第七話
1.出会い─花と芽生え
──遠慮が生まれたのが後だろうか、先だろうか。答えはとうに出ていた。
鶏が先か卵が先かという話ほど、難しくはない。
間違いなく、突き放したのは、ユーリの方が先だった。その結果、あの"少女"の遠慮が生まれたのだと言われても否定できなかった。
「当然だと思うな」と突き放したあの日の自分の行いを、ユーリはずっと覚えていた。
姉、ヨル・ブライアは、兄として振舞えるのは、大人になったからだと言って喜んだ。
常々大人になりたいと思い続けてきたユーリも、そう言ってもらえた事が嬉しかった。
だから、年上として、あの子を保護して育てる事は、満更でもなかったのである。
"お兄ちゃんらしく"振舞う度に、身長が伸びたような、自分が大きくなったような気がしてくる。
それは知識を吸収する時の感覚と似通っていた。
──この子を育てる事は、きっと将来姉さんを支える事に繋がる。力になるはずだ。無駄にはならない。
そういった打算で親切にしていたのも認める。
が、「ユーリさん」などと他人行儀に呼び、いつでも顔色を窺われ、部屋の隅っこの方で過ごされて。
そんな姿をみて、何も思わぬ程鬼畜ではないし、ユーリには赤い血が通っていた。
──つまる所、出会った当時、キツく当たった負い目を感じていたのだ。
あの子の性格は、環境や本人の気質のせいでもあるのだろうが、ユーリの態度が一端であることも間違いないだろう。
ごめん、と謝るのも何か違う。
間違った事を言ったつもりはない。ヨルは間違いなくユーリだけの姉だったし、奪われる筋合いはないと思う。
けれど、少しだけ、あんな風に言った事への罪悪感が芽生え始めた。良心がチクチクと痛む音がしていた。
同情心に近いものでもあっただろう。
出会ったときに優しく出来なかったなら、今からすればいい。何を始めるにも、遅いことはないのだ。
と言っても、何をすればいいのか、ユーリには思いつかなかったから、今の自分に出来る事を着実にこなそうと決めた。
「よし、今日はここまでやろう」
「……はい」
ドサッと鈍い音がする程、その本の山は重たかった。
木製の机がギシリと軋む音がした。
の変わらない無表情が、少しだけ歪む。それはユーリの見間違いではなかった。
死にかけている表情筋が動かざるを得なくなるほど、膨大だったという話だ。
そんな反応をされるだろうと、ユーリは予想していた。
図書館で勉強していた時のこと。あるいは公園の木陰で読書していた時の事。
学校の休み時間。どこでもいい。
ユーリの姿を見たものは、大体同じ表情をして、大体同じことを言う。
「そんなに勉強してどうするの?」
「何がしたいの?偉くなりたいの?」
「そんなに難しい本毎日読んで、変態なの?」
「勉強を教えてほしいけど、ついてける自信がない」
これが、勉強に励むユーリの姿を見た同世代の感想である。
大人は勉強に励むユーリに総じて肯定的だったけれど、たまに、子供は風の子遊んで育つもの、という方針の主婦からは苦笑いされる事もあった。
何がしたいかなんて決まりきってる。どうなりたいか、ユーリには明確なビジョンがあった。
「姉さんのためだよ。姉さんの力になりたいんだ」
その気持ちは、今より幼い頃から、ずっと変わらなかった。
両親がいなくなってから、姉は仕事を始めた。どんな仕事をしているのかは教えてもらった事はない。それも、ユーリがまだ"子供"だからだろう。
毎日傷だらけになって帰ってくる姉の姿が痛々しく、泣いて縋りついたこともある。
「ボクのためにそんなに頑張らないで」、と言えば、「大人は子供のために頑張るのが仕事なのです」と言って、心配すらさせてもらえない。
自分の無力さが歯がゆかった。
だから、周囲に引かれるほどに勉強した。周りの目なんて気にならなかった。
ガリ勉くん、と言っていじめられる事がなかったのは、ユーリの優れた容姿と、決して内気ではないコミュニケーション力のお陰だろう。
"姉さん"が話題になりさえしなければ、基本的にはまともな受け答えが出来る常識的な人間だった。
──だから、予想してなかった。ユーリの勉強にかける熱意に追いついてくるなんて、思ってもなかった。
さすがに弱音を吐いて投げ出すのだろうと高をくくっていたのだ。
そして渋々、兄らしく、やれやれと未熟な年下にレベルを合わせてやるしかないのだろうと。
が、予想に反して、は必至に食らいつき、貪欲に知識を吸収していった。それはもう、惜しみなく絶え間なく、どばどばと与えるのが快感になるくらい、面白いほど。
最初とは打って変わって、シンプルに楽しく教えるようになった、そんな矢先の事だった。はおずおずと、ユーリに対して遠慮がちに問いかけた。
「今は長期休み中…って言ってましたけど」
「うん?」
「その…遊びに行ったりしたくないですか。私に付き合って、つまらないとか」
申し訳なさそうな顔をして、真っ当な言い分で気遣われた。当然の疑問だと思う。
ユーリだって、世間一般の子供の相場というべきか、どう過ごすのが当たり前かは知っていたのだ。
同級生がこの休みをどう過ごすのか。休み明けを待つまでもなく、結果は想像がつく。
ユーリも、両親が亡くなるまでは同じようにただ楽しく過ごしていたのだから。
公園で姉や友達と遊び、嫌がる姉を付き合わせて虫取りしたり。家族揃って遠出をした事もある。
あの頃は楽しかったな、とふと感慨に耽る。
それはユーリが今よりもっともっと小さな頃の記憶で、記憶は擦り切れ、繰り返し思い出す度に、着実に色褪せてきている。
過去が風化していくのは、とても悲しい事だ。けれど、姉と二人暮らせる今が、決して不幸なのではない。
間違いなくユーリは幸せだったし、こうしての面倒を見る事もまた、不幸ではなかった。
「自分の勉強もしてるし、別に問題ない」
「…付き合わせてますよね?本当は外に遊びに行きたかったりしませんか」
もっともな疑問だと思った。両親が健在の頃であれば、そうだったかもしれない。
家でじっとなどしてられなかった事だろう。
そう思うと、やはりこうしてユーリが年下の面倒を苦もなく見れるのは、後天的なもので、先天的な性格ではない。
苦労は挫折は人を強く成長させるものである。悪い事ばかりではない。良いことでもないだろうけれど。
「もともと休みの間は家で勉強をしようと思ってたよ。少しでも多く、早く、知識を身につけたいから」
「…学校で成績一番になりたいとか、目標があるんですか?」
「そういう事じゃなくて…いや、一番になってもいいけど」
テストで毎回100点を取り、学校で成績一番の優等生になれば、毎日の努力が数字になり結果として現れ、満足する事だろう。
確実に将来のためになる。けれど、満足のために努力してるのではない。
将来のため、というのも若干違う。
少し考えてから、正しくはこうだろうなと、答えた。
「将来、姉さんの力になれる大人になりたいから」
それを聞くと、は得心がいったように頷いた。姉を一番に考えているのはとっくに知れている事だ。理解は早かった。
「弁が立てばジャーナや弁護士になって姉さんのいる世界をより良くできる。
化学や生物を頑張れば、姉さんのケガや病気を治せる。数学や物理を頑張る。それは姉さんの生活の安全や快適さ全てに繋がる。無駄なものは一つたりともないはずだから」
なりたいと思う具体的な職業はない。今言った中のどれでもいい。でも、より姉さんのためになる物が好ましい。
──17歳。それは女の子が花咲き輝く、青い春のような年頃なのだと教えられた事がある。
公園の椅子に腰かけた老夫婦が、まるで秘密を打ち明けるように語ってくれたのだ。
姉が働き始めてすぐの頃だったと思う。
夕暮れ時、姉のいない静かな家に帰りたくなくて、俯き座り込んでいたユーリを心配してくれた、優しい人たちだった。
寂しい家庭の事情など明かさなかったけれど、「ご家族はどうしたの?」と親切心で聞かれてしまえば、「優しくて綺麗な姉さんがいるんだ!」と自慢するように語る他なかった。
訳あり気に消沈していたユーリの姿を見て、姉と喧嘩して家出してきた少年だろうと解釈したらしい老夫婦。
ユーリは彼女達に、諭すように言われたのだ。
「お姉さんは、きっと今、一番華やかな年ごろなんだろうね。眩しくて、いやになる時もあるだろう」
「女が一番美しくなるときですよ」
旦那が語ると、妻が頷いた。ユーリは姉を嫌に思った事などない。否定しようとしたところで、こう付け足された。
「17歳を超えると、次に凛とするの。その次には艶やかになる。あなたのお姉さんは、未来でどんどん魅力的になって、花のような人生を送るのですよ」
だから、その花が眩しすぎたからと言って、水をやるのを怠りなさるなと。
多少のトゲがあなたを突き刺しても、可愛いものだと許してやりなさい。
にこ。にこ。老夫婦がユーリのためを思って、善意で語った言葉たちは、ユーリの心を悲しく締め付けさせた。
姉は、トゲのない美しい花だった。老夫婦の言った事は的外れではあったけれど、間違いではない。
17歳の瑞々しい姉は、今10歳のユーリのために休みなく働いている。
18歳の姉も、きっと11歳のユーリのために働いてる事だろう。
20歳の凛とした姉も、13歳のユーリのために。25歳の艶やかな姉も、18歳のユーリのために。
一秒ごとに色を変え美しくなっていく、花のような姉の人生が、ユーリのために消費されていく。
分かっていたはずの事実が、より鮮明に突き付けられた瞬間だった。
「…ありがとう、ございました」
「いいえ、お礼を言われるほどのことはしてないわ」
「お姉さんにあまり心配かけるなよ」
ユーリは心から礼を言って、家へと駆け出した。
そして、帰るや否や、机にかじりつき、それまで以上に猛勉強を始めた。
姉がどれほど尽くしてくれているのか、より現実的に認識できるようになったのは、あの言葉のおかげだ。
小さなユーリには残酷で、悲しくなる話でもあった。けれどとても感謝している。
ユーリがこうして頑張っているのは、姉の人生を切り売りさせてしまっている、その罪悪感や責任感、償いの意識だけが理由ではない。間違いなくユーリの意思である。心から姉を敬愛してる。もし、両親が亡くならず、平穏にすごしていても。
あの柔らかな性格をした姉のことを、今と同じ温度で愛していたはずだ。
ぼんやりと思い出に耽りながら、ユーリはに自分の将来についてを語った。
「…私も、がんばります。がんばって覚えます」
「ああ、知識は盾にも武器にもなる。持ってて損はないはずだろう」
「自分のため、というか…それもあるけど」
の性格を考えれば、こういう前向きで熱心な返事が返ってくるのは予想できていたのので、何気なく頷いた。
けれど、こういう切り返しをされるのは少し予想外だった。
「私、いつまで居候させてもらえるかわからないけど…5年、10年、何年経っても、いつかヨルさんのためになりたい。こんな風に、誰かの力になりたいって強く思ったのは、初めてかもしれない…です。ありがとう」
「…ありがとう?」
「恩返しするための方法を…選択肢をくれて、…ありがとうございます、ユーリさん」
ぺこりと頭を下げられて、面食らったユーリは呆けてしまった。
本の虫の変態扱いされた事はあれど、勤勉だねと褒められた事はあれど。
理解者が現れたのは初めての事だった。だからとてもとても驚いた。それに。
──一人の人間に、心からの感謝を捧げられたのは、これが初めてだったから。
なんとも言えない気持ちになって、暫く言葉に詰まった。
名前の口から出たこのありがとう、の一言。それにどれだけの重みがあるのかは、ユーリにも察せる。
自分何気ない行動が、こんなにも誰かに影響を与えていたなんて。
誰かに、姉に、いつも助けられてばかりいた自分が、誰かの力になれた。
美しい花にあげる十分な水も持たず、色を奪うばかりだと思っていた無力だったはずの自分自身が、今。
「大人になりましたね」と涙ぐんだ、あの日の姉の姿が脳裏によぎった。
確かに、ユーリは大人になったのかもしれないと、実感が伴ってきた。
人のためになったという優越感や満足感、無力な自分が成長したという達成感。
今胸にある感情は、そのどれも当てはまる。
けれど、ただそれだけだとは思いたくないものだ。
ユーリの表情は、ふわりと緩んでいた。その笑顔は姉に似て柔らかい。
「うん、それはいい心がけだと思うぞ」
「…ありがとうございます」
ユーリは、という少女と隣合って勉強する時間が、好きになっていた。
彼女の献身も努力もひたむきさも、前進しようと足掻く強い瞳も、好ましいと思ってた。
その生き方は、自分の生き方にも通じる所がある。
同族嫌悪、という言葉もあるけど、同族だからこそ通う心もまた存在する。
二人が歩み寄るための最初の一歩は、ここだった。
──力になりたい、と思いながら生きてきた。姉のためになりたい。
目の前の事はどうでもいい。未来の自分のため、姉さんの笑顔のため。
それ以外の事を気にする余裕はないけれど。
その力が、この子のためにもなったならいいという思いが、淡く、淡く芽生えた。
1.出会い─花と芽生え
──遠慮が生まれたのが後だろうか、先だろうか。答えはとうに出ていた。
鶏が先か卵が先かという話ほど、難しくはない。
間違いなく、突き放したのは、ユーリの方が先だった。その結果、あの"少女"の遠慮が生まれたのだと言われても否定できなかった。
「当然だと思うな」と突き放したあの日の自分の行いを、ユーリはずっと覚えていた。
姉、ヨル・ブライアは、兄として振舞えるのは、大人になったからだと言って喜んだ。
常々大人になりたいと思い続けてきたユーリも、そう言ってもらえた事が嬉しかった。
だから、年上として、あの子を保護して育てる事は、満更でもなかったのである。
"お兄ちゃんらしく"振舞う度に、身長が伸びたような、自分が大きくなったような気がしてくる。
それは知識を吸収する時の感覚と似通っていた。
──この子を育てる事は、きっと将来姉さんを支える事に繋がる。力になるはずだ。無駄にはならない。
そういった打算で親切にしていたのも認める。
が、「ユーリさん」などと他人行儀に呼び、いつでも顔色を窺われ、部屋の隅っこの方で過ごされて。
そんな姿をみて、何も思わぬ程鬼畜ではないし、ユーリには赤い血が通っていた。
──つまる所、出会った当時、キツく当たった負い目を感じていたのだ。
あの子の性格は、環境や本人の気質のせいでもあるのだろうが、ユーリの態度が一端であることも間違いないだろう。
ごめん、と謝るのも何か違う。
間違った事を言ったつもりはない。ヨルは間違いなくユーリだけの姉だったし、奪われる筋合いはないと思う。
けれど、少しだけ、あんな風に言った事への罪悪感が芽生え始めた。良心がチクチクと痛む音がしていた。
同情心に近いものでもあっただろう。
出会ったときに優しく出来なかったなら、今からすればいい。何を始めるにも、遅いことはないのだ。
と言っても、何をすればいいのか、ユーリには思いつかなかったから、今の自分に出来る事を着実にこなそうと決めた。
「よし、今日はここまでやろう」
「……はい」
ドサッと鈍い音がする程、その本の山は重たかった。
木製の机がギシリと軋む音がした。
の変わらない無表情が、少しだけ歪む。それはユーリの見間違いではなかった。
死にかけている表情筋が動かざるを得なくなるほど、膨大だったという話だ。
そんな反応をされるだろうと、ユーリは予想していた。
図書館で勉強していた時のこと。あるいは公園の木陰で読書していた時の事。
学校の休み時間。どこでもいい。
ユーリの姿を見たものは、大体同じ表情をして、大体同じことを言う。
「そんなに勉強してどうするの?」
「何がしたいの?偉くなりたいの?」
「そんなに難しい本毎日読んで、変態なの?」
「勉強を教えてほしいけど、ついてける自信がない」
これが、勉強に励むユーリの姿を見た同世代の感想である。
大人は勉強に励むユーリに総じて肯定的だったけれど、たまに、子供は風の子遊んで育つもの、という方針の主婦からは苦笑いされる事もあった。
何がしたいかなんて決まりきってる。どうなりたいか、ユーリには明確なビジョンがあった。
「姉さんのためだよ。姉さんの力になりたいんだ」
その気持ちは、今より幼い頃から、ずっと変わらなかった。
両親がいなくなってから、姉は仕事を始めた。どんな仕事をしているのかは教えてもらった事はない。それも、ユーリがまだ"子供"だからだろう。
毎日傷だらけになって帰ってくる姉の姿が痛々しく、泣いて縋りついたこともある。
「ボクのためにそんなに頑張らないで」、と言えば、「大人は子供のために頑張るのが仕事なのです」と言って、心配すらさせてもらえない。
自分の無力さが歯がゆかった。
だから、周囲に引かれるほどに勉強した。周りの目なんて気にならなかった。
ガリ勉くん、と言っていじめられる事がなかったのは、ユーリの優れた容姿と、決して内気ではないコミュニケーション力のお陰だろう。
"姉さん"が話題になりさえしなければ、基本的にはまともな受け答えが出来る常識的な人間だった。
──だから、予想してなかった。ユーリの勉強にかける熱意に追いついてくるなんて、思ってもなかった。
さすがに弱音を吐いて投げ出すのだろうと高をくくっていたのだ。
そして渋々、兄らしく、やれやれと未熟な年下にレベルを合わせてやるしかないのだろうと。
が、予想に反して、は必至に食らいつき、貪欲に知識を吸収していった。それはもう、惜しみなく絶え間なく、どばどばと与えるのが快感になるくらい、面白いほど。
最初とは打って変わって、シンプルに楽しく教えるようになった、そんな矢先の事だった。はおずおずと、ユーリに対して遠慮がちに問いかけた。
「今は長期休み中…って言ってましたけど」
「うん?」
「その…遊びに行ったりしたくないですか。私に付き合って、つまらないとか」
申し訳なさそうな顔をして、真っ当な言い分で気遣われた。当然の疑問だと思う。
ユーリだって、世間一般の子供の相場というべきか、どう過ごすのが当たり前かは知っていたのだ。
同級生がこの休みをどう過ごすのか。休み明けを待つまでもなく、結果は想像がつく。
ユーリも、両親が亡くなるまでは同じようにただ楽しく過ごしていたのだから。
公園で姉や友達と遊び、嫌がる姉を付き合わせて虫取りしたり。家族揃って遠出をした事もある。
あの頃は楽しかったな、とふと感慨に耽る。
それはユーリが今よりもっともっと小さな頃の記憶で、記憶は擦り切れ、繰り返し思い出す度に、着実に色褪せてきている。
過去が風化していくのは、とても悲しい事だ。けれど、姉と二人暮らせる今が、決して不幸なのではない。
間違いなくユーリは幸せだったし、こうしての面倒を見る事もまた、不幸ではなかった。
「自分の勉強もしてるし、別に問題ない」
「…付き合わせてますよね?本当は外に遊びに行きたかったりしませんか」
もっともな疑問だと思った。両親が健在の頃であれば、そうだったかもしれない。
家でじっとなどしてられなかった事だろう。
そう思うと、やはりこうしてユーリが年下の面倒を苦もなく見れるのは、後天的なもので、先天的な性格ではない。
苦労は挫折は人を強く成長させるものである。悪い事ばかりではない。良いことでもないだろうけれど。
「もともと休みの間は家で勉強をしようと思ってたよ。少しでも多く、早く、知識を身につけたいから」
「…学校で成績一番になりたいとか、目標があるんですか?」
「そういう事じゃなくて…いや、一番になってもいいけど」
テストで毎回100点を取り、学校で成績一番の優等生になれば、毎日の努力が数字になり結果として現れ、満足する事だろう。
確実に将来のためになる。けれど、満足のために努力してるのではない。
将来のため、というのも若干違う。
少し考えてから、正しくはこうだろうなと、答えた。
「将来、姉さんの力になれる大人になりたいから」
それを聞くと、は得心がいったように頷いた。姉を一番に考えているのはとっくに知れている事だ。理解は早かった。
「弁が立てばジャーナや弁護士になって姉さんのいる世界をより良くできる。
化学や生物を頑張れば、姉さんのケガや病気を治せる。数学や物理を頑張る。それは姉さんの生活の安全や快適さ全てに繋がる。無駄なものは一つたりともないはずだから」
なりたいと思う具体的な職業はない。今言った中のどれでもいい。でも、より姉さんのためになる物が好ましい。
──17歳。それは女の子が花咲き輝く、青い春のような年頃なのだと教えられた事がある。
公園の椅子に腰かけた老夫婦が、まるで秘密を打ち明けるように語ってくれたのだ。
姉が働き始めてすぐの頃だったと思う。
夕暮れ時、姉のいない静かな家に帰りたくなくて、俯き座り込んでいたユーリを心配してくれた、優しい人たちだった。
寂しい家庭の事情など明かさなかったけれど、「ご家族はどうしたの?」と親切心で聞かれてしまえば、「優しくて綺麗な姉さんがいるんだ!」と自慢するように語る他なかった。
訳あり気に消沈していたユーリの姿を見て、姉と喧嘩して家出してきた少年だろうと解釈したらしい老夫婦。
ユーリは彼女達に、諭すように言われたのだ。
「お姉さんは、きっと今、一番華やかな年ごろなんだろうね。眩しくて、いやになる時もあるだろう」
「女が一番美しくなるときですよ」
旦那が語ると、妻が頷いた。ユーリは姉を嫌に思った事などない。否定しようとしたところで、こう付け足された。
「17歳を超えると、次に凛とするの。その次には艶やかになる。あなたのお姉さんは、未来でどんどん魅力的になって、花のような人生を送るのですよ」
だから、その花が眩しすぎたからと言って、水をやるのを怠りなさるなと。
多少のトゲがあなたを突き刺しても、可愛いものだと許してやりなさい。
にこ。にこ。老夫婦がユーリのためを思って、善意で語った言葉たちは、ユーリの心を悲しく締め付けさせた。
姉は、トゲのない美しい花だった。老夫婦の言った事は的外れではあったけれど、間違いではない。
17歳の瑞々しい姉は、今10歳のユーリのために休みなく働いている。
18歳の姉も、きっと11歳のユーリのために働いてる事だろう。
20歳の凛とした姉も、13歳のユーリのために。25歳の艶やかな姉も、18歳のユーリのために。
一秒ごとに色を変え美しくなっていく、花のような姉の人生が、ユーリのために消費されていく。
分かっていたはずの事実が、より鮮明に突き付けられた瞬間だった。
「…ありがとう、ございました」
「いいえ、お礼を言われるほどのことはしてないわ」
「お姉さんにあまり心配かけるなよ」
ユーリは心から礼を言って、家へと駆け出した。
そして、帰るや否や、机にかじりつき、それまで以上に猛勉強を始めた。
姉がどれほど尽くしてくれているのか、より現実的に認識できるようになったのは、あの言葉のおかげだ。
小さなユーリには残酷で、悲しくなる話でもあった。けれどとても感謝している。
ユーリがこうして頑張っているのは、姉の人生を切り売りさせてしまっている、その罪悪感や責任感、償いの意識だけが理由ではない。間違いなくユーリの意思である。心から姉を敬愛してる。もし、両親が亡くならず、平穏にすごしていても。
あの柔らかな性格をした姉のことを、今と同じ温度で愛していたはずだ。
ぼんやりと思い出に耽りながら、ユーリはに自分の将来についてを語った。
「…私も、がんばります。がんばって覚えます」
「ああ、知識は盾にも武器にもなる。持ってて損はないはずだろう」
「自分のため、というか…それもあるけど」
の性格を考えれば、こういう前向きで熱心な返事が返ってくるのは予想できていたのので、何気なく頷いた。
けれど、こういう切り返しをされるのは少し予想外だった。
「私、いつまで居候させてもらえるかわからないけど…5年、10年、何年経っても、いつかヨルさんのためになりたい。こんな風に、誰かの力になりたいって強く思ったのは、初めてかもしれない…です。ありがとう」
「…ありがとう?」
「恩返しするための方法を…選択肢をくれて、…ありがとうございます、ユーリさん」
ぺこりと頭を下げられて、面食らったユーリは呆けてしまった。
本の虫の変態扱いされた事はあれど、勤勉だねと褒められた事はあれど。
理解者が現れたのは初めての事だった。だからとてもとても驚いた。それに。
──一人の人間に、心からの感謝を捧げられたのは、これが初めてだったから。
なんとも言えない気持ちになって、暫く言葉に詰まった。
名前の口から出たこのありがとう、の一言。それにどれだけの重みがあるのかは、ユーリにも察せる。
自分何気ない行動が、こんなにも誰かに影響を与えていたなんて。
誰かに、姉に、いつも助けられてばかりいた自分が、誰かの力になれた。
美しい花にあげる十分な水も持たず、色を奪うばかりだと思っていた無力だったはずの自分自身が、今。
「大人になりましたね」と涙ぐんだ、あの日の姉の姿が脳裏によぎった。
確かに、ユーリは大人になったのかもしれないと、実感が伴ってきた。
人のためになったという優越感や満足感、無力な自分が成長したという達成感。
今胸にある感情は、そのどれも当てはまる。
けれど、ただそれだけだとは思いたくないものだ。
ユーリの表情は、ふわりと緩んでいた。その笑顔は姉に似て柔らかい。
「うん、それはいい心がけだと思うぞ」
「…ありがとうございます」
ユーリは、という少女と隣合って勉強する時間が、好きになっていた。
彼女の献身も努力もひたむきさも、前進しようと足掻く強い瞳も、好ましいと思ってた。
その生き方は、自分の生き方にも通じる所がある。
同族嫌悪、という言葉もあるけど、同族だからこそ通う心もまた存在する。
二人が歩み寄るための最初の一歩は、ここだった。
──力になりたい、と思いながら生きてきた。姉のためになりたい。
目の前の事はどうでもいい。未来の自分のため、姉さんの笑顔のため。
それ以外の事を気にする余裕はないけれど。
その力が、この子のためにもなったならいいという思いが、淡く、淡く芽生えた。