第一話
1.出会い─救いと償い
──人間が健全に育つために必要なものは何だろうか?
健全な魂は健全な肉体に宿る、という有名なフレーズがある。
それを信じるなら、きっと衣食住は欠かせないのだろう。健康な体を作るためには、食事と雨風に怯えなくていい住居が必要だ。
──じゃあ、心はどうなる?
肉体が健全であれば、人間は真っ当に生きられるだろうか。いや、それは違うだろう。
心も正しく育まれる必要があるはずだ。肉体と精神が揃って健康であればこそ、魂もそこに宿る事が出来る。
では、産まれたばかりの子供の精神が、健全に形成されるために必要なものは何だろうか?
私の中にある答えはたった一つだ。考える必要もない。
これを言えば、馬鹿馬鹿しいと、鼻で笑われてしまうだろうか。それでも問われたなら、私は必ずこう答えるだろう。
──必要なのは、きっと愛。健全な精神を育むために心に注がれるべきは、誰かの愛。
私はずっと、そう思い続けている。
──遠くに、影が見えた。
豆粒のように小さい影が、時間が経つ事に大きく鮮明に見えてくる。
ゆらゆらと陽炎のように揺れるソレは、10代の少女の姿だったようだ。
揺れていたのは、彼女の足取りが覚束ないせいだ。疲れているのだろうか、一歩一歩が重たそうで、鉛を背負ってるかのように緩慢な動作だった。
俯く表情は暗い。距離が近づくにつれて、服の裾から露出肌に赤い血が滴っているのが目視出来た。
すらりとした白い手足に、痛々しい赤が映える。
長い黒髪を靡かせた少女は、まるで明るい表通りを避けるように、この長い路地に入りこんできた。
「……はは」
まるで世界に絶望したようにくたびれた姿だ。一瞬"同類"なんじゃないかと思った。
けれど、彼女の手には果物の入った紙袋が抱えられていたし、怪我をしている以外は妙な部分はなく、清潔な身なりをしていたし、特別やせ細ってもいなかった。
同類だなんて勘違いをした自分がおかしくて、思わず笑ってしまったのだ。とはいえ、表情は変わらず、喉が鳴っただけの自嘲だったけれど。
その小さな声が聞えたのだろうか。遠く離れた場所を歩く少女が、ふと顔を上げてこちらを見た。
まさか、この長距離で、私の存在に気が付かれるとは思わなかった。
出来れば誰にも見つからないまま、物陰に隠れていたかったのに。
見なかったふりをすればいい。そのまま無視をして通り過ぎていけばいい。
哀れな姿を同情されるのも、罵られるのも疲れた。
人に存在を認知されて、リアクションをされるという事自体が、億劫になっていた。
その願いは叶わず、彼女は少しだけ歩くスピードを上げて、こちらへと近づいてきた。
ゆっくりと、まるで怯えた猫にでも接するように彼女は私に歩み寄る。
「あの、あなたは…こんな所でどうしたんですか…?」
黒い髪、黒い服。少しキツい印象を与える猫目とは相反する、とても柔らかな声だった。彼女の瞳は、心配ですという心情を雄弁に語っていた。
まさか覗き込まれるだけでなく、親切に話しかけられるとは思わず、身を固くしながら首を横に振る。それを何度も何度も繰り返した。
なんでもない、気にしないで、向こうに行ってという強い意思表示のつもりだったのだ。
けれど、彼女は少し思案した後、すとんと隣に座り込んでしまった。
誰かに近くに寄られるという事は久々で、離れたいと思ったけれど、結局離れようと動く気力もわいてこない。ただ疲れを逃がすような息だけが漏れた。
「……何で、そこに…?」
「……少しだけ、疲れてしまいまして。どこかに座りたくて…」
私がいるのは、小汚い路地の裏だ。尚且つ、大きなゴミ箱の横。
座りたいと思っても、進んで座りたくなるような場所ではない。
丁度飲食店の裏手だった。こんな所で見すぼらしい子供が座り込んでいれば、何をしていたかは一目瞭然。
残飯を漁ろうとして、しかし中身が空であった事に絶望していていたところだった。
シャッター街とでも言うのだろうか、この通りにある建物のほとんどはもう使われておらず、この飲食店もとっくの昔に潰れたらしい。
この状況で、相席をしようとする彼女の気持ちが理解できなかった。
なんの生活音もしない寂れた空間には、太陽の光だけが容赦なく差し込んでいた。
「隣で少し休ませてもらってもいいでしょうか」
「……」
許可なんて取らなくても、ここは私の私有地ではない。
勝手にすればいい事なのに、彼女はわざわざ私に訪ねた。いいですよ、と答えるのもおかしくて、否定も肯定もしないまま黙りこくる事しかできなかった。
地面にじっと視線を落としていた私は、ふと隣の彼女の生白い足首を見つめてしまった。
血がパタパタと滴って、地面に赤黒い染みを作っている。
その視線に気が付くと、彼女は苦笑いした。
「私、お仕事の帰りなんです。あまり気にしないでくださいね」
酷い怪我をしている理由として、"お仕事の帰りだから"という言葉が出てくるとは思わなかった。
ああ成程そうだったんだな、と腑に落ちるような説明ではない。
嘘をつくならば、もっとマシな言い訳があるだろう。
子供でもすぐに思いつくはずだ。例えば、転びましたとか、悪い人に襲われましたとか。
ここで下手な嘘をつく理由はない。
という事は、仕事のせいで怪我をしたというのは、まさか本当なのだろうか。
着ているのは黒いワンピース。着慣れた普段着といった様子だ。
一体どんな仕事をしているというのか、まさか事故でも起こしたのか。
彼女の表情は暗い。浮かべている笑顔も優しい声も、空元気のように感じられた。
「仕事で、怪我しますか。痛く、ないんですか」
「怪我をしやすい仕事なんです。多少は痛いですけど…このくらいの怪我には慣れちゃいました」
声を出すのも億劫だったけれど、わいて出た好奇がつい私の口を開かせた。
すると、疑問が晴れるどころか、余計に謎が深まってしまった。
慢性的に、痛みに慣れる程に高頻度で怪我をする職業とはなんだろう。
例えば軍人ですとでも言われれば納得したかもしれなかったけれど、彼女は幼く制服も武器も纏っていない。ただの身一つに見える。
「慣れちゃい、ましたけど……」
その先の言葉は続かない。言葉を探そうとして、失敗したようだ。
立てた膝に顔を埋めて黙りこくってしまった。
そのまま、しばらく沈黙が続いた。私から話かけることもなく、時間だけが過ぎていく。
太陽の光が煩わしい。お腹がすいた。喉がかわいた。
取り留めのない考え事だけが脳内で流れ続けられた。
ここ数日水を飲んでないせいか、こんな真夏日なのに、汗の一滴もかけなくなってきた。
多分、死期は近いのだろうと思う。水を飲まずに人間が生きていられるのは、たった数日だったはずだ。
──どうせ最期になるならば。こうして誰かと雑談に興じるのも、いい過ごし方かもしれない。
いつもならば考えもしない事だった。
真っ当に生きてる人間には出来るだけ関わらないようにしていたのだ。
出来るだけ人様の視界に入らないよう、何かから逃げるように最近は生きてきた。
でも、そんな生き方も、もう最期。最期だから。最期ならば。
人間らしい時間の過ごし方を楽しもう。
彼女から逃げる事はせず、ここに留まるという選択をした。
──これが私の人生を変える運命の出会いになるのだとは、露知らず。
「……怪我」
ぽつりと、彼女は気が付いたように呟いて目を丸くした。
ボロ布になった白いワンピースからは、私の骨と皮のような四肢が露出してる。
そこには痣やひっかき傷があった。
パッと見ですぐわかる目立つ傷だ。隠そうと思っても隠せもしない。けれど彼女は本当にたった今気が付いたようで、びっくりとしてる様子だった。
「あなたは…痛くないんですか?」
「……私も、慣れました」
慢性的に続く疲労や痛みは感覚を麻痺される。痛いし辛い。けれど、いつの間にか、この程度の怪我に激痛を感じることはなくなった。
麻酔にも似てると思う。手術中、本来ならばのたうち回る切開でも、麻酔をかければぐっすり眠ったまま痛みも感じずいられる。慣れとはまるでモルヒネのような、有難くも厄介な物だった。
「……もう、日が暮れますね」
ふと見上げると、青い空色に朱が染まり始めているのに気が付いた。
時計ももっていないため、現在時刻は知らないけれど、恐らくよい子は帰る時間だろうなとぼんやり考え、ぽつりと問いかける。
「お姉さんは、こんな所に座ってていいんですか?門限は?」
まだ10代の少女だ。仕事をしているとは言っていたけど、親の庇護下にあってもおかしくない幼さが見え隠れしていたため、つい口うるさい大人のような事を口にしてしまった。
すると、ソレはこちらのセリフだと言わんばかりに、困った顔をされてしまった。
「……門限があってもなくても、私はもう少しここで蹲っていたいんです」
そう言って、彼女は深いため息を吐いた。
いかにも訳ありといった様子の彼女に質問を重ねようと口を開いた瞬間、ゲホっと咽てしまった。久々に喋り続いた疲労と、喉の渇きのせいだ。
口も舌も痛いし、喉も焼け付くように痛い。
彼女は綺麗な手を汚す事も厭わず、慌てて背中をさすってくれた。
最期の最期に残ったわずかな気力を振り絞ったお喋りも、もう限界。そろそろ終わりの時間が近づいてきたのだと悟る。
「私、こうして考え事がしたかったんです。自分がどうしたらいいか、何をすべきなのか」
「…?」
「罪滅ぼしが出来たらいいのにと、あてもなく歩き続けていたのです。」
私は、償いたい。
彼女は泣きそうな顔で言った。
日常の中で、中々出てこない言葉だろう。罪滅ぼし。償い。どんな業を背負い、そんな風に思い詰めるようになったのだろうか。
野次馬精神が豊富な性質という訳ではないけれど、興味はあった。
が、それを深堀りする気力が追い付かない。
無様な死に顔を見せる前に、そろそろ彼女お別れをしてしまいたいたかった。
話を切り上げるために、彼女に対して提案する。
「…おうちにかえる前に、教会へ寄ってみては」
彼女の宗派はしらないけど、懺悔室は今の彼女にはうってつけの場所だろう。
咳き込みながら言うと、彼女は顔を歪ませて、何かを否定するように首を振り、また俯いた。
「お国のためです、尊い行いです、私は罪人ではない、………なのにどうして」
どうして私は罪を犯したと思うのでしょうか。償いたいと思ってしまうのでしょうか。
手のひらを組む彼女はまるで神に許しを請っているかのようだった。
私に対して喋りかけているというよりも、独り言の自問自答のようだ。
もしかしたら、最初から懺悔室で懺悔をするように、告白を聞いてくれる、無関心な誰かを求めていたのかもしれない。
だとしたら、私と同じだ。誰でもいいから、誰かと関わりたいと思っていた。
「でも、あなたは生きてる」
言うと、彼女の肩がビクリと震えた。
そろりとこちらを見やる彼女は、まるで悪い事をして、大人に叱られるのを恐れる子供のような顔をしていた。生きている事が後ろめたいとでも言いたげな表情で青ざめていた。
そんな子供のような女性を、子供である私が諭すというのは、端から見れば滑稽な光景だろう。
「あなたの行いを罪にするのも善にするのも、あなた次第。…だから。まだ生きていてください」
生きているという事は、可能性に溢れているという事。
私のようにどん詰まりに陥らなければ、大抵の事はなんとかなる。
生きてさえれば。この灯が消えないうちは。そう思って恥も捨てて必死に生きてきた。
けれど。私の境遇をゲームに例えて説明するならば、HPがあと1も削れたらゲームオーバーになる状態、と言った所なのだ。アイテムもない。お金もない。逃げることもできない。ようするに"詰み"状態。
でも、彼女はまだ違う。
このまま何かに思い悩み、絶望して自死を選びでもしたら、もったいない事だ。
少なくとも肌艶のいい健康な体や衣服、食事を買うお金はあると見た。手札が尽きていないなら、まだ頑張ってみればいい。
軽い気持ちで言った言葉は、彼女の心に深く刺さったらしい。
彼女は暗かった表情を変えて、すくっと立ち上がった。
他愛ない会話で誰かの心を軽く出来たなら、善い事をした気分だ。悪くない心持ちで死んで逝けると思った。
寿命で死ねるのが一番だけれど、じわじわと衰弱死する、という現状も、他の死因に比べたらも悪くないと思った。
──その時。
「……いきませんか?」
彼女は、座り込む私にスッと手を差し伸べた。
「私は、お国のために…家族のために。自分のために、誰かのために…生きて善い人間になりたいです」
彼女の素性など何も知らなかった。名前も年齢も知らない。
知ってるのは性別と、怪我をしている事、何かに思い悩んでいる事だけ。
けれど、今新たに知った事がある。おそらく、この少女はきっとお人よしなのだろうという事を。
──誰が進んで小汚い子供に話しかけるだろう。
──どうしたら手を差し伸べられるだろう。
こんな子供の言葉を真に受けて、善い人間になりたいなんて、どうしたら思えるのか。
自分の罪を、善行でもって払拭したいという心境は理解できる。
けれど、そのために本当に誰かに救いの手を差し伸べるだなんて、簡単に出来る事じゃない。
「あなたのおうちは……いえ、」
真夏日と言って過言ではない日々が続いていた。じりじりと太陽の光に焼かれ、まとに寝付けず、数日飲食をしてない私の体は衰弱しきっている。
世界情勢を知り、尚且つ想像力があるならば、私の外見を見るだけで身の上は悟れるはずだ。問いかけたのは、念のためといった様子で、私の虚ろな目を見て、すぐに問いかをしまい込んだ。
──私は寄る辺ない孤児である。彼女もそう察したのだ。
終戦から幾ばくしか経っていないこのご時世、戦争孤児である可能性が高い。
けれど育児放棄や、親の病死で孤立したという可能性もある。
何にせよ、「どうして独りなのか」という理由を聞けば、傷を抉るだけと彼女は思ったようだ。
何も聞かずに、「よかったら、私のうちで涼んで行きませんか?」と笑いかけた。
私には最早失うものは何もない。
知らない人についていったらいけません、という教訓に逆らう事に躊躇いはなかった。
彼女が善人のふりした悪人であれ、向かう先が破滅であれ。今より悪い状態になる事はないように思えた。
「はい」
こくり頷き、その手を取ると、彼女は泣きそうな顔で笑った。
この時の私は、どうにでもなれと自暴自棄になってもいた。けれど同時に前向でもあったと思う。だって私は。
──心優しい善人が、救いの手を差し伸べてくれる瞬間を、ずっと昔から待ち望んでいたのだから。
もしかしたら彼女は私を助けてくれる人なのかもしれないという期待。
その淡い願いを抱くのは、破滅願望や悟りとは違う。輝く希望だった。
まるでシンデレラのように、どん底から救い上げられる。
そんな展開は、宝くじの一等が当たる確率と同じくらいの、あり得ないおとぎ話だろう。
そうと知りつつも、期待するのは、まさに"夢"を見るという状態なのだろう。
叶わなかろうと、あり得なかろうと、願うだけなら自由。
期待と諦観を同時に抱きながら、今日まで生きてきたのだった。
彼女の手に引かれ、夕暮れに照らされた道を歩き出した。
1.出会い─救いと償い
──人間が健全に育つために必要なものは何だろうか?
健全な魂は健全な肉体に宿る、という有名なフレーズがある。
それを信じるなら、きっと衣食住は欠かせないのだろう。健康な体を作るためには、食事と雨風に怯えなくていい住居が必要だ。
──じゃあ、心はどうなる?
肉体が健全であれば、人間は真っ当に生きられるだろうか。いや、それは違うだろう。
心も正しく育まれる必要があるはずだ。肉体と精神が揃って健康であればこそ、魂もそこに宿る事が出来る。
では、産まれたばかりの子供の精神が、健全に形成されるために必要なものは何だろうか?
私の中にある答えはたった一つだ。考える必要もない。
これを言えば、馬鹿馬鹿しいと、鼻で笑われてしまうだろうか。それでも問われたなら、私は必ずこう答えるだろう。
──必要なのは、きっと愛。健全な精神を育むために心に注がれるべきは、誰かの愛。
私はずっと、そう思い続けている。
──遠くに、影が見えた。
豆粒のように小さい影が、時間が経つ事に大きく鮮明に見えてくる。
ゆらゆらと陽炎のように揺れるソレは、10代の少女の姿だったようだ。
揺れていたのは、彼女の足取りが覚束ないせいだ。疲れているのだろうか、一歩一歩が重たそうで、鉛を背負ってるかのように緩慢な動作だった。
俯く表情は暗い。距離が近づくにつれて、服の裾から露出肌に赤い血が滴っているのが目視出来た。
すらりとした白い手足に、痛々しい赤が映える。
長い黒髪を靡かせた少女は、まるで明るい表通りを避けるように、この長い路地に入りこんできた。
「……はは」
まるで世界に絶望したようにくたびれた姿だ。一瞬"同類"なんじゃないかと思った。
けれど、彼女の手には果物の入った紙袋が抱えられていたし、怪我をしている以外は妙な部分はなく、清潔な身なりをしていたし、特別やせ細ってもいなかった。
同類だなんて勘違いをした自分がおかしくて、思わず笑ってしまったのだ。とはいえ、表情は変わらず、喉が鳴っただけの自嘲だったけれど。
その小さな声が聞えたのだろうか。遠く離れた場所を歩く少女が、ふと顔を上げてこちらを見た。
まさか、この長距離で、私の存在に気が付かれるとは思わなかった。
出来れば誰にも見つからないまま、物陰に隠れていたかったのに。
見なかったふりをすればいい。そのまま無視をして通り過ぎていけばいい。
哀れな姿を同情されるのも、罵られるのも疲れた。
人に存在を認知されて、リアクションをされるという事自体が、億劫になっていた。
その願いは叶わず、彼女は少しだけ歩くスピードを上げて、こちらへと近づいてきた。
ゆっくりと、まるで怯えた猫にでも接するように彼女は私に歩み寄る。
「あの、あなたは…こんな所でどうしたんですか…?」
黒い髪、黒い服。少しキツい印象を与える猫目とは相反する、とても柔らかな声だった。彼女の瞳は、心配ですという心情を雄弁に語っていた。
まさか覗き込まれるだけでなく、親切に話しかけられるとは思わず、身を固くしながら首を横に振る。それを何度も何度も繰り返した。
なんでもない、気にしないで、向こうに行ってという強い意思表示のつもりだったのだ。
けれど、彼女は少し思案した後、すとんと隣に座り込んでしまった。
誰かに近くに寄られるという事は久々で、離れたいと思ったけれど、結局離れようと動く気力もわいてこない。ただ疲れを逃がすような息だけが漏れた。
「……何で、そこに…?」
「……少しだけ、疲れてしまいまして。どこかに座りたくて…」
私がいるのは、小汚い路地の裏だ。尚且つ、大きなゴミ箱の横。
座りたいと思っても、進んで座りたくなるような場所ではない。
丁度飲食店の裏手だった。こんな所で見すぼらしい子供が座り込んでいれば、何をしていたかは一目瞭然。
残飯を漁ろうとして、しかし中身が空であった事に絶望していていたところだった。
シャッター街とでも言うのだろうか、この通りにある建物のほとんどはもう使われておらず、この飲食店もとっくの昔に潰れたらしい。
この状況で、相席をしようとする彼女の気持ちが理解できなかった。
なんの生活音もしない寂れた空間には、太陽の光だけが容赦なく差し込んでいた。
「隣で少し休ませてもらってもいいでしょうか」
「……」
許可なんて取らなくても、ここは私の私有地ではない。
勝手にすればいい事なのに、彼女はわざわざ私に訪ねた。いいですよ、と答えるのもおかしくて、否定も肯定もしないまま黙りこくる事しかできなかった。
地面にじっと視線を落としていた私は、ふと隣の彼女の生白い足首を見つめてしまった。
血がパタパタと滴って、地面に赤黒い染みを作っている。
その視線に気が付くと、彼女は苦笑いした。
「私、お仕事の帰りなんです。あまり気にしないでくださいね」
酷い怪我をしている理由として、"お仕事の帰りだから"という言葉が出てくるとは思わなかった。
ああ成程そうだったんだな、と腑に落ちるような説明ではない。
嘘をつくならば、もっとマシな言い訳があるだろう。
子供でもすぐに思いつくはずだ。例えば、転びましたとか、悪い人に襲われましたとか。
ここで下手な嘘をつく理由はない。
という事は、仕事のせいで怪我をしたというのは、まさか本当なのだろうか。
着ているのは黒いワンピース。着慣れた普段着といった様子だ。
一体どんな仕事をしているというのか、まさか事故でも起こしたのか。
彼女の表情は暗い。浮かべている笑顔も優しい声も、空元気のように感じられた。
「仕事で、怪我しますか。痛く、ないんですか」
「怪我をしやすい仕事なんです。多少は痛いですけど…このくらいの怪我には慣れちゃいました」
声を出すのも億劫だったけれど、わいて出た好奇がつい私の口を開かせた。
すると、疑問が晴れるどころか、余計に謎が深まってしまった。
慢性的に、痛みに慣れる程に高頻度で怪我をする職業とはなんだろう。
例えば軍人ですとでも言われれば納得したかもしれなかったけれど、彼女は幼く制服も武器も纏っていない。ただの身一つに見える。
「慣れちゃい、ましたけど……」
その先の言葉は続かない。言葉を探そうとして、失敗したようだ。
立てた膝に顔を埋めて黙りこくってしまった。
そのまま、しばらく沈黙が続いた。私から話かけることもなく、時間だけが過ぎていく。
太陽の光が煩わしい。お腹がすいた。喉がかわいた。
取り留めのない考え事だけが脳内で流れ続けられた。
ここ数日水を飲んでないせいか、こんな真夏日なのに、汗の一滴もかけなくなってきた。
多分、死期は近いのだろうと思う。水を飲まずに人間が生きていられるのは、たった数日だったはずだ。
──どうせ最期になるならば。こうして誰かと雑談に興じるのも、いい過ごし方かもしれない。
いつもならば考えもしない事だった。
真っ当に生きてる人間には出来るだけ関わらないようにしていたのだ。
出来るだけ人様の視界に入らないよう、何かから逃げるように最近は生きてきた。
でも、そんな生き方も、もう最期。最期だから。最期ならば。
人間らしい時間の過ごし方を楽しもう。
彼女から逃げる事はせず、ここに留まるという選択をした。
──これが私の人生を変える運命の出会いになるのだとは、露知らず。
「……怪我」
ぽつりと、彼女は気が付いたように呟いて目を丸くした。
ボロ布になった白いワンピースからは、私の骨と皮のような四肢が露出してる。
そこには痣やひっかき傷があった。
パッと見ですぐわかる目立つ傷だ。隠そうと思っても隠せもしない。けれど彼女は本当にたった今気が付いたようで、びっくりとしてる様子だった。
「あなたは…痛くないんですか?」
「……私も、慣れました」
慢性的に続く疲労や痛みは感覚を麻痺される。痛いし辛い。けれど、いつの間にか、この程度の怪我に激痛を感じることはなくなった。
麻酔にも似てると思う。手術中、本来ならばのたうち回る切開でも、麻酔をかければぐっすり眠ったまま痛みも感じずいられる。慣れとはまるでモルヒネのような、有難くも厄介な物だった。
「……もう、日が暮れますね」
ふと見上げると、青い空色に朱が染まり始めているのに気が付いた。
時計ももっていないため、現在時刻は知らないけれど、恐らくよい子は帰る時間だろうなとぼんやり考え、ぽつりと問いかける。
「お姉さんは、こんな所に座ってていいんですか?門限は?」
まだ10代の少女だ。仕事をしているとは言っていたけど、親の庇護下にあってもおかしくない幼さが見え隠れしていたため、つい口うるさい大人のような事を口にしてしまった。
すると、ソレはこちらのセリフだと言わんばかりに、困った顔をされてしまった。
「……門限があってもなくても、私はもう少しここで蹲っていたいんです」
そう言って、彼女は深いため息を吐いた。
いかにも訳ありといった様子の彼女に質問を重ねようと口を開いた瞬間、ゲホっと咽てしまった。久々に喋り続いた疲労と、喉の渇きのせいだ。
口も舌も痛いし、喉も焼け付くように痛い。
彼女は綺麗な手を汚す事も厭わず、慌てて背中をさすってくれた。
最期の最期に残ったわずかな気力を振り絞ったお喋りも、もう限界。そろそろ終わりの時間が近づいてきたのだと悟る。
「私、こうして考え事がしたかったんです。自分がどうしたらいいか、何をすべきなのか」
「…?」
「罪滅ぼしが出来たらいいのにと、あてもなく歩き続けていたのです。」
私は、償いたい。
彼女は泣きそうな顔で言った。
日常の中で、中々出てこない言葉だろう。罪滅ぼし。償い。どんな業を背負い、そんな風に思い詰めるようになったのだろうか。
野次馬精神が豊富な性質という訳ではないけれど、興味はあった。
が、それを深堀りする気力が追い付かない。
無様な死に顔を見せる前に、そろそろ彼女お別れをしてしまいたいたかった。
話を切り上げるために、彼女に対して提案する。
「…おうちにかえる前に、教会へ寄ってみては」
彼女の宗派はしらないけど、懺悔室は今の彼女にはうってつけの場所だろう。
咳き込みながら言うと、彼女は顔を歪ませて、何かを否定するように首を振り、また俯いた。
「お国のためです、尊い行いです、私は罪人ではない、………なのにどうして」
どうして私は罪を犯したと思うのでしょうか。償いたいと思ってしまうのでしょうか。
手のひらを組む彼女はまるで神に許しを請っているかのようだった。
私に対して喋りかけているというよりも、独り言の自問自答のようだ。
もしかしたら、最初から懺悔室で懺悔をするように、告白を聞いてくれる、無関心な誰かを求めていたのかもしれない。
だとしたら、私と同じだ。誰でもいいから、誰かと関わりたいと思っていた。
「でも、あなたは生きてる」
言うと、彼女の肩がビクリと震えた。
そろりとこちらを見やる彼女は、まるで悪い事をして、大人に叱られるのを恐れる子供のような顔をしていた。生きている事が後ろめたいとでも言いたげな表情で青ざめていた。
そんな子供のような女性を、子供である私が諭すというのは、端から見れば滑稽な光景だろう。
「あなたの行いを罪にするのも善にするのも、あなた次第。…だから。まだ生きていてください」
生きているという事は、可能性に溢れているという事。
私のようにどん詰まりに陥らなければ、大抵の事はなんとかなる。
生きてさえれば。この灯が消えないうちは。そう思って恥も捨てて必死に生きてきた。
けれど。私の境遇をゲームに例えて説明するならば、HPがあと1も削れたらゲームオーバーになる状態、と言った所なのだ。アイテムもない。お金もない。逃げることもできない。ようするに"詰み"状態。
でも、彼女はまだ違う。
このまま何かに思い悩み、絶望して自死を選びでもしたら、もったいない事だ。
少なくとも肌艶のいい健康な体や衣服、食事を買うお金はあると見た。手札が尽きていないなら、まだ頑張ってみればいい。
軽い気持ちで言った言葉は、彼女の心に深く刺さったらしい。
彼女は暗かった表情を変えて、すくっと立ち上がった。
他愛ない会話で誰かの心を軽く出来たなら、善い事をした気分だ。悪くない心持ちで死んで逝けると思った。
寿命で死ねるのが一番だけれど、じわじわと衰弱死する、という現状も、他の死因に比べたらも悪くないと思った。
──その時。
「……いきませんか?」
彼女は、座り込む私にスッと手を差し伸べた。
「私は、お国のために…家族のために。自分のために、誰かのために…生きて善い人間になりたいです」
彼女の素性など何も知らなかった。名前も年齢も知らない。
知ってるのは性別と、怪我をしている事、何かに思い悩んでいる事だけ。
けれど、今新たに知った事がある。おそらく、この少女はきっとお人よしなのだろうという事を。
──誰が進んで小汚い子供に話しかけるだろう。
──どうしたら手を差し伸べられるだろう。
こんな子供の言葉を真に受けて、善い人間になりたいなんて、どうしたら思えるのか。
自分の罪を、善行でもって払拭したいという心境は理解できる。
けれど、そのために本当に誰かに救いの手を差し伸べるだなんて、簡単に出来る事じゃない。
「あなたのおうちは……いえ、」
真夏日と言って過言ではない日々が続いていた。じりじりと太陽の光に焼かれ、まとに寝付けず、数日飲食をしてない私の体は衰弱しきっている。
世界情勢を知り、尚且つ想像力があるならば、私の外見を見るだけで身の上は悟れるはずだ。問いかけたのは、念のためといった様子で、私の虚ろな目を見て、すぐに問いかをしまい込んだ。
──私は寄る辺ない孤児である。彼女もそう察したのだ。
終戦から幾ばくしか経っていないこのご時世、戦争孤児である可能性が高い。
けれど育児放棄や、親の病死で孤立したという可能性もある。
何にせよ、「どうして独りなのか」という理由を聞けば、傷を抉るだけと彼女は思ったようだ。
何も聞かずに、「よかったら、私のうちで涼んで行きませんか?」と笑いかけた。
私には最早失うものは何もない。
知らない人についていったらいけません、という教訓に逆らう事に躊躇いはなかった。
彼女が善人のふりした悪人であれ、向かう先が破滅であれ。今より悪い状態になる事はないように思えた。
「はい」
こくり頷き、その手を取ると、彼女は泣きそうな顔で笑った。
この時の私は、どうにでもなれと自暴自棄になってもいた。けれど同時に前向でもあったと思う。だって私は。
──心優しい善人が、救いの手を差し伸べてくれる瞬間を、ずっと昔から待ち望んでいたのだから。
もしかしたら彼女は私を助けてくれる人なのかもしれないという期待。
その淡い願いを抱くのは、破滅願望や悟りとは違う。輝く希望だった。
まるでシンデレラのように、どん底から救い上げられる。
そんな展開は、宝くじの一等が当たる確率と同じくらいの、あり得ないおとぎ話だろう。
そうと知りつつも、期待するのは、まさに"夢"を見るという状態なのだろう。
叶わなかろうと、あり得なかろうと、願うだけなら自由。
期待と諦観を同時に抱きながら、今日まで生きてきたのだった。
彼女の手に引かれ、夕暮れに照らされた道を歩き出した。