第三十六話
5.恋情矢印


ロイド・フォージャーの連れ子…アーニャ・フォージャーの家庭教師をしてほしい。
姉にそう頼まれたのはつい先日の事だった。
姉の頼みを断わるという頭は端から存在せず、脳で判断するより先に口が「もちろん!」と快い承諾をしていた。最早脊髄反射だ。
ユーリはそんな自分がおかしいとは思わないし、否定も反省もしない、ごく自然な行動だった。
姉のおねだりを聞いてあげる事がユーリにとっても幸せだったのだ。
まるでダメな男に引っ掛かった女の言い分のようだ。



「という訳で、姉さんに家庭教師役を頼まれた」
「へえ。いつ行くの?来週の休日とか?」
「今からだ」
「急…だね…」


は突然の展開に、やや引いていた。、ヨル、娘アーニャも休日。そしてロイドとユーリも揃って休日出勤をする事もなく、在宅中だ。
確かに急な話ではあるけれど、テストは週明けにあるというのだから、今日が一番都合がいい。ズルズルと約束を先延ばしにするのも不毛である。


「行ってらっしゃい…あの、優しくしてあげてね?相手は小さい子だなんし…」
「なんだよ。僕がお前をいじめた事あるか?……あるな」
「ああ…あんまり気にしてないから、ユーリも気にしないで」

がブライア家に迎えられてからすぐ、「当然の事だと思うな!」と言って突き放した自分を思い出したのだろう。ユーリはすぐに尻すぼみになり、はそれを見て苦笑していた。あの時のの事を思い出してみても、傷付いた様子はなかったし、むしろ姉至上主義を振りかざすユーリに圧倒され引いていた…といった感じだった。
ただの慰めではなく、実際少しも気に病んではいないのだろう。
ユーリもあの頃はまだ10歳。幼かったのだ。けれど今となっては、大人げなさ過ぎる行動だったとヘコむ他ない。


「いってらっしゃい…じゃなくて。も行くんだぞ」
「え?家庭教師を頼まれたのユーリでしょう」
「お前も一応、世間的には名門のお嬢様学校に通ってた優秀な人材だよ」

つまり、も家庭教師役にうってつけな人間だという話だ。
ヨルもユーリに、にもよろしく伝えてくれと言っていた。
思いもよらない展開だったようで、驚いた様子だった。
ユーリはヨルに会えるのも嬉しかったし、憎き姉泥棒のフォージャ家に行くのは不満だけれど…
と一緒に休日を過ごせることがうれしかったのだ。せっかくなのに、だけ留守番をして、棒に振る事になんて、ユーリにとってはとんでもない話だ。
まだイエスの返事も聞いていないのに、今から楽しみでならかった。


「一緒に行こうよ」

笑顔でユーリが誘いかけると、はびっくりしたように瞳を丸くしていた。
その反応が不思議で、どうしたのかと問いかけるも、何でもないと首を横に振られてしまった。
出かける支度をしてくると言って、は自室に入る。身だしなみを整えながら、上着と鞄を用意しているのだろう。
女は支度に時間がかかるとよく聞く話ではあるけれど、ユーリの身近にいる女性…ヨルとは短くも長くもなく、それなりだと思われる。
20分もかからずに出てきたは、長い髪を後ろに結っていた。
勉強を教えるなら邪魔になると思ったのだろうか。あまり見ないシルエットだ。

玄関をくぐり鍵を閉めてしまうと、ユーリはするりとの手を取って歩きだした。
の驚いたような小さい悲鳴が聞こえた気がしたけれど、上機嫌なユーリは気にも留めずに歩きだす。


「久しぶりに三人揃ってゆっくり過ごせるな。この間の料理教室は、仕事終わりの短い時間だけだったし」
「ユーリ、手、痛い…」
「ああ、ごめん。姉さんに手繋がれた時はもっと強かったから。加減って分かんないものだな」


涙目のが苦痛を訴えるものだから、一度パッと離してから再び握り直す。
すると一度ビクリと肩を跳ねさせて、俯いた。髪を結ったおかげでよく見えるようになった、その耳が赤く染まっているのを見て、ユーリは満足感を得ていた。
家庭教師をする相手は、まだ小さな子供である。徹夜でスパルタするはずがなく、せいぜい夕方には切り上げられるだろう。そうなれば姉とは離れ離れになるけれど、
とは自宅でゆっくり過ごせる。いい一日になると、ユーリは上機嫌だった。


「今日の服も可愛い。この間履いてた靴は合わなかったみたいだから、帰りに見繕いに行こうか。店は大通りにあるが気に入ってる店でいいか」
「いい、いいよ…それにあそこは高いから、」
「プレゼントするから、値段は気にしなくていいし」
「……ユーリ」


に似合う靴を選ぶのは楽しそうだ。ついでに新しいコートも見繕おうか。無駄遣いを嫌う倹約家のはいい顔をしないかもしれないけれど、好きな子にプレゼントを贈るという出費は全く無駄な浪費だとは思わない。

「なんか、今日はへん」

目を逸らし、俯きながら、は言う。
手を繋ぎながら歩く自分達は、傍からみれば恋人同士に見えてる事は間違いなかった。
その繋がれた手の間を引き裂いて歩く無粋な者はおらず、通行人はユーリとを避けて通る。
は、そうやって言いながらも、決して手を振りほどかない。
弱弱しいその声に、困惑はあれど、嫌悪がないという事は、今のユーリには分かる。
恐らくの頬は、耳と同じように赤く染まっているだろうことも想像がつく。
ユーリの心拍数が上がっているのと同じように、も同じ感覚でいるのかもしれない。
そう思うとたまらなく嬉しかった。

の期待は裏切らないから、いくらでも自惚れて、好きになって」

本当に告げたいそんな言葉は、相変わらず出てこなかった。けれど、言葉にしなくても、もうお互いの心は伝わっているような気がした。それはただの慢心で、傲慢だろうと思う。けれどこの抽象的で感覚的なこれこそが、恋の駆け引きという物なのだろうか。

「僕の、どこが、変?」

にこにこと笑いながら問いかけると、バッと顔を上げたが信じられないものを見るような目でユーリをみた。
想像通り、その頬が赤く染まっているのを見た。──かわいい。なんて愛らしいのだろう。
これがユーリの恋して愛した、たった一人の大切な女の子だ。
スキンシップを好まず、触れて喜ぶのはヨルとユーリ相手だけ。
そしてこんな風に羞恥を浮かべるのは、ユーリ相手にした時だけ。あのいけ好かないロイドという好青年でもドミニクでもない。
ユーリただ一人。こんな自信も、ただの驕りなのだろうか。──そうではないだろう。

料理教室の帰り道では、8割程度の確信だった。けれど今日、この瞬間、心の底から確信に至った。
はユーリを異性としてみている。魅力的だと思っている。好きになっている──或いは、"なりかけて"いる。
男女が出会い、相思相愛になれる確率とは如何ほどのものだろう。
そうは言えども、のソレは、ぐらぐらと揺れ、恋か親愛か、どちらに傾くかもわからない、未だ不安定な天秤のように思えた。
それでも、とんでもない幸運をつかんだのだと思った。この幸運を逃さず、確実に手中に収められるかどうかは、ユーリの力量次第だろう。

「……意地悪に、なった、ね」
「僕はいつでも優しいだろう、姉さんとに対しては」
「そうだけど…、でも今は、」


の言葉のその先は続かなかった。それでもいいと思った。

もぜひ一緒に家庭教師として来てほしい、と言ったのは、ヨルだ。その願いを無碍に出来るはずはなく、ユーリの私情も挟まり、同行させるに至った。
けれど、正直な話をすれば、ユーリはをフォージャー家に連れて行くのは嫌だった。
初めて訪問した時、美男ですね!などと言ってはしゃいでいたの姿が蘇る。
あんなに弾んだ話し方をしたは見た事がない。
あの時は姉であるヨルの謎の結婚について疑問で一杯で、それどころじゃなかった。
が、落ち着いて振り返ってみると、面白くないやり取りだったと思える。
ユーリが一杯いっぱいだったように、もあの時焦っていたのだと思う。
だから柄にもないテンションになったのだろうと推測しつつも、所謂"嫉妬"で苛立っていたのだ。
愛する姉を取られて、愛する妹…好きな女の子までが賞賛するなんて。
料理教室の日のドミニクのからかいのおかげで、からのフォローを得て、多少は落ち着いたものの。
極力会わせたくない、というのが本心だった。
一緒に手を繋いで出かけられるのは幸福な時間だった。けれど、フォージャー家が近づくごとに憂鬱にもなっていた。
しかし、玄関を開けたその先にヨルがいるのだと改めて思うと、また気分も浮上してくる。


「来たよ姉さーん!」
「お久しぶりです、お邪魔します…」
「いらっしゃいユーリ、


電話口で手ぶらで来ていいと言われていたので、今回は手土産なしの手ぶらだ。
お邪魔しますと言いながら、名前はこの間のように靴を脱ぎ掛けて、またハッとして履き直していた。
やはりサイズが合わないのだろう。絶対にサイズもデザインもピッタリな一足を探そうとユーリは決意した。


「お久しぶりユーリくん」


ロイドが出迎えると、ムッとしたユーリは、その表情を隠しもせずに睨む。
ロイドとはたまに電話しているので、お互いに久しぶりといった感覚はないようだ。
彼の足元には、ロイドさんの足の長さ程しかない背丈の女の子が張り付いていた。
ユーリがこの子供と対面するのは今が初めてだ。じっと敵か味方か伺うかのようにユーリを見つめている。


「弟のユーリです、アーニャさん」
「ちちのこどものアーニャです…はじめまして」
「……」
「こらあなたも挨拶なさい」


ヨルがユーリを紹介すると、おずおずと娘は挨拶をした。
にも拘わらず、ユーリが姉の凶悪なまでの可愛さに脳内を支配され、無言のままでいると、ヨルにこらこらと窘められてしまった。
そのあきれ顔や怒り方も可愛くて、思わずユーリの表情が緩む。


「こっちはうちの子のだよ、…アーニャと言ったっけ?」


姉に倣うようにして、ユーリがの背を押して紹介してやると、「そ、そのおねいさんは…すでにしっている」と言われてしまった。
ユーリがふとの方を振り返ると、困り笑いをしているのが見える。


「ちょっとヨルさんと話したい事があってお邪魔して…その時に挨拶したの」
「ああ…そういえばそんな事もあったっけ」


街中で偶然会ったのか、それとも電話だけでは飽き足らず、自分の預かり知れぬ所でフォージャー家で密会していたのかとぐるぐる考えているところに、冷静で端的な説明が入り、納得した。思い返してみれば、その単独行動のおかげで、2人きりの同居生活に至ったのだった。


「…バーリントラブ……?」
「え?なんですか?」
「アーニャむなやけしてきた…」
「あら大丈夫ですか?お勉強は少し休憩してからにしましょうか」


バーリントとは、フォージャー家が住んでいるこの町の名前である。
ラブ、と言っていたのをユーリは聞き逃さなかった。そしてそれを聞いて、の顔が引きつったことも目視していた。
とアーニャは暫く無言で視線を合わせる。そしてアーニャは、「ちち、三角関係…」とぽつりと言う。
幸か不幸か知らないが、お茶の支度をしているヨルとロイドはそれを聞いていなかったようだ。
子供というのは空想力豊で、言葉の全てに意味と理解を求めるのは不毛だということも知っていた。
しかし出て来る言葉がラブ、三角関係というのは、随分マセた子供だという印象をユーリは受けた。


***



「最近はどうですか?先日は閣僚会議で外務省も大変だったでしょう?」
「え…ああ…まあ…」

リビングに通されたユーリとは、ソファーに腰を下ろした。
ロイドはユーリとにこやかに雑談しつつも、心の中では、黄昏(ロイド)が大臣に変装していた事、後にそれも保安局に知れただろう事、危ない橋を渡った…といった思考を繰り広げていた。
また、ユーリも、テロなよる協議日程の遅延を野党につつかれた事を嘲っているのか、と疑心暗鬼になっていた。

「今回の件で政府の方針は…」
「何はともあれ無事に会談を終えられたのは我々の努力の…」


情報収集の意図やや警戒心などで、表面上は友好的に、しかしお互い腹の探り合いを繰り広げている。
アーニャはそれを見て、スパイVS秘密警察という図に心躍らせていた。
は急に顔色のよくなったアーニャが、"ワクワク"しているのが見て取れたので、苦笑いしている。ロイドもその変化に気が付いたようで、「何だお前元気なら勉強始めるぞ」と言ってから立ち上がった。

「ボクはお邪魔でしょうから、買い物にでも出てますね」


別任務をこなす時間が出来たと内心で喜びながら、ロイドは外出する姿勢に入った。
ユーリはお邪魔虫がいなくなった事を喜び、ヨルは平然と見送り、アーニャは敵同士の腹の探り合いが中断された事でがっんりしている。
はというと、気を遣う相手がだれであろうと、一人減ったことに安堵していた。
今も原作にあった話の真っ只中なのだ。一言一言に気を遣うので、短時間でとても疲れる。


「じゃあ始めましょうか」


姉の傍に毎日いれるなんて贅沢だし、なんで自分がアホそうな小娘を相手にしなければならないのか…とでも考えたのだろうと、は察した。
知識として覚えていたのではなく、アーニャがユーリの顔を見て怒ったような顔をしたので、何か貶すようなことを考えたのだろうと察したのだ。


「なに!?全問正解だと!?」
「ふふふ」
「勉強なんてしなくていいのでは…?」
「い…いまのはまぐれ…」
「う…ああ…だよな…?ありえない…」


ありえないとまで断言するような問題を、初っ端から幼い娘に吹っ掛けたユーリ。それに呆れた眼差しを向ける
一応も、家庭教師役としてここに呼ばれているのだ。
何か問題を出そうと思い、少し考えてから、紙に何かを書き出してた。


「はい、アーニャちゃん。ここにピーナッツが三つあります。好きだよね、ピーナッツ」
「アーニャぴーなつ好き!」
「うん、そうだよね。ピーナツがたくさん入った袋を一つ買うと、50ペントでした。二つ買うと、1ダルク。アーニャちゃんには私達全員分のピーナッツ買ってほしいな。五袋買うと、全部で何ダルクになると思う?」
「…………父母アーニャとおばの分を買うと…2D…ついでにおじの分買ったら2Dと50P…?」
「そう、正解だよ!アーニャちゃんはおつかいマスターだね」
「オイついでってなんだアホ娘」


そもそもこんな3歳児でも解けそうな問題を、イーデン校のテスト対策として教えるのはどうなんだと、ユーリはを訝むように見やる。しかしなりの主張をした。

「イーデン校って当然だけど、普通の子より頭がいい子が通うところだよね。世間一般の6歳児が苦戦する問題を、簡単に解ける子じゃなければ通用しないような」
「それは、そうだろうな」
「勉強は簡単じゃないよね。失敗続きで、挫けそうになってもおかしくないくらい。だったら、成功体験を沢山積ませた方がいいと思って」

要するに、飴と鞭の飴の部分を担うよ、という意味だ。しかしそのの主張は建前だった。
実際の所、アーニャという女児は年相応の、簡単な算数問題から始めなければならない程の学力しかないとは思っている。
基礎が無ければ解けるものも解けないだろう。
なので、は基礎の部分を教えていくことにしたのだ。


「おば、絵上手!これアーニャ?」
「そう。お姫様みたいに可愛く描いたよ。お姫様、ピーナツたくさん買ってくださいね」
「ほほー、よいですわー!くるしうない!」

テスト用紙の端には、ピーナツを買いに行くアーニャの姿が落書きしてあった。
それを発見したアーニャは喜び、はにこにこしている。それをヨルは微笑ましそうに眺めて、ユーリは胸を抑えて悶えていた。
子供を相手にしている時の、いつになく柔らかい口調と表情。そして子供と戯れるその姿。
ユーリにとって、大変愛らしと感じるに値する光景だった。大好きな姉と子供が並ぶ姿というのも中々乙なものがあったけれど、恋をしていると子供の組み合わせというのは、別の意味で胸に来る。
そんな邪な劣情が流れたのか知らないが、アーニャはユーリを睨みつけ、また胸焼けがする…とでも言わんばかりに項垂れていた。


2022.9.18