第四十一話
5.恋情─人肌
ユーリはその次の日も帽子を深々と被り、大きめのジャケットを羽織って人込みに紛れ、パーキンを尾行していた。
自宅や外出先でバイヤーへ繋がるような怪しい連絡や接触はなかった。となると──
残されたのは、職場というただ一つの可能性。
彼が務めているのは、郵便局だったのだ。こんなにも都合のいい職場はないだろう。
局内には、検閲済みの郵便物が入った箱が乗ったカートを押す人のよさそうな年嵩の職員がいた。
「ああジョセフさんねオレが運んどきますよ。昼休憩先にどうぞ」
「おっサンキュー♪何食うかなー」
ジョセフという同僚が上機嫌で踵を抱えすと、郵便局の制服を纏ったパーキンは、周囲を警戒しながら懐に手を入れる。
検閲済みの郵便物が詰まったその箱の中に、バイヤーへ売るための記事や写真が入った郵便物を忍ばせようとしているのだろう。
誰も見ていない、とパーキンは思っているが、実際は物陰からユーリが監視しているのだ。
その封筒を忍ばせた瞬間、パーキンに弁解の余地はなくなる。
震える手がソレを箱に落としてしまうまで、ユーリは眺め、その瞬間を瞬きもせず見届けた。
──15日、8時02分。
「父さん、仕事行ってくる」
「んー」
この日、ユーリ達は潜伏のためのカジュアルな私服ではなく、保安局の制服をキッチリと纏い、パーキンの住まうアパートの外に佇み、険しい顔で待ち構えていた。
朝のテレビを見る父の背中に向けて声をかけ、コートを羽織っていたパーキンは、ふと窓の外に視線が向かわせると、ぎくりと動きを止めて硬直してしまう。
「保安…局…」
パーキンは窓からその姿を目視すると、青ざめた顔をして、しばらくしてから観念したような顔をして項垂れる。
「ごめん父さん、しばらく戻らないかも…」
彼は小さく父親に向けて謝ると、死刑台に上がるような心持ちで部屋を出て、アパートの廊下を歩く。
そしてゆっくりとアパートの目の前に伸びる道路に繋がる階段を進み、一歩一歩と降りて行った。向かったその先には厳しい面持ちをしたユーリがいる。
「フランクリン・パーキン。おまえが書いたもので間違いないな?送り先のバイヤーをすでに捕えた。観念しろ」
ユーリが黒い手袋の上から持っている封筒は、パーキンが郵便局で検閲済みの箱に忍ばせた例の封筒だ。
パーキンは申し開きをするつもりもないようで、ただ自嘲するように喉を震わせていた。
「わざわざ外で待っててくるたぁ、お優しい秘密警察もいたもんだ」
「家族におまえの惨めな姿を見せないためだ、勘違いするな」
ユーリが制服の懐から手錠を取り出すと、彼は抵抗をする様子もなかった。観念した様子のパーキンの両手を後ろに回させ、ユーリは手錠をかけて拘束してしまう。
「フン…政府と戦ったオレと政府の犬のおまえ、どっちが惨めなんだろうな?」
「……ボクは…家族を…、…大切な人を悲しませるようなことはしない。絶対に」
最後まで憎まれ口を閉ざさなかったパーキンは、そこで口を噤んだ。やはりパーキンにとって家族…父親や亡くなった母親は大きな存在だったのだろう。
パーキンは今回、酷く父親を落胆させ、悲しませる結末を辿ってしまったのだ。ユーリの言葉に反論する余地もないようだ。ユーリはそんな彼に温情の言葉を投げかける。
「父親の生活には多少の支援を申請しといてやる」
「……助かるよ……」
すっかりと萎れ切ったパーキンは連行されながら、背中越しに背後に立つユーリに向けて小さく礼を言った。
***
「よーうユーリくん!大活躍だってねー、おじさん嬉しいよ!」
ユーリが保安局の廊下を歩いていると、背中をポンポンと叩かれながら、快活な声をかけられた。そちらを振り返ると、ユーリは思わぬ人物の登場に少し驚きながらピシッと敬礼した。
「あ…局長殿、光栄です!」
「新米にゃ色々しんどい仕事だろう。あんまストレスためんなよ?」
「…いえ」
サングラスをかけた男…局長は、はははーと朗らかに笑いながらユーリを労わる。
しかしユーリは局長が言うストレスやしんどいだろうという気遣いを否定した。
「ボクこの仕事向いてると思います!」
にこーという擬音がつきそうな程に爽やかに浮かべたのは、いつもの外行きのスマイルだった。疲れなど垣間見せないような完璧な笑顔である。
が職場でボロが出ていないかと心配していたのは杞憂だったのだろうか。さすがに社会人として分別はつけ、場と相手を弁えているようである。
ユーリは綺麗な好青年の笑顔を保ったまま宣言してみせた。
「この勢いで〈黄昏〉も捕まえてこの国の治安を守ってみせますよ!」
「…そうか、そうだといいな…」
局長と呼ばれる彼は、少し含みのある笑顔と声色で、ガッツポーズを捕る元気なユーリに頷いた。実際ユーリは家族を大事にしているパーキンを監視し、連行するに至るまで、心を一切病まなかった訳じゃない。それを彼は見抜いていたのだろう。
「今度うまい肉でも食わせてやるよ」
「ほんとですか!?言質とりまはたからね!?」
わーいと喜んで上司に甘えられるのは、姉に可愛がられた弟ならではのスキルだろうか。
ユーリの笑顔の奥にある葛藤も、この局長が容易く見抜いてしまったのは、年の功だろえか。それともその地位まで上り詰めた彼だからこそたの技なのだろうか。或いはどちらもか。
その夜、ユーリは家に直帰せずに、フォージャー家の玄関のチャイムをジリリと鳴らしていた。
「やあ姉さん!」
「ユーリ!?どうしたの、こんな遅くに?」
「こんばんはユーリくん」
「おじ」
真っ先に出向かえてくれた姉の姿に和みつつも、すぐにその後ろから顔を覗かせたロイドをみるなり、すぐムッとした顔をする。
なんでいるんだ夜も働け、と大分無茶な事を心の中で思いつつも、姉に向けた笑顔と声色は柔らかい。
「なんか、姉さんの顔をみたくなっちゃって…」
ユーリが少し控えめに笑うと、足元でじっと観察していたアーニャが、突然ポンポンと労わるようにユーリの足を叩いた。
その労わりの意図には気が付けず、何だチワワ娘…と言って怪訝そうにして引くだけだった。心を読まれているなんて思いもしないだろう、当然の反応と言えばそうである。
しかし姉であるヨルには、ユーリが疲弊している事などお見通しだったのだろう。
スッと華奢なヨルの手がユーリの頭に伸びて、ポンポンと労わるように撫でた。
「お仕事おつかれさま、今お茶いれますね」
「姉さぁー−ん!」
「あらあら近所迷惑ですよユーリ」
心の中を姉ラブの思いでいっぱいにすると、ロイドは苦笑し、そして心を読んだアーニャは人知れず胸焼けをさせ、白けた顔をしていた。
今回疲れたユーリがまず向かったのは、フォージャー家だ。
ヨルの顔を見ると、形容しがたい感情が広がり、どこかくすぶっていた心が癒されるのを感じられる。
疲れた時、会いたい人の候補は2人いて、今回ユーリが選んだのは敬愛する姉・ヨルだった。そしてもう一人は…だ。
ただこういう時、後者のと顔を合わせるのはなんとなく躊躇われた。会いたいけど会いたくない、と言った裏腹な思いを抱えて
いたのだ。
かと言って外泊をして避ける、と言った露骨な事をする程でもなく、少し気まずいというだけ。
ユーリの姉・ヨルは、ユーリが生まれたその瞬間から、もうずっと"姉"という生き物として在り続けていた。
弟を甘やかすのが仕事で、そして弟たるユーリも姉に甘えるのが仕事のようなものだったのだ。
けれどは付き合いこそ長いけれど、ある意味では淡泊な関係性を築いてきたともいえる。
ブライア姉弟が心から家族だと認めても、は一線を引いていたし、姉弟もそれを多少尊重していた。
そんなを今ではすっかり愛してしまったユーリは、にも愛してほしいと思っている。
そして、甘えたら甘やかしてほしいとも思う。反対に、甘えられたいし、甘やかしたいとも考えていた。
──こういう時、どこまでならば許されるのだろう。
普段でさえとの距離感は測りかねているのだ。疲れている時、冷静に判断できる自信がユーリにはない。
そして、まだ自分の情けない部分を曝け出す勇気もない。
子供の頃からの付き合いをしている相手には、弱みを握られていても当然だ。
今まで散々情けない所など見られているはずなのに、何を今さら恥ずかしがる事があるのかと、ユーリは自分で自分にがっくりしてしまう。
なんだか0から新たな関係性を築いているような心地がしていた。
「ただいま…」
ただいまの挨拶をしながら鍵を差し込み、玄関を開ける。
部屋の明かりはついていて、この家のもう一人の家主が在宅である事を知らせていた。
いつもの習慣として、洗面所に向かい、手を洗う。蛇口をひねると、水音と共に微かにテレビの音声が耳に届いてくる。
はあまりテレビつけない。つけるとしても時間帯がほとんど決まっていて、ニュース番組などが放映されている時間だけなのだ。今時の若者らしからぬ感性をしているのだと思う。
そんながこの時間帯にテレビをつけるとは珍しいとユーリは考える。
洗面所に備え付けられた時計をみれば、丁度テレビドラマが盛んに放映されている時間だとわかった。
コートを脱ぎながら、ひとまず鞄をテーブルに置く。
行儀よい背筋でソファーに座り、テレビを眺めるの姿が目に入ってくる。
画面に映し出されているのは、ユーリも散々CMなどで見た事のある作品だった。
大変人気なようで、新聞でピックアップされてる事もあるし、この土地バーリントを舞台にしているからか、この地域では盛んに広告が街に張り出されている。
バーリント・ラブという恋愛ドラマだ。
がニュースを差し置いてそんな物をみているというのは、益々珍しく思えた。
「それ、面白いのか」
ユーリが服を緩めながら声をかけると、今初めて気が付いたかのようにハッとしてが背後を振り返った。
「ごめん、帰ってたんだね…おかえり」
もしやと思っていたけれど、やはりユーリの帰宅に気が付いていなかったらしい。
バツが悪そうな顔をして、テレビのスイッチを消そうとするので、それを手で静止させた。は肩を落として、浮かせた腰を改めてソファーに沈め、気落ちしたように視聴を再開させる。
「やっぱりだめだね、こういうの見ると夢中になっちゃって、気が付けなかった」
「そんなに好きだったのか、ドラマ」
「そういうのじゃなく…意識が持ってかれるから。お帰りってちゃんと言えなかったし」
わざわざ律儀に出迎えなどしなくても怒らないというのに、つくづく難儀な性格をしていると思う。一応ユーリが家主なので、世話になってる身としてはそれくらいは礼儀だと考えているのだろうと予想しながらユーリはこう言った。
「好きな事を優先していいよ、家でそんなに行儀よく振舞わなくていいから」
「……好きじゃなくて、このドラマ、学校の子はみんなすきみたいだし…付き合いみたいなもの」
「…、付き合いとかできたんだな……」
「そんな、ひどい…」
あまりにもな言いぐさに、はショックを受けたようだった。服を緩めながら横からテレビを覗くと、いかにもといった男女のラブシーンが繰り広げられていた。
しかし、ユーリはが身内と一緒にラブシーンみて恥ずかしがる…といった感受性を持たない事も知っていた。今だって平然としている。
そういう淡泊な所も、付き合いなど知らない他者に無関心な性格をしている、という印象を抱かせていた一因だった。本人はそれに気が付いていないようで、ただひたすらショックを受けている。
「付き合いなんかより、好きなことを優先したらよかったよ」
「好きなこと?」
「お出迎えすること」
ユーリが目を丸くして固まると、何かおかしな事でも言ったかと、上目に伺うようにみられた。
行儀よくしなくていいと言ったから、そういう事ではないと否定したのだろうと思う。
けれどその説明としてお出迎えが好きだから、という理屈を持ってこられるとは思わず、ユーリは動揺する。
「誰かを待っていられるのは幸せなこと…、…だから」
様子のおかしいユーリの反応を伺いながら、は少ししどろもどろになりながら伝えた。
なんて健気な事だろうか。幼少期の複雑な生い立ちがそうさせるのだろう。
けれど曲解すれば"ユーリを待つのが好き"、という風にも捉えられて、ユーリは思わず言葉を詰まらせた。
「……ただいま」
ユーリの謎の沈黙に耐えかね、困り果ててるが哀れで、改めて仕切り直すように言うとは一瞬驚いたあと、すぐに破顔した。
「おかえり」
心底嬉しそうに、幸せに満ち足りた表情をしていた。
ブライアの家に迎えられてから、時間をかけて笑顔を浮かべる事が出来るようになり、ここ数年はこうして心からの笑顔を見せてくれるようにもなった。
この笑顔を作ったのはユーリだと、ヨルは昔言っていた。
それをみてユーリが抱くのは、深い感慨と、愛情、慈愛。
暗く重かった心が暖かなもので満たされ、疲れが溶けていくような心地になっていた。
姉にも癒され、ついでにアーニャにも激励され、そしてにも癒されて。
ユーリの疲労はぐんぐん回復していた。
このまま風呂に行ってサッパリしてこようと踵を返そうとしたその時。服を引っ張られ、引き留められめる。
どうしたのかとを見下ろすと、彼女はユーリをじっと探るように見上げていた。
「……今日、凄く疲れてたよね?どうかしたの」
「ああ…」
やはり見抜かれていたかとユーリは苦笑した。身内には嘘はつけないと身に染みた瞬間である。
「もう疲れてない」
「………そう?………もしかして、ヨルさんの家に寄ったのかな」
「な、なんで知ってるんだそれ」
「一日疲れてたけどすぐ元気になったってことなら、そういうことかと思って」
「どういうことだよ」
「そういうこと…」
それ以外に何があると、呆れたようにに見られてしまった。
けれどすぐに、仕方がない子供をみるようには微笑みかける。
「会えてよかったね」
まるで子供扱いである。ユーリは少しムッとしたし、元気になったのはそれだけが理由じゃない、と反論したかった。
──の笑顔に癒されたのだと言ったら、どんな反応をするだろう。
喜ぶだろうか。照れるだろうか。それともサラリと適当に流されるだろうか。
未だにそんな駆け引きをする勇気が出てこない。
「恋に本気になると、人は臆病になるものよ」
「傷つくのを恐れてどうなるというの?」
ちょうどテレビドラマで、今のユーリの心境にピッタリな掛け合いがなされていた。
傷付くのを恐れて、進展などあるものだろうか。
は保守的で、諦観しがちだ。間違っても自分から向かっていくような性格はしていない。だとすると、ユーリから向かっていくしか可能性はないというのに、どうして動けないのだろう。悶々と考え込んでいるうちに、が口を開いた。
「ユーリ、手かしてくれる」
「?なに」
「手」
お手、という動作をされて、ユーリは床にかしずくような姿勢を取る。そしてソファーに座るが差し出す手のひらに、自分の手を乗せた。
すると、はユーリの手の甲に自分の手を重ねて、労わるように撫でる。
「おつかれさま。毎日頑張ってえらいね。すごいよ」
さらりと皮膚を撫でられて、ユーリは嬉しいという気持ちや癒されるという心地がするより前に、羞恥が昇るのがわかった。そして次にきたのは。
──愛しい。恋しい。この子が好きだ、という感情。
目を伏せて、元気を注ぐように労わりを続けるは、ユーリのそんな悶絶には気が付かない。
今すぐにも抱きしめたいという衝動をユーリはこらえて、空いた片手をの頭の上におくと、驚きの声が上がる。
「う、わっ」
「…も、今日も一日頑張って…えらい」
「なにを」
「あー…勉強とかしただろう」
「したけど、何その適当…ちょっと、いや」
髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回して、の顔をあげさせないようにする。
抵抗するために離されたの両手が名残惜しいと思いつつも、顔を合わせたくないという気持ちの方が勝ったのだ。
鏡をみなくても分かる。どうせ自分は今、情けない顔をしているだろうから、とユーリは自覚していたのだ。
そのうち耐えきれなくなり、ユーリの腕はの身体に回らせる。
つい勢いでやってしまった割には、壊れ物を扱うように柔く抱きしめると、それでもは驚いたようにびくりと肩を跳ねさせた。
突き飛ばされる事も覚悟していたので、そのまま腕の中に納まり続けたが意外で、しかし許容された事は嬉しくて頬が緩む。
ヨルとユーリからのスキンシップは嫌いじゃない、というあの言葉はまるきり嘘ではないのだろう。
ここぞとばかりに充電させてもらおうと、少し力を強めてユーリがハグを続けると、が嫌そうに呻く。
「……ユーリは、ひとに触るのすきだよね」
顔をみられたくないのか、俯くようにしてユーリの腕に収まるは、小さく独り言のように言った。
「うん、好きだよ」
姉に会えた時と同等に…いや、これは比べるものではないだろうか。
また趣の違う至福の時だと噛みしめながら、ユーリは頷いた。
の髪からは、姉の使っているものとはまた違うらしい、女性特有の甘い香りがする。
の肌は滑らかで、華奢でありながらして柔らかい。
触れるところから伝わる感触や香り、体温、全てから癒しが得られて、ユーリは恍惚と幸福を味わった。そして夢見心地のようなぼんやりとした声色で言う。
「──がすきだよ」
5.恋情─人肌
ユーリはその次の日も帽子を深々と被り、大きめのジャケットを羽織って人込みに紛れ、パーキンを尾行していた。
自宅や外出先でバイヤーへ繋がるような怪しい連絡や接触はなかった。となると──
残されたのは、職場というただ一つの可能性。
彼が務めているのは、郵便局だったのだ。こんなにも都合のいい職場はないだろう。
局内には、検閲済みの郵便物が入った箱が乗ったカートを押す人のよさそうな年嵩の職員がいた。
「ああジョセフさんねオレが運んどきますよ。昼休憩先にどうぞ」
「おっサンキュー♪何食うかなー」
ジョセフという同僚が上機嫌で踵を抱えすと、郵便局の制服を纏ったパーキンは、周囲を警戒しながら懐に手を入れる。
検閲済みの郵便物が詰まったその箱の中に、バイヤーへ売るための記事や写真が入った郵便物を忍ばせようとしているのだろう。
誰も見ていない、とパーキンは思っているが、実際は物陰からユーリが監視しているのだ。
その封筒を忍ばせた瞬間、パーキンに弁解の余地はなくなる。
震える手がソレを箱に落としてしまうまで、ユーリは眺め、その瞬間を瞬きもせず見届けた。
──15日、8時02分。
「父さん、仕事行ってくる」
「んー」
この日、ユーリ達は潜伏のためのカジュアルな私服ではなく、保安局の制服をキッチリと纏い、パーキンの住まうアパートの外に佇み、険しい顔で待ち構えていた。
朝のテレビを見る父の背中に向けて声をかけ、コートを羽織っていたパーキンは、ふと窓の外に視線が向かわせると、ぎくりと動きを止めて硬直してしまう。
「保安…局…」
パーキンは窓からその姿を目視すると、青ざめた顔をして、しばらくしてから観念したような顔をして項垂れる。
「ごめん父さん、しばらく戻らないかも…」
彼は小さく父親に向けて謝ると、死刑台に上がるような心持ちで部屋を出て、アパートの廊下を歩く。
そしてゆっくりとアパートの目の前に伸びる道路に繋がる階段を進み、一歩一歩と降りて行った。向かったその先には厳しい面持ちをしたユーリがいる。
「フランクリン・パーキン。おまえが書いたもので間違いないな?送り先のバイヤーをすでに捕えた。観念しろ」
ユーリが黒い手袋の上から持っている封筒は、パーキンが郵便局で検閲済みの箱に忍ばせた例の封筒だ。
パーキンは申し開きをするつもりもないようで、ただ自嘲するように喉を震わせていた。
「わざわざ外で待っててくるたぁ、お優しい秘密警察もいたもんだ」
「家族におまえの惨めな姿を見せないためだ、勘違いするな」
ユーリが制服の懐から手錠を取り出すと、彼は抵抗をする様子もなかった。観念した様子のパーキンの両手を後ろに回させ、ユーリは手錠をかけて拘束してしまう。
「フン…政府と戦ったオレと政府の犬のおまえ、どっちが惨めなんだろうな?」
「……ボクは…家族を…、…大切な人を悲しませるようなことはしない。絶対に」
最後まで憎まれ口を閉ざさなかったパーキンは、そこで口を噤んだ。やはりパーキンにとって家族…父親や亡くなった母親は大きな存在だったのだろう。
パーキンは今回、酷く父親を落胆させ、悲しませる結末を辿ってしまったのだ。ユーリの言葉に反論する余地もないようだ。ユーリはそんな彼に温情の言葉を投げかける。
「父親の生活には多少の支援を申請しといてやる」
「……助かるよ……」
すっかりと萎れ切ったパーキンは連行されながら、背中越しに背後に立つユーリに向けて小さく礼を言った。
***
「よーうユーリくん!大活躍だってねー、おじさん嬉しいよ!」
ユーリが保安局の廊下を歩いていると、背中をポンポンと叩かれながら、快活な声をかけられた。そちらを振り返ると、ユーリは思わぬ人物の登場に少し驚きながらピシッと敬礼した。
「あ…局長殿、光栄です!」
「新米にゃ色々しんどい仕事だろう。あんまストレスためんなよ?」
「…いえ」
サングラスをかけた男…局長は、はははーと朗らかに笑いながらユーリを労わる。
しかしユーリは局長が言うストレスやしんどいだろうという気遣いを否定した。
「ボクこの仕事向いてると思います!」
にこーという擬音がつきそうな程に爽やかに浮かべたのは、いつもの外行きのスマイルだった。疲れなど垣間見せないような完璧な笑顔である。
が職場でボロが出ていないかと心配していたのは杞憂だったのだろうか。さすがに社会人として分別はつけ、場と相手を弁えているようである。
ユーリは綺麗な好青年の笑顔を保ったまま宣言してみせた。
「この勢いで〈黄昏〉も捕まえてこの国の治安を守ってみせますよ!」
「…そうか、そうだといいな…」
局長と呼ばれる彼は、少し含みのある笑顔と声色で、ガッツポーズを捕る元気なユーリに頷いた。実際ユーリは家族を大事にしているパーキンを監視し、連行するに至るまで、心を一切病まなかった訳じゃない。それを彼は見抜いていたのだろう。
「今度うまい肉でも食わせてやるよ」
「ほんとですか!?言質とりまはたからね!?」
わーいと喜んで上司に甘えられるのは、姉に可愛がられた弟ならではのスキルだろうか。
ユーリの笑顔の奥にある葛藤も、この局長が容易く見抜いてしまったのは、年の功だろえか。それともその地位まで上り詰めた彼だからこそたの技なのだろうか。或いはどちらもか。
その夜、ユーリは家に直帰せずに、フォージャー家の玄関のチャイムをジリリと鳴らしていた。
「やあ姉さん!」
「ユーリ!?どうしたの、こんな遅くに?」
「こんばんはユーリくん」
「おじ」
真っ先に出向かえてくれた姉の姿に和みつつも、すぐにその後ろから顔を覗かせたロイドをみるなり、すぐムッとした顔をする。
なんでいるんだ夜も働け、と大分無茶な事を心の中で思いつつも、姉に向けた笑顔と声色は柔らかい。
「なんか、姉さんの顔をみたくなっちゃって…」
ユーリが少し控えめに笑うと、足元でじっと観察していたアーニャが、突然ポンポンと労わるようにユーリの足を叩いた。
その労わりの意図には気が付けず、何だチワワ娘…と言って怪訝そうにして引くだけだった。心を読まれているなんて思いもしないだろう、当然の反応と言えばそうである。
しかし姉であるヨルには、ユーリが疲弊している事などお見通しだったのだろう。
スッと華奢なヨルの手がユーリの頭に伸びて、ポンポンと労わるように撫でた。
「お仕事おつかれさま、今お茶いれますね」
「姉さぁー−ん!」
「あらあら近所迷惑ですよユーリ」
心の中を姉ラブの思いでいっぱいにすると、ロイドは苦笑し、そして心を読んだアーニャは人知れず胸焼けをさせ、白けた顔をしていた。
今回疲れたユーリがまず向かったのは、フォージャー家だ。
ヨルの顔を見ると、形容しがたい感情が広がり、どこかくすぶっていた心が癒されるのを感じられる。
疲れた時、会いたい人の候補は2人いて、今回ユーリが選んだのは敬愛する姉・ヨルだった。そしてもう一人は…だ。
ただこういう時、後者のと顔を合わせるのはなんとなく躊躇われた。会いたいけど会いたくない、と言った裏腹な思いを抱えて
いたのだ。
かと言って外泊をして避ける、と言った露骨な事をする程でもなく、少し気まずいというだけ。
ユーリの姉・ヨルは、ユーリが生まれたその瞬間から、もうずっと"姉"という生き物として在り続けていた。
弟を甘やかすのが仕事で、そして弟たるユーリも姉に甘えるのが仕事のようなものだったのだ。
けれどは付き合いこそ長いけれど、ある意味では淡泊な関係性を築いてきたともいえる。
ブライア姉弟が心から家族だと認めても、は一線を引いていたし、姉弟もそれを多少尊重していた。
そんなを今ではすっかり愛してしまったユーリは、にも愛してほしいと思っている。
そして、甘えたら甘やかしてほしいとも思う。反対に、甘えられたいし、甘やかしたいとも考えていた。
──こういう時、どこまでならば許されるのだろう。
普段でさえとの距離感は測りかねているのだ。疲れている時、冷静に判断できる自信がユーリにはない。
そして、まだ自分の情けない部分を曝け出す勇気もない。
子供の頃からの付き合いをしている相手には、弱みを握られていても当然だ。
今まで散々情けない所など見られているはずなのに、何を今さら恥ずかしがる事があるのかと、ユーリは自分で自分にがっくりしてしまう。
なんだか0から新たな関係性を築いているような心地がしていた。
「ただいま…」
ただいまの挨拶をしながら鍵を差し込み、玄関を開ける。
部屋の明かりはついていて、この家のもう一人の家主が在宅である事を知らせていた。
いつもの習慣として、洗面所に向かい、手を洗う。蛇口をひねると、水音と共に微かにテレビの音声が耳に届いてくる。
はあまりテレビつけない。つけるとしても時間帯がほとんど決まっていて、ニュース番組などが放映されている時間だけなのだ。今時の若者らしからぬ感性をしているのだと思う。
そんながこの時間帯にテレビをつけるとは珍しいとユーリは考える。
洗面所に備え付けられた時計をみれば、丁度テレビドラマが盛んに放映されている時間だとわかった。
コートを脱ぎながら、ひとまず鞄をテーブルに置く。
行儀よい背筋でソファーに座り、テレビを眺めるの姿が目に入ってくる。
画面に映し出されているのは、ユーリも散々CMなどで見た事のある作品だった。
大変人気なようで、新聞でピックアップされてる事もあるし、この土地バーリントを舞台にしているからか、この地域では盛んに広告が街に張り出されている。
バーリント・ラブという恋愛ドラマだ。
がニュースを差し置いてそんな物をみているというのは、益々珍しく思えた。
「それ、面白いのか」
ユーリが服を緩めながら声をかけると、今初めて気が付いたかのようにハッとしてが背後を振り返った。
「ごめん、帰ってたんだね…おかえり」
もしやと思っていたけれど、やはりユーリの帰宅に気が付いていなかったらしい。
バツが悪そうな顔をして、テレビのスイッチを消そうとするので、それを手で静止させた。は肩を落として、浮かせた腰を改めてソファーに沈め、気落ちしたように視聴を再開させる。
「やっぱりだめだね、こういうの見ると夢中になっちゃって、気が付けなかった」
「そんなに好きだったのか、ドラマ」
「そういうのじゃなく…意識が持ってかれるから。お帰りってちゃんと言えなかったし」
わざわざ律儀に出迎えなどしなくても怒らないというのに、つくづく難儀な性格をしていると思う。一応ユーリが家主なので、世話になってる身としてはそれくらいは礼儀だと考えているのだろうと予想しながらユーリはこう言った。
「好きな事を優先していいよ、家でそんなに行儀よく振舞わなくていいから」
「……好きじゃなくて、このドラマ、学校の子はみんなすきみたいだし…付き合いみたいなもの」
「…、付き合いとかできたんだな……」
「そんな、ひどい…」
あまりにもな言いぐさに、はショックを受けたようだった。服を緩めながら横からテレビを覗くと、いかにもといった男女のラブシーンが繰り広げられていた。
しかし、ユーリはが身内と一緒にラブシーンみて恥ずかしがる…といった感受性を持たない事も知っていた。今だって平然としている。
そういう淡泊な所も、付き合いなど知らない他者に無関心な性格をしている、という印象を抱かせていた一因だった。本人はそれに気が付いていないようで、ただひたすらショックを受けている。
「付き合いなんかより、好きなことを優先したらよかったよ」
「好きなこと?」
「お出迎えすること」
ユーリが目を丸くして固まると、何かおかしな事でも言ったかと、上目に伺うようにみられた。
行儀よくしなくていいと言ったから、そういう事ではないと否定したのだろうと思う。
けれどその説明としてお出迎えが好きだから、という理屈を持ってこられるとは思わず、ユーリは動揺する。
「誰かを待っていられるのは幸せなこと…、…だから」
様子のおかしいユーリの反応を伺いながら、は少ししどろもどろになりながら伝えた。
なんて健気な事だろうか。幼少期の複雑な生い立ちがそうさせるのだろう。
けれど曲解すれば"ユーリを待つのが好き"、という風にも捉えられて、ユーリは思わず言葉を詰まらせた。
「……ただいま」
ユーリの謎の沈黙に耐えかね、困り果ててるが哀れで、改めて仕切り直すように言うとは一瞬驚いたあと、すぐに破顔した。
「おかえり」
心底嬉しそうに、幸せに満ち足りた表情をしていた。
ブライアの家に迎えられてから、時間をかけて笑顔を浮かべる事が出来るようになり、ここ数年はこうして心からの笑顔を見せてくれるようにもなった。
この笑顔を作ったのはユーリだと、ヨルは昔言っていた。
それをみてユーリが抱くのは、深い感慨と、愛情、慈愛。
暗く重かった心が暖かなもので満たされ、疲れが溶けていくような心地になっていた。
姉にも癒され、ついでにアーニャにも激励され、そしてにも癒されて。
ユーリの疲労はぐんぐん回復していた。
このまま風呂に行ってサッパリしてこようと踵を返そうとしたその時。服を引っ張られ、引き留められめる。
どうしたのかとを見下ろすと、彼女はユーリをじっと探るように見上げていた。
「……今日、凄く疲れてたよね?どうかしたの」
「ああ…」
やはり見抜かれていたかとユーリは苦笑した。身内には嘘はつけないと身に染みた瞬間である。
「もう疲れてない」
「………そう?………もしかして、ヨルさんの家に寄ったのかな」
「な、なんで知ってるんだそれ」
「一日疲れてたけどすぐ元気になったってことなら、そういうことかと思って」
「どういうことだよ」
「そういうこと…」
それ以外に何があると、呆れたようにに見られてしまった。
けれどすぐに、仕方がない子供をみるようには微笑みかける。
「会えてよかったね」
まるで子供扱いである。ユーリは少しムッとしたし、元気になったのはそれだけが理由じゃない、と反論したかった。
──の笑顔に癒されたのだと言ったら、どんな反応をするだろう。
喜ぶだろうか。照れるだろうか。それともサラリと適当に流されるだろうか。
未だにそんな駆け引きをする勇気が出てこない。
「恋に本気になると、人は臆病になるものよ」
「傷つくのを恐れてどうなるというの?」
ちょうどテレビドラマで、今のユーリの心境にピッタリな掛け合いがなされていた。
傷付くのを恐れて、進展などあるものだろうか。
は保守的で、諦観しがちだ。間違っても自分から向かっていくような性格はしていない。だとすると、ユーリから向かっていくしか可能性はないというのに、どうして動けないのだろう。悶々と考え込んでいるうちに、が口を開いた。
「ユーリ、手かしてくれる」
「?なに」
「手」
お手、という動作をされて、ユーリは床にかしずくような姿勢を取る。そしてソファーに座るが差し出す手のひらに、自分の手を乗せた。
すると、はユーリの手の甲に自分の手を重ねて、労わるように撫でる。
「おつかれさま。毎日頑張ってえらいね。すごいよ」
さらりと皮膚を撫でられて、ユーリは嬉しいという気持ちや癒されるという心地がするより前に、羞恥が昇るのがわかった。そして次にきたのは。
──愛しい。恋しい。この子が好きだ、という感情。
目を伏せて、元気を注ぐように労わりを続けるは、ユーリのそんな悶絶には気が付かない。
今すぐにも抱きしめたいという衝動をユーリはこらえて、空いた片手をの頭の上におくと、驚きの声が上がる。
「う、わっ」
「…も、今日も一日頑張って…えらい」
「なにを」
「あー…勉強とかしただろう」
「したけど、何その適当…ちょっと、いや」
髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回して、の顔をあげさせないようにする。
抵抗するために離されたの両手が名残惜しいと思いつつも、顔を合わせたくないという気持ちの方が勝ったのだ。
鏡をみなくても分かる。どうせ自分は今、情けない顔をしているだろうから、とユーリは自覚していたのだ。
そのうち耐えきれなくなり、ユーリの腕はの身体に回らせる。
つい勢いでやってしまった割には、壊れ物を扱うように柔く抱きしめると、それでもは驚いたようにびくりと肩を跳ねさせた。
突き飛ばされる事も覚悟していたので、そのまま腕の中に納まり続けたが意外で、しかし許容された事は嬉しくて頬が緩む。
ヨルとユーリからのスキンシップは嫌いじゃない、というあの言葉はまるきり嘘ではないのだろう。
ここぞとばかりに充電させてもらおうと、少し力を強めてユーリがハグを続けると、が嫌そうに呻く。
「……ユーリは、ひとに触るのすきだよね」
顔をみられたくないのか、俯くようにしてユーリの腕に収まるは、小さく独り言のように言った。
「うん、好きだよ」
姉に会えた時と同等に…いや、これは比べるものではないだろうか。
また趣の違う至福の時だと噛みしめながら、ユーリは頷いた。
の髪からは、姉の使っているものとはまた違うらしい、女性特有の甘い香りがする。
の肌は滑らかで、華奢でありながらして柔らかい。
触れるところから伝わる感触や香り、体温、全てから癒しが得られて、ユーリは恍惚と幸福を味わった。そして夢見心地のようなぼんやりとした声色で言う。
「──がすきだよ」