第四十話
5.恋情─仕事
「ターゲット部屋に入ったようです。…三人」
ユーリのヘッドフォンの奥からは、数人分の足音とドアの開閉音が聞えてくる。
耳を澄ませて、その音の特徴を区別した。
「うしろ2人はたぶん大柄。窓やドアの側を避けて立ってます。足音からしてもプロですね。コンラッドは壁側のソファに座りました」
足音や開閉音と言った物音や衣擦れの音の距離などを加味し、位置を割り出しながら、彼らの肉声も同時に聞いていた。
「さあブツを渡してもららおう。報酬はそれからだ」
「や…約束は守ったもらうからな…!」
「うむ、MNGデータに間違いないな」
音声越しの革新的なやり取りを聞くと、ユーリは頷いて言う。
「取引を確認」
「よし。踏み込むぞユーリ」
「了解!」
上司に言われたユーリは、不敵な笑顔で頷く。
そしてその合図し同時に、さっきまで盗聴していた一室のドアが勢いよく開けられた。
中にいた彼らは完全に不意を突かれたようで、驚いている。
「国家保安局だ。お前たちをスパイ容疑で逮捕する!」
予想外のタイミングで踏み込まれ、中にいた彼らは急いで窓から脱走を図ろうとする。
が、それを見越して窓の外に待機していたユーリは、素早く黒いジャケットの彼を地面にたたき伏せ、腕を取って身柄を拘束した。
「こんばんは、ゴミクズさん。ステキな牢屋を予約してあるので、ぜひ当局まで☆」
厳しく言うでもなく、怒るでもなく。ユーリはまるで接客でもするかのように、完璧な笑顔と声色で、しかし力強く容疑者を確保した。
先んじて窓からの逃走も防ぎ、唯一の出入り口であったドアからの逃走も三人がかりで防いだ。完璧な布陣と戦力で挑んだ突入は、見事大成功を収めたのだった。
****
「よくやったブライア少尉」
「ありがとうございます!」
「次はこいつを頼む」
机に座った小太りの男は、バサッと何冊もの本を机に乱雑に投げる。
そこに大きく記されていたのは、"オスタニアの真実、知らざれる悪魔の国"と言った挑戦的なフレーズが記された雑誌だった。
「最近西で東国を揶揄する本や記事が多数出回ってるのを知ってるか?捏造やら陰謀論やら低俗なものばかりなんだが…」
その雑誌を乱雑に横に避けると、本命の資料を机に広げた。
ユーリは立ちながら、それをじっと見下ろす。
「その多くが東国の地下出版経由で西に売られたものだ。んでライター連中の中にこいつの名が浮上した」
彼はトントンと骨太いひとさし指でとある項目を叩く。
一人の不精髭の男のバストアップ写真と、プロフィールが記載された紙がクリップで止められている。
「フランクリン・パーキン(39)前政権時に新聞記者だったが、反体制過激派を扇動した罪で逮捕。こいつに張り付いて証拠を押さえ記事を買ってるバイヤーもつきとめろ」
忌々し気に、はたまた頭痛の種でも見るかのようにその写真に視線をやりながら、彼はユーリに指示を出した。
「こんなクソ記事でも信じちまうバカが西には大勢いるからな。世論に影響を与える前に排除しろ」
「イエス・サー!」
テキパキと指示され、嫌な顔見せず、元気に仕事を引き受けたユーリ。そんな姿を一歩後ろの背後から見守っていたユーリの上司は、気づかわし気に助言する。
「ユーリを働かせすぎでは?」
「ボクなら大丈夫です!」
やる気MAX!と言いながらユーリは拳を握って、いかにも好青年といった調子で溌剌と笑ってみせた。
しかし次の瞬間、資料を手にしているユーリは、スッと表情と声色を一転させる。
「自国を貶めて小銭稼ぎ…こんな奴が姉さんとと同じ空気を吸ってると思うだけで我慢なりませんから!」
「?」
事あるごとに姉さん、という単語がユーリから出て来るのは、周知の事実である。
けれどという響きは、今まで聞いた事がなく、彼らは2人して不思議そうな顔をした。しかし新たに与えられた仕事に燃え既に集中に入ったユーリには届かなかったようだ。
ユーリの家族や知り合いがどうこうというのは、仕事に関係がない、差し障りのないものである。公私混同をしないのは暗黙のルールである。
勤務時間外の雑談ならともかく、今はそんな話が出来る空気ではなかった。
なので、誰もここで深く問い詰める事はしない。
各々が持ち場に戻り、そしてユーリもフランクリン・パーキンという男の素性を調べるために、監視に精を出し始めた。
「監視対象J-095フランクリン・パーキン。6日7時21分起床。視聴番組『おはようオスト』キャスターに悪態をつく。8時10分勤務先の郵便局へ出勤。服装の詳細は別紙。U8線3両目使用。同車両の客の特徴は別紙。12時06分同僚のMを伴い昼食へ。『フィヨルド』のAランチを注文。会話ログは別紙。17時49分退勤後中央市場へ。19時33分帰宅。『ニュース20』『バーリント・ラブ』視聴。主演女優にご執心。就寝まで目立った行動なし」
椅子に座り、ユーリが机で打ち込み書き出した資料の一枚を手に取ると、帽子をかぶり、コートを羽織った上司は感心したように眺めた。
「ずいぶんねちっこく調べたな」
「まかせてください!」
「おまえもう2日も徹夜で続けてるだろ。交代してちゃんと休め」
「なんのこれくらい」
相変わらずの好青年スマイルを湛えながら、「これ次の日の分です」と言って新たに資料を差し出す。
尋常ではない働きぶりをみて、彼は少し考えてからこう口にした。
「7日8時07分出勤昼食:「フィヨルド」のBランチ──」
彼がそこまで復唱すると、ユーリがピクリと体を揺らして反応した。
相変わらず視線は手元に向けて仕事は進めたままだったけれど、明らかに様子が変だと思ったのだろう。
「「フィヨル──」「ヨル」」
ヨル、という姉の名前が聞える度に、ユーリが目に見えて反応する。
二徹しているユーリが心身に支障をきたしている、というのは一目瞭然であった。
「…お前は疲れている。休め」
「いえいつも通りです」
真顔で言い切るユーリを見て、彼は確かにそれも一理ある、とも思った。
姉至上主義なのはいつもの事だ。彼女の話題を振ると食いつきが違う。
姉の名前を口にすれば、こういった反応するのもいつもの事…と言えばいつもの事だとも思った。しかし、今気になるのはユーリの姉…ヨル・ブライアよりも、こちらだろう。
「…──」
「ッ!?!」
今度のユーリは、最早言い逃れなど出来ない程に、酷く動揺を示した。
平然を装うという発想すら忘れ、ユーリは肩を揺らし、信じられないものを見た、とでも言いたげな顔で見上げていた。
「な、んで…?」
「なんでって、何が」
「……の名前、話しましたっけ?」
「…この間自分で言ってただろう」
「そう、でしたっけ…」
いつもの好青年スマイルでもなく、国賊に対する侮蔑の表情でもなく、ただひたすら気まずそうに目を逸らすユーリ。少し珍しいものをみたと彼は思った。
先日はあえてつつく必要もないと思ったけれど、少し踏み込んでみよえと考える。
それは根詰めすぎの部下を気遣っての意図と、ただの好奇心、そのどちらも含まれていたのだった。
「こんな奴が姉さんとと同じ空気を吸ってると思うだけで我慢なりませんから、と言っていただろう」
「…っあ、あー…それ……ですか…そう…」
ユーリは目を逸らして、今度こそ本格的に気まずそうに顔を背けてしまう。
いつも容量がよく、愛嬌があり、歯切れのいい受け答えをするユーリらしからぬ反応が、やはり珍しかった。
それほど疲れているのだろうか。それとも──
「それほど大事な人の名前なんだろう。そんな人達の未来のために尽くそうとして、今お前が倒れては元も子もない」
少し値踏みし、反応を伺うようにしながら言うと、ユーリは「はい……」と小さく頷きながら、顔を赤くしていた。
なるほど。正真正銘大事な人であるらしい。それも、姉・ヨル・ブライアとはまた違った意味で。そんな事は、誰がみても一目瞭然であった。
しかし、そんなユーリの乱れもいつまでもは続かない。
ヘッドフォンの奥からジリリリとチャイム音が聞こえると、ハッとした表情をして、一瞬で仕事モードに切り替えていた。
「パーキンさーん!?」
「や…やあ大家さん」
「いい加減滞納分の家賃払っとくれよ!」
「もうちょいだけ待ってくれないか」
「こないだもそう言ってたろ!」
「明後日!明後日には必ず払う!」
「嘘だったら追い出すからね!?」
バタン、と扉が閉まる音がすると、パーキンが「クソ大家が…」と悪態をつき、コートを取る音が聞えた。
「父さんちょっと出かけてくる。メシ作ってあるから、テキトーに食って」
その声を2人が聞くと、アイコンタクトを交わした。
2人は町に出かけたパーキンを尾行するため、揃って帽子を深々と被り急いで後をつけ始めた。
「…尾行を警戒している…?」
「…あるいは、記事にするネタを探しているか…」
パーキンはコートの内側に手を入れると、こっそりとカメラのレンズをそこから覗かせた。
あくまで撮影している事はバレないように。あは完全に盗撮の構えだ。
政治演説を盗撮するパーキンを、ユーリ達もまた遠くから撮影する。記事にして売るため盗撮しているパーキンとは違い、逮捕するに至らせるための証拠として残すためだ。
そのままパーキンは街でたむろする集団など、あらゆる画を取り、いい画が撮れねーと言って舌打をする。
そんな彼の横を、まだ小さな男の子たち三人が無邪気に走り抜けた。
「イエーイ、ボンドマンのピストル買ってもらったぜー!」
「いいなー貸してー」
「やだよーだ」
「ケチー!」
じゃれあって遊ぶ少年たちの輪に、パーキンがツカツカと高圧的に近寄ると、手にしていたおもちゃのピストルを奪い取った。
「ちょっ…うわぁー!?オレのピストルー!!」
路上の片隅に設置されていたゴミ箱にそのおもちゃを投げ捨てる。
涙目になった少年たちが、そのゴミ箱を必死になって探す。
持ち主の少年だけでなく、友達二人もただならぬ展開に驚き、親身になって、汚れるのも厭わずに奥深くまで探し続ける。そんな事をすれば、彼らは髪も肌も服も薄汚れるのは必須である。
そんな光景を一歩引いた場所からカメラで撮影し、パーキンはニヤリと満足げに笑った。
「貧しさのあまりゴミ箱の残飯を漁るストリートチルドレン…悪くないな」
ユーリはその言葉を聞いただけで、自分のこめかみにぴきりと青筋が立つのがわかった。
が昔、ゴミの残飯さえ漁った事があると、笑いながら話していたのが印象深く残っていたのだ。
昔のは、ストリートチルドレンと言っても差し支えない暮らしを送っていた。
とはいえど、身近な人間が"そう"であった、というだけが怒りの琴線に触れたのではない。
「何すんだジジイ!秘密警察にチクってやる!」
「はん、富を分け与えず独占するごうつくばりめ。おまえのような西寄りの思想の持ち主は逆に逮捕されて殺されちまうぞ?ガハハ」
子供を下賤な記事にして飯の種にする愚かさと、こんな恐喝をしてみせるパーキンの底意地の悪さに心底腹が立っていたのだ。
「あの野郎…ッ処刑してやる!」
「よせ。地下出版のバイヤーをあぶり出すまでは泳がせておけ」
「ぐっ…」
ユーリは腕を引かれて論理的な説得をされ、引き下がざるを得なかった。
懲りずに街のそこかしこをカメラで盗撮して回る背中を見守りながら、ユーリは耐え忍ぶ。
その鬱憤を晴らすかのように今まで以上にねちっこく監視をつづけた。
「くくく…こいつは笑える記事なりそうだ、ははは」
ヘッドフォンの向こうでどれだけ耳障りな発言が聞えようとも、座して耐える。機が熟すその時まで。
しかし、パーキンに対して"怒り"と"嫌悪"だけがわいていたのは、その時までだった。
「フランク…お前また危ない仕事なんかしてないだろうな?」
「し…してねーよ、あっち行ってろよ」
「変な正義感出さなきゃ新聞の仕事だって続けられてただろうに…」
「……家族が暮らすこの国良くしようと思って、何が悪いんだ…今だって、こんなしみったれた暮らしを守るためにも、金が要るだろうがよ…金がありゃ母さんだって…」
そこまで言ってから、パーキンは押し黙る。そしてガタッと立ち上がる物音を立ててから、「何でもねーよ、クソが」と悪態をついてから、父親から逃げるように部屋を出て行った。
どれだけ憎まれ口をたたいても、ここまで聞けばパーキンという男の本質…行動原理は露見したも同然だ。
「パーキンの動機は家族のため?」
その一行を静かに打ち込んだ後、ユーリはそれが印字された紙をビッと引きちぎり、クシャクシャと丸めて捨ててしまった。
──家族。パーキンという男にとってもそうであったように、ユーリという人間にとっても"核"となる存在で、行動理念の全てだった。
今この瞬間だって、家族…姉や名前、大切な人のために働いている。
しかし害悪の畜生、外道とすら思っていたパーキンも、自分と同じなのだとしたら?
考えれば考えるほど、深みにハマッていく。
ユーリが働いているのは国のためであり、ひいては家族のため。それがユーリにとっての揺るがない正義で大儀であった。
しかし、パーキンという男にとってもそれは同じだろう。
皮肉も悪行も外道な行動も、全ては家族のため──そう思うと、ユーリはパーキンと自分は"同じ"だと思ってしまったのだ。
これはよくない。とてもよくない考えだ。
この世には法があり、秩序があり、律するものがいる。
それを破ったものが悪であり、法に従順な市民が善良と呼ばれる、絶対のルールがあるのである。情状酌量、という概念があるにはある。
が、それは今ユーリが考える事ではない。ユーリの仕事ではないのだ。
──大好きな姉のこと。愛しているの事。今思い浮かべてしまったら、何かが揺れてしまう。そんな予感がして、何もかもを忘れるようにキツく瞼を閉じて、長い溜息を吐いて葛藤を逃した。
5.恋情─仕事
「ターゲット部屋に入ったようです。…三人」
ユーリのヘッドフォンの奥からは、数人分の足音とドアの開閉音が聞えてくる。
耳を澄ませて、その音の特徴を区別した。
「うしろ2人はたぶん大柄。窓やドアの側を避けて立ってます。足音からしてもプロですね。コンラッドは壁側のソファに座りました」
足音や開閉音と言った物音や衣擦れの音の距離などを加味し、位置を割り出しながら、彼らの肉声も同時に聞いていた。
「さあブツを渡してもららおう。報酬はそれからだ」
「や…約束は守ったもらうからな…!」
「うむ、MNGデータに間違いないな」
音声越しの革新的なやり取りを聞くと、ユーリは頷いて言う。
「取引を確認」
「よし。踏み込むぞユーリ」
「了解!」
上司に言われたユーリは、不敵な笑顔で頷く。
そしてその合図し同時に、さっきまで盗聴していた一室のドアが勢いよく開けられた。
中にいた彼らは完全に不意を突かれたようで、驚いている。
「国家保安局だ。お前たちをスパイ容疑で逮捕する!」
予想外のタイミングで踏み込まれ、中にいた彼らは急いで窓から脱走を図ろうとする。
が、それを見越して窓の外に待機していたユーリは、素早く黒いジャケットの彼を地面にたたき伏せ、腕を取って身柄を拘束した。
「こんばんは、ゴミクズさん。ステキな牢屋を予約してあるので、ぜひ当局まで☆」
厳しく言うでもなく、怒るでもなく。ユーリはまるで接客でもするかのように、完璧な笑顔と声色で、しかし力強く容疑者を確保した。
先んじて窓からの逃走も防ぎ、唯一の出入り口であったドアからの逃走も三人がかりで防いだ。完璧な布陣と戦力で挑んだ突入は、見事大成功を収めたのだった。
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「よくやったブライア少尉」
「ありがとうございます!」
「次はこいつを頼む」
机に座った小太りの男は、バサッと何冊もの本を机に乱雑に投げる。
そこに大きく記されていたのは、"オスタニアの真実、知らざれる悪魔の国"と言った挑戦的なフレーズが記された雑誌だった。
「最近西で東国を揶揄する本や記事が多数出回ってるのを知ってるか?捏造やら陰謀論やら低俗なものばかりなんだが…」
その雑誌を乱雑に横に避けると、本命の資料を机に広げた。
ユーリは立ちながら、それをじっと見下ろす。
「その多くが東国の地下出版経由で西に売られたものだ。んでライター連中の中にこいつの名が浮上した」
彼はトントンと骨太いひとさし指でとある項目を叩く。
一人の不精髭の男のバストアップ写真と、プロフィールが記載された紙がクリップで止められている。
「フランクリン・パーキン(39)前政権時に新聞記者だったが、反体制過激派を扇動した罪で逮捕。こいつに張り付いて証拠を押さえ記事を買ってるバイヤーもつきとめろ」
忌々し気に、はたまた頭痛の種でも見るかのようにその写真に視線をやりながら、彼はユーリに指示を出した。
「こんなクソ記事でも信じちまうバカが西には大勢いるからな。世論に影響を与える前に排除しろ」
「イエス・サー!」
テキパキと指示され、嫌な顔見せず、元気に仕事を引き受けたユーリ。そんな姿を一歩後ろの背後から見守っていたユーリの上司は、気づかわし気に助言する。
「ユーリを働かせすぎでは?」
「ボクなら大丈夫です!」
やる気MAX!と言いながらユーリは拳を握って、いかにも好青年といった調子で溌剌と笑ってみせた。
しかし次の瞬間、資料を手にしているユーリは、スッと表情と声色を一転させる。
「自国を貶めて小銭稼ぎ…こんな奴が姉さんとと同じ空気を吸ってると思うだけで我慢なりませんから!」
「?」
事あるごとに姉さん、という単語がユーリから出て来るのは、周知の事実である。
けれどという響きは、今まで聞いた事がなく、彼らは2人して不思議そうな顔をした。しかし新たに与えられた仕事に燃え既に集中に入ったユーリには届かなかったようだ。
ユーリの家族や知り合いがどうこうというのは、仕事に関係がない、差し障りのないものである。公私混同をしないのは暗黙のルールである。
勤務時間外の雑談ならともかく、今はそんな話が出来る空気ではなかった。
なので、誰もここで深く問い詰める事はしない。
各々が持ち場に戻り、そしてユーリもフランクリン・パーキンという男の素性を調べるために、監視に精を出し始めた。
「監視対象J-095フランクリン・パーキン。6日7時21分起床。視聴番組『おはようオスト』キャスターに悪態をつく。8時10分勤務先の郵便局へ出勤。服装の詳細は別紙。U8線3両目使用。同車両の客の特徴は別紙。12時06分同僚のMを伴い昼食へ。『フィヨルド』のAランチを注文。会話ログは別紙。17時49分退勤後中央市場へ。19時33分帰宅。『ニュース20』『バーリント・ラブ』視聴。主演女優にご執心。就寝まで目立った行動なし」
椅子に座り、ユーリが机で打ち込み書き出した資料の一枚を手に取ると、帽子をかぶり、コートを羽織った上司は感心したように眺めた。
「ずいぶんねちっこく調べたな」
「まかせてください!」
「おまえもう2日も徹夜で続けてるだろ。交代してちゃんと休め」
「なんのこれくらい」
相変わらずの好青年スマイルを湛えながら、「これ次の日の分です」と言って新たに資料を差し出す。
尋常ではない働きぶりをみて、彼は少し考えてからこう口にした。
「7日8時07分出勤昼食:「フィヨルド」のBランチ──」
彼がそこまで復唱すると、ユーリがピクリと体を揺らして反応した。
相変わらず視線は手元に向けて仕事は進めたままだったけれど、明らかに様子が変だと思ったのだろう。
「「フィヨル──」「ヨル」」
ヨル、という姉の名前が聞える度に、ユーリが目に見えて反応する。
二徹しているユーリが心身に支障をきたしている、というのは一目瞭然であった。
「…お前は疲れている。休め」
「いえいつも通りです」
真顔で言い切るユーリを見て、彼は確かにそれも一理ある、とも思った。
姉至上主義なのはいつもの事だ。彼女の話題を振ると食いつきが違う。
姉の名前を口にすれば、こういった反応するのもいつもの事…と言えばいつもの事だとも思った。しかし、今気になるのはユーリの姉…ヨル・ブライアよりも、こちらだろう。
「…──」
「ッ!?!」
今度のユーリは、最早言い逃れなど出来ない程に、酷く動揺を示した。
平然を装うという発想すら忘れ、ユーリは肩を揺らし、信じられないものを見た、とでも言いたげな顔で見上げていた。
「な、んで…?」
「なんでって、何が」
「……の名前、話しましたっけ?」
「…この間自分で言ってただろう」
「そう、でしたっけ…」
いつもの好青年スマイルでもなく、国賊に対する侮蔑の表情でもなく、ただひたすら気まずそうに目を逸らすユーリ。少し珍しいものをみたと彼は思った。
先日はあえてつつく必要もないと思ったけれど、少し踏み込んでみよえと考える。
それは根詰めすぎの部下を気遣っての意図と、ただの好奇心、そのどちらも含まれていたのだった。
「こんな奴が姉さんとと同じ空気を吸ってると思うだけで我慢なりませんから、と言っていただろう」
「…っあ、あー…それ……ですか…そう…」
ユーリは目を逸らして、今度こそ本格的に気まずそうに顔を背けてしまう。
いつも容量がよく、愛嬌があり、歯切れのいい受け答えをするユーリらしからぬ反応が、やはり珍しかった。
それほど疲れているのだろうか。それとも──
「それほど大事な人の名前なんだろう。そんな人達の未来のために尽くそうとして、今お前が倒れては元も子もない」
少し値踏みし、反応を伺うようにしながら言うと、ユーリは「はい……」と小さく頷きながら、顔を赤くしていた。
なるほど。正真正銘大事な人であるらしい。それも、姉・ヨル・ブライアとはまた違った意味で。そんな事は、誰がみても一目瞭然であった。
しかし、そんなユーリの乱れもいつまでもは続かない。
ヘッドフォンの奥からジリリリとチャイム音が聞こえると、ハッとした表情をして、一瞬で仕事モードに切り替えていた。
「パーキンさーん!?」
「や…やあ大家さん」
「いい加減滞納分の家賃払っとくれよ!」
「もうちょいだけ待ってくれないか」
「こないだもそう言ってたろ!」
「明後日!明後日には必ず払う!」
「嘘だったら追い出すからね!?」
バタン、と扉が閉まる音がすると、パーキンが「クソ大家が…」と悪態をつき、コートを取る音が聞えた。
「父さんちょっと出かけてくる。メシ作ってあるから、テキトーに食って」
その声を2人が聞くと、アイコンタクトを交わした。
2人は町に出かけたパーキンを尾行するため、揃って帽子を深々と被り急いで後をつけ始めた。
「…尾行を警戒している…?」
「…あるいは、記事にするネタを探しているか…」
パーキンはコートの内側に手を入れると、こっそりとカメラのレンズをそこから覗かせた。
あくまで撮影している事はバレないように。あは完全に盗撮の構えだ。
政治演説を盗撮するパーキンを、ユーリ達もまた遠くから撮影する。記事にして売るため盗撮しているパーキンとは違い、逮捕するに至らせるための証拠として残すためだ。
そのままパーキンは街でたむろする集団など、あらゆる画を取り、いい画が撮れねーと言って舌打をする。
そんな彼の横を、まだ小さな男の子たち三人が無邪気に走り抜けた。
「イエーイ、ボンドマンのピストル買ってもらったぜー!」
「いいなー貸してー」
「やだよーだ」
「ケチー!」
じゃれあって遊ぶ少年たちの輪に、パーキンがツカツカと高圧的に近寄ると、手にしていたおもちゃのピストルを奪い取った。
「ちょっ…うわぁー!?オレのピストルー!!」
路上の片隅に設置されていたゴミ箱にそのおもちゃを投げ捨てる。
涙目になった少年たちが、そのゴミ箱を必死になって探す。
持ち主の少年だけでなく、友達二人もただならぬ展開に驚き、親身になって、汚れるのも厭わずに奥深くまで探し続ける。そんな事をすれば、彼らは髪も肌も服も薄汚れるのは必須である。
そんな光景を一歩引いた場所からカメラで撮影し、パーキンはニヤリと満足げに笑った。
「貧しさのあまりゴミ箱の残飯を漁るストリートチルドレン…悪くないな」
ユーリはその言葉を聞いただけで、自分のこめかみにぴきりと青筋が立つのがわかった。
が昔、ゴミの残飯さえ漁った事があると、笑いながら話していたのが印象深く残っていたのだ。
昔のは、ストリートチルドレンと言っても差し支えない暮らしを送っていた。
とはいえど、身近な人間が"そう"であった、というだけが怒りの琴線に触れたのではない。
「何すんだジジイ!秘密警察にチクってやる!」
「はん、富を分け与えず独占するごうつくばりめ。おまえのような西寄りの思想の持ち主は逆に逮捕されて殺されちまうぞ?ガハハ」
子供を下賤な記事にして飯の種にする愚かさと、こんな恐喝をしてみせるパーキンの底意地の悪さに心底腹が立っていたのだ。
「あの野郎…ッ処刑してやる!」
「よせ。地下出版のバイヤーをあぶり出すまでは泳がせておけ」
「ぐっ…」
ユーリは腕を引かれて論理的な説得をされ、引き下がざるを得なかった。
懲りずに街のそこかしこをカメラで盗撮して回る背中を見守りながら、ユーリは耐え忍ぶ。
その鬱憤を晴らすかのように今まで以上にねちっこく監視をつづけた。
「くくく…こいつは笑える記事なりそうだ、ははは」
ヘッドフォンの向こうでどれだけ耳障りな発言が聞えようとも、座して耐える。機が熟すその時まで。
しかし、パーキンに対して"怒り"と"嫌悪"だけがわいていたのは、その時までだった。
「フランク…お前また危ない仕事なんかしてないだろうな?」
「し…してねーよ、あっち行ってろよ」
「変な正義感出さなきゃ新聞の仕事だって続けられてただろうに…」
「……家族が暮らすこの国良くしようと思って、何が悪いんだ…今だって、こんなしみったれた暮らしを守るためにも、金が要るだろうがよ…金がありゃ母さんだって…」
そこまで言ってから、パーキンは押し黙る。そしてガタッと立ち上がる物音を立ててから、「何でもねーよ、クソが」と悪態をついてから、父親から逃げるように部屋を出て行った。
どれだけ憎まれ口をたたいても、ここまで聞けばパーキンという男の本質…行動原理は露見したも同然だ。
「パーキンの動機は家族のため?」
その一行を静かに打ち込んだ後、ユーリはそれが印字された紙をビッと引きちぎり、クシャクシャと丸めて捨ててしまった。
──家族。パーキンという男にとってもそうであったように、ユーリという人間にとっても"核"となる存在で、行動理念の全てだった。
今この瞬間だって、家族…姉や名前、大切な人のために働いている。
しかし害悪の畜生、外道とすら思っていたパーキンも、自分と同じなのだとしたら?
考えれば考えるほど、深みにハマッていく。
ユーリが働いているのは国のためであり、ひいては家族のため。それがユーリにとっての揺るがない正義で大儀であった。
しかし、パーキンという男にとってもそれは同じだろう。
皮肉も悪行も外道な行動も、全ては家族のため──そう思うと、ユーリはパーキンと自分は"同じ"だと思ってしまったのだ。
これはよくない。とてもよくない考えだ。
この世には法があり、秩序があり、律するものがいる。
それを破ったものが悪であり、法に従順な市民が善良と呼ばれる、絶対のルールがあるのである。情状酌量、という概念があるにはある。
が、それは今ユーリが考える事ではない。ユーリの仕事ではないのだ。
──大好きな姉のこと。愛しているの事。今思い浮かべてしまったら、何かが揺れてしまう。そんな予感がして、何もかもを忘れるようにキツく瞼を閉じて、長い溜息を吐いて葛藤を逃した。