第四話
1.出会い和解

小さな子に土下座をさせる弟の姿というのは、中々ショッキングな光景だっただろう。
仕事から疲れて帰ってドアを開いた先に広がった地獄絵図。
自分の教育が間違っていたのかと青ざめ震えるヨルさんは可哀そうだったし、
姉を敬愛してるユーリくんがあらぬ誤解を受ける姿も可哀そうだった。
自分が発端で恩人たちの関係性にヒビが入るするなんて、それこそ私にとっても地獄。
この誤解は誰の幸せも生まない。

「姉さん、これには訳があるんだよ!いじめてなんかないよ!」
「そうです、違います、これからよろしくお願いしますって、ただ挨拶してただけなんです」

示し合わせたでもなく、二人でザッとヨルさんの元に駆け寄り、弁解を始めた。
室内を土足で過ごす文化からもわかるように、この東国は、アジアの物とは違う。
街並みも、ヨーロッパのものに近いと思う。
"前世"の私は、低学年の頃から世界史というのを苦手死していた。
このオスタニアや隣国のウェスタリスが前世のあの世界に実在する国だったのかという確信が持てない。
けれど、少なくと呼吸するようにペコリと会釈で意思疎通する事はなく、土下座なんて馴染がないに違いない。
スマホがあれば一分で調べられた事も、地図を買う金と読み解く学がなければ叶わないというハードルの高さ。テレビは普及しているようだけど、眺められる裕福な暮らしは送っていなかった。

二人で必死になって誤解を解く姿は、ある意味仲良く見えたのだろう。
ヨルさんはあらあらと口元に手をやって、しばらくするとにホッと肩をなでおろしてから、にこりと笑顔になった。

「二人とも、私が留守にしてる間に仲良くなれたんですね、よかった…私、早とちりしちゃいました」

誤解が解けて、ヨルさんの表情に笑顔が戻ったのを確認すると、ユーリくんもホッとしていた。そして円満に戻った二人の姿をみて、私も肩の力が抜く事が出来た。
一生喧嘩なんてしそうにない姉弟が、私のせいで関係がこじれてしまったらどうしようかと胃がキリキリした。
そうなれば、当然私にはお詫びの品を用意する金銭もないし、切腹するくらいしか誠意を示す術はなかった事だろう。

誤解が解けても…いや誤解が解けたからこそだろうか。
ヨルさんの教育方針は変わらなかった。私達二人を椅子に座らせて、二人とも、いいですか?と前置きをしてから、学校の先生のように指を立てて私達を諭した。
前に告げた時よりも、語気を強くしていう。

「ユーリ、のいいお兄ちゃんになってあげてくださいね。そしても、ユーリを頼ってあげてください。もちろん私にも甘えてくれていいですから」

ユーリくんがこくりと頷くと、よく出来ましたと言わんばかりにヨルさんに頭を撫でられて、一瞬にして目をキラキラ輝かせた。

「…はい、頼ります」

ヨルさんに甘える、というのは抵抗がある。居候させてもらっている、それだけでもう相当甘えてしまっているのに、精神的に頼るというのは難しい。
その上、そんな事はユーリくんが許さないだろうと思う。
彼の価値観は一貫していて、傍から見てわかりやすくて助かる。
お兄ちゃんと呼ばれる事は、本当に抵抗はないんだろう。そこに情があるかないかは別として。
ペットのような生き物が増えた、くらいの感覚なのだろうか。
そんな矮小な生物が居座ろうが、どうだってていい。形式だけ兄と呼ばれても、そう振舞う事も、天使たる姉…ヨルさんが言うならば構わないと。本心で思っているらしい。
ユーリくんの思考は出会って僅かの時間で筒抜になっていた。
私は相変わらず、未知の生物を見るような目でユーリくんを見てしまう。
恩人一家に対して何を上から、不遜だとは自覚している。けれどあまりに突き抜けた思考は"変"で"善人"すぎやしないだろうか。


「ユーリ…あなたは、本当に大きくなりましたね…」

ユーリくんのサラサラの黒髪をひとしきり撫でると、感慨深そうにしみじみと呟いた。
ユーリくんはきょとんとして首を傾げ、自分の手足を眺めるような素振りをした。


「大きく…?身長は、この前図った時と変わってないと思うけど…さすがにこんなに短期間で伸びないよ」
「ふふ。ちがうのよ。心が豊かに…大きくなったなって思ったんですよ」
「心…」

ヨルさんの言った事を理解しようと、心という言葉を復唱して反芻させている。
その通り、とでも言わんばかりにこくりとヨルさんが頷く。


「私が姉としてユーリに優しくして来たように、ユーリもまた、に対して優しくお兄ちゃんとして接する事が出来るようになっていたんですね。それは成長でしょう?大人に近づいたという事ですよ。私はそれが嬉しい」

ユーリがいい子に育ってくれて、私はとてもとても、嬉しいんです。
ヨルさんは涙ぐみながらそう語った。
ユーリくんはそれを聞いて、しばらく呆けていたけれど、言葉の意味をじわじわと理解すると、歓喜に震えながら涙ぐんだ。
「姉さんのやさしさ…姉さんが喜んでくれた…姉さんが大人になったと言ってくれた…」
姉弟の感動シーンが、ユーリくんの口から吶々と繰り返される呟きで台無しになってしまった感じはあるけれど、双方が喜んでいるならば善しだろう。
美しい光景だなと思った。
血縁であり、一緒に暮らしていれば、自動的に信頼関係が生まれる訳ではない。
一時は愛し合い、教会で永遠の愛を誓った男女が毎日暖かだった我が家で口論し、包丁を持ち出す修羅場を迎える…そんな末路を迎えた夫婦がいくつあっただろう。
親子や兄弟関係であってもまた同じ。
この二人の仲睦まじい関係性は、当たり前の産物ではなかった。


「ボク…もっと勉強も頑張る…姉さんを守れるように、もっともっと背も伸ばす…、立派な大人になるよ!今よりずっと成長するから!」

歓喜で頬を赤らませながら、熱弁するユーリくん。うん、うんと微笑ましそうにヨルさんは頷く。
美しい姉弟愛を微笑ましく眺めていられたのは、この瞬間までだった。
…あ、嫌な予感。


「ボクはいいお兄ちゃんになる!!」


それを姉さんが望むなら、喜ぶなら、安心するなら!そんな副音声が聞えてきそうだった。
ビッと私の方を指さしながら、ユーリくんは宣言してしまったのだった。
意思の強いヨルさんと同じように、きっと意思をユーリくんは曲げないに違いない。
ここで私は、いいえ結構ですから、お気になさらず…と遠慮する事も出来ず、なすが儘受け入れる他ない。

「ふふ、本当にすっかり二人は仲良しさんです」
「仲良しになったよ!なった!もちろん!ね?妹!」
「…………はい」


言わされた感が半端じゃない。
宣言するや否や、ぐるりとこちらを見やったユーリくんの圧は酷いものであった。
妹の事を"妹"と名指しするのも、取ってつけたようでまぁ酷い。
けれど、そんな事は言わぬが花だろう。彼が姉至上主義な事は、この短い期間だけでよく理解できた。頷いておかねば相当な角が立つシーンであると理解できる。
純粋なヨルさんは、まさか言わされているなどとは思いもせず、花のように柔らかく笑っていた。
それを見て、ユーリくんも幸せそうに笑っている。
あのヨルさんの満ち足りた笑顔は美しく、見ているものを和ませる。いつまでも見ていたいと思う。幸福の象徴のようだった。
ユーリくんが必死になる気持ちがわからないでもなかった。

例のごとく血まみれになって帰宅したヨルさんはハッとして、「あらいけない、早く汚れを落とさないと」と、急ぎ足で風呂に向かっていった。
ヨルさんが汚れて帰ってきたこういう日は、一緒にお風呂に入ろうとは誘われない。
私が拾われた初日は例外中の例外だったらしい。

そして今後も、女同士裸の付き合いをする事は一生ないのだろう。それがユーリくんとの約束である。
私の今の年齢は6歳。本来ならまだ、大人と一緒に入りたがってもおかしくないかもしれないけど、精神的にはとっくに自立しているため、全くそれで問題ない。
ユーリくんはさっきまでの笑顔をどこにしまったのやら、スンッと真顔に戻す。
けれど真剣な顔をしながら私の方に体を向けた。


「妹、そこの椅子に座って、ペンを持って」
「……はい」

ユーリくんからのお達しに逆らえるはずもなく、別段逆らいたいという気持ちもなく。
言われるがままに椅子に座ると、ユーリくんも隣の椅子に腰かけ、机に向かった。


「文字は書けるか?何か本は読んだ事ある?」
「………父方の故郷の文字なら、まあ…でも東国の文字は書けません。読むのなら、少しだけ…」

恐らく、勉強を教えてくれようとしているのだと察した。
東国の文字は、本当にわからない。けれど、それを勉強するにあたって、日本語を完璧に習得している私がまったくの無知・無学を装うのは無理があると思った。
なので、実際どこの生まれとも解らない孤児だったらしい父から教わったのだとフェイクを入れた。その父は先の戦争で殉職してしまっている。


「父方の出身というのはどこだ?母方は?西国じゃないよな」
「父の素性は、あんまりよくわからなくて…国名は聞けませんでした。本人も自分のルーツをよくわかっていなかったし…でも、少なくとも、私自身は東国育ち、母は東国人です」
「そうか、じゃあ読み書きからか」


すると、本棚からいくつかのノートと本を見繕いに行き、すぐに戻ってきた。
机の上に開かれたその本は、ユーリくんが今より小さいころに使っていた学習帳だろうと推測した。
何度も書き取りした跡がある。その横に、象形文字らしきものがいくつも並び、恐らく文字の成り立ちに関する図解が書き連ねられているようだった。
文法を理解するだけでなく、起源についてまで分析するなんて、なんとも勤勉だ。本当に10歳児なのか疑うほどに。
東国の文字はまばらにしか読めずとも、私も中身はそれなりに勉強した事がある人間だ。
ユーリくんが几帳面で勉強熱心な事は、ノートを見れば一目で理解できる。
もちろん前世…未来の日本で培ったスキルである。
今の私は同じ黒髪でも、"前"とは違って肌の色が格段に白い。アジアではない外国の血が流れているように感じた。
自分の本当のルーツなど、最早知る術もないけれど。言うまでもなく、両親が死んでしまったからだ。死人に口なしを体現していた。
私過去についての話になると、どうしても問いかけた相手も答えたこちらも暗くならざるを得なかったものだ。

けれどユーリくんは、ひたすら淡々としていた。淡泊なのではなく、あくまで家庭教師に徹しているからだろう。
生い立ちに関わる問いかけは、私の地力を見極めるため必要だっただけだ。必要な情報を必要なだけ聞いて把握する。そこには好奇も同情もない。それが楽で、有難かった。
お風呂から上がったヨルさんは、隣合って勉強をしている子供二人を見て、再び幸せそうに笑っていた。


2022.7.18