第九話
2.愛情蝶よ花よ

は寝起きが悪くない。朝に不機嫌な顔を見せる事もなく、目覚ましの音に従い起き上がると、淡々と身支度をこなすタイプだった。


「ヨルさんに買ってもらった服、少し大きいみたいなの。」


そんなが珍しく眉間に皺を寄せた状態で起床してきたかと思えば、落ち込んだ様子でユーリに話しかけてきた。


「裾を少し折っても変じゃないかな。みっともない?」


ヨルは昨日"夜勤"というやつで、遅くに帰ってきたため、今朝はいつもより遅くまで寝ている。
食卓を囲むのは、残念ながら二人だけ。
今日の食事当番はユーリだったので、がやってくるよりも前に食器を並べていた。
とは言っても、パンやシリアルといった出来あいの物を人数分の皿に落とすだけの軽作業である。
袖口を気にして視線を落としながら、ユーリに問いかける。なので、思った事を率直に告げる。大した手間にも時間にもならない。

「かわいいと思うよ。みっともなくはない」


すると、もっともっと深い皺がの眉間に寄らせられる。そんな顔をさせるような貶し文句をつけた覚えてない。
なんの不満があるのか、と怪訝な顔をすると、少し黙り込んだ後、が言う。

「…かわいいって言ってもらえたら、嬉しいんだけど」
「うん」
「ユーリに言われると…なんていうのかな」
「何だよ。褒めてるんだけど」
「そう。かわいいって褒められると、それこそ変な感じ」

心外だ。ユーリはそんなことを言われるような朴念仁になった覚えはなかった。酷い言い草である。何かをかわいいと感じる豊かな心も、それを惜しみなく伝える事の出来るよく回る舌も持っている。


「じゃあ、なんて言うのがベストだったんだ」
「みっともなくない、変じゃない、って言うだけで別に…」
「それ、ただのオウム返しじゃないか?」
「たったそれだけでいい時もあるよ。質より量じゃなくて、数より質」

オウム返しをするだけでは能がないという風潮もある。が、雄弁すぎてもくどいという場面もある。それはユーリにも理解出来る。
が、今の場合は何が正解だったのか。説明されてもどうにも腑に落ちない。

「かわいいって言われて、嬉しかったんだろう?ならなんで文句つけるかな」
「文句つけてるんじゃないよ。ごめん…なんか、…変なだけ」
「それ絶対文句だろ、貶してるだろ」
「貶してないのに……」


どう説明しても堂々巡りで、分かってもらえない。その膠着状態に困らされて、は頭を抱えていた。
ユーリも一体どうしたらよかったんだろうかと、消えない謎を抱え、揃って悶々とする羽目になった。


***


「実は、妹ができました」


と、打ち明けると。
顔見知りの優しい老夫婦が顔を見合わせ、おめでとうと笑ってくれた。
多分、彼らの想像と現実は違っているはずだ。母の腹から年の離れた妹がめでたく産まれ出た、という話ではない。
この二人には、ユーリには両親がいないという事情を話すタイミングを逃していた。
大多数の子供には親がいる。
その先入観から、老夫婦は当然のようにユーリの帰る家には親が待っていると思って会話をしていたし、何度も親がいる前提での会話を重ねてしまった。
今さら打ち明けても相手を困らせるだけだろう。きっといらぬ罪悪感を抱かせる。
緩く首を横に振って、ユーリは改めて説明した。

「三つ下の子を、養子にもらった…って感じです」

それを聞いても彼らは一切動じる事はなかった。伊達に年を重ねてないからか、笑顔を絶やさないまま傾聴の姿勢に入っていた。
養子を取った取られたなんて話は、彼らにとってはそう珍しい話でもないのだろう。

昔、公園で出会った老夫婦とは、今でもたまに顔を合わせる仲になっていた。
毎日の日課である散歩の途中、近所にいくつかある公園のどこかへ寄るのが二人のルーチーンらしい。
出歩く時間帯も決まっていない、となると、学生であるユーリが彼らに遭遇する確率は決して高くはない。年に数回といったところだ。
なので、を家に迎えたのはすでに数年も前の事だったけれど、会う時に話のはもっぱら姉の事ばかりで、の話をする機会が今日までなかった。

今回は買い物に出かけた街中でバッタリと出会い、せっかくだからお喋りしましょう、と誘われ、目と鼻の先にあった広場のベンチに腰かけていた。三人揃って買い物袋を手に掲げながら。
ややこしいので、向かえた時期は濁したままで押し通す事にした。


「それで、今日は何に悩んでるの?その妹さんのことかしら」
「いやもしかして、姉さんに彼氏ができたんじゃないか?それは喜んであげなきゃ悲しいだろう」


顔を合わせる時間や頻度は高くなくても、付き合いだけは長くなっていた。
ユーリが一桁の頃からの知り合いだ。声の調子や表情、力なく丸まった姿勢の一つ一つから見て取り、悩んでいるかどうか、すぐに悟られる。
たった一目で見抜かれてしまうのは、年の功のせいもあるだろうけど。
医者や教師に対面する時のような信頼感。打ち明けても許されるという安心感。
この二人には、普段あまり人に言えない事でも、抵抗なく話せた。
人生の先輩として、悩める若人の力になれる事は、夫婦にとっても嬉しいことらしかった。
今では孫のように思っているらしく、親身に話を聞いてくれる。

「……妹が」
「妹さんとうまくいかないの?」
「今ユーリくんが14だろう、なら11歳の女の子か…」
「思春期を迎えるにはちょっと早いかしらね?」
「性格が合わないのかもな」
「そうね、相性って大事よ」


お喋りが好きな夫婦はユーリが一つ話題を投げると、十の言葉を添えて返してくる。
打てば響く…とも少し違うけれど、そのキャッチボールが途切れる事も、滞る事もなかった。

「…可愛がり方がわからなくて。服装や髪型をかわいいと褒めても、妙な顔をされるばかりで、上手くいかなくて」


と過ごして数年。
可愛い、と心から思えるようになっていた。
兄のように振舞う、という事を始めた当初のように、形だけではなく。
愛しなさい、と言われてから、本当に心から愛せるようになったのだ。
だけれど、果たして思うだけでいいのだろうか?行動にはどう表せばいい?
まず初めに感じた事は惜しみなく口に出すようにしようと思った。
今朝のように、服が似合っていて可愛いと思えば、可愛いと口にするとか。
言葉や感情を出し惜しみにしない努力をした。その度に、変な顔をされるばかりで、失敗続き。
ユーリは、物事を突き詰め徹底するタイプだった。理性をなくすのは姉に対したときくらいのもの。
上手くいかない現状を、まぁいいか、次があるだろう。なんて風に楽観して流せない。
何故、どうして。解き明かさなけば落ち着かない。
疑問を疑問のままにしておく事は、精神的には楽なのだろうが、学力は落ちる物だということを、優秀な彼は知っていた。

夫婦は落ち込むユーリをほっこりと眺めて、得心が言ったように頷いた。

「まあ、姉に可愛がられてきた弟だもんな」
「慕い方は分かっても、愛し方がわからないのね」
「そう、それです!まさに!姉さんにも、愛してあげろって言われてるんですけど、愛とかかわいがるとか、わかるようでわからないというか…感じられても、具体的にはならなくて…」

愛という抽象的な感情を、行動で示せと世論は言う。
男は背中で語るという文句は、愛に対しては通用しないらしいと、最近テレビの中の誰かが言っているのを聞いたばかりだ。
話しが早くて助かる、と言わんばかりにまくし立てるユーリを見守っていた妻は、ぽつりとこう尋ねた。


「かわいい子なのかしら?」
「え…」


妻の方に、脈絡なく尋ねられてびっくりした。美醜の事を指していえるならば、恐らくイエスと答えるべきだろう。
姉には当然勝らないながらも、世間的に見れば整った顔をしている…と思う。
を引き連れて町に出かけると、人の視線をチラホラと引き付けるのだ。
姉は身内の贔屓目なしで、誰もが認める美人だった。対しては、目が合えば整ってると気が付く、といったレベルだろうが。
けれど彼女が聞いているのは、そういう造形の話ではなく、性格的なものを指しているらしかった。
ベンチの後ろに聳え立つ樹木。風が吹き抜けると、サワサワと音を立てて緑の葉を揺らした。


「蝶よ花よて愛でられて、ってよく言うじゃない?」
「あぁ、なるほどたしかに。キミのお姉さんが花であるなら、妹さんは蝶だな」
「美しい日々を送ってるわね、うらやましい。両手に蝶に華なんて。私達なんてもう枯れ木ですからね」


ユーリも花は綺麗だと思うし、蝶を眺めるのも好きだった。
花や蝶だと思って慈しみなさいという話だろう。
ただ、男勝りな性格をしているなら、その方法は悪手なので、一個人として対等に接し、その価値観を認めてあげなさい、と付け足された。
なるほど、一理あると思った。もしかしたら可愛いという言葉は、にとっては嬉しい褒め文句ではないのかもしれない。
可愛い女の子には可愛いと褒める、という固定概念が、邪魔をしていた可能性が浮上した。
はどんな性格をしているだろうかと考える。男勝りではないと思う。ただ、女子らしいのかと考えたら、否定も肯定もできない。
掴み処がないと感じるのは、自身が昔に比べればマシにはなったと言えど、感情を表に出すのが不得手なせいかもしれない。


「………17歳が一番華やかで輝かしい、という話を昔お二人に聞きましたが」
「おお、よく覚えてるな」
「11歳は、私にはつぼみに見えるかしらね。と言ってもこの年になったら、大抵の花はつぼみに見えてしまいますけど」


どんな性格をしているかという疑問に答えを出す間のお茶請け替わりに、昔の会話を表に引っ張りだしきた。
間を持たせるためでもあったし、素朴な疑問としてユーリの中に残っていたせいでもある。いつか機会があれば、二人に聞いてみたいと思っていた。

枯れ木やつぼみが云々という、年齢についての話題をスマートに切り返すには、ユーリは若すぎたし、彼女達も別段も返事を求めていた訳でもない。


「じゃあ、花が咲くのはいつですか?どうやって愛でればいいんですか」
「開花したかどうかの見極めは、あなたの匙加減よ」
「それと男の力量次第。可愛いと言うべきか、美しいというべきか、果たして愛していると告げるべきなのか」
「……は、はあ…」


うふふ、と内緒話を楽しむように笑う老夫婦は、いつも的を得たアドバイスをくれるけれど、たまにこうして抽象的でわからない切り返しをする事もある。
全部教えてくれと根掘り葉掘りするのは、思考停止だろう。
ユーリは課題を与えらたと思うことにして、この疑問も再び持ち帰り考えることにした。

2022.7.21