第三十七話
5.恋情─家庭教師
「──ちがう、そうじゃない!」
アーニャが何度も答えを間違い、その度に消しゴムをかけたせいで、テーブルには消しゴムカスが散らばっている。
は黙々とそれを集めて、ゴミ箱の中に払い落とした。
「飲み込みの悪いやつだな!マジメにやれ!」
「ユーリ!もっと優しく教えてあげて!」
マジメにやってる…と小声で言うアーニャは涙目だった。
は特別子供が好きという訳ではなかったけれど、こんな姿を見て同情しない程に薄情ではない。
「ユーリ、こわい」
「う゛っ……」
ぽつりと悲し気にが言うと、ユーリはバツが悪そうに言葉を詰まらせる。
愛する姉とに揃って責められて、ユーリは肩身が狭くなっていた。
好きな子に"怖い"と言われるのは、こんなにもつらい物があるのか。
もしかしてただ庇って言っただけでなく、はユーリの剣幕を見ていて、本当に恐ろしく思っていたのだろうか。
身内至上主義のユーリは、今はいかに姉に弁解するか、の怯えを解くかで頭が一杯だった。
そこに、鶴の一声…ならぬ姉の一言がかかる。
「…私、アーニャさんには退学になってほしくないのです」
面談で、"本当の"母親の事を意地悪な教員に詰問され、アーニャは泣いてしまった。
学校は怖いところと嫌ってしまっても仕方ない程の修羅場だった。それでも期待に応えようとしたのか、学校に行くという意思を曲げなかったアーニャ。
そして、先の見えないこのご時世、いい学校に行かせないというのが亡き妻の意思でもあるのです…と熱弁したロイド。
ヨルもまた、その言葉通り、アーニャに学校に卒業まで通い続けてほしいと願っていた。大切な2人のその願いが叶うように、ヨルは力添えがしたいと思ってる。
だから、優秀な弟と妹を家庭教師役に頼み、こうして自分なりに力を尽くしてるのだ。
「お願いユーリ、頼りにしてるのです。…ね?もお願いね」
「うん、もちろん」
少し照れくさそうに、しかし信頼と身内への甘えを確かに表情ににじませたヨルは、可愛く"おねがい"をしていた。
は微笑ましそうな表情でそれに頷く。ユーリは昔から姉のこの仕草に弱かった。
胸がキューンと締め付けられ、平然を装いながらも脳内で何度もリフレインし、愛らしい姉の表情がリピート再生される。
「う…うん…だけど本人の素養が…」
アーニャにはそんなねっとりとした心境が筒抜けているようで、微妙そうな顔をしていた。
が、何かを閃いたようで、少しの沈黙のあと、きゅっと小さな両手を握りしめ、舌足らずな声で必死に宣言した。
「アーニャがんばるます!"皇帝の学徒"になってえらいひとになってははにおいしいものたべさせたいとおもってるます(棒)」
超能力者のアーニャにとっては、相手がどういえばどう感じるか。どうすれば都合のいい方向へ転がるかなど、手を取るようにわかる。
予想通り、ユーリは愛する"姉のため"に頑張る子供に胸をキュンと射抜かれた。
なんだこの良い子は?こんなにも姉さん思いのいい子が…!と絆されそうになりつつ、
しかし姉泥棒娘なのだからと、必死でセーブをかけている。
が、ユーリの指導でアーニャがいい点を取る→姉は喜ぶ→「ユーリ大好きっ」と褒めてもらえる──という計算を瞬時にこなした。ユーリに都合のいい展開に運ばせられるという打算で、「よしわかった、ちゃんと教える」と結局頷くに至った。
アーニャはにはその打算的な思考は筒抜けだったし、にもそうだった。
付き合いの長さと、"知識"の補助があるせいで、も割と高精度な思考の読み取りができているのだ。
ユーリはポイント稼ぎをしよう奮闘するも、それが効いたのはヨルのみである。
お願いを聞いてくれた弟を、ヨシヨシと頭でも撫でんばかりに愛しそうに見ている。
そしてその心情を表すかのように軽やかに浮足立ちながら、お茶を入れにキッチンへむかった。
「ほらまた間違えてる」
「はうっ」
「いやいいんだ、ボクも昔この文法には苦戦した。重要なのはなぜ間違えたかを理解してくり返さないことだ」
間違えを指摘された瞬間、アーニャは一瞬身がまえた。しかし意外にもユーリは理性的に諭す。
最初こそ飲み込みが悪いやつ!とがなり立て委縮させていたが、ちゃんと教える、と宣言してからは、効率的な指導をしていた。
「……ふふ」
「?なんだ、この問題はこれが最適解だろう?」
「違うの、昔を思い出しただけ。昔からユーリは勉強教えるの上手だったよね」
スパルタだったけど…という言葉は飲み込んで、は懐かしそうに笑った。
ユーリは満更でもなさそうな顔で、しかし照れくさそうにそっぽを向いている。
がアーニャの年頃の頃には、はもっと飲み込みがよかった。スポンジのように吸収し、まるで一を知って十を知る神童のようだった。
けれど、そんなと比べて「昔のはお前よりもっと理解力があった!」と劣等感を煽るのは、それこそ"効率が悪い"。
萎縮させて実力発揮させないというのは、ちゃんと教えるうちには入らないのだろう。
何が正しい勉強法か、何が正しい指導法か。きちんと理解しているのだろうと、は微笑ましく思っていたのだ。
姉泥棒の娘という肩書きが邪魔をして、キツく当たってしまったのだろうし、これからもその棘は消えないのだろうけれど。
「ここはこうだからややこしいんだ。小難しく考えずこの動詞にだけ注目しろ」
「むむむ」
「ふふふ」
キッチンでお茶の支度をしているヨルも、と同じ思いらしい。
昔、姉である自分に勉強を教えようとして、本を開きながら目を輝かせていた記憶を思い出していた。昔にしていた様子からも分かるように、本来、人に物を教える事を苦としないタイプなのだ。
成人しても尚気が短く子供っぽい所もあるユーリが、大人びて見えるこの瞬間が、ヨルにとっては微笑ましくも誇らしい。もちろん、嫌々ながらも、必死に勉強に励もうとするアーニャの姿もヨルを和ませていた。
頭をこんがらがらせて爆発させそうなアーニャの姿をみて、ユーリは少し考えてから問いかけた。
「おまえ勉強は嫌いか?」
「だいきらい。おじはすきなのか?へんたいか?」
変態などと言って悪態をつきながらも、心底バカにしている訳ではないようだ。
その語彙の引き出しが少し独特な子供だった。ただ心底不思議そうにアーニャは聞いている。
ユーリは暴言を吐かれた事には触れず、叔父と呼ぶなとツッコミを入れた。それを見聞きしていたは、訂正したい所はそこだけなのか…と物憂げな表情をするユーリをなんとも言えず見守った。
「ボクは幼い頃無力な自分が悔しかった。早く姉さんの力になりたかった。そのために勉強をがんばった。一問解くごとに自分の背が1cm伸びたような気分になって歓喜したものだ」
そのため、国語を頑張り、化学や生物、数学や物理、あらゆる科目を伸ばして行ったと話す。
弁が立てばジャーナリストや弁護士になり姉のいる世界をよりよく出来る、人体薬学に精通すれば姉のケガを治せる、数学物理は姉の生活の安全や快適さ全てに繋がると思ったのだと。
「まあ結局ボクは外交官(本当は保安局員)という道を選んだわけだが、培った力は今でも活かされてる」
「ほう」
アーニャは小難しい文字が羅列されている紙を眺めている時とは違い、素直に聞き入ってるようだった。
アニメを通して勉強する事は苦にならないようだし、興味を持つ話題を絡めて聞いて覚えるというのも有効かもしれないとは思う。
が、相手を飽きさせず、聴き入らせるには相当な話術が要ると理解すると、は言葉が拙い自分には無理だなとすぐに諦め腰になった。
「昔の偉い奴は言った。知は力だと。お前も立派な人間になりたかったら勉強という名の筋トレを欠かすな!」
「ちわわぢから…!?」
「違う」
さすがにアーニャには難しいレベルの話だった。知が力だと言われてもピンとこないだろう。無理もない事だ。
学校の勉強なんてしたって将来何の役にも立たないと嘆くのは子供のうちだけで、大人になってからその有用性に気が付くのがお決まりなのだ。
ユーリの学んだ数学や薬学は、今の仕事に直接的に活かされてなくても、無駄にはなってない。間接的に…生きていく上、職務に励む上での支えになる瞬間が必ず来る。それは万人共通だ。が苦しく貧しい幼児期を過ごす上でも、科学や数学、雑学は、生命維持のために役立ってくれた。
いつ何時に日の目を拝むか分からないのが"貯蓄"や"保険"である。それが目に見える物資という形であろうと、形なき知識であろうと。
「べんきょーしたらおくすりつくれる?」
「そうだ!」
「ろけっともつくれる?」
「もちろんだ!」
「せかいせいふくもできる!?」
「それはまあ…うん…え?征服したいの…?」
「先生、世界征服するために一番必要な科目ってなんですか」
「まで何言ってるんだよ…」
その悪ノリに呆れつつも、先生と言ってころころ笑うに、ユーリの胸はキュンと射抜かれていた。
先生と呼ばれるに相応しい指導をしなければと、果然やる気が出てきくる。
背筋を正し、アーニャに改めて向き合うと、拳を握った。
「いいか目の前のテストなんてどうだっていい!その先の未来の大成した未来を見据えろ!」
「いえっさー!」
「その未来で微笑む姉さんとの笑顔を見据えろ!」
「さー・いえっさー!」
「よーし次の問題集だ!」
「あまり変なことを教えないでください…」
揃って拳を宙に突き上げ、気合を入れるアーニャとユーリ。それをヨルとは困ったように見守っていた。
ただその困った、の意味合いは違っているようだった。ヨルはユーリの指導が変な方向に向かい始めた事に。そしてはというと。
「……ええと」
ユーリの見据える未来とやらに、自分の姿も存在すると知り、少し驚いていた。
ヨル一筋。ヨルのためだけに勉強してきて、その努力は今実を結んび、ユーリは現実に大成している。
可愛がって大事にしてもらっているとは実感していたものの、ヨルと同列に語ってもらえる程の好感度をいつの間にか獲得したらしいと知り、何とも言えない気持ちになっていたのだ。
不意にされたキスから始まり、料理教室の帰りにした会話。
の心情を悶々とさせるやり取りや行動が積み重なり、最近は混乱している時間が多くなった。
猛勉強に励む二人は、の困惑になど気が付かず、息切れをして、最終的に床に大の字になって転がる。
終盤は最早が介入する余地などなく、律儀に隣に座って見守ったの足が痺れるくらいには長く筆を走らせていた。
「どうだ、この文法はマスターできたか?」
「"ぶんぽう"ってなに?」
「マジで時間の無駄ァ!!」
流石に今度ばかりは同情を禁じえないと、は苦い顔をした。
「もう帰る!やってられん!」と言ってコートを手に取り、帰り支度を始めたユーリを咎める気にはなれない。
そうは言っても子供のやる事だ。も苦笑こそすれど、怒る事はない。
けれど、あんなに長時間熱心に教えた末に、超根本的な事を理解していなかったと知らせれれば、もちょっと泣きなくなってしまったかもしれない。
もユーリに倣って、コートラックにかけてあった自分のコートを羽織った。
本当はもう少し長居させてもらって、ヨルと過ごしたかった。けれど、ユーリは絶対に自分の事を連れて帰ろうとするだろうと、予測出来ていたのだ。
「いくぞ!」
「はあい…」
ガツガツと廊下を進みながら、ユーリは案の定の腕を取った。
ついでと言った様子ではなく、持ってきた荷物は当然持ち帰ると言った様子の、迷いのない動作だ。
「ユーリ!?」
「ごめんよ姉さんボク行かなくちゃ」
「ヨルさん、バタバタしてごめん…またね」
「んもうっ相変わらず気の短い子ですね…の事も、そう乱暴に扱うのはやめなさいっ」
「…」
アーニャはユーリのどんな心境を読んだのか、少し感じ入ったような表情をしていた。
玄関扉しめ切ってから、「せっかくがんばって手作りお菓子に挑戦したのに…」というヨルの声が届いた。再び大きく戸を開けると、ヨルが両手でちょこんと持っていた皿の上のお菓子を鷲掴みにし、一気に食べてしまう。そうすると、今度こそ通路を歩いて帰路について行った。
はユーリが最後に手に残していたクッキー…のような何かをじっと見つめて、強請った。
「ユーリ、一口ちょうだい」
「あ?もう食べかけしかないぞ」
「齧ったのでいいよ、今さらでしょ」
食事のシェアなど幾度も繰り返したものだ。ユーリが齧っていたお菓子を手渡してもらい、口に含む。
やはり刺激的な味がしたし、歯ごたえがある所ではない固さだし、触感は何故かざらついている。
けれどヨルの気持ちがこもった物を無碍にするという選択肢は、ユーリにもにもなかった。
ユーリのように一口で丸のみ出来ないは、歩きながらサクサクと何度かに分けて食べていた。
そんな食事風景を横目にちらちらと見ながら、どこか落ち着かないでいる様子のユーリには気が付いた。
「どうしたの」
不思議そうに見上げるに、ユーリは「なんでもない」とぶっきらぼうに言ったけれど、どこからどう見ても何でもなくはない様子だった。
こういう時に、深追いをしないのはの性のようなものだ。それ以上の追及はしないし、されないというのは双方の認識だった。
──ユーリとは一度、正真正銘のキスをしている。息が苦しくなるほどに。
けれどユーリの方は泥酔していて、名前に口づけした瞬間の事を覚えていない。
なので、所謂"間接キス"というそれだけの事に、ユーリは妙にドキドキしていた。
対して、あの夜の事をあんなに恥ずかしがっていた自身は、この間接キスに対してはなんとも感じていないらしい。
お互いどこが羞恥の琴線になるのかわからない状態だった。
が猫のように警戒している時、ユーリの方が相手を伺うようにしてる。
勉強中が驚愕し動揺した発言も、ユーリにとっては取るに足らない事。
そのためか、二人の距離は近づいては遠のいての繰り返しになっていた。
5.恋情─家庭教師
「──ちがう、そうじゃない!」
アーニャが何度も答えを間違い、その度に消しゴムをかけたせいで、テーブルには消しゴムカスが散らばっている。
は黙々とそれを集めて、ゴミ箱の中に払い落とした。
「飲み込みの悪いやつだな!マジメにやれ!」
「ユーリ!もっと優しく教えてあげて!」
マジメにやってる…と小声で言うアーニャは涙目だった。
は特別子供が好きという訳ではなかったけれど、こんな姿を見て同情しない程に薄情ではない。
「ユーリ、こわい」
「う゛っ……」
ぽつりと悲し気にが言うと、ユーリはバツが悪そうに言葉を詰まらせる。
愛する姉とに揃って責められて、ユーリは肩身が狭くなっていた。
好きな子に"怖い"と言われるのは、こんなにもつらい物があるのか。
もしかしてただ庇って言っただけでなく、はユーリの剣幕を見ていて、本当に恐ろしく思っていたのだろうか。
身内至上主義のユーリは、今はいかに姉に弁解するか、の怯えを解くかで頭が一杯だった。
そこに、鶴の一声…ならぬ姉の一言がかかる。
「…私、アーニャさんには退学になってほしくないのです」
面談で、"本当の"母親の事を意地悪な教員に詰問され、アーニャは泣いてしまった。
学校は怖いところと嫌ってしまっても仕方ない程の修羅場だった。それでも期待に応えようとしたのか、学校に行くという意思を曲げなかったアーニャ。
そして、先の見えないこのご時世、いい学校に行かせないというのが亡き妻の意思でもあるのです…と熱弁したロイド。
ヨルもまた、その言葉通り、アーニャに学校に卒業まで通い続けてほしいと願っていた。大切な2人のその願いが叶うように、ヨルは力添えがしたいと思ってる。
だから、優秀な弟と妹を家庭教師役に頼み、こうして自分なりに力を尽くしてるのだ。
「お願いユーリ、頼りにしてるのです。…ね?もお願いね」
「うん、もちろん」
少し照れくさそうに、しかし信頼と身内への甘えを確かに表情ににじませたヨルは、可愛く"おねがい"をしていた。
は微笑ましそうな表情でそれに頷く。ユーリは昔から姉のこの仕草に弱かった。
胸がキューンと締め付けられ、平然を装いながらも脳内で何度もリフレインし、愛らしい姉の表情がリピート再生される。
「う…うん…だけど本人の素養が…」
アーニャにはそんなねっとりとした心境が筒抜けているようで、微妙そうな顔をしていた。
が、何かを閃いたようで、少しの沈黙のあと、きゅっと小さな両手を握りしめ、舌足らずな声で必死に宣言した。
「アーニャがんばるます!"皇帝の学徒"になってえらいひとになってははにおいしいものたべさせたいとおもってるます(棒)」
超能力者のアーニャにとっては、相手がどういえばどう感じるか。どうすれば都合のいい方向へ転がるかなど、手を取るようにわかる。
予想通り、ユーリは愛する"姉のため"に頑張る子供に胸をキュンと射抜かれた。
なんだこの良い子は?こんなにも姉さん思いのいい子が…!と絆されそうになりつつ、
しかし姉泥棒娘なのだからと、必死でセーブをかけている。
が、ユーリの指導でアーニャがいい点を取る→姉は喜ぶ→「ユーリ大好きっ」と褒めてもらえる──という計算を瞬時にこなした。ユーリに都合のいい展開に運ばせられるという打算で、「よしわかった、ちゃんと教える」と結局頷くに至った。
アーニャはにはその打算的な思考は筒抜けだったし、にもそうだった。
付き合いの長さと、"知識"の補助があるせいで、も割と高精度な思考の読み取りができているのだ。
ユーリはポイント稼ぎをしよう奮闘するも、それが効いたのはヨルのみである。
お願いを聞いてくれた弟を、ヨシヨシと頭でも撫でんばかりに愛しそうに見ている。
そしてその心情を表すかのように軽やかに浮足立ちながら、お茶を入れにキッチンへむかった。
「ほらまた間違えてる」
「はうっ」
「いやいいんだ、ボクも昔この文法には苦戦した。重要なのはなぜ間違えたかを理解してくり返さないことだ」
間違えを指摘された瞬間、アーニャは一瞬身がまえた。しかし意外にもユーリは理性的に諭す。
最初こそ飲み込みが悪いやつ!とがなり立て委縮させていたが、ちゃんと教える、と宣言してからは、効率的な指導をしていた。
「……ふふ」
「?なんだ、この問題はこれが最適解だろう?」
「違うの、昔を思い出しただけ。昔からユーリは勉強教えるの上手だったよね」
スパルタだったけど…という言葉は飲み込んで、は懐かしそうに笑った。
ユーリは満更でもなさそうな顔で、しかし照れくさそうにそっぽを向いている。
がアーニャの年頃の頃には、はもっと飲み込みがよかった。スポンジのように吸収し、まるで一を知って十を知る神童のようだった。
けれど、そんなと比べて「昔のはお前よりもっと理解力があった!」と劣等感を煽るのは、それこそ"効率が悪い"。
萎縮させて実力発揮させないというのは、ちゃんと教えるうちには入らないのだろう。
何が正しい勉強法か、何が正しい指導法か。きちんと理解しているのだろうと、は微笑ましく思っていたのだ。
姉泥棒の娘という肩書きが邪魔をして、キツく当たってしまったのだろうし、これからもその棘は消えないのだろうけれど。
「ここはこうだからややこしいんだ。小難しく考えずこの動詞にだけ注目しろ」
「むむむ」
「ふふふ」
キッチンでお茶の支度をしているヨルも、と同じ思いらしい。
昔、姉である自分に勉強を教えようとして、本を開きながら目を輝かせていた記憶を思い出していた。昔にしていた様子からも分かるように、本来、人に物を教える事を苦としないタイプなのだ。
成人しても尚気が短く子供っぽい所もあるユーリが、大人びて見えるこの瞬間が、ヨルにとっては微笑ましくも誇らしい。もちろん、嫌々ながらも、必死に勉強に励もうとするアーニャの姿もヨルを和ませていた。
頭をこんがらがらせて爆発させそうなアーニャの姿をみて、ユーリは少し考えてから問いかけた。
「おまえ勉強は嫌いか?」
「だいきらい。おじはすきなのか?へんたいか?」
変態などと言って悪態をつきながらも、心底バカにしている訳ではないようだ。
その語彙の引き出しが少し独特な子供だった。ただ心底不思議そうにアーニャは聞いている。
ユーリは暴言を吐かれた事には触れず、叔父と呼ぶなとツッコミを入れた。それを見聞きしていたは、訂正したい所はそこだけなのか…と物憂げな表情をするユーリをなんとも言えず見守った。
「ボクは幼い頃無力な自分が悔しかった。早く姉さんの力になりたかった。そのために勉強をがんばった。一問解くごとに自分の背が1cm伸びたような気分になって歓喜したものだ」
そのため、国語を頑張り、化学や生物、数学や物理、あらゆる科目を伸ばして行ったと話す。
弁が立てばジャーナリストや弁護士になり姉のいる世界をよりよく出来る、人体薬学に精通すれば姉のケガを治せる、数学物理は姉の生活の安全や快適さ全てに繋がると思ったのだと。
「まあ結局ボクは外交官(本当は保安局員)という道を選んだわけだが、培った力は今でも活かされてる」
「ほう」
アーニャは小難しい文字が羅列されている紙を眺めている時とは違い、素直に聞き入ってるようだった。
アニメを通して勉強する事は苦にならないようだし、興味を持つ話題を絡めて聞いて覚えるというのも有効かもしれないとは思う。
が、相手を飽きさせず、聴き入らせるには相当な話術が要ると理解すると、は言葉が拙い自分には無理だなとすぐに諦め腰になった。
「昔の偉い奴は言った。知は力だと。お前も立派な人間になりたかったら勉強という名の筋トレを欠かすな!」
「ちわわぢから…!?」
「違う」
さすがにアーニャには難しいレベルの話だった。知が力だと言われてもピンとこないだろう。無理もない事だ。
学校の勉強なんてしたって将来何の役にも立たないと嘆くのは子供のうちだけで、大人になってからその有用性に気が付くのがお決まりなのだ。
ユーリの学んだ数学や薬学は、今の仕事に直接的に活かされてなくても、無駄にはなってない。間接的に…生きていく上、職務に励む上での支えになる瞬間が必ず来る。それは万人共通だ。が苦しく貧しい幼児期を過ごす上でも、科学や数学、雑学は、生命維持のために役立ってくれた。
いつ何時に日の目を拝むか分からないのが"貯蓄"や"保険"である。それが目に見える物資という形であろうと、形なき知識であろうと。
「べんきょーしたらおくすりつくれる?」
「そうだ!」
「ろけっともつくれる?」
「もちろんだ!」
「せかいせいふくもできる!?」
「それはまあ…うん…え?征服したいの…?」
「先生、世界征服するために一番必要な科目ってなんですか」
「まで何言ってるんだよ…」
その悪ノリに呆れつつも、先生と言ってころころ笑うに、ユーリの胸はキュンと射抜かれていた。
先生と呼ばれるに相応しい指導をしなければと、果然やる気が出てきくる。
背筋を正し、アーニャに改めて向き合うと、拳を握った。
「いいか目の前のテストなんてどうだっていい!その先の未来の大成した未来を見据えろ!」
「いえっさー!」
「その未来で微笑む姉さんとの笑顔を見据えろ!」
「さー・いえっさー!」
「よーし次の問題集だ!」
「あまり変なことを教えないでください…」
揃って拳を宙に突き上げ、気合を入れるアーニャとユーリ。それをヨルとは困ったように見守っていた。
ただその困った、の意味合いは違っているようだった。ヨルはユーリの指導が変な方向に向かい始めた事に。そしてはというと。
「……ええと」
ユーリの見据える未来とやらに、自分の姿も存在すると知り、少し驚いていた。
ヨル一筋。ヨルのためだけに勉強してきて、その努力は今実を結んび、ユーリは現実に大成している。
可愛がって大事にしてもらっているとは実感していたものの、ヨルと同列に語ってもらえる程の好感度をいつの間にか獲得したらしいと知り、何とも言えない気持ちになっていたのだ。
不意にされたキスから始まり、料理教室の帰りにした会話。
の心情を悶々とさせるやり取りや行動が積み重なり、最近は混乱している時間が多くなった。
猛勉強に励む二人は、の困惑になど気が付かず、息切れをして、最終的に床に大の字になって転がる。
終盤は最早が介入する余地などなく、律儀に隣に座って見守ったの足が痺れるくらいには長く筆を走らせていた。
「どうだ、この文法はマスターできたか?」
「"ぶんぽう"ってなに?」
「マジで時間の無駄ァ!!」
流石に今度ばかりは同情を禁じえないと、は苦い顔をした。
「もう帰る!やってられん!」と言ってコートを手に取り、帰り支度を始めたユーリを咎める気にはなれない。
そうは言っても子供のやる事だ。も苦笑こそすれど、怒る事はない。
けれど、あんなに長時間熱心に教えた末に、超根本的な事を理解していなかったと知らせれれば、もちょっと泣きなくなってしまったかもしれない。
もユーリに倣って、コートラックにかけてあった自分のコートを羽織った。
本当はもう少し長居させてもらって、ヨルと過ごしたかった。けれど、ユーリは絶対に自分の事を連れて帰ろうとするだろうと、予測出来ていたのだ。
「いくぞ!」
「はあい…」
ガツガツと廊下を進みながら、ユーリは案の定の腕を取った。
ついでと言った様子ではなく、持ってきた荷物は当然持ち帰ると言った様子の、迷いのない動作だ。
「ユーリ!?」
「ごめんよ姉さんボク行かなくちゃ」
「ヨルさん、バタバタしてごめん…またね」
「んもうっ相変わらず気の短い子ですね…の事も、そう乱暴に扱うのはやめなさいっ」
「…」
アーニャはユーリのどんな心境を読んだのか、少し感じ入ったような表情をしていた。
玄関扉しめ切ってから、「せっかくがんばって手作りお菓子に挑戦したのに…」というヨルの声が届いた。再び大きく戸を開けると、ヨルが両手でちょこんと持っていた皿の上のお菓子を鷲掴みにし、一気に食べてしまう。そうすると、今度こそ通路を歩いて帰路について行った。
はユーリが最後に手に残していたクッキー…のような何かをじっと見つめて、強請った。
「ユーリ、一口ちょうだい」
「あ?もう食べかけしかないぞ」
「齧ったのでいいよ、今さらでしょ」
食事のシェアなど幾度も繰り返したものだ。ユーリが齧っていたお菓子を手渡してもらい、口に含む。
やはり刺激的な味がしたし、歯ごたえがある所ではない固さだし、触感は何故かざらついている。
けれどヨルの気持ちがこもった物を無碍にするという選択肢は、ユーリにもにもなかった。
ユーリのように一口で丸のみ出来ないは、歩きながらサクサクと何度かに分けて食べていた。
そんな食事風景を横目にちらちらと見ながら、どこか落ち着かないでいる様子のユーリには気が付いた。
「どうしたの」
不思議そうに見上げるに、ユーリは「なんでもない」とぶっきらぼうに言ったけれど、どこからどう見ても何でもなくはない様子だった。
こういう時に、深追いをしないのはの性のようなものだ。それ以上の追及はしないし、されないというのは双方の認識だった。
──ユーリとは一度、正真正銘のキスをしている。息が苦しくなるほどに。
けれどユーリの方は泥酔していて、名前に口づけした瞬間の事を覚えていない。
なので、所謂"間接キス"というそれだけの事に、ユーリは妙にドキドキしていた。
対して、あの夜の事をあんなに恥ずかしがっていた自身は、この間接キスに対してはなんとも感じていないらしい。
お互いどこが羞恥の琴線になるのかわからない状態だった。
が猫のように警戒している時、ユーリの方が相手を伺うようにしてる。
勉強中が驚愕し動揺した発言も、ユーリにとっては取るに足らない事。
そのためか、二人の距離は近づいては遠のいての繰り返しになっていた。