第六話
1.出会い生まれ直す

ヨルさんとユーリくんの善良さは、最早疑う余地もない。
痩せこけた子供を肥やしてから食べる、なんて事はないだろう。
見放される恐れよりも、その責任感でもって最後まで世話をされる恐ろしさの方が勝ってきたくらいだ。
それが嫌なのではない。自分が善人につけこむ寄生虫になったかのような気がして、苦しいほど申し訳なくなってくるからだ。


ブライア家の一員として手放しに歓待されながらも、自分がよそ者だという線引きも、もらった恩も忘れはしなかった。
日本で暮らしていた頃に気にしていた格差といえば、せいぜいが貧富くらいの物で、階級など気にしたこともなかった。
が、このご時世、孤児として過ごしてみると、格差というものがいかに残酷かを実感する。
例えば、奴隷平民農民といった下々の人間が、武人貴族王族に成り上がるのはいかに大変な事だろう。
それと同じような事で、一度地に落ちると、ただの小市民として安穏に暮らせるように這い上がるのも一苦労だった。
だから私は、シンデレラのように魔法がかけられる幸運を夢見ていたのである。

孤児院にもランクが存在する。文字を積極的に教える清潔な施設もあれば、
提供するのは屋根のみで、食事も粗末で、教育どころか放置される。
そこにプラスして殴る蹴るのサンドバックにすらなる事もある。
ここにも優劣がありすぎた。
優で過ごした子供と劣で過ごした子供の行く末の違いなど、想像に難くない。
親がいるか、経済事情はどうか、病気はしていないか、治安はどうか。
日本で暮らしていた頃でも大なり小なりそういう物だったけれど、これらのどれかが欠けているというのは、この国では死活問題、生きる上では致命傷になり得る。

私の場合は再三言うけれど、何もかもがない、運のない子供であった。最底辺である。
けれど、私は童話の中のお姫様のような幸運を得られた。
そうなると、まるでブライア家の人々は神様のように見えて、身を粉にしてでも尽くすべき人に思えた。
元から、人に奉仕する事に抵抗がない性格をしていると思う。
ヨルさんが言うように、"妹"として過ごさせてもらっているというよりは、ただの居候として…いや、執事やメイドのようになれるよう徹して気を配り暮らした。
お金を稼げるようになるまでは、こんな事しかブライア家に貢献する方法がないと思った。

「ユーリくん、お茶はいかがですか」
「あ?うん、もらうよ」
「はい。…それと、15時に出かけると昨日の夜言ってましたね。上着と鞄用意しておきますから。外は雨ですから、長靴用意しておきますね」


恭しく接すると、机にかじりついて勉強をしていたユーリくんは、なんだか渋い顔をした。
こうして秘書のように予定管理をするか、合間を見てお茶をいれる事くらいしかできない無力さが歯がゆい。
唯一、私の貧相な頭で思いつく限りで出来そうなことといえば、幼児趣味のお金持ちを捕まえて、体を売るくらいが関の山。
けれど、そんな事をさせるために、ヨルさんは私を住まわせたのではないだろうと首を振る。
あの日のヨルさんは罪の意識に苛まれ、苦悩していてた。善行でもって償いたいと言い、善人になりたいと、真っすぐに私を見つめていた。
悪い言い方をすれば、私はヨルさんの罪の意識を払拭するために"使われた"。
けれど、あれはただのきっかけにすぎなかったとも思う。
住まわせるまではいなくても、きっと文句ない環境の整った施設や里親を見つけて、私を助けてくれたに違いない。
そう確信できるほど、心根の優しい女神のような女性で出会えたという事が、今でも信じられない。夢のようで、実感がわかなかった。


「……今日の分の課題は?」
「昼前に済ませました。午後は予習と復習の時間にあてます」

テーブルにカップを並べる私を見やりながら、ユーリくんはどこか難しい顔で口を開いた。

「どうしました」
「その言葉遣い、なんとかならないのか」
「言葉遣い、ですか。…変でしたか?ごめんなさい、教養がないもので」

卑屈な言い方をしてしまったけれど、言い変える事はできない事実である。
私が今喋ってるのは日本語ではない。
前世を思い出したのが3歳の頃だったから、簡単な東国語は、知らぬうちにこの身に沁みついていた。
さすがにカタコトになってはなっていないだろうけど、文法があっている自身はない。
教科書を見て覚えたわけじゃないし、そもそも言葉というのは環境に左右されるものだ。
だとすると、最下層で育まれた私の言葉遣いというのは、荒っぽくて品がない物であってもおかしくない。
ラジオやテレビすらなかったこの6年、なんとも歯がゆいものである。


「逆だよ。教養がないどころか、胸焼けするくらい丁寧すぎる言葉遣いだ」
「……それは、変…なのでしょうか?」
「変じゃないけど、堅苦しすぎるっていう話だよ」


自分の言葉が堅苦しくなっているとは思いもしなかった。
敬語を堅苦しいというなら、ヨルさんはどうなるというだろう。
彼女は、弟相手にすら敬語交じりに丁寧に話す女性だ。そういう性格なのだろう。
実際、喋り方の参考にしたのは、ヨルさんだ。お手本にするには悪くない相手だったと思う。
ユーリくんは、身内に敬語で話される事に抵抗がある訳ではない、とすると、私は何かバカ丁寧と言われるほどに間違えている事があるのだろう。
対面する形になるよう、向かいの椅子に腰かけながら、その素朴な疑問をユーリくんに対してぶつけてみた。


「でも、ヨルさんも丁寧にお話しますよね」
「姉さんの言葉遣いは丁寧で完璧だ!当たり前だ!変なはずない」
「はい、もちろん」

丁寧で完璧。そこに異論はないし、そういう反応をされるだろうと予想はしていた。
でも、とユーリくんが付け加える。ここからが本題だ。

「お前は畏まりすぎだろう」
「…畏まる…?…けど…私は居候ですし」
「はあ?」

何をいまさら、とでも言いたげにユーリくんは眉を寄せた。
丁寧、畏まる、と言った言葉が何を指しているのかピンと来なくて、少し困った。
実際畏まっていたとして、居候させてもらっている身で、勝手知ったる我が家のように過ごす訳にはいかないだろう。
そんな思考を見透かしたかのようにユーリくんはため息をつく。

「姉さんが家族だといったなら家族だし、妹だと言えば妹だ。召使みたいに振舞うのはもうやめろよ」


なるほど、"丁寧に喋る"以上の根本的な意識を、ユーリくんには見抜かれていたらしい。言葉通り、私は召使のようにふるまっていたのだ。その心構えこそが問題だったらしい。図星を突かれて言葉に詰まる。
確かに、ヨルさんが家族の一員になっていいと言ってくれたのに、恭しく窮屈に振舞うのは、逆に失礼なのかもしれない。
ヨルさんの言うことは絶対である。間違いはないし、それに従う事こそが喜び……
…というのは、あくまでユーリくんルールに乗っ取るならばの話だけど。
けれど確かに、郷に入っては郷に従えというし、家長の方針に従うのが礼儀だとは思う。
けれど、なんだか宗教で洗脳されてしまったような心地がしてきたのも否めない。

「そりゃ、最初は姉さんがいうから、仕方なく兄のように振舞ってたよ。成長したねって、姉さんに喜んでもらえるのは嬉しかったし…。…でもボクだって鬼じゃないんだ」

開いていた本はパタンと閉じられ、真剣な眼差しが私を射抜く。ヨルさんと同じ色が宿った瞳がそこにはあった。

「ボクが楽しいと思って勉強も世話も見てるつもりだよ。嫌々やってないのはもう分かるだろ。話し相手がいると、勉強もはかどるし、つまらなくないし」

姉との密な時間が奪われることや、私を養うことで家計を圧迫する事などは頂けないだろう。
だけどそれ以外は、満更でもなくなったのだと語る。

「元々姉さんは仕事で忙しくて、ボクは家で一人で過ごすことの方が多かったし。鍵っ子っていうんだっけ。一人でも過ごせるけど、生活音がしないのは…家族皆がいた昔を思い出して、堪える時もあったし」

人の気配があると邪魔になるという人もいれば、集中力が増す人もいる。
人に話す事で記憶を定着させる事が出来るという話もよく聞く。
両親がいなくなり、姉弟二人きりになってしまった寂しさを紛らわせる事もできている。
迷惑ばかりではないのだから、いつまでもよそ者のように振舞わなくていいんだ、とユーリくんは語る。

──ただし。

「姉さんはボクだけの姉さんだ。それだけは忘れるな……」
「あの、それは……もちろん」


今まで穏やかだった声色と表情はどこへやら、一瞬で般若のようになったユーリくんの表情と、刺すように低い声。
相変わらずブレない指針だ、安心した。もう家族の一員なのだから、ヨル姉さんを本当の姉さんのように思ってくれていいよ!なんて許されたら、逆に怖かったし恐縮してしまったはずだ。
ブライア家に引き取られてから、もう一年が経とうとしていた。
猛勉強した甲斐あり、ユーリくんが付きっ切りでなくても自宅学習できるようになり、ユーリくんが学校に行ってる間はひたすら勉強していた。
前世では嫌々やっていた勉強も、今は苦痛ではなかった。夕方になればユーリくんがかえってきて、夜になるとヨルさんが帰宅して、三人ですごせる。
楽しかった。とても幸せで夢のような毎日だった。

ガリガリに痩せて骨と皮のようだった体はふっくらして来て、毎日も髪に梳かすことができる。
人権や尊厳は傷けずに守られる、健康な女の子になれた。


「そうするね。……ありがとう、兄さん」


ヨルさんはユーリくんだけのお姉さんだ。
でもその代わり、私はユーリくんの妹である事を許してもらえている。
それを思うと、なんだかくすぐったくて笑ってしまった。なんて心優しい人達なんだろうと、つくづく思う。
ユーリくんは、ぽかんと拍子抜けしたような表情をしている。
どうしたのかと不思議に思い、首を傾げて問いかけた。

「どうしたの」
「…どうしたも何も。兄さんって呼んだのも笑ったのも、お前初めてだろ。驚いただけだよ」
「まあ…初めて尽くしかもしれないね」

敬語を抜いて話したのも、今が初めてだし。笑ったのも、この家に来て初めてだ。
喉だけで笑ったりする事はあったけれど、口角や頬がここまで大きく動いた事はなかったと思う。加えて。

「…あ。私、笑ったの…3年ぶりかもしれない」
「はあ!?うそだろ。つまり…3歳からずっと笑ってないって事か?」
「うそじゃない、ほんとう。表情筋が死んでたのかもしれない」
「え…表情筋って死ぬものなの?」
「いや、比喩だよ。冗談。…でも、筋肉って衰えるものだしね」


あながち嘘でもないかもしれない。正しくは死にかけていた、だけど。
神経と一緒で、本当に死んでいたらもう二度と動かせなかったはずだ。でも動かなかったこの表情と感情は、麻痺して死にかけていたのだろう。
一年かけてブライア姉弟は、くたびれた私の心と体を癒してくれた。
その結果、私の表情はぎこちなくも動くに至ったのだ。
私の柔らかい感情は、彼女らの優しさや献身から生まれ出ていると思う。
前世でそれなりに形成されていたはずの善良な小市民としてのの性格は、今世で尊厳を傷つけられた事で壊されて、今、新しく育まれ、生まれ直そうとしている。そんな
頬をぐにぐにと両手で触りながら、そんな事を取り留めなく考えた。





2022.7.19