第十六話
1.言葉選ぶ
あの世のひとたちが気が長い。それと同様に、私もあの世の者らしく、物事を長い目でみれるようになった。
リリスさんが凶霊のあの子を長い目で見ながら懐柔しにかかっているみたいに、私も何かを早急に求めることはなく、色んなことを昔よりも遥かにのんびりと見ている。
人間的な感覚が抜けきらないから、他のひとには劣っているのかもしれないけど。

そうだとしても、私は自分の気持ちがそう簡単に薄れることはないだろうと根拠もなく信じていたし、自分の根底にあるモノがこれであるからこそ今の自分があるんだろうと疑わなかった。
そこに劣等感はなくて、そこに悲壮感もない。
これだけは混じり気のない潔い信念だと言えた。
人目もはばからず、遠慮などなく、私がこうしたいからこうするんだと独善的に突き進める。
綱渡りをするような人生だった。どうにもらないことばかりだった。
他の子よりほしい物は手に入らない事の方が多いかったから、妥協することも諦めることも多かった。
それでも、だけれど、手に入らなかったとしても。これだけは迷わずずただ一言言える。
──私は生きていたい。消えたくない。


「…生きてるだけじゃだめなの?それだけで満足しちゃだめなの…?」
「…いい悪いの話じゃない」
「絶対に何かを選らばなきゃいけないの?」
「…」
「好きな人を作らなきゃだめ?…絶対に何かを欲しがらなきゃ駄目?」
「そんなことはないです」

我もなく物欲もなく慎ましく暮らすことが幸せな人などいくらでもいる。
誰かに尽くすのではなく、自分に尽くすことを選ぶひとなどいくらでもいる、と鬼灯くんは否定した。
けれど、とその後に、隣に座る私の目を真っ直ぐに見据えながら付け足した。

「私はあなたがほしいんです。私はあなたを選びたい」
「………私はいや。そんな風に言われるくらいなら、誰も選びたくない」

負け自と視線は外さないまま、拒絶の言葉を紡ぎ出す。
鬼灯くんは不愉快そうにスッと目を細めると、私の精一杯の拒絶を否定する言葉を放った。

「じゃああなたは長い時間を私の傍で生きることにして。ただそれだけで満足ですか」
「…満足?」
「それ以上に、…それ以外に何がしたいのかと聞いているんです。仕事が生き甲斐だと言うような性分でないことくらいわかっています」

苦労を沢山してきた昔とは違う。周囲は持っていて、自分には持て無かった物がほしかった子供の頃とは違う
大人になった今は豊かな暮らしが遅れるようになったはず。手に入るものも多いはず。
欲はそのうち芽生えて、いつかどこかへ手は伸びることでしょうと、確信を持って言われた。
私はそれを否定しようとして、唇を引き結んでぐっと喉の奥に仕舞い込む。
先のことなんて、それこそ先見の神でもないんだから分からないことだし、何もかも見通せる千里眼も持ってない。
けれどその事実以上に、私には大きな心辺りがあったからこそ反論できなかった。


「生きることは、消えないでいる事は出来るようになりました。では、その次は?それ以上に、それ以外にあなたは何を望みますか」
「……」
「たったそれだけでいいと言えるなんて、思い上がりですよ」

私が出来た人格をしていない事など百も承知だった。
寂しい悲しい嬉しいといちいち訳く子供なあなたが、そんな仙人のように思い続けられる訳がないじゃないですかと、諭すように言われる。私はそれを受け取りながら、胸に何かが刺さる痛みを、目の奥が熱くなる感覚を、息が浅くなる苦しさを体感していた。

「どうせ今だけです」

そのうち欲しいと渇望するようになるくせして。
満足を感じられるのなんて一時なんだと、私は身を持って知っていますよと、鬼灯くんは冷淡に語るのだった。

怒鳴るでもなく、熱い感情がこもってもいない。ただ平坦で起伏のない語りは、まるで物語でも語り聞かされているようだった。空虚で、そこに現実感を抱けない。
けれどこれは想像の世界の話ではない。鬼灯くんの生々しい実体験を聞かされているのだった。
自分の身に置き換えて想像してみれば、確かに現実味を感じられた。
一時だけの満足を抱く自分に既視感があった。そういう状態に陥った過去の自分を鮮明に覚えてる。

満足したのはたった一瞬のことで、ふとした瞬間「もっと」と高望みを始めた自分の浅はかさを忘れられるはずがない。
もう満足だといつまでも言えない自分が情けなかった。
それでもいいと納得させてくれて、それでもいいと許してくれたのが目の前の鬼灯くんで、今その欲深さを責めたてているのもまた鬼灯くんだった。
私のみっともない欲求を肯定してくれているのは変わらなくて、決して否定している訳ではないのだ。
その欲求の先にある物を私に考えさせているだけ。とても性質が悪くて、とても残酷だと思った。
視線は鬼灯くんから逸らし、休憩室の壁に設置された時計を眺めながら苦々しく言う。
更けた夜の時間を秒針が指していて、それをまるで逃避するように目で追い掛けた。


「……今度こそ、そうじゃないって証明できるかも」
「そういう顕示欲みたいなものないくせして変なこと言いますね」

確かに私は誰よりも早く新しい発見をしたいとか、解明してみせたいとか、探究欲みたいなものがなかった。
苦し紛れに普段の自分なら言わないような、心にもない言葉を捻り出してしまった。
高望みなどしないで済むことだってあると、私こそが証明してみせる。
そんな宣言をわざわざするような強い自我も持っていない。


「……じゃあ皆が言うみたいに…凄くのんびりだから何も思わないでいられるかもしれないし」

怒ることが出来ない。威厳がない、地獄にいるにはマイナスになることだと散々言われてきたけど、これにはプラスに働くかもしれないと誤魔化した。
言い逃れを性懲りもなく続けるけれど、今の私の表情はきっと苦々しいものだ。
嘘偽りを無理にひねり出している事などそこから見え透く。
小手先の繕いなどすぐに看破されて、否定の言葉は簡単に紡がれた。

「あなたは地獄にいるんです。天国の住民ではない」

罪人として落された訳じゃない、けれど天国の住民みたいに、善の要素しか持たない人格者な訳じゃない。
凶霊の少女には天国の人みたいに穏やかだと言われたけど、それは私の一面を見て言っただけの仮の評価だった。

天国の人は本当に無欲で、疑うことを知らなくて、簡単に詐欺に合ってしまうそうな性格をしているヒトが多いのだ。全員がそうとは言わないけれど、その比率は高い。
大昔、今より殺伐とした時代に暮らしていたというのに、生涯ほがらかに生き続けてきた人もいる。
貧乏しても餓えても騙されても、それでも他者への憐れみを忘れなかった人たちだ。

私は安定した暮らしを送っていた一度目の人生でも、危ない事がないようにと人並みに警戒したし周囲を疑った。
二度目からは暮らしに困って、時に何かを恨みがましく思ったり、値踏みするかのように人を疑うことを覚えた。
悪いひとに付け込まれて、危ない目にはあいたくなかったからだ。
それはいけないことだと誰も言うはずがない。それこそ「生き延びる」ための正当な手段だったのだ。
──けれどソレの手段を一度も使わないで生きた人こそが、典型的な天国の善良な住民なのだ。
私は彼らとは違う。
だとしたら、私はいつか絶対に欲深くなるだろう。
これさえあれば他は何もいらないなんて、言い続けるは出来なくなる日がやってくると。


「…それは」

心の底から分かっているつもりだった。けれどどこかで慢心していたのかもしれない。
自分なら大丈夫。自分なら出来るという確証ない漠然とした過信があった。
こんなに望んでいるのだからと。
膝に下ろしていた両手を強く組んで握った。辛さを堪えるための行為だったのに、爪が肌に食い込んで、余計な痛みが走る。
それだけで良いと思っていたのはただの驕りだ。また鬼灯くんに気が付かされた。彼の言う通りだった。
竹を割ったような性格をしている…というには癖がありすぎるけど、真っ直ぐ物を言う彼が言うことはとてもわかりやすい。だけれど、今は少しも分かれない事がある。


「…鬼灯くんは私をどうしたいの?」

隣にいるひとに投げかけた声は震えていて、か細く小さく、とても頼りなかった。

「どうなってほしいの。私を責めてるの?どちらつかずなのが苛立つの?」


浅い呼吸しか出来ない今、喉から滑り出て来るのは小さく歪な声で、悲痛な色で染まっていた。
何かが気に食わないんだろう。何か問題視しているからこそ厳しく指摘しているのだろう。けれどその奥底にある真意は分からなかった。
空調の音が耳の奥の奥まで届くようで、頭を痛くする程妙に響いて不快だった。
おそらく喉だけでなく身体全体が緊張しているせいで、五感が冴えわたっている。

「鬼灯くんは責めてるんじゃなくて、直せって促してるんじゃなくて、ただ暴いてるだけで、」

それは偽りだ。それは悪癖だ。それはいつか変貌する。今とは同じでいられなくなる。
そうやって淡々と一つ一つ丹念に矛盾点を見つけていくだけで、暴いたあと結局どうしたいのか掴めない。
私がここで泣き崩れてもきっと慰めてなんてくれないだろうし、その態度をどうにかしろと要求してくる訳でもない。
腹が立っている様子もない。八つ当たりでもない。今の鬼灯くんは怖いくらい冷静だった。
じゃあ私にどうなって欲しくて、鬼灯くんはどうしたいんだろう。
私が確かにそうだと認めればそれで満足できるのだろうか。
まさか気まぐれに遊んでる訳じゃないだろうし、ただの親切心でもないというなら、何か理由はあるはずじゃないかと思うけれど。


「どういう理由もないなら私もどうすることも出来なくて、ただ苦しいだけだよ」

淡々とした鬼灯くんとは反対に、感情的になって涙が零れるかと思ったけど、なんとかこらえられたようだ。
ただ胸が苦しくて悲しいだけで済んでいる。
泣くのも体力消耗するし、鬼灯くんも泣かれたって困るだろう。
泣きたい訳じゃなかったけど、ただ涙腺の弱い自分がこの場で涙を零さないことが不思議だった。

「…わかりません」

珍しい返事が返ってきて、隣を見あげて涙で濡れない目をぱちぱちと瞬かせた。
変に物知りな鬼灯くんにだって出来ないこと、知らないことがあるのはわかっている。全知全能の神なんて今のところみたこともない。
どんなに穏やかな人だって心乱されることはあるし、どんなに頭のいい人だって常に考えてから行動するということは難しい。

けれど鬼灯くんは普通よりは飛びぬけて冷静に考え続けることが出来る、それが他より出来る鬼と評価される所以なのだろう。
そんな鬼灯くんが自分に行動に理由もなく、衝動のままに直感的に突き進むというのはあまり稀な事だった。
鬼灯くんでなくとも、普通ここまで来てそんなことを言わないだろう。
思わず悲痛で身を固くしていた事も忘れて、吹き出して笑ってしまった。


「ここまでお喋りしておいて、そんなの変だね」
「…我ことながらそう思いますよ」

鬼灯くんは少し顔を背けながらそうは言ったけど、無自覚なだけでどこかに理由は存在しているんだと思う。
ただ、まさか今なんの自覚症状がなく心のまま語っている状態だとは思わなかった。
自分でやっておいて自分で不思議そうにしている姿をみると、どうしても気が抜ける。
背もたれに寄りかかり、息を吐き出した。毎度緊張感が続かない。

「理由があればどうにかしてみようと思うんですね」
「…うん?」
「絶対に譲れないものとかないんですか。信念とか」
「…あると思うけど…」
「相手の話を一度聞いてからってよく言いますけど。それって簡単な事ではないですよね」


逆鱗に触れるという言葉もある。癇に障るともいう。それは地雷だとか言ったりするし、「ぜんぶ」を受け止めることは容易いことではない。
そういうことを言いたいんだろうけど、過大評価しすぎだ。それこそ出来た人ではないから私もすぐにムッとして、反論してしまうことが多々ある。
私がそう言って首を横に振ると、不思議そうにしながら続けた。


「そうでしょうか。少なくとも、私の話は必ず一度聞こうとしています」
「そうかなぁ…適当に流しちゃう時だってあるよ…言いたくないってダダコネしたりするし…」
「まぁ、そうですね。多分向き合う姿勢の事なんでしょう」

だから気に食わないんでしょうねと、他人事のように一人で自問自答して納得している様子だったけど、私の方はどこか要領を得られなくて困り笑いしてしまった。
尋ねた所で恐らく分かるようには返ってこない。
この間のように意趣返ししてくるかもしれないし、疑問への返答が帰ってきたとして、私には分からない要約で締めくくられると思った。

2019.2.21