第八話
1.愛情─愛
──散髪に失敗した。
その悲惨な現実に気が付いたヨルは、持っていたハサミを床に落とし、青ざめ震え涙ぐんだ。
それに対して、髪をバッサリと切り落とされた当人…はと言えば、それとは対照的な反応を見せる。
特に動じず、「さっぱりしました」と笑っていたほどだった。
毛先を揃えるだけの予定が、片側だけ大幅にカットしてしまったのだ。
この頃、はよく笑うようになった。満面の笑みには程遠いが、それでも薄く柔らかに笑うようになったのだ。これは進歩だった。
いつもならその笑顔を見れば、つられて笑いだすヨルも、今ばかりは涙を流す他なかった。
ユーリはと言えば、うっかりな姉さんも可愛い!!としか思えず、その切り口が失敗かどうかの判断もつかなかった。この不揃いさが流行の流行だと言われれば納得しただろうし、とにかく成功か失敗かなどどうでもよかった。
姉の手が生み出した芸術品の一つだと思えば、魅力的に見えてくるくらいだ。
「美容室に、いきましょう。今すぐにです……」
まるで戦を前にした武人のように凛々しく、重々しく、ヨルは宣言した。
言うが早く、テキパキと自分の身支度を済ませると、弟妹の出かける支度を手伝い、素早く町へと出かけた。
今日は珍しくヨルの仕事が休みで、ついでにユーリの学校も休み。三人揃って一日くつろげる貴重な日だった。
せっかくの休日がの髪の毛のケアに費やされるのは予想外の展開だった。
けれど、ユーリは姉のためなら火の中水の中、地獄にいようが天国のように感じられる、そんな才能をもっていた。
その理由がなんであれ、姉が隣にいるならば、出かける事も厭わない。
「…はあ。最初からこうしていればよかったんですね…私ったら本当に不器用で…」
「昔はボクの髪も切ってくれてたよね。すごく個性的で、ボクは好きだったよ。姉さんは美容師にだってなれるよ!」
「…ユーリは本当に優しい子ですねえ……」
どこか遠い目をしながらヨルはまた涙ぐむ。ユーリが個性的と称した髪型がどんなものだ
ったかは、言わなくても想像に難くない。
子供の散髪に親が付きそうなんていう事はよくある事で、ユーリとヨルはの髪がプロに切られる間、待合室で座って待っていた。
ガラスの向こうに店内が見えるようになっていて、ユーリは色んな人たちの髪が整えられる様を遠くから見ていた。
髪を手入れし、美しく保つという行いは、花を手入れする行為とも似ていると思った。
店内にいる最年少は、ブライア家に迎え入れた拾い子である。長かった黒髪は、今は肩まで揃えられている所だった。
「お兄ちゃんになって、仲良くしてあげてくださいね」
大好きな姉は、あの日そう言った。
姉と弟二人、手を取り支え合い生きてきた。
そこに急に知らぬ子供が現れて、己の妹だと認識する事は難しい。
けれど、ユーリは姉の言う事にわざわざ逆らう気はない。逆らいたいとも思わない。
姉の可愛い笑顔を見れたら天にも昇る。お願いされたら、なんでも叶えてあげたい。
姉が喜ぶ事ならば、なんだってやる。
けれど、今回の"お願い"は少し難しかった。
"妹"となったに勉強を教えてやったり、寝食の世話を焼いたり、自分なりに年上らしい振舞いをしてきたと思う。
だけど、本当の所、それが正しいのかどうか自信がなかった。姉の求める関係性を築けているのだろうか。
「…姉さん」
「はい?」
「姉さんは、ボクの姉さんになるために、…、」
どうやって努力したの?と聞こうとして、止めた。
努力などしたはずもない。姉は生まれたときから姉だったのだ。
血縁というだけで情もわくし、生まれた時から一緒にいるのだ、過ごす時間の多さが親しみにも変わる。
ユーリの疑問は、"本当の姉"であるヨルに聞いても解決はしないかもしれない。
そもそも、出来ない事や知らない事がある。そして、姉に助言を求める。それは未熟さを晒すかのようで、少し恥ずかしい事だった。
けれど、彼の姉はそれだけで失望する程狭量ではないという事を、彼は知っていた。
なので、羞恥を抑えながらも、素直に知らない事を尋ねる。
「…どうやったらあの子の兄らしくなれるのか、わからなくて」
どうやって姉が姉になったのか、という問いかけをするのではなく、今現在ユーリが抱えてる問題そのものを露呈した。
すると、姉は目を眇める。まるで眩しいものを見るかのように。
姉は頭ごなしに物事を否定も批判もない。柔らかい精神性を心に宿していた。
こうして受け止めてもらえるだろう事を予想していながら、助言をこうのが恥ずかしいと思ったことすら恥ずかしくなる。
「それはね」
「それは?」
「愛ですよ、ユーリ!」
ぐっと握りこぶしを作りながら明るく断言されて、少し身を引いた。
ヨルは勢いに押されてるユーリの様子には気が付かず、熱弁する。
「愛情をもって接してあげるんですよ。…私が姉として、大切な弟に…ユーリにしてあげた事をね、今度はあなたがすればいいんです」
「あ、愛……姉さんの愛……」
聞くだけで体が歓喜でぶるりと震えた。麻薬にでも体内を犯されたかのように、ぼうっとしてくる。恍惚とせざるを得ない。
彼は、姉から愛されていた。宝物のように接しられてきた。
今度はそれを、あの女の子にしてあげなさいと姉は言う。
愛されている事はハッキリと自覚していた。けれど、こうして姉に口にされると、改めて多幸感が溢れて震えてくる。
──そんな事ならば、お安い御用だと思った。
姉自身が、弟に向けた愛を、今度は妹であるあの子に直接注ぐというなら焼いたかもしれない。嫉妬で気が狂った事だろう。
けれど、姉は忙しく、この頃はユーリにすら構う時間も少ない。
その代わり、ユーリがあの子を愛するのだ。
姉の愛さえ奪われないのであれば、なんの異論もない。そればかりか、そうする事で姉が喜んだり、楽しんだりしてくれるならば、ユーリにとってもその行いは嬉しいし楽しいものに変わるはずだ。
最初は渋々、"姉が言うから"兄の様に振舞った。
そのうち、必死にユーリに教えられた知識を飲み下そうと机に噛り付く姿に親しみを覚えた。
しばらくして、深く同情もした。彼には姉がいたけれど、もしもこの子と同じように天涯孤独となっていたなら…。想像するだけで気分が悪くなってくる。
この世はクソ食らえだと、自暴自棄になり、破滅していたかもしれない。
独りでいるのは、どれだけ寂しかっただろう。
自分であれば、姉のいない世界で生きるのは耐えられないだろう。
──大人に嬲られる毎日は、どれだけ怖かっただろう。
初めてブライア家にやってきたあの日の夜、ベッドの上で二人が交わした会話は、寝たふりをしたユーリの耳にも届いていた。狭い部屋だ。隠し立てできる構造にはなってないし、そもそもあの晩は、最初から聞き耳を立てる気で寝たふり気づかぬふりをしていたのだ。
子供とは言え、見知らぬ他人を大切な姉の傍に放置してはおけない。無害かどうか、見定めるつもりでいた。
「ほら、見てくださいユーリ、のあの顔を」
ユーリの肩に手をトンとおいて、の方を指さした。
そこには散髪終わりのと、美容師の年嵩の女性の姿があった。
女性は身振り手振りを使って、小さな子向けの仕草で何かを説明している様子だった。
は栄養失調が長く続いたせいか、元々の遺伝的なものなのか、年齢にしては華奢な方だったので、7歳より下に見られてるのかもしれない。
実際は下どころか、成人にも勝るような言論をするので、そんな事をする必要はないのに、と遠くで思った。
そうしてるうちに、はこくりと頷いて、──嬉しそうに笑った。
「あの髪型が気に入ったんですね。あ、ほら、店員さんに撫でられて笑ってます。かわいいです」
「…かわいい…」
あれを可愛いというのかよくわからないけれど、微笑ましいとは思う。
大人が子供をかわいがる平和なやり取りは、牧歌的で心休まる光景だなと思う。まあ、でもこの穏やかな気持ちを、可愛いと言い変えても差し障りはない。
「かわいいね」
「そうでしょう!かわいいです、あの子はかわいいんです!」
姉が何度も何度も褒めたたえるので、少し面白くなくなってきた。
こんなことになるなら可愛いなんて言わなければよかったかもしれない、と子供じみた思いが巡ったところで。
「を可愛くしたのはユーリなんですよ?」
「…は?」
不意を突かれて、変な声が出た。姉は、可愛いと連呼していた時と同じくらいとろけらそうな顔をしながらユーリを見ていた。
ユーリの事も同じうに可愛いと思いながら見ているのだろう。そう思うとくすぐったい。
「が家に来てから笑うようになったのは、ユーリのおかげでしょう?」
「いや、それは…」
姉のおかげであるはずだ。姉の優しさに触れて、安全な屋根の下で休息し、
あの子供は安らぐことができたのだろう。すべてはヨル・ブライアという女神のような存在からの包容があってこそ。
それは間違いではない。けれど、ヨルは否定も肯定もせず笑って言う。
「初めてあの子笑顔をみたのは誰ですか」
「…あ…」
「あの子を一番に笑わせたのは、ユーリですね?お姉ちゃん悔しいです」
悔しいと口で言いながらも、思っているのはきっと真反対。
弟と妹が仲良くやってるのが"かわいい"のだろう。心から。愛しくてたまらないのだろう。
──愛されてる。自分はこんなにも、姉に愛されている。つま先からてっぺんまで痺れるほどに満たされる。高揚する。
女性に手を引かれて、が待合室へとやってきた。
「…似合って、ますか?変じゃありませんか」
椅子に座るヨルとユーリの前にやってきて、おずおずと控えめ、けれど嬉しそうにはにかみながら尋ねた。
だから、ユーリは答えた。一番にこう答えるべきだと思った。
の笑顔が生まれたのは、元をたどればヨルのおかげだ。けれど、間違いなくユーリのおかげでもある。
自分の努力が実を結ぶ瞬間に感じる満足は心地いい。自分の育てた花が開く瞬間は、とても愛しく──…
「──変じゃない。かわいいよ」
これが、答えるべき本心だった。
は今まで見た中で一番大きく表情を動かし、…端的に言えば驚愕の表情を示していた。
ユーリが可愛いと発言したことに大層驚いたようだ。
「ええ、とってもかわいいですよ、もユーリも!」
ヨルは満足げに断言し、ユーリは嬉しそうに笑い、はどうしたらいいのかよくわからないといった様子でたじろいでいた。
どうやら子供好きらしい女性は、その平和なやり取りを大変穏やかな表情で見守っていた。
「──という訳で、ここの文法はこう締めくくられる。古語であれば、逆になる」
「ややこしい…」
「言語なんて単純じゃない、ややこしいものだろう。だからこそ学び甲斐があるんだよ」
「…そうかな。頭痛くなるけど」
額を片手で抑えたは、教科書を睨みつけ、その仕草で髪が肩口に落ちた。
長かったの髪は、肩のあたりで揃えられた。
あの日からしばらく経ち、そのシルエットも見慣れてきた。
姉が自分に対してしたことを想起しながら、"妹"の世話をした。
朝になれば起こし、姉が疲れてるときには彼が食事の支度をしてやり、甲斐甲斐しく尽くした。
最初は痩せこけていた体は徐々に健康的になり、今では自然と笑えるようになっていった。冗談すら言うこともある。
──これが育てる喜びか、と彼は初めて知る。
迷惑をかけてばかりで、弟である自分は何も恩返しできない。何も貢献できていない。
早く勉強して、大人になって、職について、姉の力になりたい。
そう思っていたけれど…もしかすると、姉は苦労してると同時に、弟を育てる喜びも感じていたのかもしれないとも思えてきた。
そうだったらいいなと思う。
ユーリがヨルの真似をして"愛する"と、は必ず応えてくれた。どんどん変化していく。きっとこれを成長というのだろう。よい事だ。
だから、姉は、「お兄ちゃんになれるようになったんですね。大きくなりましたね」と言って、嬉しくて涙ぐんだのだろう。
──私がユーリにしたように。ユーリを愛したように…
姉の言葉が頭の中でリフレインされる。
すると、脳内が幸福に満ち溢れて、思わず笑みが溢れて止まらなくなる。
急ににこにこと笑みを称え出したユーリに接しられ、は驚き、困惑で身じろぎしていた。
「よくできてるよ」
労力を注げば注ぐだけ応えてくれる、教え甲斐のある生徒…妹を褒めると、
ちょっとだけ驚いてから、すぐに嬉しそうに薄く笑った。
いつも姉が浮かべているような、花咲くようなあの笑み。
いつかも、あんな風に心から笑う日が来るのだろうかとふと思う。見てみたい、とも思う。
ささやかに笑えるようにしたのがユーリならば、花のような笑顔するのもユーリの役目で勤め、責任で義務だろう。
いつしか、ヨルの真似をする事は義務ではなく、ユーリ自身の意思になり、自然とを愛する事が出来るようになっていた。
その瞬間、どこか歪で一方通行だった三人の関係は、ごく自然に変わる。
情の通った家族になれたのだった。
──そして、その愛は、変化していく事になる。ヨルが願ったものとも、ユーリが予定していたものとも、が夢みていたものとも違う形へと。
1.愛情─愛
──散髪に失敗した。
その悲惨な現実に気が付いたヨルは、持っていたハサミを床に落とし、青ざめ震え涙ぐんだ。
それに対して、髪をバッサリと切り落とされた当人…はと言えば、それとは対照的な反応を見せる。
特に動じず、「さっぱりしました」と笑っていたほどだった。
毛先を揃えるだけの予定が、片側だけ大幅にカットしてしまったのだ。
この頃、はよく笑うようになった。満面の笑みには程遠いが、それでも薄く柔らかに笑うようになったのだ。これは進歩だった。
いつもならその笑顔を見れば、つられて笑いだすヨルも、今ばかりは涙を流す他なかった。
ユーリはと言えば、うっかりな姉さんも可愛い!!としか思えず、その切り口が失敗かどうかの判断もつかなかった。この不揃いさが流行の流行だと言われれば納得しただろうし、とにかく成功か失敗かなどどうでもよかった。
姉の手が生み出した芸術品の一つだと思えば、魅力的に見えてくるくらいだ。
「美容室に、いきましょう。今すぐにです……」
まるで戦を前にした武人のように凛々しく、重々しく、ヨルは宣言した。
言うが早く、テキパキと自分の身支度を済ませると、弟妹の出かける支度を手伝い、素早く町へと出かけた。
今日は珍しくヨルの仕事が休みで、ついでにユーリの学校も休み。三人揃って一日くつろげる貴重な日だった。
せっかくの休日がの髪の毛のケアに費やされるのは予想外の展開だった。
けれど、ユーリは姉のためなら火の中水の中、地獄にいようが天国のように感じられる、そんな才能をもっていた。
その理由がなんであれ、姉が隣にいるならば、出かける事も厭わない。
「…はあ。最初からこうしていればよかったんですね…私ったら本当に不器用で…」
「昔はボクの髪も切ってくれてたよね。すごく個性的で、ボクは好きだったよ。姉さんは美容師にだってなれるよ!」
「…ユーリは本当に優しい子ですねえ……」
どこか遠い目をしながらヨルはまた涙ぐむ。ユーリが個性的と称した髪型がどんなものだ
ったかは、言わなくても想像に難くない。
子供の散髪に親が付きそうなんていう事はよくある事で、ユーリとヨルはの髪がプロに切られる間、待合室で座って待っていた。
ガラスの向こうに店内が見えるようになっていて、ユーリは色んな人たちの髪が整えられる様を遠くから見ていた。
髪を手入れし、美しく保つという行いは、花を手入れする行為とも似ていると思った。
店内にいる最年少は、ブライア家に迎え入れた拾い子である。長かった黒髪は、今は肩まで揃えられている所だった。
「お兄ちゃんになって、仲良くしてあげてくださいね」
大好きな姉は、あの日そう言った。
姉と弟二人、手を取り支え合い生きてきた。
そこに急に知らぬ子供が現れて、己の妹だと認識する事は難しい。
けれど、ユーリは姉の言う事にわざわざ逆らう気はない。逆らいたいとも思わない。
姉の可愛い笑顔を見れたら天にも昇る。お願いされたら、なんでも叶えてあげたい。
姉が喜ぶ事ならば、なんだってやる。
けれど、今回の"お願い"は少し難しかった。
"妹"となったに勉強を教えてやったり、寝食の世話を焼いたり、自分なりに年上らしい振舞いをしてきたと思う。
だけど、本当の所、それが正しいのかどうか自信がなかった。姉の求める関係性を築けているのだろうか。
「…姉さん」
「はい?」
「姉さんは、ボクの姉さんになるために、…、」
どうやって努力したの?と聞こうとして、止めた。
努力などしたはずもない。姉は生まれたときから姉だったのだ。
血縁というだけで情もわくし、生まれた時から一緒にいるのだ、過ごす時間の多さが親しみにも変わる。
ユーリの疑問は、"本当の姉"であるヨルに聞いても解決はしないかもしれない。
そもそも、出来ない事や知らない事がある。そして、姉に助言を求める。それは未熟さを晒すかのようで、少し恥ずかしい事だった。
けれど、彼の姉はそれだけで失望する程狭量ではないという事を、彼は知っていた。
なので、羞恥を抑えながらも、素直に知らない事を尋ねる。
「…どうやったらあの子の兄らしくなれるのか、わからなくて」
どうやって姉が姉になったのか、という問いかけをするのではなく、今現在ユーリが抱えてる問題そのものを露呈した。
すると、姉は目を眇める。まるで眩しいものを見るかのように。
姉は頭ごなしに物事を否定も批判もない。柔らかい精神性を心に宿していた。
こうして受け止めてもらえるだろう事を予想していながら、助言をこうのが恥ずかしいと思ったことすら恥ずかしくなる。
「それはね」
「それは?」
「愛ですよ、ユーリ!」
ぐっと握りこぶしを作りながら明るく断言されて、少し身を引いた。
ヨルは勢いに押されてるユーリの様子には気が付かず、熱弁する。
「愛情をもって接してあげるんですよ。…私が姉として、大切な弟に…ユーリにしてあげた事をね、今度はあなたがすればいいんです」
「あ、愛……姉さんの愛……」
聞くだけで体が歓喜でぶるりと震えた。麻薬にでも体内を犯されたかのように、ぼうっとしてくる。恍惚とせざるを得ない。
彼は、姉から愛されていた。宝物のように接しられてきた。
今度はそれを、あの女の子にしてあげなさいと姉は言う。
愛されている事はハッキリと自覚していた。けれど、こうして姉に口にされると、改めて多幸感が溢れて震えてくる。
──そんな事ならば、お安い御用だと思った。
姉自身が、弟に向けた愛を、今度は妹であるあの子に直接注ぐというなら焼いたかもしれない。嫉妬で気が狂った事だろう。
けれど、姉は忙しく、この頃はユーリにすら構う時間も少ない。
その代わり、ユーリがあの子を愛するのだ。
姉の愛さえ奪われないのであれば、なんの異論もない。そればかりか、そうする事で姉が喜んだり、楽しんだりしてくれるならば、ユーリにとってもその行いは嬉しいし楽しいものに変わるはずだ。
最初は渋々、"姉が言うから"兄の様に振舞った。
そのうち、必死にユーリに教えられた知識を飲み下そうと机に噛り付く姿に親しみを覚えた。
しばらくして、深く同情もした。彼には姉がいたけれど、もしもこの子と同じように天涯孤独となっていたなら…。想像するだけで気分が悪くなってくる。
この世はクソ食らえだと、自暴自棄になり、破滅していたかもしれない。
独りでいるのは、どれだけ寂しかっただろう。
自分であれば、姉のいない世界で生きるのは耐えられないだろう。
──大人に嬲られる毎日は、どれだけ怖かっただろう。
初めてブライア家にやってきたあの日の夜、ベッドの上で二人が交わした会話は、寝たふりをしたユーリの耳にも届いていた。狭い部屋だ。隠し立てできる構造にはなってないし、そもそもあの晩は、最初から聞き耳を立てる気で寝たふり気づかぬふりをしていたのだ。
子供とは言え、見知らぬ他人を大切な姉の傍に放置してはおけない。無害かどうか、見定めるつもりでいた。
「ほら、見てくださいユーリ、のあの顔を」
ユーリの肩に手をトンとおいて、の方を指さした。
そこには散髪終わりのと、美容師の年嵩の女性の姿があった。
女性は身振り手振りを使って、小さな子向けの仕草で何かを説明している様子だった。
は栄養失調が長く続いたせいか、元々の遺伝的なものなのか、年齢にしては華奢な方だったので、7歳より下に見られてるのかもしれない。
実際は下どころか、成人にも勝るような言論をするので、そんな事をする必要はないのに、と遠くで思った。
そうしてるうちに、はこくりと頷いて、──嬉しそうに笑った。
「あの髪型が気に入ったんですね。あ、ほら、店員さんに撫でられて笑ってます。かわいいです」
「…かわいい…」
あれを可愛いというのかよくわからないけれど、微笑ましいとは思う。
大人が子供をかわいがる平和なやり取りは、牧歌的で心休まる光景だなと思う。まあ、でもこの穏やかな気持ちを、可愛いと言い変えても差し障りはない。
「かわいいね」
「そうでしょう!かわいいです、あの子はかわいいんです!」
姉が何度も何度も褒めたたえるので、少し面白くなくなってきた。
こんなことになるなら可愛いなんて言わなければよかったかもしれない、と子供じみた思いが巡ったところで。
「を可愛くしたのはユーリなんですよ?」
「…は?」
不意を突かれて、変な声が出た。姉は、可愛いと連呼していた時と同じくらいとろけらそうな顔をしながらユーリを見ていた。
ユーリの事も同じうに可愛いと思いながら見ているのだろう。そう思うとくすぐったい。
「が家に来てから笑うようになったのは、ユーリのおかげでしょう?」
「いや、それは…」
姉のおかげであるはずだ。姉の優しさに触れて、安全な屋根の下で休息し、
あの子供は安らぐことができたのだろう。すべてはヨル・ブライアという女神のような存在からの包容があってこそ。
それは間違いではない。けれど、ヨルは否定も肯定もせず笑って言う。
「初めてあの子笑顔をみたのは誰ですか」
「…あ…」
「あの子を一番に笑わせたのは、ユーリですね?お姉ちゃん悔しいです」
悔しいと口で言いながらも、思っているのはきっと真反対。
弟と妹が仲良くやってるのが"かわいい"のだろう。心から。愛しくてたまらないのだろう。
──愛されてる。自分はこんなにも、姉に愛されている。つま先からてっぺんまで痺れるほどに満たされる。高揚する。
女性に手を引かれて、が待合室へとやってきた。
「…似合って、ますか?変じゃありませんか」
椅子に座るヨルとユーリの前にやってきて、おずおずと控えめ、けれど嬉しそうにはにかみながら尋ねた。
だから、ユーリは答えた。一番にこう答えるべきだと思った。
の笑顔が生まれたのは、元をたどればヨルのおかげだ。けれど、間違いなくユーリのおかげでもある。
自分の努力が実を結ぶ瞬間に感じる満足は心地いい。自分の育てた花が開く瞬間は、とても愛しく──…
「──変じゃない。かわいいよ」
これが、答えるべき本心だった。
は今まで見た中で一番大きく表情を動かし、…端的に言えば驚愕の表情を示していた。
ユーリが可愛いと発言したことに大層驚いたようだ。
「ええ、とってもかわいいですよ、もユーリも!」
ヨルは満足げに断言し、ユーリは嬉しそうに笑い、はどうしたらいいのかよくわからないといった様子でたじろいでいた。
どうやら子供好きらしい女性は、その平和なやり取りを大変穏やかな表情で見守っていた。
「──という訳で、ここの文法はこう締めくくられる。古語であれば、逆になる」
「ややこしい…」
「言語なんて単純じゃない、ややこしいものだろう。だからこそ学び甲斐があるんだよ」
「…そうかな。頭痛くなるけど」
額を片手で抑えたは、教科書を睨みつけ、その仕草で髪が肩口に落ちた。
長かったの髪は、肩のあたりで揃えられた。
あの日からしばらく経ち、そのシルエットも見慣れてきた。
姉が自分に対してしたことを想起しながら、"妹"の世話をした。
朝になれば起こし、姉が疲れてるときには彼が食事の支度をしてやり、甲斐甲斐しく尽くした。
最初は痩せこけていた体は徐々に健康的になり、今では自然と笑えるようになっていった。冗談すら言うこともある。
──これが育てる喜びか、と彼は初めて知る。
迷惑をかけてばかりで、弟である自分は何も恩返しできない。何も貢献できていない。
早く勉強して、大人になって、職について、姉の力になりたい。
そう思っていたけれど…もしかすると、姉は苦労してると同時に、弟を育てる喜びも感じていたのかもしれないとも思えてきた。
そうだったらいいなと思う。
ユーリがヨルの真似をして"愛する"と、は必ず応えてくれた。どんどん変化していく。きっとこれを成長というのだろう。よい事だ。
だから、姉は、「お兄ちゃんになれるようになったんですね。大きくなりましたね」と言って、嬉しくて涙ぐんだのだろう。
──私がユーリにしたように。ユーリを愛したように…
姉の言葉が頭の中でリフレインされる。
すると、脳内が幸福に満ち溢れて、思わず笑みが溢れて止まらなくなる。
急ににこにこと笑みを称え出したユーリに接しられ、は驚き、困惑で身じろぎしていた。
「よくできてるよ」
労力を注げば注ぐだけ応えてくれる、教え甲斐のある生徒…妹を褒めると、
ちょっとだけ驚いてから、すぐに嬉しそうに薄く笑った。
いつも姉が浮かべているような、花咲くようなあの笑み。
いつかも、あんな風に心から笑う日が来るのだろうかとふと思う。見てみたい、とも思う。
ささやかに笑えるようにしたのがユーリならば、花のような笑顔するのもユーリの役目で勤め、責任で義務だろう。
いつしか、ヨルの真似をする事は義務ではなく、ユーリ自身の意思になり、自然とを愛する事が出来るようになっていた。
その瞬間、どこか歪で一方通行だった三人の関係は、ごく自然に変わる。
情の通った家族になれたのだった。
──そして、その愛は、変化していく事になる。ヨルが願ったものとも、ユーリが予定していたものとも、が夢みていたものとも違う形へと。