第三十九話
5.恋情─しあわせなこと
「──ちがう、そうじゃない!」
間違えては書き直し、消しゴムをかける。その度に生まれる消しゴムカスがをゴミ箱に捨てるのは、私の役目となっていた。
教師役はユーリが担い、最早飴を与える隙すら見つからない。
「飲み込みの悪いやつだな!マジメにやれ!」
「ユーリ!もっと優しく教えてあげて!」
ヨルさんが思わずユーリを窘めて、アーニャちゃんは消え入りそうな声でマジメにやってる…と反論した。
最早ちょっとした修羅場だ。怒られる子供と厳しく叱る大人という構図は、あまり見ていて気持ちのよい光景ではない。
なので、私はここでアーニャちゃんの肩を持たずにはいられなかった。
「ユーリ、こわい」
「う゛っ……」
勿論優しく教えるだけが教師ではないし、時には厳しく叱るのも有用だろう。
けれど今はそうではないはずだ。
ただアーニャちゃんが涙目になり、見ている方もハラハラして、怒るユーリも疲れるだけという、負の連鎖が生まれるだけ。
私が眉を下げながら言うと、ユーリは言葉を詰まらせた。
子供には半泣きされ、家族には責められて、流石のユーリも肩身が狭くなり、顔を顰めている。
私も私で、どうした物かと少し悩んでいた。ユーリもスパルタな教え方しかできない訳じゃない。
ただその冷静な一面をどうやって引き出してもらおうかと考えた所で、ヨルさんから助け船が寄こされた。それは何よりも効果覿面な一言だった。
「…私、アニーャさんには退学になってほしくないのです」
どこか物憂げな表情をしながら、しみじみと語った。
心の底からアーニャちゃんの事を想い、尽くすため、ユーリに助力を求めている。
昔ユーリと私がヨルさんに尽くしてもらったように。
そのヨルさんの慈愛を跳ねのけるというのは、私達の過去すら跳ねのける事にもなる行いだ。
「お願いユーリ、頼りにしてるのです。…ね?名前もお願いね」
「うん、もちろん」
善意、慈愛から成るヨルさんの今回の行動。
そんなヨルさんのお願いを私は断れるはずもないし、断りたいとも思わない。
ユーリはそれに加えて例の"おねだり"のポーズにも胸を射止められたらしい。アーニャちゃんのように心など読めなくても、ユーリのその心境は伝わってきた。
同性から見てもヨルさんはその尊顔、仕草、全て揃って可愛いのである。
「う…うん…だけど本人の素養が…」
当の本人…アーニャちゃんは微妙な顔をしていた。ユーリの姉ラブな心境が筒抜けたのか、それとも私のヨルさんへの愛すらも重たかったのか。
2人分の愛を読めば、胃もたれも起こして当然だろうな、と考えた所で。アーニャちゃんはハッと何かを閃いたように目を丸くして、少しの沈黙する。
そしておずおずと、きゅっと小さな両手を握りしめると、少し舌足らずな声で口を開いた。
「アーニャがんばるます!"皇帝の学徒"になってえらいひとになってははにおいしいものたべさせたいとおもってるます(棒)」
好感度を100%獲得できる効果覿面なフレーズだった。
さすが心を読める超能力者だ。ヨルさんは感動しただろうし、ユーリも姉を慕う子供を無碍には出来なくなる。
無関係の第三者の目にだって、親想いの子供というのは、それだけで好ましく映るものだ。
拍手を送りたくなるくらい鮮やかなお手前だった。ユーリは暫く葛藤して、心の中で自己問答を繰り返した後、腰を据えてちゃんと教えるという結論に至ったらしい。
そうすると、今度は無鉄砲にスパルタ指導するだけではなく、論理的に、冷静に教えるようになっていた。
「ほらまた間違えてる」
「はうっ」
「いやいいんだ、ボクも昔この文法には苦戦した。重要なのはなぜ間違えたかを理解してくり返さないことだ」
これこそが、私が見たかった景色だ。隣同士座り、ペンを握り、的確な指導をする。
頭ごなしに叱るのではなく、間違いも許容する。
「……ふふ」
「?なんだ、この問題はこれが最適解だろう?」
「違うの、昔を思い出しただけ。昔からユーリは勉強教えるの上手だったよね」
前世があったせいで、スポンジのように吸収してしまったからだろう。
それを面白がっていた側面もあった。
そして洪水のようにハイペースで注いでもついて来れると認定され、随分とハードな勉強会を毎日開いてた。
あの頃が懐かしくて、つい顔が綻ぶ。ユーリは私が褒めると照れたのか、ふいと視線を逸らしてしまった。そんな所もまた微笑ましい。
私の褒めに礼を言うでもなく照れ隠しをするでもなく、誤魔化すようにそのまま指導に入ってしまった。
「ここはこうだからややこしいんだ。小難しく考えずこの動詞にだけ注目しろ」
「むむむ」
「ふふふ」
キッチンでは、ヨルさんがお茶の支度している。ヨルさんも私と同じように微笑ましそうに見守っている。
ヨルさんもまた、昔小さいユーリに勉強を教えられていたのだ。
大きくなって、再び誰かに物を教えようとする姿に、何か感慨を抱いているのかもしれない。
理解したかどうかはともかく、ヨルさんは素直にユーリに披露された知識に感動しただろうし、私も抵抗なく飲み込んだ。
けれどアーニャちゃんはただひたすら知識を詰められる事が苦痛な様子で、ユーリは難しそうな顔をして問いかけた。
「おまえ勉強は嫌いか?」
「だいきらい。おじはすきなのか?へんたいか?」
へんたいなどとと言われている姿がおかしくて、少し笑いそうになってしまった。
そういえばこんな変な言い回しで悪態をつく子供だった。
悪気がある訳ではなく、語彙力が独特なのだろう。
ユーリもまたツッコミどころが独特で、変態という部分より叔父呼びが嫌だったようで、やめろと拒絶していた。それでいいのだろうか。ユーリが叔父なら私は叔母になるのか、と他愛ない事を考えながら2人を見守る。
「ボクは幼い頃無力な自分が悔しかった。早く姉さんの力になりたかった。そのために勉強をがんばった。一問解くごとに自分の背が1cm伸びたような気分になって歓喜したものだ」
国語を頑張り、化学や生物、数学や物理、あらゆる科目を伸ばした。
弁が立てばジャーナリストや弁護士になり姉のいる世界をよりよく出来る、と昔語られたのを思い出す。
ユーリのこういう所は大人びていて、立派な子供だなと昔私も感心したものだ。
けれど今思えば、この語りも頭の中に知識として眠ってたいたのだった。
人体薬学に精通すれば姉のケガを治せる、数学物理は姉の生活の安全や快適さ全てに繋がる。一貫して根底に姉を置いたブレない行動原理に、漫画を読んでいた時には面白がりながら、苦笑したものだ。
「まあ結局ボクは外交官(本当は保安局員)という道を選んだわけだが、培った力は今でも活かされてる」
「ほう」
文字と睨めっこをしている時とは違い、ユーリの語りを感心したように聞いている。
人の話を素直に聞ける子なのだ。アニメという物語にも興味を持ってる。
誰かの話、現象、思想、物語、空想と言ったものに微塵も興味を示さないようであればお手上げだけれど、この様子なら、やり方次第では勉強に励む事もできるだろう。
だからといって、回らない私の口では、話術巧にアーニャちゃんを誘導するのは難しいだろうけれど。
「昔の偉い奴は言った。知は力だと。お前も立派な人間になりたかったら勉強という名の筋トレを欠かすな!」
「ちわわぢから…!?」
「違う」
知が力になると小難しく言われて、感動できる子供がどれだけ居るだろう。
さすがに難しかったようで、妙なリアクションをしていた。
しかし勉強が大事だという必要性だけは伝わったようで、アーニャちゃんは嫌そうにしていた態度を一転させ、食いついた。
「べんきょーしたらおくすりつくれる?」
「そうだ!」
「ろけっともつくれる?」
「もちろんだ!」
「せかいせいふくもできる!?」
「それはまあ…うん…え?征服したいの…?」
「先生、世界征服するために一番必要な科目ってなんですか」
「まで何言ってるんだよ…」
いい感じに盛り上がってきたその空気をさらに高めようとして、私も冗談に乗っておいた。
ユーリには呆れた反応をされたものの、アーニャちゃんは私の言葉を受けて、どの科目なら敵を倒せるかと"考え"始めた。
興味を持って考えるという段階を踏む事が出来たら後はもう安泰である。
ユーリは気を取り直して居住まいを正し、アーニャちゃんと向き合う。そしてぐっと拳を握った。
「いいか目の前のテストなんてどうだっていい!その先の未来の大成した未来を見据えろ!」
「いえっさー!」
「その未来で微笑む姉さんとの笑顔を見据えろ!」
「さー・いえっさー!」
「よーし次の問題集だ!」
「あまり変なことを教えないでください…」
息ピッタリに妙な熱を燃え上がらせる2人をみて、ヨルさんは呆れた顔をしていた。
自分を根底に置かれた、変な入れ知恵をされても確かに困るだろう。
けれど私はヨルさん以上に困っていたと思う。
なんで、私まで引き合いに出されたのだろう。
拳を突き上げて気合を入れる2人を困惑して見やることしかできない。
「……ええと」
ユーリの行動原理は、そのほとんどが姉、ヨル・ブライアという存在だ。
姉のためになるものならなんでもいると言わんばかりに突き進むのが彼だ。
居候特典で、最近はほんの少しだけその愛の恩恵に預かってはものの、こんな風に引き合いに出される程に私の存在はユーリの中で大きくなっていたのか。
それはどうしてか。家族だから。妹だから。義理で、同情で、親愛で、──恋情で…
そこまで考えて、ぞっとした。
そういう可能性を当然のように浮かべてしまう自分も、私を勘違いさせるユーリの言動も、何もかもが嫌だった。
振り回してるつもりなんて、ユーリは毛頭ないはずだ。無自覚の言動に私は過剰に意識をして、毎日惨めになるのだ。
そこから2人は猛勉強に励んだ。
私はヨルさんの入れてくれたお茶を飲みながら、勉強組を眺めつつヨルさんと雑談して時間を過ごした。さすがに座っているだけで疲れてくる。
長時間ガリガリと筆を走らせていた2人は息切れをして、最終的に床に大の字になって転がる。
「どうだ、この文法はマスターできたか?」
「"ぶんぽう"ってなに?」
「マジで時間の無駄ァ!!」
私は流石の流石にユーリに深い同情を抱いてしまった。
アーニャちゃんは私の落胆を読んだのか、少しショックを受けたような顔をしている。
申し訳ないと思いつつも、今回ばかりはユーリの肩を持たせてもらう他ない。
渋々ながらあんなに真面目に家庭教師をしていたのに、まさかこんなに初歩的な問いを投げかけらるとは。全てが水の泡のようになったように感じても仕方あるまい。
「もう帰る!やってられん!」
「あ…」
再び憤ったユーリは、かけてあったコートを手に取って、帰り支度を始めてしまった。
今度ばかりはユーリを咎められないし、止める気もない。時計の針がもういい時間を指していた、というのもある。
私もコートラックにかけていた自分のコートを手にして、羽織って帰り支度をする。
鞄を手にして、私も一緒に帰る用意をした。
「いくぞ!」
「はあい…」
廊下を進むユーリは、予想通り私も連れて帰る気満々だった。
私を置いて女三人水入らずで親睦を深めさせる…などという風には考えないだろう。
けれど私が鞄を持ったように、当然のように私の腕を取ったユーリには驚いて、ちょっとよろけながら後ろをついていった。
手を繋ぐ事は慣れた…という程に頻繁な訳ではない。けれど、もう何度もあった事だ。
それでもなんとなく、未だに動揺してしまう。
「ユーリ!?」
「ごめんよ姉さんボク行かなくちゃ」
「ヨルさん、バタバタしてごめん…またね」
「んもうっ相変わらず気の短い子ですね…の事も、そう乱暴に扱うのはやめなさいっ」
「…」
アーニャはユーリと私の心境を読んだのだろうか、感じ入ったような表情をして、ヨルさんは困り切った顔をしていた。
妹を荷物のように扱う短気な弟だと苦言を呈しながら、背中を見送る。
「ユーリちょっと待って」
「なんだ」
「せっかくがんばって手作りお菓子に挑戦したのに…」
「ほら…」
玄関を締め切った後、ヨルさんの声が届くと、ユーリは再び大きく戸を開ける。
ヨルさんはその両手に、ちょこんと一枚のお皿を持っていた。
その上にはお菓子…お菓子のような何かが載っている。
ユーリはそれを躊躇いなく鷲掴みにし、一気に食べてしまった。
私は少しその勢いに引きながら見守り、まだ手に残っている手つかずの一枚が齧られるのをみて、残念に思った。
今度こそ通路を歩いて、帰路につくユーリを横目にちらりと見ながら、私は話しかける。
「ユーリ、それ一口ちょうだい」
「あ?もう食べかけしかないぞ」
「齧ったのでいいよ、今さらでしょ」
全部を口に入れられてしまう前に…ほんの一かけらでもよかった。ヨルさんの手作りのお菓子が食べたかったのだ。
料理をするのは手間がかかる。時間と労力、費用の浪費は避けられない。
それを惜しまず注げるとしたら、ただの義務と捉えている時か、もしくは愛がある時か。
私はどれだけ個性的な味をしていようが、具合が悪くなろうが、その愛情を跳ねたくはなかった。
「…うん、やっぱりおいしいね」
料理の隠し味は愛情だ、なんて臭いセリフがあるけれど、あながち間違いではないと今世で初めて思った。
失礼ながら、お世辞にも美味しいといえない手料理を食べたいと思うのは、愛がほしいから。
その愛を甘美だと感じるからに他ならない。だから、美味しいといった。
幸せだと感じて、自然と笑みが零れる。
同意をもとめるようにユーリを見ると、隣を歩くユーリは、妙な顔をしていた。
不思議な反応をされて、思わず首を傾げてしまう。
いつも自分だって美味しい美味しいと繰り返しているのに、何故頷いてくれないのだろう。
もしかして、最後の一口を奪われた事で怒っているのかと、落ち着かない様子のユーリを伺い見た。
「どうしたの」
「いや…」
「…怒ってる?私が食べちゃったから…」
「そんな、事は」
ない、と続けるつもりだったのだろう。妙に歯切れが悪い。
怒っていないというなら何なのか。
「……なんでもない」
短く否定されて、私はそこで引き下がる他なかった。
何でもない訳がないだろうなと思いつつも、それ以上深く追求しても栓はない、くどいだろう。
本人が言いたくないと口ごもっている事を暴き立てるほど無粋な人間にはなれない。
「幸せだよね、こういうの」
誰かに愛され、誰かに尽くされる。当たり前ではない特権を得られた事を喜ぶ私は、その時ユーリの浮かべた表情に気が付かなかった。
5.恋情─しあわせなこと
「──ちがう、そうじゃない!」
間違えては書き直し、消しゴムをかける。その度に生まれる消しゴムカスがをゴミ箱に捨てるのは、私の役目となっていた。
教師役はユーリが担い、最早飴を与える隙すら見つからない。
「飲み込みの悪いやつだな!マジメにやれ!」
「ユーリ!もっと優しく教えてあげて!」
ヨルさんが思わずユーリを窘めて、アーニャちゃんは消え入りそうな声でマジメにやってる…と反論した。
最早ちょっとした修羅場だ。怒られる子供と厳しく叱る大人という構図は、あまり見ていて気持ちのよい光景ではない。
なので、私はここでアーニャちゃんの肩を持たずにはいられなかった。
「ユーリ、こわい」
「う゛っ……」
勿論優しく教えるだけが教師ではないし、時には厳しく叱るのも有用だろう。
けれど今はそうではないはずだ。
ただアーニャちゃんが涙目になり、見ている方もハラハラして、怒るユーリも疲れるだけという、負の連鎖が生まれるだけ。
私が眉を下げながら言うと、ユーリは言葉を詰まらせた。
子供には半泣きされ、家族には責められて、流石のユーリも肩身が狭くなり、顔を顰めている。
私も私で、どうした物かと少し悩んでいた。ユーリもスパルタな教え方しかできない訳じゃない。
ただその冷静な一面をどうやって引き出してもらおうかと考えた所で、ヨルさんから助け船が寄こされた。それは何よりも効果覿面な一言だった。
「…私、アニーャさんには退学になってほしくないのです」
どこか物憂げな表情をしながら、しみじみと語った。
心の底からアーニャちゃんの事を想い、尽くすため、ユーリに助力を求めている。
昔ユーリと私がヨルさんに尽くしてもらったように。
そのヨルさんの慈愛を跳ねのけるというのは、私達の過去すら跳ねのける事にもなる行いだ。
「お願いユーリ、頼りにしてるのです。…ね?名前もお願いね」
「うん、もちろん」
善意、慈愛から成るヨルさんの今回の行動。
そんなヨルさんのお願いを私は断れるはずもないし、断りたいとも思わない。
ユーリはそれに加えて例の"おねだり"のポーズにも胸を射止められたらしい。アーニャちゃんのように心など読めなくても、ユーリのその心境は伝わってきた。
同性から見てもヨルさんはその尊顔、仕草、全て揃って可愛いのである。
「う…うん…だけど本人の素養が…」
当の本人…アーニャちゃんは微妙な顔をしていた。ユーリの姉ラブな心境が筒抜けたのか、それとも私のヨルさんへの愛すらも重たかったのか。
2人分の愛を読めば、胃もたれも起こして当然だろうな、と考えた所で。アーニャちゃんはハッと何かを閃いたように目を丸くして、少しの沈黙する。
そしておずおずと、きゅっと小さな両手を握りしめると、少し舌足らずな声で口を開いた。
「アーニャがんばるます!"皇帝の学徒"になってえらいひとになってははにおいしいものたべさせたいとおもってるます(棒)」
好感度を100%獲得できる効果覿面なフレーズだった。
さすが心を読める超能力者だ。ヨルさんは感動しただろうし、ユーリも姉を慕う子供を無碍には出来なくなる。
無関係の第三者の目にだって、親想いの子供というのは、それだけで好ましく映るものだ。
拍手を送りたくなるくらい鮮やかなお手前だった。ユーリは暫く葛藤して、心の中で自己問答を繰り返した後、腰を据えてちゃんと教えるという結論に至ったらしい。
そうすると、今度は無鉄砲にスパルタ指導するだけではなく、論理的に、冷静に教えるようになっていた。
「ほらまた間違えてる」
「はうっ」
「いやいいんだ、ボクも昔この文法には苦戦した。重要なのはなぜ間違えたかを理解してくり返さないことだ」
これこそが、私が見たかった景色だ。隣同士座り、ペンを握り、的確な指導をする。
頭ごなしに叱るのではなく、間違いも許容する。
「……ふふ」
「?なんだ、この問題はこれが最適解だろう?」
「違うの、昔を思い出しただけ。昔からユーリは勉強教えるの上手だったよね」
前世があったせいで、スポンジのように吸収してしまったからだろう。
それを面白がっていた側面もあった。
そして洪水のようにハイペースで注いでもついて来れると認定され、随分とハードな勉強会を毎日開いてた。
あの頃が懐かしくて、つい顔が綻ぶ。ユーリは私が褒めると照れたのか、ふいと視線を逸らしてしまった。そんな所もまた微笑ましい。
私の褒めに礼を言うでもなく照れ隠しをするでもなく、誤魔化すようにそのまま指導に入ってしまった。
「ここはこうだからややこしいんだ。小難しく考えずこの動詞にだけ注目しろ」
「むむむ」
「ふふふ」
キッチンでは、ヨルさんがお茶の支度している。ヨルさんも私と同じように微笑ましそうに見守っている。
ヨルさんもまた、昔小さいユーリに勉強を教えられていたのだ。
大きくなって、再び誰かに物を教えようとする姿に、何か感慨を抱いているのかもしれない。
理解したかどうかはともかく、ヨルさんは素直にユーリに披露された知識に感動しただろうし、私も抵抗なく飲み込んだ。
けれどアーニャちゃんはただひたすら知識を詰められる事が苦痛な様子で、ユーリは難しそうな顔をして問いかけた。
「おまえ勉強は嫌いか?」
「だいきらい。おじはすきなのか?へんたいか?」
へんたいなどとと言われている姿がおかしくて、少し笑いそうになってしまった。
そういえばこんな変な言い回しで悪態をつく子供だった。
悪気がある訳ではなく、語彙力が独特なのだろう。
ユーリもまたツッコミどころが独特で、変態という部分より叔父呼びが嫌だったようで、やめろと拒絶していた。それでいいのだろうか。ユーリが叔父なら私は叔母になるのか、と他愛ない事を考えながら2人を見守る。
「ボクは幼い頃無力な自分が悔しかった。早く姉さんの力になりたかった。そのために勉強をがんばった。一問解くごとに自分の背が1cm伸びたような気分になって歓喜したものだ」
国語を頑張り、化学や生物、数学や物理、あらゆる科目を伸ばした。
弁が立てばジャーナリストや弁護士になり姉のいる世界をよりよく出来る、と昔語られたのを思い出す。
ユーリのこういう所は大人びていて、立派な子供だなと昔私も感心したものだ。
けれど今思えば、この語りも頭の中に知識として眠ってたいたのだった。
人体薬学に精通すれば姉のケガを治せる、数学物理は姉の生活の安全や快適さ全てに繋がる。一貫して根底に姉を置いたブレない行動原理に、漫画を読んでいた時には面白がりながら、苦笑したものだ。
「まあ結局ボクは外交官(本当は保安局員)という道を選んだわけだが、培った力は今でも活かされてる」
「ほう」
文字と睨めっこをしている時とは違い、ユーリの語りを感心したように聞いている。
人の話を素直に聞ける子なのだ。アニメという物語にも興味を持ってる。
誰かの話、現象、思想、物語、空想と言ったものに微塵も興味を示さないようであればお手上げだけれど、この様子なら、やり方次第では勉強に励む事もできるだろう。
だからといって、回らない私の口では、話術巧にアーニャちゃんを誘導するのは難しいだろうけれど。
「昔の偉い奴は言った。知は力だと。お前も立派な人間になりたかったら勉強という名の筋トレを欠かすな!」
「ちわわぢから…!?」
「違う」
知が力になると小難しく言われて、感動できる子供がどれだけ居るだろう。
さすがに難しかったようで、妙なリアクションをしていた。
しかし勉強が大事だという必要性だけは伝わったようで、アーニャちゃんは嫌そうにしていた態度を一転させ、食いついた。
「べんきょーしたらおくすりつくれる?」
「そうだ!」
「ろけっともつくれる?」
「もちろんだ!」
「せかいせいふくもできる!?」
「それはまあ…うん…え?征服したいの…?」
「先生、世界征服するために一番必要な科目ってなんですか」
「まで何言ってるんだよ…」
いい感じに盛り上がってきたその空気をさらに高めようとして、私も冗談に乗っておいた。
ユーリには呆れた反応をされたものの、アーニャちゃんは私の言葉を受けて、どの科目なら敵を倒せるかと"考え"始めた。
興味を持って考えるという段階を踏む事が出来たら後はもう安泰である。
ユーリは気を取り直して居住まいを正し、アーニャちゃんと向き合う。そしてぐっと拳を握った。
「いいか目の前のテストなんてどうだっていい!その先の未来の大成した未来を見据えろ!」
「いえっさー!」
「その未来で微笑む姉さんとの笑顔を見据えろ!」
「さー・いえっさー!」
「よーし次の問題集だ!」
「あまり変なことを教えないでください…」
息ピッタリに妙な熱を燃え上がらせる2人をみて、ヨルさんは呆れた顔をしていた。
自分を根底に置かれた、変な入れ知恵をされても確かに困るだろう。
けれど私はヨルさん以上に困っていたと思う。
なんで、私まで引き合いに出されたのだろう。
拳を突き上げて気合を入れる2人を困惑して見やることしかできない。
「……ええと」
ユーリの行動原理は、そのほとんどが姉、ヨル・ブライアという存在だ。
姉のためになるものならなんでもいると言わんばかりに突き進むのが彼だ。
居候特典で、最近はほんの少しだけその愛の恩恵に預かってはものの、こんな風に引き合いに出される程に私の存在はユーリの中で大きくなっていたのか。
それはどうしてか。家族だから。妹だから。義理で、同情で、親愛で、──恋情で…
そこまで考えて、ぞっとした。
そういう可能性を当然のように浮かべてしまう自分も、私を勘違いさせるユーリの言動も、何もかもが嫌だった。
振り回してるつもりなんて、ユーリは毛頭ないはずだ。無自覚の言動に私は過剰に意識をして、毎日惨めになるのだ。
そこから2人は猛勉強に励んだ。
私はヨルさんの入れてくれたお茶を飲みながら、勉強組を眺めつつヨルさんと雑談して時間を過ごした。さすがに座っているだけで疲れてくる。
長時間ガリガリと筆を走らせていた2人は息切れをして、最終的に床に大の字になって転がる。
「どうだ、この文法はマスターできたか?」
「"ぶんぽう"ってなに?」
「マジで時間の無駄ァ!!」
私は流石の流石にユーリに深い同情を抱いてしまった。
アーニャちゃんは私の落胆を読んだのか、少しショックを受けたような顔をしている。
申し訳ないと思いつつも、今回ばかりはユーリの肩を持たせてもらう他ない。
渋々ながらあんなに真面目に家庭教師をしていたのに、まさかこんなに初歩的な問いを投げかけらるとは。全てが水の泡のようになったように感じても仕方あるまい。
「もう帰る!やってられん!」
「あ…」
再び憤ったユーリは、かけてあったコートを手に取って、帰り支度を始めてしまった。
今度ばかりはユーリを咎められないし、止める気もない。時計の針がもういい時間を指していた、というのもある。
私もコートラックにかけていた自分のコートを手にして、羽織って帰り支度をする。
鞄を手にして、私も一緒に帰る用意をした。
「いくぞ!」
「はあい…」
廊下を進むユーリは、予想通り私も連れて帰る気満々だった。
私を置いて女三人水入らずで親睦を深めさせる…などという風には考えないだろう。
けれど私が鞄を持ったように、当然のように私の腕を取ったユーリには驚いて、ちょっとよろけながら後ろをついていった。
手を繋ぐ事は慣れた…という程に頻繁な訳ではない。けれど、もう何度もあった事だ。
それでもなんとなく、未だに動揺してしまう。
「ユーリ!?」
「ごめんよ姉さんボク行かなくちゃ」
「ヨルさん、バタバタしてごめん…またね」
「んもうっ相変わらず気の短い子ですね…の事も、そう乱暴に扱うのはやめなさいっ」
「…」
アーニャはユーリと私の心境を読んだのだろうか、感じ入ったような表情をして、ヨルさんは困り切った顔をしていた。
妹を荷物のように扱う短気な弟だと苦言を呈しながら、背中を見送る。
「ユーリちょっと待って」
「なんだ」
「せっかくがんばって手作りお菓子に挑戦したのに…」
「ほら…」
玄関を締め切った後、ヨルさんの声が届くと、ユーリは再び大きく戸を開ける。
ヨルさんはその両手に、ちょこんと一枚のお皿を持っていた。
その上にはお菓子…お菓子のような何かが載っている。
ユーリはそれを躊躇いなく鷲掴みにし、一気に食べてしまった。
私は少しその勢いに引きながら見守り、まだ手に残っている手つかずの一枚が齧られるのをみて、残念に思った。
今度こそ通路を歩いて、帰路につくユーリを横目にちらりと見ながら、私は話しかける。
「ユーリ、それ一口ちょうだい」
「あ?もう食べかけしかないぞ」
「齧ったのでいいよ、今さらでしょ」
全部を口に入れられてしまう前に…ほんの一かけらでもよかった。ヨルさんの手作りのお菓子が食べたかったのだ。
料理をするのは手間がかかる。時間と労力、費用の浪費は避けられない。
それを惜しまず注げるとしたら、ただの義務と捉えている時か、もしくは愛がある時か。
私はどれだけ個性的な味をしていようが、具合が悪くなろうが、その愛情を跳ねたくはなかった。
「…うん、やっぱりおいしいね」
料理の隠し味は愛情だ、なんて臭いセリフがあるけれど、あながち間違いではないと今世で初めて思った。
失礼ながら、お世辞にも美味しいといえない手料理を食べたいと思うのは、愛がほしいから。
その愛を甘美だと感じるからに他ならない。だから、美味しいといった。
幸せだと感じて、自然と笑みが零れる。
同意をもとめるようにユーリを見ると、隣を歩くユーリは、妙な顔をしていた。
不思議な反応をされて、思わず首を傾げてしまう。
いつも自分だって美味しい美味しいと繰り返しているのに、何故頷いてくれないのだろう。
もしかして、最後の一口を奪われた事で怒っているのかと、落ち着かない様子のユーリを伺い見た。
「どうしたの」
「いや…」
「…怒ってる?私が食べちゃったから…」
「そんな、事は」
ない、と続けるつもりだったのだろう。妙に歯切れが悪い。
怒っていないというなら何なのか。
「……なんでもない」
短く否定されて、私はそこで引き下がる他なかった。
何でもない訳がないだろうなと思いつつも、それ以上深く追求しても栓はない、くどいだろう。
本人が言いたくないと口ごもっている事を暴き立てるほど無粋な人間にはなれない。
「幸せだよね、こういうの」
誰かに愛され、誰かに尽くされる。当たり前ではない特権を得られた事を喜ぶ私は、その時ユーリの浮かべた表情に気が付かなかった。