第二話
1.出会い救いの手

ガチャリと音を立てて、彼女はドアノブに手をかける。
レンガ造りの家の軒先には花壇があり、草花が咲き誇っている。
木製の扉が開かれると、その向こうには暖かな家庭が広がっていた。

「ユーリ!ただいま〜」

裕福ではないけれど、貧困もしていない。パッと見ただけで見て取れた。
電気も水道も通っているし、荒れた様子もない。
ただ暖かな生活感があるのみだ。机や椅子、本棚も揃えられている。
たかがそれだけ、されどそれだけ。清潔にこの環境を維持できるだけで、恵まれている方だろう。
奥の部屋から、彼女の声に応じるように物音が聞える。そして、パタパタと軽い足音が近づいてきた。

「おかえり!おかえり姉さん!バイトお疲れ様!待ってたよー!姉さん姉さん、ボク今日一日で本を10冊も暗記………」


嬉々とした表情で彼女を出迎えたのは、小さな男の子だった。10歳くらいだろうか。
小さいと言えど、私にくらべると1回りか2回りは大きい。
肌の色や同じ黒髪、顔出ちを見るに、姉弟なのだろう。
ちらりと隣の彼女を見上げると、「この子は私の弟のユーリよ」と頷かれた。
自分よりも小さく、汚い子供が姉の横に立っている。それを認めると、怪訝な表情で口を噤んだ。

「日が暮れても、外はとても暑いでしょう?具合を悪くしてしまったみたいだから、家で涼んでいってもらう事にしたのよ」
「…………そう、」

にこやかに笑う姉をちらりと見やり、次に私を見やり、こちらを観察している男の子…ユーリと呼ばれた男の子は、静かに何かを思案しているようだった。
出迎えたときの激しく明るい勢いは見る影もなく、明らかに警戒態勢に入ってる。


「さあ、お水を飲んだら…そうね、まずお風呂に入ってね。服はユーリのお下がりを着てもらいましょうか。少し大きいかもしれないけど…ユーリ、いいですよね?」
「……」


彼は否定も肯定もしなかった。ただ姉の笑顔の奥にある物を探ろうとして立ちすくんでいるだけ。
彼女は了承が取れたと解釈したようで、私の汚い手を取って風呂場へと向かい、一緒に入浴した。
「私も汗をかいてしまったから、一緒に入ってもいいですか?」と、こちらを気にさせない言い回しで了承させた彼女は流石だった。
伊達に"姉"はやっていないらしい。
男の子用の白いTシャツ黒い半ズボンは、私が着るとやはりサイズが合わず、七分丈に変わった。
この国では室内でも靴を履いて過ごす。綺麗に洗った足を汚い靴に通すことに抵抗を覚えつつ、リビングまで向かうと、やはり未だに微妙そうな顔をした男の子が湯上りの私たちを見ていた。
その苦い表情の裏にある含みがわからず、少し困った。
アポもなく、いきなりやって来た来訪者に対する不満か、図々しくお湯まで頂いた図太さが気に食わないのか。

──それとも。
この善人そうな姉が、身寄りのない子供を家に招いた後、その子をどうするのか。悟っていたからかもしれない。


「よかったら、今日は泊まっていってくださいね。もう夜も遅いですし、ね?」


風呂、飯、宿と、とんとん拍子に世話になって行った。
私だって、いいえこれ以上ご迷惑をおけかけ出来ませんと、断れるなら断りたかった。
自分が厚かましいという自覚はあるのだ。けれど、背に腹は代えられない。
食べなければ死に絶える。死に絶えれば、お終い。それは嫌だ。
もらえる物は恥を忍んででももらう。そういう暮らしを送ってきたのだ。

ニコニコと笑う少女、黙々と苦い顔で食事する男の子、無表情の私。
気まずい三人で食卓を囲み、さあ夜も更けた。眠りましょうと彼女が声をかけると、
各々が就寝するための支度を始めた。といっても、パジャマも歯ブラシもない、身一つの私にできる事など、
彼女に手招きされるがまま、同じベッドにもぐりこむ事くらいしかなかったけど。
パチンと電気のスイッチを消してから、薄手の布団を被った。


「……その腕」
「……」
「その体のあざ、どうしたのか聞いてもいいでしょうか?」
「……」
「答え辛いのはとてもよくわかります。でも…私には、聞く義務があるんです」

暗くなった部屋で、天井を眺めながら、囁くように小さな声で尋ねられた。
一緒に風呂に入ったのは、確認するためでもあったのだろう。
──私の身体は、全身痣と傷で塗れていた。
確かに、進んで話したくはないトピックスだ。けれど、この善良そうな家主が必要とするなら、答えないのは不義理である。一宿一飯の恩義があるのだ。

「……孤児院に」


すぅ、と息を吸い、言葉を紡ぐ。思えば、この家にお邪魔してから、意思表示は首を縦か横に振るのみで、声を出したのは今が初めてだった。
夕方ぶりに出した声は、十分喉を潤したというのに、思いの他掠れている。


「孤児院に、いました。何年も。親を亡くした子、捨てられた子、たくさんいて…私は」

親を亡くした子のひとりでした。この暗闇では、彼女の顔は伺えないのに、痛ましげに歪んだだろう事は想像がついた。


「孤児院に行く事になったとき、安心しました。両親がいなくなって、不安だったけど、……一人で生きてゆく力のない子供達を、守ってくれる人がいるんだって」


屋根の下で、親切な大人達に囲まれて、食事を与えられ、大人になるまで守り育てられる。
そういう制度は、1900年半ばの"この時代"にもあったのだ、と。
福祉の恩恵を受けられると思った。
けれど、そこにあったのは、期待していたものとは真逆の環境だった。


「子供は守られず、大人に害されて、食事は与えられない。私が望んでいた環境なんて、桃源郷みたいなものだと気が付いて……」


なぜ、あの時の私は、そんな恵まれた環境があると期待してしまったのだろう。
数年前まで戦火が燃え盛っていたこの時代、終戦を迎えたからと言って、
ハイここからはすべてのモノが平等な世界に切り替わります!なんて事は、あり得なかったのに。

──私は、未来を知っていた。恵まれた時代に生きていた。
特異な過去を持つ"子供"だった。
そんな時代ですら、平等ではなかったのだ。思い返してみれば、あの頃割を食っていた人間が世界中にどれだけいただろうか。
だから私は夢を見たのだ。シンデレラのように、魔法をかけられ、連れ出してもらえる瞬間を。
この地獄に美しい蜘蛛の糸が垂らされる瞬間を。

"幸運"で"都合のいい"、宝くじを当てるような確率でしか訪れない、その夢のような瞬間を待ってた。所詮淡い夢だと知りながら浅ましく。


「戦争のせいだって思いました、最初は」


"今世"の私の父が死んだのは、戦争のせい。母が死んだのは、母子二人の貧しい暮らしのせい。
でもそうじゃなかった。


「でも、そうだったなと思い出して」
「…そう?」
「この世は最初から、公平には作られていなかったと」


そこまで語ってからふと、こういう言葉を果たして5、6歳の子供が語るものだろうかと我に返った。
いくらこんな境遇だからと言って、学のない子供がここまで大人びれないだろう。
それを言うなら、夕方の路地でのあの会話も、異質だったはず。
今度こそ不気味がられ、追い出されるかもしれない。
けれどそれでもいい…いや、その方が助かるな、と思った。
背に腹がかえられないからと言っても、私にも私の矜持があった。
最後の一線は超えられない。
彼女の善良さは、見せかけではない。確信に至っていた。
だからこそだ。


「……このまま、家の子になりますか?」


──彼女の手は、救いの手。
地獄から這い上がらせてくれるだろう、夢のように美しい手だと、改めて確信する。
心のどこで、こんな魔法のような言葉を期待していた。
はい、と頷きたくなる衝動を、わずかに残った理性でもって抑えた。
はは、と喉だけで笑うと、天井を見ていた少女は寝返りを打ち、私の方を向いた。
ああ、彼女は瞳までも美しい。
暗闇に慣れた眼球は、彼女の表情を視認できるようになっていた。不思議そうにこちらを見ている。


「私、他人を蹴落としてまで幸せになれる程図太くないんですよ」

よくわからない、といった様子で眉を下げた彼女に、改めて言う。


「私だけが救われるのは、心苦しい。私以外の泣いてる子供達が報われない」


それこそ、罪の意識を感じてしまいます。それを聞くと、彼女は声もなく、涙を一筋こぼした。
そのまま、美しい手で抱きしめた。
待ち望んでいた瞬間がいざ訪れてみると、案外手放しに喜べない物だなと知った。

私は救われる事を拒絶したのだ。彼女もその意図を理解していた。

まるで童話のようだと思う。明日の朝には、私は一宿の恩を忘れずに抱き、この家から旅立つのだろう。
休息と栄養が取れた。これで暫くは延命できた。
そして運よく厳しい世界をこの先永く生き延びれば、数年後にはお礼の品を山ほど抱えて、この家の扉を叩くのだ。

──と。私は思っていた。


「今日からあなたは家族の一員です。・ブライア。ブライア家の末の子になってください」


窓から朝日の差し込む食卓を、昨晩のように三人で囲む。
そして、彼女…ヨル・ブライアは、高々と宣言したのだった。
男の子…ユーリ・ブライアは、やっぱりこうなったか…と言わんばかりに頭を抱えていた。
私は瞬きを繰り返し、これは夢なのだろうかと何度も思案した。
昨日お断りしたはずなのに、なぜこんな事になってるのだろう。
彼女の顔を何度眺めても、綺麗で優しい笑顔を浮かんでるだけで、前言撤回の言葉は出てこなかった。
彼女は私の言葉を忘れたのではなく、あえて知らないふりで押し通したのだと悟る。

──どうやら私は、受け取り拒否の出来ない宝くじを引き当てたらしい。
頂けません、申し訳ありませんからと辞退を繰り返したところで、善良な彼女の決意は曲がらないのだろう。

このご時世。待遇のいい孤児院の方が少ない。
どころか、鬱憤を晴らすように、子供を虐待する大人が管理している確率の方が高い。
私の体の傷痣は、そういう事だ。
だとしたら、そんな場所には戻せないと彼女は思ったのだろう。
一度餌をあげた捨て犬には最後まで責任を持ちましょう。そんなフレーズが浮かんだ。

シンデレラ願望を持っていた私の言葉には説得力はないだろう。けれど、本当に居候するつもりはなかったのだ。
一宿一飯ですら、高望みの贅沢で、とんでもない幸運だった。これ以上の事は望もうとは思えない。

──私が3歳のころ、所謂"前世"の記憶を思い出した。
私の言う矜持とは、前世で培ったもの。自立した大人としての物だった。
──未成年の子供に世話される大人なんて、ダメ人間以外の何者でもないだろう。どうにかしないと。

けれど、頭脳は大人、しかし体は孤児のこの現状では、何もできないという無力を思い出し、頭を抱えるループに苛まれる事になるのだった。



2022.7.16