第三話
1.出会い歩み寄り

ヨルさんは、とても多忙な人だった。
"現代"なら未成年である年だ。
なのにその年にして、責任のある仕事をしているらしい。
毎日毎日朝早くから遅くまで出かけて、帰ってきたときには沢山の本を抱えてる。
お金に換算すれば、相当な額になるはずだ。どうやらブライア家も、親のない家庭のようで、ヨルの収入だけが命綱になっているらしい。
けれど慎ましくも衣食住を確保し、多少の娯楽と学を得られるのは、一重に大黒柱…ヨルの"高収入"のおかげだ。
ヨルは美しい人だった。最初は、もしや若い体を売っているのでは…と勘繰った。
夜の仕事でもなければ、この暮らしを維持するのは難しいだろう。
けれど、血まみれになって帰ってくるヨルの姿を何度も見ると、夜の職ではなく、裏の職なのではないかと思った。
今は1960年だったか。ブライア家は新聞を取っていないし、テレビがないめ、知る術がなかった。
その時代に、…憶測が正しければ…人を殺める仕事というのが存在したのだろうか。
この善良な少女が、漫画や映画のように、暗殺者や諜報員、軍人をしているのかどうか。
弟であるユーリは、毎回血まみれで帰宅する姉を心配するけど、深く勘繰ってはいないようだった。
教養のある賢い子供のようだけど、社会に対する理解力は年相応なのだろう。
"普通"の仕事の稼ぎだけでは、この生活水準は維持できない。それをわかっていない様子だ。

「………………お前」

私がブライア家に迎えられ、まず日用品がそろえられた。歯ブラシやマグカップ、皿やパジャマが三個ずつになり、ベッドも増えた。元々広くはない家なので、ベッドとソファーを兼用出来る折り畳み式である。とても有難いことだ。
これぞシンデレラストーリだと、歯ブラシの一本を与えられただけでしみじみ思えた。


「……当然だと思うなよ」

むっつりとした顔で机に向かい、本を開く手を震わせながら、ぽつぽつと語る。
彼が言いたい事は察していた。
私が初めてこの家のドアをくぐった瞬間から、彼は嫌な予感がするとでも言いたげな顔をして、・ブライアになります!とヨルが宣言した瞬間、悪夢が正夢になった!とでも言うように頭を抱えていたのだ。
どこをどう見ても、歓迎されてはいないのはわかってた。


「この暮らしを当然と思うな……」


彼の怒りはもっともだ。ヨルさんが童話の中の女神のように、度量が広すぎただけ。
何かに罪の意識を抱いているらしく、善行でもって償いたい、という下心があったにせよ、この待遇は、私の身に余る。
ギリギリあり得ても一宿一飯。養うなんてもっての他。
世の中の人々は、道端に蹲る小汚い子供に一々構わない。物乞いされたとして、それを見捨てる事も、決して悪ではないのだ。
ユーリくんのような反応をするのが、自然だろう。
ヨルさんは、野良犬を見つけたら次々に拾ってきそうな危うさのある女性だと思った。
しかし、この家に動物の一匹もいないところを見ると、手あたり次第に善意を振りまいている訳ではないらしい。
彼女の中にもルールがあるのだろうと思う。罪の意識に悩んでいたあの瞬間に出会ったからこそ、私の手を取ろうと決意したのだろうと推測する。

私は特例だ。そして私は、その特例を当然のものとして甘受する気はない。
ベット兼ソファーに腰掛けながら、テーブルに向かうユーリくんの方に視線をやる。
当然だなんて思いもしない、厚かましくて申し訳ない、と謝ろうと口を開いた瞬間。


「姉さんの愛を享受できるのが当然と思うなッッッッ!!!!!!」


ガンッと拳がテーブルに振りかざされ、その音と予想外の言葉に驚いてビクリと肩がはねた。
ぱちぱちと、瞬きを繰り返し沈黙する他ない。
私は責められてるのだと思った。ユーリくんは居候…いや家族…?になる事を歓迎できるはずもなく、
厚かましく居座っている目障りな人間に苛立っているのだと。
けれど、彼の怒りの琴線はそこにはなかったらしい。

「姉さんは天使なんだ…女神なんだ…優しくて可愛くて神々しいくらいでだからお前を見捨てられなくてニコニコして抱きしめて料理を振舞って妹のように扱って一緒に風呂に……クソッ恨ましい!!!」


再び拳がテーブルに振りかざされ、次にゴンッと額が当たった。
突っ伏したユーリくんは呪詛のようにぶつぶつ呟きづけた。


「姉さんの弟はボクだけで姉さんの愛も料理もボクだけのものであの天使のような微笑みも気配りも何もかもボクだけのものだったのにクソクソクソッッッックソすぎる」


私の口からは、最早謝罪の言葉すら出てこなくなっていた。
「なんとか言えよ!」と睨みつけられても、「あ、はい……」と力なく返すしかない。
度が過ぎれば薬も毒になるように、何ごとも一定値を超えると"異常"とみなされる。
その理屈でいえば、善人過ぎるヨルさんは、失礼ながら変人とも言えた。
度がすぎる姉愛を抱えたユーリくんも、私の目には"変"にしか見えない。
いやある意味ヨルさんと同じお人よし…?
だって、彼の怒りの論点は、あくまでヨルさんの愛情について。
居座り養われる私の厚かましさや境遇に対しては、何も追及してこない。
そこはどうでもいいのだろう。…どうでもいいと思えるんだ……ブライア家、末恐ろしすぎやしないだろうか…
呆然としている私に対して、彼はビッと指をさしながら、まくしたて続けた。

「お前、姉さんは姉さんの事姉さんって呼んでね?なんて言ってたけどな!姉さんを姉さんと呼ぶ権利はボクにしかないんだ!そこの所わかってるのか?わかれ!」
「はい…………」
「姉さんの弟になれた幸運を噛みしめて生きてきた…これはボクだけに許された特権…なのにぽっと出のお前に姉さんの妹になる権利が渡るなんて不公平じゃないか!あり得ないだろう!?姉さんの言葉はいつも絶対だ、だけでこれだけは違う、姉さんが許してもボクが許さない!」
「………はい………」
「姉さんを姉さんと呼ぶな!当然と思うなよ!」
「はい……」
「よし」

よし!?
よしって何がよしなの…?本当にそれでいいのかどうか。姉さんという概念がゲシュタルト崩壊しそうになっている。色々冷静になってほしい。
最早戦々恐々状態だった。
口元を抑え、体を丸め、まるで未知の生命体と遭遇したかのように怯え、私は心底動揺する。
座っていた椅子から降りて、私の元へやってくると、腕を組みながら見下ろし鼻を鳴らした。


「間違っても同性の特権を使って一緒に風呂に入ったりベットで寝たりするなよ」

その言葉を聞き、しばらく考えを巡らせる。
裏を返せば、それさえしなければ…一人風呂、一人就寝さえするなら、厚かましくブライアの一員として暮らしてもいいと言う事なのではないか?と考えた。
いや、そんな上手い話があるのか…?
ヨルさんを恩人と崇めこそすれど、もちろん、彼女を姉のようには慕えない。だって、あまりに図々しすぎるだろう。
姉、という言葉がユーリくんのキーのようだとさすがに理解してきた頃。
私は恐る恐ると挙手をして、発言権を求めた。
ユーリくんに頷かれたので、質問する。

「…あの、ヨルさんに……お兄ちゃんになってあげてねって、言われてましたよね…?」
「それが何だよ」
「…………ヨルさんを姉さんと呼ぶのはダメ。じゃあ、例えば……私がユーリさんを、お兄ちゃんと呼ぶのは………?」
「べつに、勝手にしろよ」

べつに!?勝手に!?
多分そう言われるだろうとは予期していたものの、私の中にある理屈が全く適応されないユーリくんの言い分に眩暈がした。
シスコンどころじゃない。姉至上主義。神聖視。
今まで通り、姉と弟の睦まじい関係を邪魔さえしなければ、居候が一人増えたところで問題はなく、ペットの小鳥が部屋の隅に存在してる、それだけの感覚で済まされてしまうのだろう。
私は脱力して、力なく頭が地面に近づいた。そのまま手をついて、土下座でもするように断った。


「姉妹関係だなんて烏滸がましい事、望みません。しばらく居候としてお世話になります。野良犬を拾ったとでも思ってください……出来るだけ、お二人の暮らしの邪魔は致しません……」


本当に本当にそれだけで不満はないのだろうか。いや、なんだろうなぁ…
とんとん拍子に、……ある意味"快く"二人共に迎えられ。衣食住を与えられた。
こんな事はやっぱり、まるで夢でも見ているかのようで、いつまでも現実味がわかない。
これからよろしくお願いします、と控えめに続けようとしたところで、ガチャリとノックもなく家のドアが開いた。

「ただいまー!二人とも、いい子にして…」

いましたか?と。恐らくそう続けられるはずだった言葉は、ぷつりと途切れた。
ユーリくんの方向を向いて、土下座をする私の姿。腕を組んでそれを見下ろすユーリくん。
控えめに言っても、これはいじめの現行犯にしか見えないだろう。
青ざめたヨルさんは体を震わせると、手に抱えていた紙袋を落とした。林檎や野菜などがゴロゴロ転がり落ちていく。

「ゆ、ユーリ…こんな小さな子になんてことを…のお兄ちゃんになってあげてねと言ったのに…そんな…」
「ご、誤解だよ姉さん!」


邪魔をするなといった矢先からお前は!とでも言いたげにユーリくんに睨まれた。返す言葉もございません、という心境だった。
その睨みが余計にヨルさんの誤解を強める事になり、ユーリくんと私が二人揃って根気強く弁明し、誤解が解けるのに一時間以上かかった。




2022.7.17