第五話
1.出会い─好奇心と承認
どうやら私は筋がいいらしい。
理解が早い上、問題に躓いた時も、どこにどう悩んでいるのか言語化して説明できるため、意思疎通もしやすいと喜んでいた。
私からしても、ガッと理解してザッと解く!などと感覚的な物言いをされる事もなく、
理路整然と説明し、間違えても頭ごなしに叱らないユーリくんの姿勢は好ましかった。
これで本当に齢10歳だというのか。教師としての才があると思う。
将来は教職にでも就くのだろうか。
ともかく、私はユーリくんにとっては教え甲斐のある生徒だったし、私からしてもユーリくんはいい教師で、苦のない有意義な時間をすごせたと思う。
ヨルさんに言われたから渋々…という訳ではなく、スポンジのように知識を吸収していく私を面白そうに眺めるようなった。
「飲み込みがいいな。…というかよすぎないか?」
ほう、と感心したように頷かれた後、すぐに表情が曇った。
訝しむように眉を寄せられて、一瞬肝が冷えた。
文字もろくにかけない子供に対して、ユーリくんは洪水のように容赦なく知を流し込んでいた。
いくら分かりやすく教えてくれるからと言っても、ペースが早ければ、その流れに必死に食らいつこうと慌てる他ない。そのお陰で、客観視というものを忘れていた。
手加減ともいう。
無学のたった6歳の子供が、こんなにスルスルと問題を解いていくのはおかしいだろう。
けれど、単に平均より頭がよい人間だったのだろう、と納得したようで、そこからは何も言わなかった。
確かに、この世の人間には個性がある。飛び級出来るほど突き抜けた頭脳を持つものもいれば、どれだけ頑張っても優をとれない人間もいる。
私に読解力がありすぎるのも、たまたまだ。そう納得してもらえるならこれ程都合のいいことはない。
それで言うならば、ユーリくんだって私から見れば、たった10歳なのに優秀すぎると思う。
だからと言って、安直にユーリくんにも前世があるのかも…などとと疑いはしない。
平均よりずば抜けて努力家で、ただ優秀な子供だったという事だ。
そこからは私も手加減する事もなく…いや子供のふりをして手加減する余裕も無くし、必死に勉強した。
もし教材が日本語で書かれていたら、もう少し理解も早かっただろう。もしこれが日本の古典であれば…。
考えても詮無い事。今自分が出来る全力を出すしかなかった。久々に学習のために使った脳みそは、擦り切れて発熱しそうである。
「よし、今日はここまでやろう」
「……はい」
時計を見れば、午前9時。お昼休憩を一時間はさみ、終了予定時間は15時だ。
小学校の授業に近いペースだ。これが最近の通例になっていた。
ユーリくんは学校に通っていねらしいけれど、今は丁度長期休みに入っているらしい。
自分の学校が始まる前に、私が一人留守番する事になっても、自習をできるくらいには育てあげる事が目標らしい。なるほど。このスパルタに近いハイペースもそれを聞けば納得できた。
しかし責任感の強い子供だ。いや、ヨルさんのお願いだからこそだろうけれど。
だからと言って、ここまで徹底できるのは偉いと思う。
「長期休み…って言ってましたけど」
「うん?」
「その…遊びに行ったりしたくないですか。私に付き合って、つまらないとか」
そうだったら申し訳ない事だと思う。
日本の小学生の夏休みを思い浮かべると、切なくなってくる。
家庭や子供の性格によりけりだろうけど。公園で遊んだり、虫取りしたり、川遊びにスイカ割り、海に山。親が田舎に里帰りし、子供は自然を楽しむ夏休み。
ある程度裕福な家庭であれば、国内や国外に旅行に行ったり。アウトドアの楽しみも満載だし、学校があればできないゲームや読書漬けの日々を送るインドア生活も送れる。
楽しい長期休みだ。
それが毎日、家に閉じこもりやることが机にかじりついて子供の勉強の世話をするとは。当事者ではあるけれど、どこか他人事のように可哀そうだなぁと哀れんでしまう。
けれど、本人は何も気にした様子はなかった。
「自分の勉強もしてるし、別に問題ない」
「…付き合わせてますよね?本当は外に遊びに行きたかったりしませんか」
私一人を置いて出かけられないだろうし、ならば私も連れて行こうか、と考えても、結局世話役からは逃げられないし、面倒も多いだろう。
ユーリくんは意外な事を言われた、とでも言わんばかりに瞬きをしてから、緩く首を振った。
「もともと休みの間は家で勉強をしようと思ってたよ。少しでも多く、早く、知識を身につけたいから」
「…学校で成績一番になりたいとか、目標があるんですか?」
「そういう事じゃなくて…いや、一番になってもいいけど」
少し考えて、迷いなく答えた。
「姉さんの力になれる大人になりたいから」
それを聞いて、ああ、なるほどな、と納得した。
ここでもヨルさんが行動の指針になっている訳だ。
今学校で成績優秀になる事が目標ではない。なっても困りはしないけど、決して優秀になって自分の力を誇示したい訳じゃない。
ヨルさんは17歳にして、社会に出ている。ユーリくんを養うために毎日働いているのだ。
苦労人である。
そこに私という居候も加わり、より一層苦労が増した事だろう。
恩返しがしたいというユーリくん。私も他人事ではない。
「弁が立てばジャーナや弁護士になって姉さんのいる世界をより良くできる。
化学や生物を頑張れば、姉さんのケガや病気を治せる。数学や物理を頑張る。それは姉さんの生活の安全や快適さ全てに繋がる。無駄なものは一つたりともないはずだから」
教職にでもなるのだろうか、と思っていたけれど、そうはならないだろうなと思った。
もちろんひと様に貢献できる立派な仕事ではあるけれど、他の職種よりは直接的にヨルさんのためにならない。
この世の全ての知識を一刻も早く身につけたい。一秒さえも惜しい、とでも言わんばかりのユーリくん。
外に遊びにいく、という選択肢など存在しないのだろう。
ヨルさんに誘われたなら、話は別だろうけれど。自発的に子供らしい楽しい夏休みは送らないに違いない。
「…私も、がんばります。がんばって覚えます」
「ああ、知識は盾にも武器にもなる。持ってて損はないはずだろう」
「自分のため、というか…それもあるけど」
少し迷ってから、遠慮がちに言った。
「私、いつまで居候させてもらう事になるのか、わからないけど…例え明日出て行く事になったとしても、5年、10年、何年経っても、ヨルさんのためになりたい」
もらった恩はとても大きい。触れた優しさはとても尊い。
好みに余る、得難いものを甘受した。
「こんな風に、誰かの力になりたいって強く思ったのは、初めてかもしれない…です。ありがとう」
「ありがとう?」
「恩返しするための方法を…選択肢をくれて、…ありがとうございます、ユーリさん」
ぺこりと頭を下げると、ユーリくんは面食らったような顔をしたあと、すぐに笑顔になった。
"私"に向けて、ユーリくんの笑顔向けられたのは初めての事だった。
「うん、それはいい心がけだと思うぞ」
「…ありがとうございます」
ヨルさんのために繋がる努力だ、ユーリくんとしても悪くない心がけだと思ったのだろう。
けれど、自分自身が認められたような気がして。そうすると、まるで自分がまともな人間になれたような気がして。少し嬉しかった。
尊厳を傷つけられ、自己否定を繰り返してきたこの6年。
どのような形であれ、どのような理由であれ。手放しに懐に迎えられ、守られ、認められ、笑いかけられる。
傷ついた心が癒され満たされるには十分すぎる。
最初こそ、やらされるがまま勉強していた私だったけれど、ヨルさんのために、誰かのためになる勉強がしたいと思い始めるようになってきた。
私の今世にも未来があるような、道が開けたような気がして心が温かくなっていた。
決して偉くなりたいのではなく、優秀になって、人のためになれたなら…。
心からそう思う。
前世の私は、多くの人がそうだったように、流されるまま学校に行き、みんながそうするから、それが普通だからという理由で受験し、就職し、崇高な志など持たず生きてきた。
──生きる理由がある。そう思うと、胸がどくんと熱く強く高鳴った。
勉学に励ませてもらえる、衣食住の保証されたこの生活が、いつまで続くかはわからない。
束の間の淡い夢かもしれないけれど、こんなにも綺麗な夢を見たのは初めてで、ただ幸せだった。
「ユーリさん」
「……」
「あの、ユーリさん」
「…?ああ、もう終わったのか」
ガリガリとペンを走らせるユーリくんは、何度声をかけても集中が途切れないようだった。
そんな所に声をかけるのは気が引けたけど、これでも2時間以上は待ったのだ。
時間は17時。外も少し暗くなってきた。
ユーリくんに与えられたノルマは予定の15時より前に終わらせてあり、17時現在に至るまでは、自己判断でそれ以外の科目に励んだ。
根気強く話しかけ続け、ようやく顔を上げたユーリくんは、ずいぶん進んでいる時計の針を見て驚いていた。
「待たせて悪い、採点するよ。分からなかった問題はあるか?」
「今回は暗記がほとんどでしたし、こっちの科目は昨日ユーリくんに重点的に教えてもらっていたので、なんとか自力で解けた…はずです」
色ペンで一門一門採点をしていき、スペルミスがあれば修正する。
東国の文字は覚えたてホヤホヤだ。さすがにその当たりの修正は頻繁に、多く入ったけれど、採点に関してはほとんど丸をつけるだけでスムーズに終わった。
「なるほど、一を知って十を知るって、こういうことを言うんだろうな。よく出来てる。ほとんど間違えてない」
お褒めの言葉を聞いて、ホッと一息つき、お行儀悪く机に伏した。
山のように机に積まれた分厚い本が目と鼻の先にあるのが見えた。
一つの教科ごとに数冊ずつはある。私はまず文字を覚え、簡単な算数を覚え、年相応の教養を身に着けた、
そして次に高度な数学を学び、歴史を知って行った。何度も言うけれども、それはもうハイペースに。
受験生だった時ですらここまで詰め込んではいない。
タイムリミットがあるのに加えて、ユーリくんがのんびりやりましょうね、というタイプではないせいでもある。
けれどそのスパルタに、頑張れば応えられてしまう私のせいでもある。前世の蓄積がないただの6歳児であれば、泣いて逃げ出していたことだろう。
何も知らないままでいれば幸せだったのにと思いこそすれど、逆に前世があってよかった…とこれほど強く転生に感謝したことはない。
「この調子なら、ボクの学校が始まっても一人で自習できるだろうな。もちろん毎日課題は作って出すようにするけど」
「…ありがとうございます、本当に…こんなに大変なことを毎日…」
「いや、ボクの予習復習にもなってるし、大した労力じゃない。そこは気にしなくていい」
知的好奇心を満足させたらしいユーリくんは、疲労でぐったりとした私を面白そうに見ていた。
一を知って十を知るとは言うけれど、それは一重に前世で十までを知った状態だからだ。決して優等生な方ではなかったけど、基礎だけならあるのだ。
この東国や西国など、他国の歴史や言語なんてものは、一から覚えなければなくて苦戦した。
教科書を睨みつけるほどに、私の知る世界地図とは食い違う部分が多いと思った。
パラレルワールドというやつなのだろうか。だとすると、やはり私の知る知識の一部は全く役に立たない。
けれど。
もしかして私はこのままユーリくんの知識を追い越してしまうかもしれない、という危惧はあった。身体は子供頭脳は大人なのだから。
そうすれば、いくらなんでもユーリくんのプライドを傷つけるだろうし、ヨルさんも私を褒める機会が多くなるかもしれない。ユーリくんが不機嫌になるのは目に見えてる。地獄だ。
が。
ちらりとユーリくんの手元を伺い見て、そんな危惧は杞憂だったと悟る。
ユーリくんは恐らく、いや確実に、その年には不相応な高度な勉強をしている。
知的好奇心旺盛で、どの科目も熱心で、あまり学業には関係ないような、昆虫図鑑なんかを分析・暗記するのも好きなようだった。
昼間に宣言していたように、それが"知"であるならば、分野も関係なく、吸収する事が等しく楽しいらしい。
この意欲と地頭のよさには、きっと私は叶わないだろう。私が追い付くより、ユーリくんの伸びるスピードの方がきっと速いのだろう。
ヨルさんが誇りにするのもわかる、成長が楽しみな子供だった。
「それと、言い忘れてたけど」
「はい」
「ユーリさんって呼び方は変だと思う」
「…そうは言われましても、呼び捨てるのはちょっと…」
「ボクは兄になれと姉さんに言われてるのに、さん付けで呼ばれるのは変だろう」
「…とは言っても」
本当にお兄ちゃんと呼ぶのも気が引けたし、ユーリくんも心から呼ばれたがってる訳ではないだろう。
「……ユーリくん、と呼んでもいいですか?」
恐る恐る言うと、何をそんなに遠慮する理由があるのかわからない、とでもいいたげに妙な顔をしたあと、もちろんだと頷かれた。
1.出会い─好奇心と承認
どうやら私は筋がいいらしい。
理解が早い上、問題に躓いた時も、どこにどう悩んでいるのか言語化して説明できるため、意思疎通もしやすいと喜んでいた。
私からしても、ガッと理解してザッと解く!などと感覚的な物言いをされる事もなく、
理路整然と説明し、間違えても頭ごなしに叱らないユーリくんの姿勢は好ましかった。
これで本当に齢10歳だというのか。教師としての才があると思う。
将来は教職にでも就くのだろうか。
ともかく、私はユーリくんにとっては教え甲斐のある生徒だったし、私からしてもユーリくんはいい教師で、苦のない有意義な時間をすごせたと思う。
ヨルさんに言われたから渋々…という訳ではなく、スポンジのように知識を吸収していく私を面白そうに眺めるようなった。
「飲み込みがいいな。…というかよすぎないか?」
ほう、と感心したように頷かれた後、すぐに表情が曇った。
訝しむように眉を寄せられて、一瞬肝が冷えた。
文字もろくにかけない子供に対して、ユーリくんは洪水のように容赦なく知を流し込んでいた。
いくら分かりやすく教えてくれるからと言っても、ペースが早ければ、その流れに必死に食らいつこうと慌てる他ない。そのお陰で、客観視というものを忘れていた。
手加減ともいう。
無学のたった6歳の子供が、こんなにスルスルと問題を解いていくのはおかしいだろう。
けれど、単に平均より頭がよい人間だったのだろう、と納得したようで、そこからは何も言わなかった。
確かに、この世の人間には個性がある。飛び級出来るほど突き抜けた頭脳を持つものもいれば、どれだけ頑張っても優をとれない人間もいる。
私に読解力がありすぎるのも、たまたまだ。そう納得してもらえるならこれ程都合のいいことはない。
それで言うならば、ユーリくんだって私から見れば、たった10歳なのに優秀すぎると思う。
だからと言って、安直にユーリくんにも前世があるのかも…などとと疑いはしない。
平均よりずば抜けて努力家で、ただ優秀な子供だったという事だ。
そこからは私も手加減する事もなく…いや子供のふりをして手加減する余裕も無くし、必死に勉強した。
もし教材が日本語で書かれていたら、もう少し理解も早かっただろう。もしこれが日本の古典であれば…。
考えても詮無い事。今自分が出来る全力を出すしかなかった。久々に学習のために使った脳みそは、擦り切れて発熱しそうである。
「よし、今日はここまでやろう」
「……はい」
時計を見れば、午前9時。お昼休憩を一時間はさみ、終了予定時間は15時だ。
小学校の授業に近いペースだ。これが最近の通例になっていた。
ユーリくんは学校に通っていねらしいけれど、今は丁度長期休みに入っているらしい。
自分の学校が始まる前に、私が一人留守番する事になっても、自習をできるくらいには育てあげる事が目標らしい。なるほど。このスパルタに近いハイペースもそれを聞けば納得できた。
しかし責任感の強い子供だ。いや、ヨルさんのお願いだからこそだろうけれど。
だからと言って、ここまで徹底できるのは偉いと思う。
「長期休み…って言ってましたけど」
「うん?」
「その…遊びに行ったりしたくないですか。私に付き合って、つまらないとか」
そうだったら申し訳ない事だと思う。
日本の小学生の夏休みを思い浮かべると、切なくなってくる。
家庭や子供の性格によりけりだろうけど。公園で遊んだり、虫取りしたり、川遊びにスイカ割り、海に山。親が田舎に里帰りし、子供は自然を楽しむ夏休み。
ある程度裕福な家庭であれば、国内や国外に旅行に行ったり。アウトドアの楽しみも満載だし、学校があればできないゲームや読書漬けの日々を送るインドア生活も送れる。
楽しい長期休みだ。
それが毎日、家に閉じこもりやることが机にかじりついて子供の勉強の世話をするとは。当事者ではあるけれど、どこか他人事のように可哀そうだなぁと哀れんでしまう。
けれど、本人は何も気にした様子はなかった。
「自分の勉強もしてるし、別に問題ない」
「…付き合わせてますよね?本当は外に遊びに行きたかったりしませんか」
私一人を置いて出かけられないだろうし、ならば私も連れて行こうか、と考えても、結局世話役からは逃げられないし、面倒も多いだろう。
ユーリくんは意外な事を言われた、とでも言わんばかりに瞬きをしてから、緩く首を振った。
「もともと休みの間は家で勉強をしようと思ってたよ。少しでも多く、早く、知識を身につけたいから」
「…学校で成績一番になりたいとか、目標があるんですか?」
「そういう事じゃなくて…いや、一番になってもいいけど」
少し考えて、迷いなく答えた。
「姉さんの力になれる大人になりたいから」
それを聞いて、ああ、なるほどな、と納得した。
ここでもヨルさんが行動の指針になっている訳だ。
今学校で成績優秀になる事が目標ではない。なっても困りはしないけど、決して優秀になって自分の力を誇示したい訳じゃない。
ヨルさんは17歳にして、社会に出ている。ユーリくんを養うために毎日働いているのだ。
苦労人である。
そこに私という居候も加わり、より一層苦労が増した事だろう。
恩返しがしたいというユーリくん。私も他人事ではない。
「弁が立てばジャーナや弁護士になって姉さんのいる世界をより良くできる。
化学や生物を頑張れば、姉さんのケガや病気を治せる。数学や物理を頑張る。それは姉さんの生活の安全や快適さ全てに繋がる。無駄なものは一つたりともないはずだから」
教職にでもなるのだろうか、と思っていたけれど、そうはならないだろうなと思った。
もちろんひと様に貢献できる立派な仕事ではあるけれど、他の職種よりは直接的にヨルさんのためにならない。
この世の全ての知識を一刻も早く身につけたい。一秒さえも惜しい、とでも言わんばかりのユーリくん。
外に遊びにいく、という選択肢など存在しないのだろう。
ヨルさんに誘われたなら、話は別だろうけれど。自発的に子供らしい楽しい夏休みは送らないに違いない。
「…私も、がんばります。がんばって覚えます」
「ああ、知識は盾にも武器にもなる。持ってて損はないはずだろう」
「自分のため、というか…それもあるけど」
少し迷ってから、遠慮がちに言った。
「私、いつまで居候させてもらう事になるのか、わからないけど…例え明日出て行く事になったとしても、5年、10年、何年経っても、ヨルさんのためになりたい」
もらった恩はとても大きい。触れた優しさはとても尊い。
好みに余る、得難いものを甘受した。
「こんな風に、誰かの力になりたいって強く思ったのは、初めてかもしれない…です。ありがとう」
「ありがとう?」
「恩返しするための方法を…選択肢をくれて、…ありがとうございます、ユーリさん」
ぺこりと頭を下げると、ユーリくんは面食らったような顔をしたあと、すぐに笑顔になった。
"私"に向けて、ユーリくんの笑顔向けられたのは初めての事だった。
「うん、それはいい心がけだと思うぞ」
「…ありがとうございます」
ヨルさんのために繋がる努力だ、ユーリくんとしても悪くない心がけだと思ったのだろう。
けれど、自分自身が認められたような気がして。そうすると、まるで自分がまともな人間になれたような気がして。少し嬉しかった。
尊厳を傷つけられ、自己否定を繰り返してきたこの6年。
どのような形であれ、どのような理由であれ。手放しに懐に迎えられ、守られ、認められ、笑いかけられる。
傷ついた心が癒され満たされるには十分すぎる。
最初こそ、やらされるがまま勉強していた私だったけれど、ヨルさんのために、誰かのためになる勉強がしたいと思い始めるようになってきた。
私の今世にも未来があるような、道が開けたような気がして心が温かくなっていた。
決して偉くなりたいのではなく、優秀になって、人のためになれたなら…。
心からそう思う。
前世の私は、多くの人がそうだったように、流されるまま学校に行き、みんながそうするから、それが普通だからという理由で受験し、就職し、崇高な志など持たず生きてきた。
──生きる理由がある。そう思うと、胸がどくんと熱く強く高鳴った。
勉学に励ませてもらえる、衣食住の保証されたこの生活が、いつまで続くかはわからない。
束の間の淡い夢かもしれないけれど、こんなにも綺麗な夢を見たのは初めてで、ただ幸せだった。
「ユーリさん」
「……」
「あの、ユーリさん」
「…?ああ、もう終わったのか」
ガリガリとペンを走らせるユーリくんは、何度声をかけても集中が途切れないようだった。
そんな所に声をかけるのは気が引けたけど、これでも2時間以上は待ったのだ。
時間は17時。外も少し暗くなってきた。
ユーリくんに与えられたノルマは予定の15時より前に終わらせてあり、17時現在に至るまでは、自己判断でそれ以外の科目に励んだ。
根気強く話しかけ続け、ようやく顔を上げたユーリくんは、ずいぶん進んでいる時計の針を見て驚いていた。
「待たせて悪い、採点するよ。分からなかった問題はあるか?」
「今回は暗記がほとんどでしたし、こっちの科目は昨日ユーリくんに重点的に教えてもらっていたので、なんとか自力で解けた…はずです」
色ペンで一門一門採点をしていき、スペルミスがあれば修正する。
東国の文字は覚えたてホヤホヤだ。さすがにその当たりの修正は頻繁に、多く入ったけれど、採点に関してはほとんど丸をつけるだけでスムーズに終わった。
「なるほど、一を知って十を知るって、こういうことを言うんだろうな。よく出来てる。ほとんど間違えてない」
お褒めの言葉を聞いて、ホッと一息つき、お行儀悪く机に伏した。
山のように机に積まれた分厚い本が目と鼻の先にあるのが見えた。
一つの教科ごとに数冊ずつはある。私はまず文字を覚え、簡単な算数を覚え、年相応の教養を身に着けた、
そして次に高度な数学を学び、歴史を知って行った。何度も言うけれども、それはもうハイペースに。
受験生だった時ですらここまで詰め込んではいない。
タイムリミットがあるのに加えて、ユーリくんがのんびりやりましょうね、というタイプではないせいでもある。
けれどそのスパルタに、頑張れば応えられてしまう私のせいでもある。前世の蓄積がないただの6歳児であれば、泣いて逃げ出していたことだろう。
何も知らないままでいれば幸せだったのにと思いこそすれど、逆に前世があってよかった…とこれほど強く転生に感謝したことはない。
「この調子なら、ボクの学校が始まっても一人で自習できるだろうな。もちろん毎日課題は作って出すようにするけど」
「…ありがとうございます、本当に…こんなに大変なことを毎日…」
「いや、ボクの予習復習にもなってるし、大した労力じゃない。そこは気にしなくていい」
知的好奇心を満足させたらしいユーリくんは、疲労でぐったりとした私を面白そうに見ていた。
一を知って十を知るとは言うけれど、それは一重に前世で十までを知った状態だからだ。決して優等生な方ではなかったけど、基礎だけならあるのだ。
この東国や西国など、他国の歴史や言語なんてものは、一から覚えなければなくて苦戦した。
教科書を睨みつけるほどに、私の知る世界地図とは食い違う部分が多いと思った。
パラレルワールドというやつなのだろうか。だとすると、やはり私の知る知識の一部は全く役に立たない。
けれど。
もしかして私はこのままユーリくんの知識を追い越してしまうかもしれない、という危惧はあった。身体は子供頭脳は大人なのだから。
そうすれば、いくらなんでもユーリくんのプライドを傷つけるだろうし、ヨルさんも私を褒める機会が多くなるかもしれない。ユーリくんが不機嫌になるのは目に見えてる。地獄だ。
が。
ちらりとユーリくんの手元を伺い見て、そんな危惧は杞憂だったと悟る。
ユーリくんは恐らく、いや確実に、その年には不相応な高度な勉強をしている。
知的好奇心旺盛で、どの科目も熱心で、あまり学業には関係ないような、昆虫図鑑なんかを分析・暗記するのも好きなようだった。
昼間に宣言していたように、それが"知"であるならば、分野も関係なく、吸収する事が等しく楽しいらしい。
この意欲と地頭のよさには、きっと私は叶わないだろう。私が追い付くより、ユーリくんの伸びるスピードの方がきっと速いのだろう。
ヨルさんが誇りにするのもわかる、成長が楽しみな子供だった。
「それと、言い忘れてたけど」
「はい」
「ユーリさんって呼び方は変だと思う」
「…そうは言われましても、呼び捨てるのはちょっと…」
「ボクは兄になれと姉さんに言われてるのに、さん付けで呼ばれるのは変だろう」
「…とは言っても」
本当にお兄ちゃんと呼ぶのも気が引けたし、ユーリくんも心から呼ばれたがってる訳ではないだろう。
「……ユーリくん、と呼んでもいいですか?」
恐る恐る言うと、何をそんなに遠慮する理由があるのかわからない、とでもいいたげに妙な顔をしたあと、もちろんだと頷かれた。