違う視線を受けていると気づいてる。
白澤さんは私を特別な女の子だと思っている訳じゃない。特別ないきものだと思ってくれているのだろうと。
男神も多分そうだったのだ。気に入ってくれていた…というと語弊があるだろうけど。
性別も性格も、気に食わないも何も関係なく、ただ私の持つ気質を珍しく思って、よくも悪くも特別視していた。
それが何なのかは未だに分からないままだけど、それでも分かることもある。
「二人とも節目、節目で…こう、なんだろう…意味深なこと言ってくれるんです」
「へえ。神様らしいわね。祝福でもしてもらった?」
「うーんと…忠告みたいな。その後悪いことが起こりました」
「神様なのに嫌ね」
ついこの間も意味深な行動をされたり、含みのあることを言わればかりなのだ。
それに意味がないとは思わない。戯言だと疑わない。真剣に捉えているから、リリスさんも縋っているのだ。
「私にも忠告してほしいの?神様達がするみたいに?」
「……」
はい、と頷くのが何故だか躊躇われて、言葉を詰まらせた。
「そうね、先が分からなくて不安で縋りにきたのね」
「……はい」
私がやっと小さく二文字を喉から絞り出すと、リリスさんは何を躊躇う事なく、するりと綺麗な声で紡ぎ出した。
「でもしてあげないわ。だってあたしは悪魔だから」
特別な子でも…特別だからこそしてあげないと、首を横に振って断られる。
やっぱり真っ直ぐではなくて、屈折しているなぁと思ってしまう。
どこかで予想していた事もあり、気を落す事なかった。
リリスさんも都合よく呼び出された事を気にした様子もなく、ただ子供のように無邪気に声を弾ませた。
「この子が苦しいとき、縋りにきたのはあたしだったって鬼灯様に自慢しないと」
気まぐれに私の頬にその白い手を滑らせ、弾む声で言った。
自慢するような話かなぁと一瞬考えたけれど、リリスさん的にはそうなんだろう。
気に入ってる子に頼られたら、多分きっと嬉しい。その自慢を聞いて鬼灯くんがどんな顔をするのかはあんまり考えたくなかった。
滑った手がするりと頬から離れると、今度はその指先は本人の唇まで持っていかれた。
「でも縋ったって、それだけなのよね。つまらないわ」
「それだけ?…つまらない?」
「あたしが貴女のこと好きでも、貴女はあたしのこと好きになってくれないから」
リリスさんはそこまで言うと一旦話を切り上げ、次に停車する駅名の字面と語感が気になったからという理由だけで降車する宣言をした。
到着するのを二人で待つ間、まるでそれまでのカウントダウンでも始めたかのように、彼女はテンポよく語る。
そうかなと思いましたで済まされるなんてひどい。脈なし所の話じゃない。全然こっちを顧みてくれない。鬼灯様がズルい。あたしだって少しは好かれたい。遊びたい。つまらない。
「貴女が振り返るのは、鬼灯様だけだから」
一途で健気で愛らしくていじらしくて、とても憎たらしくてズルい。
今度はするりと下りてきた手が、私の両手を柔らかく包む。それは優しくて、慈愛をこめた物のように感じられたし、きっと傍目から見てもそうだっただろう。けれど実際はきっとその真逆の意味がこめられていたのだ。
「二人がこれからすんなり素直に上手くいくなんて、ズルいから嫌だわ」
これは悪魔からの妨害だと、その鮮やかな色彩の瞳の奥底を見て気が付く。
実際にリリスさんが悪魔として害成す行動を取らなかったとして、まるで言霊のようにこれは現実になって行くのだろうと想像した。
だとしたら、男神から祝福の類のものをもらっておいて本当によかったと思った。もらったというか、望まないまま強引に押し付けられた形だったけど。貰える物はもらっておくものだ。これで相殺されるだろうと思いたい。
何も言ってあげないという言葉とは裏腹に、これはまるで忠告、予言めいてるなと思った。
1.言葉─家族みたいなもの
出会った頃。自然と傍にいる誰かがいるがとても嬉しかった。
家族みたいに近しくいられる。独りぼっちの私には、それはとても幸せな事だったのだ。
鬼灯くんに一時期荒れている頃があったみたいに、私も不安定な時期があった。
小さな子供の身体は親を求めていて、けれど餌を待つ雛みたいに口を開いていても、ついに誰も顧みてくれないまま今に至る。
漠然とした喪失感、受けとめてくれる誰かがいない孤立感。
そういう時、何をしてくれる訳ではなかったけど、ただそこにいてくれる鬼灯くんの存在は、ある意味薬のようなものになってくれていた。
私は傍に彼がいてくれることに心底安堵していたのだ。お互い帰る場所も受け止めてくれる誰かもいなかったけど、幸いに寄り添う相手はいた。
鬼灯くんは私のことを心の支えになんてしていなかったかもしれないけど。
他愛のない話を聞いてくれるヒトがいること。
静まりかえらない部屋に、誰かの気配があること。おかえりと迎えること、迎えられること。
こんな安らぎは、食料や物資やとは違って、頑張れば手に入るものではない。私が得られたのは僥倖で、これらは何よりも価値あるものだったのだ。
「家族みたいに感じてるの。そうなりたい、それが理想なの」
何も気負わず言えたあの頃を思い出す。今のように人目を憚る事なく、自分がそう思るならばそれで良いと心から言えた。
腐れ縁を越え、家族を越え、紆余曲折あって恋人になり、今度は夫婦だなんて揶揄されるようになった。
昔言ったように夫婦も家族だ。なれたなら、きっと私の理想通りになるだろう。
けれど、そこに辿りつく事が本当に最善なのだろうか。
皆に認められながら、確かな意志で二人約束をして、寄り添い合うことになる。
それって鬼灯君と交わした「傍で生きる」という約束を果たす事になるのだろうか。
家族みたいになりたいという私の理想は、それで叶うのだろうか。
鬼灯くんは私の傍でどうなりたくて、私は鬼灯くんの傍でどうなりたいんだろう。
昔みたいに迷わず断言できなくなった私は、何の答えも出せず、煩悶し続けていた。
「…逆転してるなぁ」
と、思わず笑ってしまった。昔は悶々と考え捻るのは鬼灯くんの方で、私は適当に受け止める側だったのだ。
今は鬼灯くんの方が多分サッパリしてる。自分の中でどこか納得いっていて、私の方は納得がいっていない。違和感を覚えていて、この関係に疑問を抱いてる。
大人になるってこういうことなのかなと思う。理由がなければ共にいることも難しくなって、周りの目を気にするようになって。
昔馴染に理解してもらうみたいに、受け身のままではいられない。周囲の理解を得るためには自ら働きかける必要性がある。
私達はゴシップになろうが揶揄されようが気にするような性質ではなかったけど、わざわざ荒波を立てる訳にもいかない。
配慮するようになった。適切なことを考えるようになった。私達はいったい何なのかを考えるようになった。
傍にいたいのは私だって一緒で、居れたなら、きっと嬉しくなれるんだと知っているけど。
「生きる以上に。それ以上にあなたは何を望みますか」
あの時言われた何度も言葉が、頭に浮かんでは責め立てる。反芻して忘れさせない。まるで戒めるみたいだと思った。
そうだ。満たされた後には何が待っているんだろう。
これだけで満足だと思っていたのに、得られた途端に高望みしてしまう人の性みたいなものを、この身をもって体験している。
もう少しだけ生き永らえられただけで満足できるはずだった。それなのに、云千年経ってもそれ以上を渇望し続けた私の強欲さ。
──その次は?生きることを許された私は今きっと満たされていて、けれど自分の心がふとした瞬間、再び何を望み出すのか知るのが怖かった。
どうせ今だけ、どうせ満足できなくなる。
あの子は賢さがその口から的を得た言葉を放たせる。私はそういうのが、鬼灯くんの身を守る盾にになるだろうと喜ばしくも思っていたけど、見透かされそうで怖いなぁと昔はただ笑っていた。
今は笑いごとではなくなってしまった。最近はそんな、色んな変化ばかりが訪れている。
人通りの激しい駅前。駅構内に向かおうとする人の流れを避ける位置に佇む女性がいた。金色の髪を耳にかけて、次の瞬間風に弄ばれたスカートの裾を咄嗟におさえた指は白い。形のいい爪が一瞬艶めくのが遠目に見えた。
何度見ても慣れない輝きに気圧されつつ、私が一歩彼女に近づくと、向こうの方も私に気が付いてくれたようだ。変わらぬ微笑を湛えて、彼女は再会した私を歓迎した。
「あなたから誘ってくれるなんて、珍しいわね」
手を振って迎えてくれたリリスさんは、短い挨拶を終えるとすぐに疑問を口にする。
そして上品なコートの小さなポケットから、思いついたように飴玉を取り出して、私へと差し出した。
まさか彼女の懐から飴玉が出て来るとは思わず面食らう。
大人の女性が取った仕草とは良い意味で思えず、微笑ましくて肩の力が少し抜けた。
確かに私から連絡するのは初めてのことだった。ばったり出くわすか、それとも鬼灯くんとリリスさんの用事に同行するか、リリスさんに個人的に誘いを受けるか、そのどれかしかなかったのに。
春風に煽られて、私の長い髪が宙に舞った。押さえつけるけど、現世に居る時のように慌てて角まで隠す必要はない。
髪を撫でながら、ちらりと伺うように隣を見遣る。
「…迷惑でしたか?」
「全然」
「そうですよね」
やっぱりなと薄ら笑って頷くと、反対に彼女は笑みをなくして、ただ珍しそうに瞬きをしていた。
私の襟元がよれていたのを見つけると、まるでリリスさんは新妻のようにそれを直してくれながら言う。
「あたしなら断らないと思った?喜ぶと思った?」
「うーん…喜んでくれますよね」
ほとんど確信をもって自惚れたことを言ってしまった。けれど気に障った様子はなく、それどころか満足そうにもちろんだとリリスさんは唇を引き上げた。
リリスさんの人柄なら、もし迷惑だったとして、あえて角が立ついい口はしなかったかもしれない。けれど、人柄云々とは別の所で、快く頷いてくれるだろうと確証を得ていたのだ。
「でも珍しいのね」
「なにがでしょうか」
「自分でも珍しいと分かっててやってるでしょう?へりくだらないのも、積極的なのも」
それに答えず曖昧に笑うとリリスさんも察したようだ。「適当に歩きながら話しましょう」とこちらも珍しい提案をした。
行き場所がある事が殆どで、目的なく歩くことはなかった。
当てなく進み話す事が目的の珍しい逢瀬。
あの世鉄道の駅構内に入ると、特定の行先を決めないまま滑り込んできた電車に乗車する。
視界に入った空席に二人で並んで座ると、ほどなくして発車した。
乗車客の入りはそこそこで、僅かな空席が残されているだけだった。
車体の音を遠くに感じながら、リリスさんの声に耳を傾ける。
「私、昔から好かれやすいみたいで…」
「鬼灯様みたいな、拗らせたお人に?」
「……間違いじゃないのかもしれませんけど…」
私は神様に好かれるんですと告白しようとした瞬間、リリスさんにからかわれ脱力した。
ある意味神様はみんなどこか拗らせているし、同じようなものかもしれない。
鬼灯くんは拗らせてるというか捻じ曲がっているというか。とにかく真っ直ぐでないことは確かだった。
それで言ったら隣に座るリリスさんだって、真っ直ぐなひとではない訳で。
今だって、友人にはしないような仕草で…でも度が過ぎない範疇で寄りかかってきている。
この絶妙なラインは意図的に引かれているものだ。それで純粋なはずがない。
美女が平凡な若い鬼女に寄りかかっている図というのは、周囲にはどう映るものだろう。
リリスさんが乗車した瞬間、ハッと目を奪われた乗客がいたのを見た。不躾にじろじろ見られる事はないけれど。
寂しい独り身が遊んでもらっているのだろうとでも思われているかもしれない。
「リリスさんは私のことが好きなんですか」
「ええ、好きよ」
リリスさんが猫のように笑みを深めると、ふわりと甘い香りが漂った。
絶妙なタイミングで香ったそれは、香水なのか持ち前なのかは分からないけど、余計彼女の魅力を引き立てた。
「…私は女なのに?」
「今時そんなの些細なことじゃない」
「リリスさん的には些細なことではないと思います」
じっと胡乱げに見つめながら私が言うと、くすくすと零れた笑いを口元にやった手で殺していた。
リリスさんは男の人を虜にする人で、女の人は対象外だろう。
そういう特性を持っていることは周知の事実だった。分かり切ってるからこそ鵜呑みにできない。
窓の外に流れる景色が一変し、建物が密集した閉塞感ある街並みが、広く辺りを見渡せる景観に移り変わった。あまり遠くに行きすぎると戻るのが大変だなと頭の片隅で考える。
リリスさんは足を組み直しながら話す。
「一目惚れしたの。とてもかわいい子だなと思って」
「…そうかなぁと思いました」
「アタシの言葉は鵜呑みにするの?それって信用してるからじゃないでしょう。まだそこまで仲良くなれてないもの」
「…なんというか…今までもこういうことが沢山あったので」
「へえ。じゃあ大変だったのね。苦労して来たんだ」
今現在苦労させられてる女性から労われるという事態に苦笑した。そういう自覚があったのか。
途中でリリスさんは窓の外に映った珍しい景色に気を取られ、指さしてアレは何コレは何と私に問い掛け、意識をこちらから逸らした。そうしてたまに会話を脱線しながら、気まぐれに無邪気に進める。
「リリスさんは神様じゃないですけど…」
「そう、悪魔よ。真逆なものに好かれて大変ね。鬼灯様だって鬼神で、祟神?あなたって本当に辛そう」
「…辛そう?」
「その身体は重たそうねって話よ」
耳に聞こえてきた言葉に目を見張る。いつか白澤さんに言われた言葉に似ていたのだ。
次に、やっぱりそうなのかと自嘲気味に笑った。
そういえばリリスさんは白澤さんと親しくしているんだっけ。波長が合うというか、同類だったというか。だとしたらやっぱり私が想像している通りなのかもしれない。可能性は高そうだ。
トンネルに差し掛かって暗くなると、車内に響いていた一変して、耳の奥に籠った音が伝わる。それが何故だか私の緊張を助長した。
「…私、これからどうなるんでしょう」
「どうって?」
「…リリスさんならもしかしたら…って思ったんです」
先のことを言い当ててくれそうだから。不安になったから縋りにきたのだと言うと少し目を瞠って、笑った。
年上のお姉さんに、もしくは母親に弱音を吐いて縋るみたいだなと思っていたけど、客観的にみたら私の行動はもっと違うものだったとリリスさんの言葉で今更気が付く。
「悪魔に縋るなんてもう末期ね」
「…ああ…そう言われたらそうなのかも…」
リリスさんの声は大きくなかったけど、その言葉はガタンゴトンといつまでも響き渡る轟音にかき消されなかった。
聞こえてしまったその言葉に苦笑する。悪魔に頼ったもののいい末路なんて聞かない。
「私を特別気に入ってくれたのは、リリスさんのほかに二人いたんですけど」
あの男神と白澤さんのことだった。白澤さんが女の子に優しくて、気にかけてくれるのはお決まりのことだけど、私はその中でも少しだけ種の違う視線を受けていると気づいてる。
白澤さんは私を特別な女の子だと思っている訳じゃない。特別ないきものだと思ってくれているのだろうと。
男神も多分そうだったのだ。気に入ってくれていた…というと語弊があるだろうけど。
性別も性格も、気に食わないも何も関係なく、ただ私の持つ気質を珍しく思って、よくも悪くも特別視していた。
それが何なのかは未だに分からないままだけど、それでも分かることもある。
「二人とも節目、節目で…こう、なんだろう…意味深なこと言ってくれるんです」
「へえ。神様らしいわね。祝福でもしてもらった?」
「うーんと…忠告みたいな。その後悪いことが起こりました」
「神様なのに嫌ね」
ついこの間も意味深な行動をされたり、含みのあることを言わればかりなのだ。
それに意味がないとは思わない。戯言だと疑わない。真剣に捉えているから、リリスさんも縋っているのだ。
「私にも忠告してほしいの?神様達がするみたいに?」
「……」
はい、と頷くのが何故だか躊躇われて、言葉を詰まらせた。
「そうね、先が分からなくて不安で縋りにきたのね」
「……はい」
私がやっと小さく二文字を喉から絞り出すと、リリスさんは何を躊躇う事なく、するりと綺麗な声で紡ぎ出した。
「でもしてあげないわ。だってあたしは悪魔だから」
特別な子でも…特別だからこそしてあげないと、首を横に振って断られる。
やっぱり真っ直ぐではなくて、屈折しているなぁと思ってしまう。
どこかで予想していた事もあり、気を落す事なかった。
リリスさんも都合よく呼び出された事を気にした様子もなく、ただ子供のように無邪気に声を弾ませた。
「この子が苦しいとき、縋りにきたのはあたしだったって鬼灯様に自慢しないと」
気まぐれに私の頬にその白い手を滑らせ、弾む声で言った。
自慢するような話かなぁと一瞬考えたけれど、リリスさん的にはそうなんだろう。
気に入ってる子に頼られたら、多分きっと嬉しい。その自慢を聞いて鬼灯くんがどんな顔をするのかはあんまり考えたくなかった。
滑った手がするりと頬から離れると、今度はその指先は本人の唇まで持っていかれた。
「でも縋ったって、それだけなのよね。つまらないわ」
「それだけ?…つまらない?」
「あたしが貴女のこと好きでも、貴女はあたしのこと好きになってくれないから」
リリスさんはそこまで言うと一旦話を切り上げ、次に停車する駅名の字面と語感が気になったからという理由だけで降車する宣言をした。
到着するのを二人で待つ間、まるでそれまでのカウントダウンでも始めたかのように、彼女はテンポよく語る。
そうかなと思いましたで済まされるなんてひどい。脈なし所の話じゃない。全然こっちを顧みてくれない。鬼灯様がズルい。あたしだって少しは好かれたい。遊びたい。つまらない。
「貴女が振り返るのは、鬼灯様だけだから」
一途で健気で愛らしくていじらしくて、とても憎たらしくてズルい。
今度はするりと下りてきた手が、私の両手を柔らかく包む。それは優しくて、慈愛をこめた物のように感じられたし、きっと傍目から見てもそうだっただろう。けれど実際はきっとその真逆の意味がこめられていたのだ。
「二人がこれからすんなり素直に上手くいくなんて、ズルいから嫌だわ」
これは悪魔からの妨害だと、その鮮やかな色彩の瞳の奥底を見て気が付く。
実際にリリスさんが悪魔として害成す行動を取らなかったとして、まるで言霊のようにこれは現実になって行くのだろうと想像した。
だとしたら、男神から祝福の類のものをもらっておいて本当によかったと思った。もらったというか、望まないまま強引に押し付けられた形だったけど。貰える物はもらっておくものだ。これで相殺されるだろうと思いたい。
何も言ってあげないという言葉とは裏腹に、これはまるで忠告、予言めいてるなと思った。