第二十三話
1.言葉─叱られる子供
私には父親と母親の想像ができない。家庭がある、庇護を受け取るという感覚が理解できません。
体験したことがないものは、伝聞と想像で補うしかない。
伊達に長くは生活していない。親子間の間に入った経験も幾度かあって、ある程度理解は出来たはずだった。
しかし知識として理解することと、身をもって実感することは違います。
それこそ表面を掬い取る事はできても、内側にある本質…家族同士で交わされる暗黙の了解みたいなものがわかりませんでした。
その家それぞれの家族ルールなんて物もよく聞く話だし、実家の味はそれぞれだし、食卓の囲み方も各々違う。
そう"知って"いても、きっと私が実感しきることなど畢生ないのだと漠然と確信している。
もし今後家庭を持てば、自分はいつか親の立場になるのでしょう、
親は子供に施す側であり、決して自分が施されることはない。これから家族ができようと、庇護を享受する子供の感覚を、もうきっと一生涯分かることができないのです。
──だとしたら、やっぱり私は未来永劫あの子の感覚を理解出来ないのだろうと思った。
いくら専門書を手に取ろうが、何を働きかけようが、表面を手探りで撫でつけることはできても、きっと思うようにあの子の心を導くことはできない。
そもそも心底分かり合おうなんて不毛な発想で、他人のことなど察するくらいが関の山です。
──それをする上で、私という鬼にとって、あの子は一番相手し辛いタイプでした。
だからやりやすいように知識がほしかった。経験がほしかった。手札がほしかった。
突然脈絡なく泣かれて、なぜと聞いても答えてくれない。
強引に口を割らせようとしても、きっと語りはしない。なんて面倒臭い、手を焼かされる。
そもそも本人ですら泣き出した理由が分かっているのか、どうか怪しいものでした。
理性を働かせるという術も持たず、ぴたりと涙を止めるということも出来ない。
繊細という言葉が一番に浮かびます。気を付けて手加減しなければ壊れてしまうような脆い心など、扱いづらいことこの上がありません。
口を揃えて厳しすぎると言われるような私が、こういう物の扱いが得意なはずがありませんでした。
──叱られるのを恐れる、大人が手を焼かされる子供のようだと、俯く彼女を見て思う。
そして、やはり苦手だと改めて思いました。
どこか達観しているようで骨の髄まで子供じみてる。大人びているようで我儘で身勝手。
そんな矛盾しかないようなモノ、手に余ります。
でも私は、その面倒臭くてたまらないものが昔からどうしても欲しくてたまらなかった。
だから、おそらく私は不器用に、柄にもなく熱心に不器用に…リリスさんの言葉を借りるなら口説いてる。
この子が欲しいから。愛しているから。
この子に向けて告げた事はないけれど、実は私が言える理由はいくつかありました。じゃあ、この子はどうなんでしょう。
「…なぜ、と聞くのは簡単なことなんでしょうね」
大昔から変に大人びていたり、妙に割り切りのよかった理由はソレなのかと尋ねるのは一瞬で済みます。
意図せず言葉と言葉の間に妙な空白が出来て、一瞬よりも長い長い時間が過ぎて行く。
夕暮れ時のなんとも言えない静けさと、昼とは違う湿度の変わった風の感触が、複雑な心をなぜだか煽った。
歩く速度は今までも早くなかったけれど、ぽつりと呟きを宙に放てば、自然と足は止まっていました。一歩後ろをついてきていたあの子を振り返る。
夕焼け色に照らされた表情は暗く、風に弄ばれている髪を気にかけている余裕もないようでした。
「あなたの心を責めるのは、言葉ひとつで済みますけど」
聞くことが責めることにつながるとは思っていません。しかしこの子は責め立てられているように感じるだろうということはもう分かっています。
凶霊の少女の屋敷は住宅街の一角にあり、風や匂いはどことなく違っているけど、アスファルトを踏みしめる感触だけは日本と変わりない。二人分の影が歩道に伸びているのを眺めながら思考に耽る。
昔はしなかった口論のようなものを交わすようになりました。珍しく激情に駆られる姿も見るようになりました。
怒りで饒舌になる所も見た、聞き分けのない我儘を言う所も見た。
子供じみた矛盾の孕んだ気質の片鱗は昔から十分ありました。
──それでも癇癪を起こすことはなくて、ここに来て初めてそういう所を見せるようになったのです。
淡々とマイペースを貫き通していた子にも、珍しく力を加えれば容易く崩される一点がありました。
それを見つけたのも、触れてみたのも、云千年過ごした最近が初めてだったのです。
一度見つけてしまったなら、私がそこに触れることを躊躇う事も、容赦する事もありませんでした。
空が橙色に染まっても帰宅しない、悪い子供のはしゃいだ声が遠くから聞える。
私達にもあんな風に幼い声を響かせる頃がありました。
四人ほどの子供達が集団になって、私達の隣を駆け抜けて行った。
向かう場所がどこだかは知らない。けれど彼らの表情は無邪気そのもの。
小学校中学年ほどでしょうか。私がそのくらいの背丈の頃には、既にこの子に並々ならぬ執着を抱いていた。あの頃がら随分長く時が経ち、ここまで来るのに随分とかかってしまった。
「…だから私は待ちます」
自ら弱味を話すことを。辛いだ悲しいだのと喚いてどうしようもない死を、生を嘆き惜しむことを。
──そちらの方が苦痛を伴うのだと知っていながら。拷問のように感じるのだとわかっていながら。同じ白状するにしたって、無理やり掘り返された方が楽なのだと知りながら。
「……ひどい子」
言われれば、きっとぼろぼろと涙を零すだろうことをわかっていながら。
半ば予想はしていましたが、やはりそう言ったっきり何を要求してくることもありませんでした。
近くから遠くへ。再び木霊するように薄ら聞こえるようになった無邪気な子供達のはしゃぎ声と、この子の涙は対極的な物だった。悲しくて苦しくて頬を伝う涙は、和やかなこの場には似つかわしくない。
まだ要求してくれない、まだ何も言ってくれない。ならば私は立て続けに言葉を放ち続ける他ありません。
知り得る限りの言葉を持ち出して、責め立てるように角度を変えて彼女の心に放つしかない。
腫物を触るように繊細に扱うことはこの性分では出来ず、強硬手段しか取れないのです。
数打てば当たるという心境にも似ていました。
もしも爪痕を立ててしまって、痛いと声をあげたならそれはそれで収穫です。
それをすれば痛みを感じるんだという事実を知れる。その部分を突けば脆いのだという弱点を知れる。
私のこういう淡々とした部分を、リリスさんは拷問や実験と称したのでしょう。
──恐れているのは、探しても探しても、そこには何もないということ。私ではこの子に爪痕を残せないという事でした。
泣いて叫んでもらわなければ困ります。
何をされても寛容に対応する、許容するというのは、決して慈愛の心が織り成せる事ではなく、ただの無関心で無責任な突き離しです。
──簡単に描いた通りに出来るんなら、こんな苦労はしてません。
案の定この子と上手く呼吸が合うはずもなく、予定通りにはいかず、理想は崩れ去り、この子は嗚咽もこぼさないままただ儚く涙を流すだけでした。
夜に変わる直前になると聞こえる、黒い鳥の羽音と鳴き声。どこまでも伸びる黒い影の中。照らす橙色の光の眩さ。全てがまるでこちらを嘲笑っているかのように感じる。
そんな事があるはずがないのに、馬鹿な事を考えました。
どちらからともなく無言で歩き出すと、二人分の靴底が不規則な音を奏でた。
──ほしいを愛してると言い変える。責めるを口説くと言い変える。
私にとってはそれであまり違和感がなかったけれど、相手にとってはどうなのか。
きっとこの子は私にある種の求愛をされているのだと思いもしないだろうし、ただ苦しいだけなんでしょう。
その子が声をあげる瞬間を待っていました。
聞いて欲しいとか、やめてほしいとか、言ってほしいとか、アレはイヤだとか、取り留めもない声を。
けれどまた駄目だったようでした。
出来なかったことを悔しく思うこともなく、ただ無感動に泣く子を見下ろす。
今回が駄目だったなら、じゃあその次だと算段を立てる。
確かに私だけが冷静で、冷淡で、この子だけが乱されている。
乱されたこの子は私へその目を向けた。悲哀の色は失せているようだけど、瞳の潤みは簡単に消えないようだった。
「鬼灯くん、私のこと好きだよね」
「…は?」
「嫌いじゃないんだよね。嫌いだからこんな風に言うわけじゃないよね」
昂ぶりがおさまった心とは裏腹に、未だ残留してしまった涙を拭いながら、とても的外れなことを言う。拍子抜けしました。
春の陽気を含み切れない風の冷たさを跳ねのけるため、その子が羽織った上着が擦れる音が耳に届いた。
怒号が飛んでくるとは思っていませんでしたし、疑問への明確な返答が帰ってくるとも思いませんでしたけど。
涙に濡れた目を向けられながら、けれど神妙な面持ちでこんなことを問われるとは思わなかった。
「心底嫌ってる相手にこんな回りくどいことをすると思いますか」
「…もっとわかりやすく舌戦になるよね…」
あと暴力沙汰…とその子はどこか気まずそうに呟いた。あの神獣のことを思い出してのことでしょう。
さすがに物凄く嫌いな相手だからと言って、誰彼構わず殴り合いをする訳ではない。
私が全力で殴った所で、耐えられるからこそ相手に容赦なくぶつけられていた。
実力が釣り合わない相手に怒りのままぶつかれば、きっと目も当てられない惨状が造りあがることでしょう。
それはさすがに本意ではありません。半殺しくらいがちょうどいい。
昔この子を怒りにまかせて血塗れにしてしまって後悔したのがいい例でした。
あの神獣に関して言えば、力の拮抗が取れているというのは不幸中の幸いだ。
全力で憂さ晴らしが出来る。けれどその他大勢も、この子も違う。
「…前も言ったけど…私が言えないことが沢山あって、それに腹が立つのはわかるよ」
腹が立つというのも少し違うと思ったけど、訂正せず、ズレてしまった帽子を深くかぶり直しながら無言で続きを促す。
「でも、やっぱり鬼灯くんは怒ってないし」
「…何故そう思うんです」
「なぜって、凄く冷静だし、淡々としてて」
「それは、いつものことだと思いますけど」
無愛想も何もかも言われ続けてることだった。それを知らない訳じゃないだろう。
おそらく通常通りの無表情を伺うようにちらりと見上げながら、それでも撤回することなく疑問を投げ続けます。
住宅が立ち並ぶ一角に一本伸びる長い歩道。ここを抜けると賑やかな繁華街に出る。夜間になろうが、閑静なこの場所よりは人気があるはずだ。 そうなればこんな風に静かに会話は出来ないだろうと頭の片隅で考える。
「鬼灯くん怒鳴らない訳じゃないし、笑わない訳じゃないし、まったく平坦な訳じゃないよ」
「まぁ、こっちも機械じゃないので」
「でもこういう時はいつも以上だから」
「…いつも以上?」
なんとなく、なんとなくですが言いたいことがわかってきました。それでもあえてその口から説明されるのを待った。
隣を歩くその子の上着と私の衣服が不意に擦れるも、思考を巡らせているその子はそれに気が付いた様子がない。
均等な間隔で並んでいた街路樹や街灯が途切れる頃になって、その子は口元に手をあてながら、拙く語り出す。
「なんていうか…作業的」
「…」
「私の態度は苛つかせるだろうなって思う、傷つけるだろうなって思う。だから怒鳴られても責められても仕方ないと思うけど…鬼灯くん少しも感情的にならないし」
言葉は責めるものを使っているのに、平坦で冷静で感情的にならない。ただ作業的に並べているだけ。
呆れ声を出したり、顰め面をする事はあれど、それだけの事でした。その自覚はあった。
「じゃあどうしてなのか分からない」
その理由が知りたいけど知りたくないと、こちらを見上げる瞳が困惑を訴えている。
先ほどとは違って、夕の暖色と夜の寒色が混じった不思議な二色をそこに映していた。
「何もないならやっぱり私も何もかも言えないし、謝ることもできない」
──また、見透かされたと思った。
確かにリリスさんの言うこの"実験"を、この子の言う作業を。やる意義は感じていても、その言葉一つ一つに実は深い意味なんてこめられて無いのでした。
いつもいつも分からないと言う癖に、裏にあるものを察知することに長けていた。
薄っぺらな枠組みも何もかも、裏にあるものを本能的にか察知するくらいなら、いっそ全て言い当てられたら良かったのに。
お互いにとってか、この子にとってなのかは疑問ですが。
今はもうとっくに面白いとも腹立たしいとも不愉快だとも思わなくなっていた。
ただ見おろして、これがこの子というモノなのだと改めて受け止める。
つくづく面倒臭い。つくづく手を焼かされる。
私がほしい物はただ一つ、目の前にいるあなたなんだともうとっくに告げている。
云千年続いた強烈で色濃い欲求だ。
ならば、私がこの子に働きかける理由なんて、全てそこに集結しているんだと考えれば自然なのに。
私は手に入れるために、この子がほしいと望む物を与えて満たしてやりたい。
物で釣るといえば簡単な話に聞こえます。この子のほしい物が、形ある物で、それで釣れたなら、どんなに楽なのか。
きっとこの子がほしいのは物でも愛でもなんでもなくて、誰かにしてほしいこともあまりない。
ほんの僅かな隙間を縫って、私はそれを探し当てて、隙間を満たさなければならない。
満たしきれた時、その時初めてこの子はこちらを振り返る。
そんな途方もない話を現実にするために、私は適当な言葉を投げかけ続けているのでした。
「謝りたいんですか」
言うと、その子は瞬きを繰り返した。ようやく乾いた瞳は、涙のせいで歪む事なく、正しい視界を映していた。
「謝れたなら楽になれるんでしょうね」
その言葉を聞くとその子は苦笑して、そうだねと首肯した。
最後に通りすがった街頭が、頭上でパチリと小さな音を立ててから灯った。まだ暗くなってはいないけど、規則通りの時間に点灯してその責務を果たしていた。
背後を振り返れば、点々と灯った光が歩いてきた一本道のずっと奥まで伸びているのだろうと、見なくてもわかった。
「でも鬼灯くんは楽にはならないね」
「そうでしょうね」
昔からの内緒の話も、今現在浮上した謎も、なんの種明かしもしてもらえない。
悶々とするばかりで、晴れることなど微塵もないでしょう。
欲しいのはごめんなさいという言葉ではないのです。即物的というのとも違いますけど。この子は心を楽にしたいのだとして、私はもっと実のあるものがほしい。
「よくはないけど、」
けれど、決して状況は悪くはないのです。
「きっと今のままで十分なんですよ」
私の言葉に聞く耳を持ってくれているだけで御の字。まだまだ私にやる余地はあるという証拠でした。
理解させようともしない私の一方的な話がピンと来なかったようで、その子はただ不思議そうにして、けれどその真意を追求することはなかった。
うにして、けれどその真意を追求することはなかった。
1.言葉─叱られる子供
私には父親と母親の想像ができない。家庭がある、庇護を受け取るという感覚が理解できません。
体験したことがないものは、伝聞と想像で補うしかない。
伊達に長くは生活していない。親子間の間に入った経験も幾度かあって、ある程度理解は出来たはずだった。
しかし知識として理解することと、身をもって実感することは違います。
それこそ表面を掬い取る事はできても、内側にある本質…家族同士で交わされる暗黙の了解みたいなものがわかりませんでした。
その家それぞれの家族ルールなんて物もよく聞く話だし、実家の味はそれぞれだし、食卓の囲み方も各々違う。
そう"知って"いても、きっと私が実感しきることなど畢生ないのだと漠然と確信している。
もし今後家庭を持てば、自分はいつか親の立場になるのでしょう、
親は子供に施す側であり、決して自分が施されることはない。これから家族ができようと、庇護を享受する子供の感覚を、もうきっと一生涯分かることができないのです。
──だとしたら、やっぱり私は未来永劫あの子の感覚を理解出来ないのだろうと思った。
いくら専門書を手に取ろうが、何を働きかけようが、表面を手探りで撫でつけることはできても、きっと思うようにあの子の心を導くことはできない。
そもそも心底分かり合おうなんて不毛な発想で、他人のことなど察するくらいが関の山です。
──それをする上で、私という鬼にとって、あの子は一番相手し辛いタイプでした。
だからやりやすいように知識がほしかった。経験がほしかった。手札がほしかった。
突然脈絡なく泣かれて、なぜと聞いても答えてくれない。
強引に口を割らせようとしても、きっと語りはしない。なんて面倒臭い、手を焼かされる。
そもそも本人ですら泣き出した理由が分かっているのか、どうか怪しいものでした。
理性を働かせるという術も持たず、ぴたりと涙を止めるということも出来ない。
繊細という言葉が一番に浮かびます。気を付けて手加減しなければ壊れてしまうような脆い心など、扱いづらいことこの上がありません。
口を揃えて厳しすぎると言われるような私が、こういう物の扱いが得意なはずがありませんでした。
──叱られるのを恐れる、大人が手を焼かされる子供のようだと、俯く彼女を見て思う。
そして、やはり苦手だと改めて思いました。
どこか達観しているようで骨の髄まで子供じみてる。大人びているようで我儘で身勝手。
そんな矛盾しかないようなモノ、手に余ります。
でも私は、その面倒臭くてたまらないものが昔からどうしても欲しくてたまらなかった。
だから、おそらく私は不器用に、柄にもなく熱心に不器用に…リリスさんの言葉を借りるなら口説いてる。
この子が欲しいから。愛しているから。
この子に向けて告げた事はないけれど、実は私が言える理由はいくつかありました。じゃあ、この子はどうなんでしょう。
「…なぜ、と聞くのは簡単なことなんでしょうね」
大昔から変に大人びていたり、妙に割り切りのよかった理由はソレなのかと尋ねるのは一瞬で済みます。
意図せず言葉と言葉の間に妙な空白が出来て、一瞬よりも長い長い時間が過ぎて行く。
夕暮れ時のなんとも言えない静けさと、昼とは違う湿度の変わった風の感触が、複雑な心をなぜだか煽った。
歩く速度は今までも早くなかったけれど、ぽつりと呟きを宙に放てば、自然と足は止まっていました。一歩後ろをついてきていたあの子を振り返る。
夕焼け色に照らされた表情は暗く、風に弄ばれている髪を気にかけている余裕もないようでした。
「あなたの心を責めるのは、言葉ひとつで済みますけど」
聞くことが責めることにつながるとは思っていません。しかしこの子は責め立てられているように感じるだろうということはもう分かっています。
凶霊の少女の屋敷は住宅街の一角にあり、風や匂いはどことなく違っているけど、アスファルトを踏みしめる感触だけは日本と変わりない。二人分の影が歩道に伸びているのを眺めながら思考に耽る。
昔はしなかった口論のようなものを交わすようになりました。珍しく激情に駆られる姿も見るようになりました。
怒りで饒舌になる所も見た、聞き分けのない我儘を言う所も見た。
子供じみた矛盾の孕んだ気質の片鱗は昔から十分ありました。
──それでも癇癪を起こすことはなくて、ここに来て初めてそういう所を見せるようになったのです。
淡々とマイペースを貫き通していた子にも、珍しく力を加えれば容易く崩される一点がありました。
それを見つけたのも、触れてみたのも、云千年過ごした最近が初めてだったのです。
一度見つけてしまったなら、私がそこに触れることを躊躇う事も、容赦する事もありませんでした。
空が橙色に染まっても帰宅しない、悪い子供のはしゃいだ声が遠くから聞える。
私達にもあんな風に幼い声を響かせる頃がありました。
四人ほどの子供達が集団になって、私達の隣を駆け抜けて行った。
向かう場所がどこだかは知らない。けれど彼らの表情は無邪気そのもの。
小学校中学年ほどでしょうか。私がそのくらいの背丈の頃には、既にこの子に並々ならぬ執着を抱いていた。あの頃がら随分長く時が経ち、ここまで来るのに随分とかかってしまった。
「…だから私は待ちます」
自ら弱味を話すことを。辛いだ悲しいだのと喚いてどうしようもない死を、生を嘆き惜しむことを。
──そちらの方が苦痛を伴うのだと知っていながら。拷問のように感じるのだとわかっていながら。同じ白状するにしたって、無理やり掘り返された方が楽なのだと知りながら。
「……ひどい子」
言われれば、きっとぼろぼろと涙を零すだろうことをわかっていながら。
半ば予想はしていましたが、やはりそう言ったっきり何を要求してくることもありませんでした。
近くから遠くへ。再び木霊するように薄ら聞こえるようになった無邪気な子供達のはしゃぎ声と、この子の涙は対極的な物だった。悲しくて苦しくて頬を伝う涙は、和やかなこの場には似つかわしくない。
まだ要求してくれない、まだ何も言ってくれない。ならば私は立て続けに言葉を放ち続ける他ありません。
知り得る限りの言葉を持ち出して、責め立てるように角度を変えて彼女の心に放つしかない。
腫物を触るように繊細に扱うことはこの性分では出来ず、強硬手段しか取れないのです。
数打てば当たるという心境にも似ていました。
もしも爪痕を立ててしまって、痛いと声をあげたならそれはそれで収穫です。
それをすれば痛みを感じるんだという事実を知れる。その部分を突けば脆いのだという弱点を知れる。
私のこういう淡々とした部分を、リリスさんは拷問や実験と称したのでしょう。
──恐れているのは、探しても探しても、そこには何もないということ。私ではこの子に爪痕を残せないという事でした。
泣いて叫んでもらわなければ困ります。
何をされても寛容に対応する、許容するというのは、決して慈愛の心が織り成せる事ではなく、ただの無関心で無責任な突き離しです。
──簡単に描いた通りに出来るんなら、こんな苦労はしてません。
案の定この子と上手く呼吸が合うはずもなく、予定通りにはいかず、理想は崩れ去り、この子は嗚咽もこぼさないままただ儚く涙を流すだけでした。
夜に変わる直前になると聞こえる、黒い鳥の羽音と鳴き声。どこまでも伸びる黒い影の中。照らす橙色の光の眩さ。全てがまるでこちらを嘲笑っているかのように感じる。
そんな事があるはずがないのに、馬鹿な事を考えました。
どちらからともなく無言で歩き出すと、二人分の靴底が不規則な音を奏でた。
──ほしいを愛してると言い変える。責めるを口説くと言い変える。
私にとってはそれであまり違和感がなかったけれど、相手にとってはどうなのか。
きっとこの子は私にある種の求愛をされているのだと思いもしないだろうし、ただ苦しいだけなんでしょう。
その子が声をあげる瞬間を待っていました。
聞いて欲しいとか、やめてほしいとか、言ってほしいとか、アレはイヤだとか、取り留めもない声を。
けれどまた駄目だったようでした。
出来なかったことを悔しく思うこともなく、ただ無感動に泣く子を見下ろす。
今回が駄目だったなら、じゃあその次だと算段を立てる。
確かに私だけが冷静で、冷淡で、この子だけが乱されている。
乱されたこの子は私へその目を向けた。悲哀の色は失せているようだけど、瞳の潤みは簡単に消えないようだった。
「鬼灯くん、私のこと好きだよね」
「…は?」
「嫌いじゃないんだよね。嫌いだからこんな風に言うわけじゃないよね」
昂ぶりがおさまった心とは裏腹に、未だ残留してしまった涙を拭いながら、とても的外れなことを言う。拍子抜けしました。
春の陽気を含み切れない風の冷たさを跳ねのけるため、その子が羽織った上着が擦れる音が耳に届いた。
怒号が飛んでくるとは思っていませんでしたし、疑問への明確な返答が帰ってくるとも思いませんでしたけど。
涙に濡れた目を向けられながら、けれど神妙な面持ちでこんなことを問われるとは思わなかった。
「心底嫌ってる相手にこんな回りくどいことをすると思いますか」
「…もっとわかりやすく舌戦になるよね…」
あと暴力沙汰…とその子はどこか気まずそうに呟いた。あの神獣のことを思い出してのことでしょう。
さすがに物凄く嫌いな相手だからと言って、誰彼構わず殴り合いをする訳ではない。
私が全力で殴った所で、耐えられるからこそ相手に容赦なくぶつけられていた。
実力が釣り合わない相手に怒りのままぶつかれば、きっと目も当てられない惨状が造りあがることでしょう。
それはさすがに本意ではありません。半殺しくらいがちょうどいい。
昔この子を怒りにまかせて血塗れにしてしまって後悔したのがいい例でした。
あの神獣に関して言えば、力の拮抗が取れているというのは不幸中の幸いだ。
全力で憂さ晴らしが出来る。けれどその他大勢も、この子も違う。
「…前も言ったけど…私が言えないことが沢山あって、それに腹が立つのはわかるよ」
腹が立つというのも少し違うと思ったけど、訂正せず、ズレてしまった帽子を深くかぶり直しながら無言で続きを促す。
「でも、やっぱり鬼灯くんは怒ってないし」
「…何故そう思うんです」
「なぜって、凄く冷静だし、淡々としてて」
「それは、いつものことだと思いますけど」
無愛想も何もかも言われ続けてることだった。それを知らない訳じゃないだろう。
おそらく通常通りの無表情を伺うようにちらりと見上げながら、それでも撤回することなく疑問を投げ続けます。
住宅が立ち並ぶ一角に一本伸びる長い歩道。ここを抜けると賑やかな繁華街に出る。夜間になろうが、閑静なこの場所よりは人気があるはずだ。 そうなればこんな風に静かに会話は出来ないだろうと頭の片隅で考える。
「鬼灯くん怒鳴らない訳じゃないし、笑わない訳じゃないし、まったく平坦な訳じゃないよ」
「まぁ、こっちも機械じゃないので」
「でもこういう時はいつも以上だから」
「…いつも以上?」
なんとなく、なんとなくですが言いたいことがわかってきました。それでもあえてその口から説明されるのを待った。
隣を歩くその子の上着と私の衣服が不意に擦れるも、思考を巡らせているその子はそれに気が付いた様子がない。
均等な間隔で並んでいた街路樹や街灯が途切れる頃になって、その子は口元に手をあてながら、拙く語り出す。
「なんていうか…作業的」
「…」
「私の態度は苛つかせるだろうなって思う、傷つけるだろうなって思う。だから怒鳴られても責められても仕方ないと思うけど…鬼灯くん少しも感情的にならないし」
言葉は責めるものを使っているのに、平坦で冷静で感情的にならない。ただ作業的に並べているだけ。
呆れ声を出したり、顰め面をする事はあれど、それだけの事でした。その自覚はあった。
「じゃあどうしてなのか分からない」
その理由が知りたいけど知りたくないと、こちらを見上げる瞳が困惑を訴えている。
先ほどとは違って、夕の暖色と夜の寒色が混じった不思議な二色をそこに映していた。
「何もないならやっぱり私も何もかも言えないし、謝ることもできない」
──また、見透かされたと思った。
確かにリリスさんの言うこの"実験"を、この子の言う作業を。やる意義は感じていても、その言葉一つ一つに実は深い意味なんてこめられて無いのでした。
いつもいつも分からないと言う癖に、裏にあるものを察知することに長けていた。
薄っぺらな枠組みも何もかも、裏にあるものを本能的にか察知するくらいなら、いっそ全て言い当てられたら良かったのに。
お互いにとってか、この子にとってなのかは疑問ですが。
今はもうとっくに面白いとも腹立たしいとも不愉快だとも思わなくなっていた。
ただ見おろして、これがこの子というモノなのだと改めて受け止める。
つくづく面倒臭い。つくづく手を焼かされる。
私がほしい物はただ一つ、目の前にいるあなたなんだともうとっくに告げている。
云千年続いた強烈で色濃い欲求だ。
ならば、私がこの子に働きかける理由なんて、全てそこに集結しているんだと考えれば自然なのに。
私は手に入れるために、この子がほしいと望む物を与えて満たしてやりたい。
物で釣るといえば簡単な話に聞こえます。この子のほしい物が、形ある物で、それで釣れたなら、どんなに楽なのか。
きっとこの子がほしいのは物でも愛でもなんでもなくて、誰かにしてほしいこともあまりない。
ほんの僅かな隙間を縫って、私はそれを探し当てて、隙間を満たさなければならない。
満たしきれた時、その時初めてこの子はこちらを振り返る。
そんな途方もない話を現実にするために、私は適当な言葉を投げかけ続けているのでした。
「謝りたいんですか」
言うと、その子は瞬きを繰り返した。ようやく乾いた瞳は、涙のせいで歪む事なく、正しい視界を映していた。
「謝れたなら楽になれるんでしょうね」
その言葉を聞くとその子は苦笑して、そうだねと首肯した。
最後に通りすがった街頭が、頭上でパチリと小さな音を立ててから灯った。まだ暗くなってはいないけど、規則通りの時間に点灯してその責務を果たしていた。
背後を振り返れば、点々と灯った光が歩いてきた一本道のずっと奥まで伸びているのだろうと、見なくてもわかった。
「でも鬼灯くんは楽にはならないね」
「そうでしょうね」
昔からの内緒の話も、今現在浮上した謎も、なんの種明かしもしてもらえない。
悶々とするばかりで、晴れることなど微塵もないでしょう。
欲しいのはごめんなさいという言葉ではないのです。即物的というのとも違いますけど。この子は心を楽にしたいのだとして、私はもっと実のあるものがほしい。
「よくはないけど、」
けれど、決して状況は悪くはないのです。
「きっと今のままで十分なんですよ」
私の言葉に聞く耳を持ってくれているだけで御の字。まだまだ私にやる余地はあるという証拠でした。
理解させようともしない私の一方的な話がピンと来なかったようで、その子はただ不思議そうにして、けれどその真意を追求することはなかった。
うにして、けれどその真意を追求することはなかった。