第四十二話
5.恋情好き


ユーリは仕事が忙しいらしく、もう2日以上家に帰っていない。
少し前までは、度重なる休日出勤と残業バリバリのブラックじみた働き方をしているな、と外交官という職についた仕事を憐れむだけだった。
けれど秘密警察という仕事につき、少尉という位を得ている事を思い出すと、こんな生活になっても仕方ないと納得もするようになった。
出張が多く不在がちである、というのはただの方便。実際は優雅に外交しているのではなく、徹夜でターゲットを張ったり身辺調査をしたりと、割とスパルタな職務に励んでいるからなのだ。
じわじわと、ユーリが就いている職名を思い出すと、職務内容も連動するように思い出す事が出来た。
確か、仕事に勤しむユーリの一日を描いたエピソードがあったはずだ。
ユーリが家を空ける度にその事実を思い出し、やっとの事で朧げな記憶が形になってきた。


「…うーん…」

これを思い出したからと言って何になる訳でもないのだけど。
それどころか、この世界で生きる上では、知識を思い出す度に足枷に変わっている。
ここでは無害な小市民として、粛々と暮らしるだけで安泰なのだ。
特別な情報を握っている状態なんて、それこそスパイを題材にした物語の中では危険だ。抹消されるに値される要注意人物に変わってしまうのだから。
学校から帰宅し、風呂を済ませてから課題を終わらせた。
ユーリはいつ帰ってくるかも目途が立たないらしく、食事も一人で済ませていいと電話で言伝されているので、自分一人で簡単に済ませてしまった。
手持無沙汰になった私は、一人きりの部屋の静けさが寂しくて、ソファーに座ってなんとなくテレビをつけた。

「…あ、バーリントラブだ…」

そしてチャンネルを変える暇もなく、即座に画面に映ったのは、流行に疎い私でも知っている作品だった。
その濃密なラブストーリーも見どころだけれど、出演する女優も大変魅力的だと噂の作品だった。
俳優も、我校の女生徒からも大変な人気を誇っている。
社会現象…とまではいかないまでも、このドラマはここバーリントでは特に熱心な人気を勝ち取っていて、流石の私もこの流行には乗っておかねば会話に困ると、重い腰をあげようとしていた程だった。
じっと画面を眺めて、煌びやかな服装やネイルをキラリと光らせる女優を観察する。

「……確かに綺麗なひと、でも…」

身近にいる女性や男性…つまりはヨルさん、ロイドさん、そしてユーリの顔立ちが平均以上に整っているので、それと比べると、女優男優も、なんとなく見劣りしてしまう。
テレビでに映る女優・俳優は現物で見ると褪せて見えるという説と、生で視た方が100倍綺麗だという説がある。この人達はどっちだろうかと考えてしまう。
けれど、少なくともブライア姉弟は、写真写りもいい上に、間近で見てもその綺麗さは変わらない。
なので、やはり彼らの方が勝ってみえてしまうのだ。
これは身内の贔屓目だろうか、などと考えながら、男女が抱きしめ合ったり、キスをしたり、押し倒されたりと言ったラブの嵐の展開をぼんやりと眺めた。
こうして作り物を眺める分には何とも思わないのに、ユーリがフォージャー家でキス騒ぎを起こした時は大変居た堪れない気持ちになったものだ。

クッションを抱えて、ソファーのひじ掛けに少しもたれながら、じっと彼女達の恋模様を追いかけた。ドキドキする、と噂のその物語は、私の胸には何も響かず、ただ脳みそがストーリーを追いかけるのみ。そしてたまに他愛のない事を頭の片隅で考え、時間が過ぎていくのだった。


「……それ、そんなに面白いのか?」

丁度男女が抱きしめ合って、女が男にキスをせがんでいるシーンに差し掛かった時だった。
頭上から慣れ親しんだ声が耳に降りてきて、驚いてバッとそちらを見上げる。
そこにはいつの間に帰ってきていたのか、少しくたびれた様子のユーリが立っていた。
いつもなら鍵が回された音がした時点か、室内のドアが開閉された音がした時点で、自室にいようが玄関まで出迎えに行ったのに。


「ごめん、帰ってたんだね…おかえり」


気配なく突然声をかけられた驚きと、家主を出迎えられなかった事への悔しさ。それらで悶々としながら、テレビのスイッチを消すため立ち上がろうと腰を浮かせる。
そうすると、ユーリは手で私の行動を留めた。座ったまま、テレビを観ていていい、というお達しだろう。
ただの惰性で観ていただけなので、ユーリとの会話を差し置いてまで視聴を続けたいとは思わない。
けれどわざわざとそう反論するのも気が引けて、お言葉に甘えて再びソファーに座す事にした。
心の中でため息を吐きながら、すげない態度を取った男の唇を無理やり奪ったヒロインの姿を目で追う。
視聴者からすれば、この展開もドキドキ…というヤツなのだろうか。流石に男の方もここまでされれば照れが入るらしく、夜景をバックにして、満更でもなさそうな反応をしている。恐らく押し負けたのだろうと思う。
それを見ても尚やはり何も思わず、この人達頑張るなぁ…と冷めた目で受け止める事しか出来ない。何も感じないストーリーを追うために、何故時間を費やしているのだろうかと虚しくなってしまった。

「やっぱりだめだね、こういうの見ると夢中になっちゃって、気が付けなかった」
「そんなに好きだったのか、ドラマ」
「そういうのじゃなくて…」

ユーリが服を緩めながら、興味深そうに私の方を眺めた。恋愛ドラマに興味を持つタイプだったかと驚いているのだろうと辺りをつける。
傍からすれば、夢中になった=好きという認識がになるのだろう。
けれど、私の場合はそうとも限らないと弁明する。

「集中しちゃって意識が持ってかれるから…ユーリにお帰りって、ちゃんと言えなかったし」

ヒロインが夜景を見に行こうと彼を誘い、迫り、キスして、彼は満更でもない反応をして──
そういう流れを追うと、面白い面白くない、好きか嫌いかの問題は関係なく、じっとその世界観に集中してしまうのだ。
それこそ、なんの音も聞こえなくなるほどに。だから私はあまり物語を…本や映像をみたいと思わなくなっていた。
前世で生活の合間の息抜きとして楽しむ分には問題なかった。けれど、今世では娯楽を楽しむ余裕というものが生まれた頃から無かった。
今は、私を養ってくれている彼らが許してくれたとしても、やはりどこか後ろめたくなるのだ。
そういう葛藤を見抜いているのだろうか、ユーリが顰め面で私を諫めた。

「好きな事を優先していいよ、家でそんなに行儀よく振舞わなくていいから」
「……好きじゃなくて、学校の子はみんなすきみたいだし…付き合いみたいなもの」
「…、付き合いとかできたんだな……」
「そんな、ひどい…」


私がユーリに否定すると、とんでもない不名誉な事をしみじみ言われて、ショックで眉が下がった。
確かに付き合いがよくないのは否定しない。このバーリントラブだって、流行のピークを過ぎてから、偶然目にした事をきっかけに、ようやく着手したくらいだ。
けれどそこまで深々と言われるほど、淡泊な人間になった覚えはないのだ。
はぁ、とため息を吐きながら、私は最早憎たらしいとすら思うようになったドラマをじと目で眺めながら言った。

「付き合いなんかより、好きなことを優先したらよかったよ」
「好きなこと?」
「お出迎えすること」

テレビを消そうとして止められてしまったけれど。私にとっては、そんな雑音は消して、大切な人と水入らずの会話をする方が大事に思えた。
三日ぶりに家に帰ったユーリを笑顔で出迎えて、疲れているなら労わりたかったし、すぐにお茶の支度だって出来ていたはずなのに。
そうしてなんとなく落胆して拗ねていると、ふとユーリが目を丸くして固まっている事に気が付いた。
何かおかしな事でも言っただろうかと自分の言動を振り返るも、特別な事を言った記憶はなくて困惑する。
言葉の意図がユーリに上手く伝わらなかったのかと悩むも、しかしあの言葉通りの意味でしかなく、それ以上に何と伝えたらいいのか少し悩みながらも、おずおずと説明を付け足した。

「誰かを待っていられるのは幸せなこと…、…だから」

これで伝わっただろうか。何が分からないのか分からないとは正にこの事だななと思いながら、相手の様子を伺い、上目になりながら伝えた。…けれど、しかし。

「あ、の…ユーリ…」

ユーリは黙したまま、口を開こうとしない。
益々何か失言したかという不安に苛まれ、しかし心当たりなどいくら考えてもなく、無意味に間を持たせる言葉が途切れ途切れに出て来る。
するとそんな私の困惑にユーリはようやく気が付いたようで、ハッとぼんやりしていた意識を改めて、私に向けたのが分かった。

「……ただいま」

戸惑っていた私をフォローする意味もこめてか、改めて挨拶を投げかけられた。
出迎えるのが好きだ、と言った私に合わせてくれたのだろうと分かった。
そんな気遣いが嬉しくて、自然と自分の頬が柔らかく綻んでいった。

「おかえり、ユーリ」

これこそが、私にとって幸せだなと心底感じられる瞬間だった。
心が満ち足りるというのは、きっとこういう心地の事をいうのだ。
そんな私を見ると、まるで鏡のようにユーリもつられて笑顔になった。そうして会話が一区切りつくと、ユーリはそのまま自室に踵を返そうとしてしまった。

「あ…、」

私は思わず、ユーリが去ってしまうその前に、ユーリの服の裾を掴んで留めた。
腰のあたりの裾が引っ張られ、皺になっているのがみえて思わず眉が寄った。
明日綺麗にアイロンをかけないと、いや今日中に済ませようかと考えたところで、ユーリが私の奇怪な行動についての説明を求めるような顔をしているのに気が付く。私はパッとその手を離してから、こう告げた。

「………今日、凄く疲れてたよね?どうかしたの」
「ああ…」


相変わらず私は座ったまま、ユーリは私を見下ろしたままである。
なんとなくこの構図には苦手意識がある。大人に叱られる子供のように縮こまってしまうのは、最早反射だろう。
ユーリは私の問いかけに心当たりがあったようで、得心がいったように苦笑した。
三日も泊まり込みで仕事をすれば誰だって疲れるだろう。けれどそういった肉体的な疲労だけでなく、内側にある心労がユーリの顔や仕草、声色に現れていたのに、私は一目で気が付いていたのだ。
それを問いかける前に会話を切り上げられてしまったので、思わず強引に引き留めてしまったのだった。

「もう疲れてない」

サッパリと、晴れやかな表情でユーリが言う。
もう、という事は、やはりこの三日間、疲れてはいたのだろう。今もその名残に私が気が付いてしまう程。
けれど"どこか"の段階で疲れが晴れたのだという。
まさか栄養ドリンクを飲んだら元気溌剌になった…なんて言う訳じゃないだろう。
だとしたら──アレだろうか。ついさっきも考えていた、ユーリの仕事の一日を描いたあのエピソードが、丁度今日に差し掛かっていたのかもしれない。
虫の知らせじみたタイミングだなと思いながら、さりげなくユーリに探りを入れる。

「………そう?………もしかして、ヨルさんの家に寄ったのかな」
「な、なんで知ってるんだそれ」
「一日疲れてたけど、すぐ元気になったってことなら…そういうことかと思って」
「どういうことだよ」
「そういうこと…」

私の問いかけは図星だったようで、ユーリはとても驚いたような顔をしていた。
やっぱりだ。仕事で疲れたユーリは直帰せずに、フォージャー家を訪ねて、ヨルさんに元気を分けてもらいに行ったのだ。
ユーリの場合、疲れを癒すために一番効果覿面なのは、栄養ドリンクでも睡眠でも何でもなく、ヨルさんという聖母の存在なのである。
どういう事もこういう事もないだろう。自分が一番よく分かっているはずなのに、と少し呆れながら、しかし微笑ましくもあって、つい口元が綻んだ。

「会えてよかったね」

くすくすと笑いながら言うと、ユーリは馬鹿にされたと思ったのか、少しムッとして口をとがらせていた。

「──恋に本気になると、人は臆病になるものよ」
「傷つくのを恐れてどうなるというの?」

ドラマのエピソードは丁度終盤に入ったようで、彼との恋に悩んだヒロインが、女友達にバーで相談しているシーンが写されていた。
それが視界の片隅に入る事や、その音声が耳に届く事すら邪魔な雑音だと思ってしまった私は、ブライア家の深すぎる家族愛に毒されているかもしれなかった。
──親愛が恋情に変わってしまうのは困る。
けれどこうしてユーリやヨルさんを微笑ましく思ったり、労わる事は苦ではないし、ここまで深く誰かを親しめるというのは、とても愛しく尊い事だと思う。

「ユーリ、手、かしてくれる」
「?なに」
「手」

お手、といった動作をすると、ユーリはその意図を察して、床に膝をついてくれた。
そして自分の手のひらを素直に差し出して置いてくれたので、私はその上から、空いたもう片手を挟むように重ねる。
ユーリの手の甲を労わるように撫でると、ピクリと驚いたようにユーリの指が動いた。

「──おつかれさま。毎日頑張ってえらいね。すごいよ」

ユーリの手の甲は存外荒れてはいなかった。
そういえば、外出するときはいつも手袋をしていたなと思い出す。
その代わり手の平にはタコのようなものが出来ていたので、皮膚が固くなる程に鍛錬したであろう過去のユーリと、現在のユーリの頑張りを褒め称えた。
私ではヨルさん程の薬にはならないだろう。けれど、こうされて嫌がられる程嫌われてはいないだろうし、身内扱いされ、好かれているという自覚は流石にある。
手元に視線を下していた私がユーリの方を見ようとすると、ユーリのもう片手が不意に私の頭に伸びて、くしゃりと撫で回してきた。

「う、わっ」
「…も、今日も一日頑張って…えらい」
「なにを」

まるで私の髪をわざと乱そうとしているのでは、と思うほどぐりぐりと撫でまわされて、眉に皺が寄る。
人が真剣に労わっていたというのに。適当なからかいと、適当な応酬をされて、思わずムッとしてしまった。
何に対しての"偉い"なのかと問うと、また濁したようないい方をされてしまった。

「あー…勉強とかしただろう」
「したけど、何その適当…ちょっと、もういや」

喋りながらもかき乱すユーリの手は止まらず、私はいつまでも顔が上げられない。
まるで押さえつけられているようで嫌だった。さすがに我慢の限界を迎えた私は握っていたユーリの手を離して、己の両手を使って抵抗しにかかろうとした。
しかし私の手がユーリに伸びるよりも前に、ユーリは私の身体に腕を回し、抱きしめる。
反射的に、驚いた私の体はびくりと肩を跳ねさせた。
あまりに一瞬のうちに、ごく自然と行われた行動だった。私の思考は追い付かず、しばらく呆けてしまう。
撫で繰り回された挙句に、私はユーリに抱きしめられているようだ、と脳が認識した時には、抵抗するという選択肢もわかなかった。大人しく腕の中に納まるという選択をする他なかったのだ。
例え本人がもう疲れていない、と否定しても、ユーリに疲労が残ってるという事は、最初から分かっていたのだから。
人と人の肌が触れ合うとストレスの解消に繋がり、幸福感を得られるというのは、確か科学的にも実証されていたはずなのだ。
私が大人しくしていると、その無反応は許しだと取ったらしいユーリは、回す腕に入る力をさらに強めた。
さすがに苦しいし、必要以上にベタベタされるのは嫌で、小さく呻き声を上げてしまう。

「……ユーリは、ひとに触るのすきだよね」

バーリントラブの恋愛体質の登場人物でさえここまで長いハグはしないだろう。
さすがに気恥ずかしくなってきて、自然と顔が俯いて行く。
呆れ半分、感心半分、皮肉半分…色んな意味をこめてユーリに言うと、肯定が返ってきた。

「…うん、好きだよ」
「……そう、だよね……」

そうでなけば、まるで愛玩動物の腹に顔をうずめて癒される飼い主のように、うっとりと肯定しやしないだろう。
今度は本気で呆れてしまった。ソファーに座る私にかぶさるようにしているので、その姿勢は疲れるだろうとユーリの足を叩き、絨毯の上に座るよう無言で促す。
するとユーリはその意図をくみ取ったようだ。ユーリが一度腕を緩めてから、私をソファーから下す隙を作らせた。私が膝をつくと、すぐさまハグの姿勢に入られたので、もう好きなだけ楽しんでくれと抵抗を諦めたときの事だった。
思わぬ言葉がユーリの口元から降ってきた。

「──がすきだよ」

──時が止まった。息を呑んだ。驚いた。
どんな言葉も当てはまらないほど、私は妙な心地になった。
今、ユーリは何といった?私は何度もユーリの言葉を反芻しては、自分が先ほど何と問いかけたか思い出そうとする。
何故"好き"だなんて言われるに至ったのか、この短時間で幾度も考えた。
けれど何度考え直しても納得のいく答えがでない。スキンシップが好きかどうかと問いかけただけで、間違っても「私のことが好き?」なんて質問はしてない事を確認した。

「私が、すき……」

私がまるで譫言のように呆然と言い直しても、その言葉が耳に届いていないのか、ユーリはただ無言で抱きしめるのみ。答えてくれるどころか、リラックスした呼吸を繰り返すばかりだった。
このまますると寝落ちされてしまいそうだと危惧して、ユーリの背中をポンと叩いてみる。すると流石に気が付いて、腕を離してくれた。

「ありがとう」

ユーリは礼を言って立ち上がり、そのままどこかサッパリとした面持ちで風呂へと向かってしまった。

「……なに、あれ」


私はその背を見送りながら、未だ何度も脳内で、ユーリの言葉を反芻させる事を止められなかった。
思わず、といった様子だった。眠そうなくらいに気が抜けているユーリの口にから零れた言葉。
スキンシップが好き。抱きしめるのが好き。

──私が好き。


2022.12.29