第二十四話
1.言葉内部負荷

「殺すって、物を使うだけが全てじゃないって鬼灯さまならわかってるでしょう」

ふふ、と笑いながら彼女は蜜のように甘く言葉を紡ぎます。
彼女の一挙手一投足は無邪気の塊のようでいて、しかし気付かないうちに静かに浸透していくような毒が含まれていた。
目を耳を凝らさなければ気付けないようなソレに、気が付いて自衛できているのは幸いな事でした。
腕を回され距離を近くしても、微笑かけられても、甘く囁かれても。それがある種有害になり得るのだと理解している私は、美しいヒトだと思いはしても、心奪われる事はありませんでした。


「なんで言葉であの子を殺してしまおうとするの。そういう趣味なのかしら?愛情が歪んでるわね」
「…べつに、そうでもありませんよ」

好いた相手を加虐する嗜好があるとか、そういう気が自分にあるとは思わない。そもそも私は正常な愛情表現など知らないのでしょう。
けれど、正常など知らないなりに分かっていることもあった。

「正解なんてないんでしょう」

私は誰に教えられたでもなく、それを賢く理解していました。
真っ当で後ろめたく思うようなことは何もない愛情表現。密かにしておく必要なく、周囲に見せつけたくなるほどの健全さ。
そんな後ろ暗い密やかな物であろうと、公然の場で見せつけられる純粋な物であろうと、どちらだろうと自由です。模範解答などないのですから。ならば好きにやって構わないのでしょう。
私が好きに、よかれと思ってやった振る舞いが…もしも。


「もしも歪んでるように見えるなら、私はただ下手なだけなんでしょうね」


"それなり"でもいいのなら、きっと簡単な話でした。
けれど深く心繋げようと試みるには、私は稚拙すぎたのでしょう。
恋愛というのは、大昔から切れず、いつでも身近にある物の割には扱いが難しすぎる。
だからこそ色恋に纏わる地獄も沢山ある。それが原因で拗れて死に、罪を背負う亡者もいる。なのに懲りず、人が恋をしない時代なんてない。 十人十色、いくらでも形を変容させることができる心を掌握することなど不可能だろうと思うのです。
いつまでも仲睦まじいままの夫婦や相棒になるなど、実は簡単な事ではないのでした。
二人ともが意識的に歩み寄ろうと努力を続けるのは、恐らく大変な苦労だろう。
雲をつかむようなものなのに、骨を折り続けることは容易くはありません。
洗脳を懐柔、掌握と言ってもいいなら、それって案外たやすいことなのかもしれませんけど。
同じように、私があの子を傍に引きよせ、口説き、心を奪いきるなど、容易な事ではない。


「でもアレを続けてたら、そのうちあなたの言葉で消えちゃいそうね」

無理が祟れば死ぬ。過労で死ぬ。負荷がかかりすぎたら消えるというなら、心を責め立てられて自壊することもあり得るのでしょうか。
机の上に活けてあった小さな花を指先で突きながら、リリスさんは私の方を見もせずに言った。
私は彼女の…彼女達のその気まぐれさに、今現在大変振り回されていました。



「さっきからなんなのそれ?」

机を一つ挟んで対面する形になっていたリリスさん。その彼女の隣に座っていたのは、艶のある長い黒髪を背中に流した女性でした。
金色の短い髪を下に流し、無邪気に笑う度にふわりと揺らすリリスさんとは対極的なひとだ。
どこか妖艶な妲己というその女性。動く度に艶のある黒髪に静かな光を落しながら、不思議そうに首を傾げました。


「アタシだったらそんなこと気にしないけど」


私達のやり取りを、妲己さんはよく分からないといった怪訝そうな表情を隠さず聞いていました。
彼女二人は仲のよい友人で、悪女の会というものに属してる同士だった。
女同士、定期的に集まってお茶をしているのはよく知っていました。
けれどいつどこでという詳細など…今日がその日だったという事実など、私が知る由もありません。 腹を満たそうと飲食街を闊歩して、とある店の前を通りすがったとき。
ガラス越しに目が合ったかと思うと、そのまま私も店内に引き込まれるとは思いもしなかった。
そうしてお茶請け替わりに彼女たちの舌で、あることないこと言って転がされるのでした。
いや、あることではあった。全てがないこと、的外れなことではありません。

それだけに、ほんの少しの無いことを織り交ぜられると性質が悪い。ソレをはぐらかすのは実は簡単な事でした。
けれど、真摯に向き合わなければ、リリスさんはその程度のことなのかと身切りをつけて、本格的にあの子を誘惑しに行きそうで困る。
私達はここ最近、お互い意地になったようにお互いに牽制をしかけ合っていました。
リリスさんはほんの気まぐれでに動かされて。私は心から、本気で。勿論あの子を掠め取られないようにと真剣に考えての事です。
よくも悪くも力あるものはあの子の"何"にそんなに気を惹かれるのか、未だに腑に落ち切らないことだ。


「そうなの?」
「責め立てるのって、別に悪いことじゃないわ」
「そういうお遊びが好きか嫌いかって話かしら」
「アタシは別に嫌いじゃないけど…それとは違う話よ。良いか悪いかで考えるから面倒臭いんじゃない。甚振るのってきっと楽しいことよ、とても」


妲己さんらしいと言えばらしい発想でした。リリスさんとはまた違った種類の笑みを深めて、楽しそうに言い切った。
彼女が手元のカップの中をぐるり華奢な銀でかき混ぜると、底さえ見えていた綺麗な飴色の水面が、どろりと色が変わっていった。まるで何かの暗喩のようでした。
自由で奔放で人を押しつぶすことに罪悪など感じない。
快楽に正直に生きるこの女性の姿を美しいと人々は感じるのかもしれませんが、毒を孕んだそれは一歩間違えれば、遠目に鑑賞するだけでは済まされなくなります。足を掴まれてしまえばお終いだ。
自由で美しいと周囲に感じさせるのは、何もその突き抜けた信条だけが理由ではなく、彼女の整いすぎてるくらいの外貌も一因だった。
天賦のものでもあったけど、彼女は何より美に重きを置く。意識して保たれているソレが損なわれることは早々にない。
自らの美の価値を理解している彼女達の一つ一つの言動作は、とても性質の悪いものでした。


「楽しくて気持ち良ければそれでいいと思うわ。相手が苦痛でも、自分が快感だと思えるならそれはそれで」
「そう?それだと相手を選びそうね」
「マゾ男なら諸手をあげて喜びそうですけどね。案外需要がありそうなのが怖い話です」

冷酷で残忍だと避けて通られそうだと思いきや、進んで甚振られに彼女の所に向かう者は多いだろう。想像するに難くない世の中でした。
女性客で賑わう優美な内装の店内に、大の男が…加えて美女二人をはべらしながら着席して姿は悪目立ちをしていて、時折いくつかの視線がこちらへ向かうのがわかる。
海外住まいのリリスさんはともかとして、私の顔と妲己さんの顔は広く知れ渡っているというのも一因でした。


「鬼灯様はそういうのお好きかしら」
「そもそも相手がソレを好きかどうかでしょう。好きじゃないなら弱味でも握ればいいわ」
「あの子は絶対に好きじゃないと思うけど…弱味を握らなくても付き合ってはくれそうね」
「なら何も問題なさそうだけど」


そして彼女達が品のある、けれど女性的な高く通る声で、昼の陽の下でするには相応しくしくない会話を展開する物だから、ぎょっとして振り返る鬼が幾人もいました。
私は傍観に徹しているものの、同席している以上その都度視線を送られる。とばっちりでした。呆れて少し力が抜け、背もたれに体重をかけると、木製の椅子から小さく軋んだ悲鳴が上がりました。


「お互い望み合いたいってことよ」
「合意の上で?愛し合いたい?そんなことが問題?」
「そうねえ、愛し合えるのが一番の理想よ」
「案外初心なことしてるのね。強引なことしたってそれも手でしょう」
「優しくしたい相手なんでしょうね」
「へえ。でも荼吉尼だって部下を叩いたりして遊んでるじゃない?そんなに変な事じゃないわよ。そこまで難しい話かしら」


女性が二人もいれば、黙っていても十分話が展開していく物だった。同じテーブルを囲んでいながら、ただの置物のようになりながら見守っていましたが、流石に黙ってもいられなくなり口を開きました。
荼吉尼さんとはお迎え課に所属している女性で、独特ではありますが、不真面目ということもなく、普段真っ当に業務に当たっている方です。あの課全体が健全と言えるのかは分かりませんが。


「一つ地獄と荼吉尼さんの名誉のために訂正しておきますけど、遊んではいません。あれは指導ですよ、一応」
「そう?でもアレ、面白いわね。それで機能できてるんだから」
「そうね、日本の地獄ってユニークでとっても楽しいわ」
「荼吉尼さんの所が個性的なのは認めますけど」


あれはあれで需要があって供給があって色々成り立っています。アレで上手く回っているなら、健全だとか不健全だとかは置いて、それはそれとしてよいことです。
リリスさんが頻繁にやって来るようになったのはあの子が理由でもありましたが、心から日本の地獄を楽しんでいる様子で、それも理由の一つでした。

「壊したら壊したできっと後悔なんてしないわ。衝動のまま果せたら、それで満足出来るわよ」

妲己さんの提示した、そういう考え方も一理あると思いつつ、手に入れたいともがき続けてきたモノを壊したなら世話がないなとも思いました。
結局私は形を残したのまま手に入れたいのです。甚振って遊びたいのでもない。
違和感は残りますが、リリスさんの言っている事の方が、どちらかと言えば近いんでしょう。
少なくとも優しくしていれば壊れないし、逃げ出すことはない。
ただ、現状維持では進展することはなく、いつか不本意な結末を迎えることでしょう。
誰か、何かと奪い合いになって手から離れて行く気もするし、いつの間にか距離が開いて縮まらなくなる気もする。
働きかけなければ駄目。干渉しなければ停滞する。かと言って過干渉すれば壊れる。
こんなに些事加減の難しいことってあるだろうかと日々悩ませられ続けます。

──けれど、確かに積み重ねてきた物がそこには山ほどあったのです。
降り積もった果てのない時間も味方をしていました。
劇的に現状を変える大きな行動はできなくても、正解は見つからなくても。
私の成したものが実を結んで行ってる事を、彼女の喚く姿から、迷う仕草から、感じ取っていたのです。


「…そろそろ私暇がほしいんですけどねえ」

店内に引き込まれてもう暫く経つ。
元より長居をするつもりがなかったのです。一度は断ったものの、押し切られる形で出された茶はとっくに冷めていた。
今はまだ休憩時間内ですけど、自分の意志ではないとはいえ業務時間内に女性とお喋りをしている…なんて状態に陥れば、多方面に角が立つどころの話ではなくなる。
うまいこと正当化して言い逃れが出来たらいいですけど、この状況をのどの部分を切り取ってみてもお遊び以外の何にもなりません。
そんな私の不幸が楽しいのか、リリスさんも妲己さんも掴んで離しませんでした。


「こんな面白いもの離すわけないわ。あの"鬼灯様"がこんなに初歩的なところで躓いてるなんて見物だもの」
「初歩、ですか」


伊達に永くすごしてはいません。そりゃあ、大恋愛をしたことなどはありませんし、ゴシップにされるような爛れた毒のような関係性を築いたこともありませんけど、初歩と言われるほどその辺が乏しい覚えはありませんでした。
けれど妲己さんやリリスさんのお眼鏡にかなうような経験値になど到底届いていないのでしょう。二人はまるで小学生男児でもからかうような態度を取っていました。
好きな子をいじめたいような心理もないし、人目を気にして思いを告げられない初心さなどこの腹に抱いてはいない。
だいたい人目を気にするような根性をしているなら、こんな仕事はしていない。
芸術家や哲学者のように繊細な性根をしていたら、恐らくとっくに潰れていたことだろう。
それなりに自分を顧みて来たつもりですが、それは生活する上で最低限、必要に迫られてのことでした。
自意識が薄い…と言えばいいのかよく分かりませんけど、自問自答にはあまり興味がありません。


「あの子、悲しくて辛くて、そのまま起き上がれなくなったらどうするの?」
「どうするもこうするもありませんよ」
「その後起き上がれたとして…もう何もかも取り返しがつかなくなったら?凄く怖いことだと思うわ」
「……」
「わかった風に言うのね」
「そうねえ、だってそうなりそうなんだもの」


なので、不得手だと理解している部分に矢継早に触れられてしまうと手を焼く。
もしかしたら本当に無自覚に幼稚な部分があるのかもしれないし、言いがかりなのかどうか判断するのが難しい。
自分の中にある必要な部分を必要なだけ大まかに把握していても、そんな拗れたように曖昧な部分まで掴み切れていない。
自己批評にでも日々励め良いって話でしょうか。あまり必要には感じないのですけど。


「ご執心なのね、リリスも。そんなに面白いかしら」
「ふふ、面白いわよ」


妲己さんは隣で無邪気にしているリリスさんを見遣る。視線はそのままに問いかけると、リリスさんは迷わず肯定しました。 他人の不幸は蜜の味と言いますけど、勝手に不幸にされるのも蜜にされるのも困りものです。
リリスさんが言ったようなことになるかもしれない、という懸念は無いことは無い。
責められすぎて、辛くて、逃げはしなくても壊れてしまう"かもしれない"。
けれど、そんな漠然とした懸念を上回る確信が私にはあった。


「でもやっぱり、あの子は責め立ててほしいのでしょうから」

言うと、リリスさんはぱちりと瞬きを繰り返し、妲己さんは興味が薄そうにへえと相槌を打ちました。


「やっぱりそういう趣味だったの?」
「いえ、責めるの意味が違いますね」


リリスさんの言葉を手を振って否定する。
そうしたところで、取り返しがつかないことになるとは思いませんでした。むしろ逆です。私にとって有利に働いているはずです。
こちらも確証もない、なんの保障もされない、漠然とした確信でしかありませんでしたけれど、──私はそれを疑いませんでした。

2019.3.5