第三十五話
5.恋情─矢印
嫌な予感、というのが的中したと知るのは、すぐの事だった。
「いや、本当にユーリくんも負けてないと思うよ、ロイドさんに。まだ若いけど、将来有望の優良物件だよね。いやお買い得だと思うな俺も。そうだよねちゃん」
意味深な言い回しでに同意を求めるドミニクを見て、ユーリは事態をすぐに理解した。
──に抱く感情を見抜かれた。いくらドミニクが気配りに長けて人間だからといって、
他人にこうも易々と見抜かれるほど自分が露骨だとは。
…隠せなくなっているとは。当の本人はよく分からないと言った様子で眉を下げていた。
「はあ、まあ、ロイドさんに負けず劣らずで…」
「ユーリくんと結婚する女の子はきっと幸せだろうね」
「そう、思いますよ」
こんなのは誘導尋問と同じだ。はドミニクに、これを言わされている。
そしてユーリが照れる姿を面白がりたいだけなのだ。
ユーリはその意図を全てわかりつつも、顔に熱が集まるのを抑えられなかった。
あの気に食わない高スペックな男と同じくらいにユーリも魅力的。ユーリと結婚する女の子は幸せ。
本心からそれを言ってるのだとしたら、ユーリは舞い上がる他なくなる。
との幸せな未来を想像してしまいたくなる。頭を抱えながら、蚊の鳴くような声で負けを認めた。
「……やめてください…」
ギブアップを訴えるユーリをにこにこと眺めるドミニク。
それを不思議そうに見守りながらも、丁度一品目がテーブルに運ばれてくると、すぐに意識はユーリから料理に移り変わり、ホッとする。
先ほどヨルが切った食材を、言葉通り煮込んで味付けしただけの一品だった。
「とりあえず一品目完成!」
「ほら出番だぞユーリくん!毒…味見してあげて!」
「えっいいんですか!」
さっきまで感じていた憤りや羞恥と言った感情が、歓喜で払拭された。
姉の手料理を食べられるのはいつぶりだろう。
もユーリも、絶え間なくヨルの料理を口に運び続け、口から零れさせたり飲み込んだりを繰り返した。
「すっごく美味しいよ姉さん!ああ懐かしい姉さんの味がするよォ〜」
「…相変わらず、美味しいよ…」
「え…吐いてるけど…え?どっち?」
ドミニクとカミラは二人して顔を見合わせながら困惑していた。
こんなにもしきりに美味しいと言っているのに、信じられないらしい。
けれど、次第に恐る恐ると口にすると、そのままバッタリと気を失ったように床に倒れ伏してしまった。
具合を悪そうな顔色でカミラが起き上がると、恨みつらみがこもったような怒声をヨルに浴びせる。
「何をどうなったらこうなるのよ!私の指示聞いてた!?」
「すみませんすみませんっ」
「姉さんおかわりはないのかい?」
は昔から小食な方だった。具材たっぷりのミネストローネを一皿食べると、それだけで満腹になってしまったようだった。
けれどユーリの若い胃袋はまだゆとりがある。次はいつ食べれるか分からない貴重な姉の手料理を食いだめしておきたいという心づもりもあった。
ミネストローネはまだ早かったとカミラは言い、次にミートボールを作り始めた。
運ばれてきたソレは確かに個性的な見栄えではあったけれど、食べてみるとやはり"姉の手料理"の味がして、ユーリの舌を喜ばせた。
「うままーい!変な汗が出てくる程うまいよー!ああこの味を噛みしめてると小さかった頃の思い出が走馬灯のように次々と…あれ…?向こう岸にいるのは母さん…?」
「……うん…別世界に行けそうな神がかった味がする…」
「ストップ二人共一旦ストーップ!」
ユーリの皿の上にある特大ミートボールを一口つつくと、も淡々と咀嚼して、ドミニクはそれを全力で止めにかかった。
止められようと、手放す気はない。完食するまで食べるのをやめないユーリの姿を、なんとも言えぬ表情でカミラが見る。
「こんなのしか食べてくれる人いなかったから三人揃ってヤバイ味覚に育っちゃったんですね…」
「栄養さえ摂れればそれでOKと思ってたので…」
「ユーリくんちゃん元気に育ってくれてよかったよ…」
こんなの、というのは、ユーリとの事だ。ヤバイ味覚などと言われる筋合いはない、とムカッと来てしまった。一々このカミラという女性にユーリは腹を立てさせられている気がしてならない。
「…たとえばさ、親が作ってくれた料理でおいしかったものとか覚えてないの?参考に…」
「うーん…?ユーリは何か覚えてる…?」
「母さんの料理…?んーおぼろげだけど、よくシチューみたいの出てなかった?あれ暖かくてすきだったな」
「ああ!目玉焼きが乗ってるやつ!」
「よし、それを作ってみましょう。味をよく思い出してみてください。多分ベースは簡単な南部シチューだと思います」
はユーリとヨルの両親が亡くなってから迎えられた子供だ。
話題に混じれず、ただ沈黙して傍観していた。ユーリもこの話題にを混じらせることに抵抗を覚えて、の所在なさげな姿に気が付かないふりをした。
「ちなみにちゃんは何か覚えてる?おいしかったもの」
ドミニクヨルとユーリに問いかけたように、にも臆せず尋ねた。
確かに、ヨルとユーリは両親の死をトラウマにはしていない。
そんな様子をみれば、もそうなのだろうと思っても仕方ないかもしれないけれど。
血が繋がらないというのはドミニクも知っている事で、にはの両親の記憶がないのかと尋ねたのだ。
ユーリが慌てているのに気が付いているのかいないのか、はユーリとは対照的に、平然とした様子で答えた。
「そうですね、父も母もどちらも料理をする人だったので、割と記憶にありますよ…父は意外とヘルシーな野菜料理が好きで、母ががっつりした肉料理とか、揚げ物が好きで。」
その話は初めて聞いた。驚いたのは初耳のその内容ではなく、がこうも平然と両親の話題を語る事だった。
昔両親の出身を何気なく聞いた事があるけれど、勉学のために必要な質問だったし、あの頃はに対しての情というのが今よりも希薄だった。
人としてなっていない、無神経な事を聞いたつもりはない。けれど今だったらもう少し踏み込むことを躊躇っていたかもしれない。
「へえ。意外だね、女性ががっつり系好きだってのは…まあよくあるかもしれないけど」
「はい、父が菜食主義かぶれだっだったから、二人並べて対比すると面白く見えますよね」
「それで、ユーリくんはどうしたの?」
「いや…その」
ユーリが動揺していたことに気が付いていたドミニクに問われ、ユーリは少し口ごもった。けれど素直に理由を答える。
「あんまりの親の話は聞いた事はなかったから…ちょっと驚いて」
「え…あれ、俺あんまり聞かない方がいいこと聞いちゃったかな?」
「いえ、聞かれなかったから話さなかっただけで、聞かれたら答えられる話題ですよ」
ドミニクは藪蛇をつついたのかとぎょっとしていたが、はトラウマなんて無いですよと否定すると、安堵していた。
確かに、は現実主義で、その生い立ちが故か昔から子供らしくなかった。
親を思って泣いて蹲る姿は想像はつかない。けれど、実際蓋を開けてみたら、本当にこうまで割り切っていた、というのも、どこか腑に落ちるようで落ちない。
はユーリが気を使っていたことに気が付いていなかったようで、驚いたように眺めていた。
「先輩ってさ、何か雰囲気変わりましたよね。前はもっとロボットみたいなつまらない顔してましたけど」
「え?え?そうですか…?け…結婚したから…でしょうか?」
「あ゛?何勝ち組気取ってるんですか?ちょっとメイク変えただけとかそんなんでしょ、図に乗んな」
「すみませんすみませんっ」
「はいはいカミラも十分素敵なレディだよ?自信もって」
カミラの肩をポンポンと叩きながら、口論しているカミラとヨルの間に仲裁に入るドミニク。仲裁しながら、いいニオイがしていると指摘すると、ヨルに絡むのをやめて、カミラは鍋をじっと凝視し、味見した。すると表情を明るくして、悪くないと初めて褒める。
ユーリが続いて味見をすると、今まで姉が作ってくれた手料理のどれとも違う味がした。
そして昔ユーリの母が作ってくれた手料理の味とも違っている。
カミラのいう通り、美味しいのは間違いがない。しかし。
「おいしい…けど何か足りない気もするな…」
「このままでも十分おいしいけど…」
は足りない、とは思わなかったようで、単純に美味しいちだけ感じたらしい。カミラは引っ掛かりを覚えて、出身地はどこかと尋ねた。
ニールバーグの東の方だとヨルさんが答えると、何かを思い出したように冷蔵庫からサワークリームを取り出しひとさじ鍋に加えた。地方によって、味付けが異なるらしい。
再び味見をすると、確かに懐かしい味がして、思わずヨルとユーリは顔を見合わせた。
姉が喜んでいるならユーリも嬉しい。それは昔と変わらないはずなのに、どうしてこうも複雑になるのだろうか。
ロイドのための料理教室は無事に大成功に終わった。…終わってしまった。
つまりは憎きロイドを喜ばせる結果になり、姉とも離れ離れになる時間が訪れたということ。
名残惜しく、離れ難く。永遠に手を振り続けるユーリの服をは引っ張って歩いた。
も寂しがっていない訳ではないのだろうが、迷惑になるとか、礼儀がどうという理性が先行し、甘えるということを知らない。
こういう場面ではどちらが年上でどちらが年下か分からなくなる。
いつもなら他愛ない話題の一つくらいは振ってくるが、今日は沈黙を貫いていた。
夜空を見上げるその表情は曇っている訳でもなく、華やいでる訳でもない。
もしかして、口ではああいいながらも、やはり両親の話題を振られたことが尾を引いているのでは…なんて勘繰った所で、は不意に口を開いた。
「ユーリもいつか結婚するんだね」
「……は?」
「私のお父さんがそうだったみたいに、ヨルさんみたいに…相手のために料理の特訓したりするのかな」
本当に何気ない素振りだった。ユーリがもし逆の立場であれば、ドミニクに悟られからかわれたあの時のように、きっと動揺を隠せないのではないかと思う。
なのには涼やかな顔でもしもの話を展開するのだから面白くない。
「……優良物件って言ってたくせに」
「くせに、なに」
何もどうもないだろう。あんなに手放しに褒めたくせに。
良いと思ったなら望めばいいだろう。寂しいと思ったなら甘えたらいいだろう。
ユーリが情が溢れるが故に、動揺を隠せなくなったように、だって。
「……………良いと思うものは、ほしくならないのか」
──愛を知ればいいのに。
そんな皮肉を口にする事だけは自制して、代わりに絞り出すように問いかけた。
はそのまま沈黙してしまった。
空想の中の他の女になど手渡さず、自分の物にしたいと何故望まないのか。
ただのお世辞だったのだと言われたらそこまでだ。
だけれど、こんな感情を隠しているユーリは、思わせぶりな事を言わないでほしいと思ってしまう。
「……わたし、…わたしは…」
切れかけの街灯の一つを眺めていると、丁度ぷつりと灯が消えた。
足元ばかりを見ているはそれに気が付いているのかいないのか、その瞬間語り始めた。
「………今まで、神様とか信じてなくて。だって叶えてくれないものに縋るのは馬鹿らしいし、惨めで…心の救いよりも、現実的なものが欲しかったから」
急に信仰の話が出てきて驚いたけれど、こういう所で誤魔化す性格をしているのではないと知っている。必要な事を必要なだけ話す。
この後に持ってこられだろう核心をユーリは待った。
「叶うはずもない現実を想像するのは悲しい事でしょう?」
顔を上げたは笑っていた。喜びではない。
それは間違いなく、嘲りだった。何に対して。どうして、何を。
そこから暫くは沈黙し、どちらともなく歩き出した。向かう先は当然自宅で、勝手知ったるこの辺りの道で迷うことはお互いなかった。
話しながらだろうが、悩みながらだろうが迷わずに帰れる。
「それって、」
考えても考えても、の言葉の意味する所は一つしかない。
──は神様を信じないという。信じても救われはしない。惨めになるだけだったから。
──はユーリを欲しがらないという。願っても、自分の物にはならないから。
──期待しても、悲しくなるだけだから。
期待した事が、あるのだろうか。ユーリがを選ぶというもしも未来を。
そしてその想像の中で裏切られ、悲しくなったことがある。
そうじゃなければ、こうやって自嘲したりはしない。
「期待していい。裏切らない。悲しませないから」
そう言いかけて止めたのは、ユーリも期待を裏切られるのが辛かったからだ。
の言葉を真に受けたユーリが告白して、が本気じゃなかったと言って手のひらを返したら。ただの軽口の類だったのだと言われたら。
関係性が壊れるのが怖かった。けれど、がこういった話を軽々しくするタイプじゃない事も知ってる。だとすると、言葉通りの可能性が高いということもわかる。
この時ユーリに後一歩踏み出す勇気があったなら、どうなっただろう。
ユーリは期待と、不安と、しかし強く抱いた確信で顔を熱くしていた。
今日の空が曇りがちでよかった。街灯が切れてくれてよかった。月明かりが弱くてよかった。夜が更けていてよかった。
──ユーリの表情を隠してくれてよかった。
多分、恐らく、きっと。はユーリの事が好きなのだろう。それがどれだけ強いのか、或いは淡いものであるのか。程度は関係なかった。
恋であるかが重要だった。そしてユーリも、のことを愛してる。
──がほしい。この先も花のように美しくなって行くを間近で眺め、愛でる権利をどうしてもこの手にしたいと願う。
自宅に辿り着き、に先に風呂を譲り、自分の部屋でコートを脱いだ。ふと自室の鏡に映った自分の顔を見ると、やはりには見せたくはない情けない顔をしていて、項垂れる。
ユーリはを愛している。どうしようもなく。多分愛のため──のために死ねる程に。
「この恋が叶わないというならば、私はもう死んでしまいたい」
他人事だと思っていたドラマのセリフに、共感できるようになっていた。
いつの間にか育ち切った種は芽吹き、開花の時を迎えたようだと悟る。
死ねる程に身を焦がす恋をする自分。命を安売りするつもりは毛頭ないけれど、自分を差し出せる程に誰かを愛するのは心地がいい。
愛に生きる人生だった。今までも、きっとこれからも。
いつかの想像の通り、を愛する事には、とことんまで落ちてしまえば最早抵抗がなくなる。愛に浸るのは心地がよかった。
が本当にユーリを好きで、報われる事が想像できず悲しくなる…のだとしたら。
原因は環境と出自による自己卑下が一因だろう。いつまでも遠慮して、甘えない。
だから、ユーリが"自分なんか"を選ぶとは思いもしない。
「愛してる……」
臆病で保身的なユーリがそれを口にして伝える事が出来るのは、一体いつの日になるだろうか。
5.恋情─矢印
嫌な予感、というのが的中したと知るのは、すぐの事だった。
「いや、本当にユーリくんも負けてないと思うよ、ロイドさんに。まだ若いけど、将来有望の優良物件だよね。いやお買い得だと思うな俺も。そうだよねちゃん」
意味深な言い回しでに同意を求めるドミニクを見て、ユーリは事態をすぐに理解した。
──に抱く感情を見抜かれた。いくらドミニクが気配りに長けて人間だからといって、
他人にこうも易々と見抜かれるほど自分が露骨だとは。
…隠せなくなっているとは。当の本人はよく分からないと言った様子で眉を下げていた。
「はあ、まあ、ロイドさんに負けず劣らずで…」
「ユーリくんと結婚する女の子はきっと幸せだろうね」
「そう、思いますよ」
こんなのは誘導尋問と同じだ。はドミニクに、これを言わされている。
そしてユーリが照れる姿を面白がりたいだけなのだ。
ユーリはその意図を全てわかりつつも、顔に熱が集まるのを抑えられなかった。
あの気に食わない高スペックな男と同じくらいにユーリも魅力的。ユーリと結婚する女の子は幸せ。
本心からそれを言ってるのだとしたら、ユーリは舞い上がる他なくなる。
との幸せな未来を想像してしまいたくなる。頭を抱えながら、蚊の鳴くような声で負けを認めた。
「……やめてください…」
ギブアップを訴えるユーリをにこにこと眺めるドミニク。
それを不思議そうに見守りながらも、丁度一品目がテーブルに運ばれてくると、すぐに意識はユーリから料理に移り変わり、ホッとする。
先ほどヨルが切った食材を、言葉通り煮込んで味付けしただけの一品だった。
「とりあえず一品目完成!」
「ほら出番だぞユーリくん!毒…味見してあげて!」
「えっいいんですか!」
さっきまで感じていた憤りや羞恥と言った感情が、歓喜で払拭された。
姉の手料理を食べられるのはいつぶりだろう。
もユーリも、絶え間なくヨルの料理を口に運び続け、口から零れさせたり飲み込んだりを繰り返した。
「すっごく美味しいよ姉さん!ああ懐かしい姉さんの味がするよォ〜」
「…相変わらず、美味しいよ…」
「え…吐いてるけど…え?どっち?」
ドミニクとカミラは二人して顔を見合わせながら困惑していた。
こんなにもしきりに美味しいと言っているのに、信じられないらしい。
けれど、次第に恐る恐ると口にすると、そのままバッタリと気を失ったように床に倒れ伏してしまった。
具合を悪そうな顔色でカミラが起き上がると、恨みつらみがこもったような怒声をヨルに浴びせる。
「何をどうなったらこうなるのよ!私の指示聞いてた!?」
「すみませんすみませんっ」
「姉さんおかわりはないのかい?」
は昔から小食な方だった。具材たっぷりのミネストローネを一皿食べると、それだけで満腹になってしまったようだった。
けれどユーリの若い胃袋はまだゆとりがある。次はいつ食べれるか分からない貴重な姉の手料理を食いだめしておきたいという心づもりもあった。
ミネストローネはまだ早かったとカミラは言い、次にミートボールを作り始めた。
運ばれてきたソレは確かに個性的な見栄えではあったけれど、食べてみるとやはり"姉の手料理"の味がして、ユーリの舌を喜ばせた。
「うままーい!変な汗が出てくる程うまいよー!ああこの味を噛みしめてると小さかった頃の思い出が走馬灯のように次々と…あれ…?向こう岸にいるのは母さん…?」
「……うん…別世界に行けそうな神がかった味がする…」
「ストップ二人共一旦ストーップ!」
ユーリの皿の上にある特大ミートボールを一口つつくと、も淡々と咀嚼して、ドミニクはそれを全力で止めにかかった。
止められようと、手放す気はない。完食するまで食べるのをやめないユーリの姿を、なんとも言えぬ表情でカミラが見る。
「こんなのしか食べてくれる人いなかったから三人揃ってヤバイ味覚に育っちゃったんですね…」
「栄養さえ摂れればそれでOKと思ってたので…」
「ユーリくんちゃん元気に育ってくれてよかったよ…」
こんなの、というのは、ユーリとの事だ。ヤバイ味覚などと言われる筋合いはない、とムカッと来てしまった。一々このカミラという女性にユーリは腹を立てさせられている気がしてならない。
「…たとえばさ、親が作ってくれた料理でおいしかったものとか覚えてないの?参考に…」
「うーん…?ユーリは何か覚えてる…?」
「母さんの料理…?んーおぼろげだけど、よくシチューみたいの出てなかった?あれ暖かくてすきだったな」
「ああ!目玉焼きが乗ってるやつ!」
「よし、それを作ってみましょう。味をよく思い出してみてください。多分ベースは簡単な南部シチューだと思います」
はユーリとヨルの両親が亡くなってから迎えられた子供だ。
話題に混じれず、ただ沈黙して傍観していた。ユーリもこの話題にを混じらせることに抵抗を覚えて、の所在なさげな姿に気が付かないふりをした。
「ちなみにちゃんは何か覚えてる?おいしかったもの」
ドミニクヨルとユーリに問いかけたように、にも臆せず尋ねた。
確かに、ヨルとユーリは両親の死をトラウマにはしていない。
そんな様子をみれば、もそうなのだろうと思っても仕方ないかもしれないけれど。
血が繋がらないというのはドミニクも知っている事で、にはの両親の記憶がないのかと尋ねたのだ。
ユーリが慌てているのに気が付いているのかいないのか、はユーリとは対照的に、平然とした様子で答えた。
「そうですね、父も母もどちらも料理をする人だったので、割と記憶にありますよ…父は意外とヘルシーな野菜料理が好きで、母ががっつりした肉料理とか、揚げ物が好きで。」
その話は初めて聞いた。驚いたのは初耳のその内容ではなく、がこうも平然と両親の話題を語る事だった。
昔両親の出身を何気なく聞いた事があるけれど、勉学のために必要な質問だったし、あの頃はに対しての情というのが今よりも希薄だった。
人としてなっていない、無神経な事を聞いたつもりはない。けれど今だったらもう少し踏み込むことを躊躇っていたかもしれない。
「へえ。意外だね、女性ががっつり系好きだってのは…まあよくあるかもしれないけど」
「はい、父が菜食主義かぶれだっだったから、二人並べて対比すると面白く見えますよね」
「それで、ユーリくんはどうしたの?」
「いや…その」
ユーリが動揺していたことに気が付いていたドミニクに問われ、ユーリは少し口ごもった。けれど素直に理由を答える。
「あんまりの親の話は聞いた事はなかったから…ちょっと驚いて」
「え…あれ、俺あんまり聞かない方がいいこと聞いちゃったかな?」
「いえ、聞かれなかったから話さなかっただけで、聞かれたら答えられる話題ですよ」
ドミニクは藪蛇をつついたのかとぎょっとしていたが、はトラウマなんて無いですよと否定すると、安堵していた。
確かに、は現実主義で、その生い立ちが故か昔から子供らしくなかった。
親を思って泣いて蹲る姿は想像はつかない。けれど、実際蓋を開けてみたら、本当にこうまで割り切っていた、というのも、どこか腑に落ちるようで落ちない。
はユーリが気を使っていたことに気が付いていなかったようで、驚いたように眺めていた。
「先輩ってさ、何か雰囲気変わりましたよね。前はもっとロボットみたいなつまらない顔してましたけど」
「え?え?そうですか…?け…結婚したから…でしょうか?」
「あ゛?何勝ち組気取ってるんですか?ちょっとメイク変えただけとかそんなんでしょ、図に乗んな」
「すみませんすみませんっ」
「はいはいカミラも十分素敵なレディだよ?自信もって」
カミラの肩をポンポンと叩きながら、口論しているカミラとヨルの間に仲裁に入るドミニク。仲裁しながら、いいニオイがしていると指摘すると、ヨルに絡むのをやめて、カミラは鍋をじっと凝視し、味見した。すると表情を明るくして、悪くないと初めて褒める。
ユーリが続いて味見をすると、今まで姉が作ってくれた手料理のどれとも違う味がした。
そして昔ユーリの母が作ってくれた手料理の味とも違っている。
カミラのいう通り、美味しいのは間違いがない。しかし。
「おいしい…けど何か足りない気もするな…」
「このままでも十分おいしいけど…」
は足りない、とは思わなかったようで、単純に美味しいちだけ感じたらしい。カミラは引っ掛かりを覚えて、出身地はどこかと尋ねた。
ニールバーグの東の方だとヨルさんが答えると、何かを思い出したように冷蔵庫からサワークリームを取り出しひとさじ鍋に加えた。地方によって、味付けが異なるらしい。
再び味見をすると、確かに懐かしい味がして、思わずヨルとユーリは顔を見合わせた。
姉が喜んでいるならユーリも嬉しい。それは昔と変わらないはずなのに、どうしてこうも複雑になるのだろうか。
ロイドのための料理教室は無事に大成功に終わった。…終わってしまった。
つまりは憎きロイドを喜ばせる結果になり、姉とも離れ離れになる時間が訪れたということ。
名残惜しく、離れ難く。永遠に手を振り続けるユーリの服をは引っ張って歩いた。
も寂しがっていない訳ではないのだろうが、迷惑になるとか、礼儀がどうという理性が先行し、甘えるということを知らない。
こういう場面ではどちらが年上でどちらが年下か分からなくなる。
いつもなら他愛ない話題の一つくらいは振ってくるが、今日は沈黙を貫いていた。
夜空を見上げるその表情は曇っている訳でもなく、華やいでる訳でもない。
もしかして、口ではああいいながらも、やはり両親の話題を振られたことが尾を引いているのでは…なんて勘繰った所で、は不意に口を開いた。
「ユーリもいつか結婚するんだね」
「……は?」
「私のお父さんがそうだったみたいに、ヨルさんみたいに…相手のために料理の特訓したりするのかな」
本当に何気ない素振りだった。ユーリがもし逆の立場であれば、ドミニクに悟られからかわれたあの時のように、きっと動揺を隠せないのではないかと思う。
なのには涼やかな顔でもしもの話を展開するのだから面白くない。
「……優良物件って言ってたくせに」
「くせに、なに」
何もどうもないだろう。あんなに手放しに褒めたくせに。
良いと思ったなら望めばいいだろう。寂しいと思ったなら甘えたらいいだろう。
ユーリが情が溢れるが故に、動揺を隠せなくなったように、だって。
「……………良いと思うものは、ほしくならないのか」
──愛を知ればいいのに。
そんな皮肉を口にする事だけは自制して、代わりに絞り出すように問いかけた。
はそのまま沈黙してしまった。
空想の中の他の女になど手渡さず、自分の物にしたいと何故望まないのか。
ただのお世辞だったのだと言われたらそこまでだ。
だけれど、こんな感情を隠しているユーリは、思わせぶりな事を言わないでほしいと思ってしまう。
「……わたし、…わたしは…」
切れかけの街灯の一つを眺めていると、丁度ぷつりと灯が消えた。
足元ばかりを見ているはそれに気が付いているのかいないのか、その瞬間語り始めた。
「………今まで、神様とか信じてなくて。だって叶えてくれないものに縋るのは馬鹿らしいし、惨めで…心の救いよりも、現実的なものが欲しかったから」
急に信仰の話が出てきて驚いたけれど、こういう所で誤魔化す性格をしているのではないと知っている。必要な事を必要なだけ話す。
この後に持ってこられだろう核心をユーリは待った。
「叶うはずもない現実を想像するのは悲しい事でしょう?」
顔を上げたは笑っていた。喜びではない。
それは間違いなく、嘲りだった。何に対して。どうして、何を。
そこから暫くは沈黙し、どちらともなく歩き出した。向かう先は当然自宅で、勝手知ったるこの辺りの道で迷うことはお互いなかった。
話しながらだろうが、悩みながらだろうが迷わずに帰れる。
「それって、」
考えても考えても、の言葉の意味する所は一つしかない。
──は神様を信じないという。信じても救われはしない。惨めになるだけだったから。
──はユーリを欲しがらないという。願っても、自分の物にはならないから。
──期待しても、悲しくなるだけだから。
期待した事が、あるのだろうか。ユーリがを選ぶというもしも未来を。
そしてその想像の中で裏切られ、悲しくなったことがある。
そうじゃなければ、こうやって自嘲したりはしない。
「期待していい。裏切らない。悲しませないから」
そう言いかけて止めたのは、ユーリも期待を裏切られるのが辛かったからだ。
の言葉を真に受けたユーリが告白して、が本気じゃなかったと言って手のひらを返したら。ただの軽口の類だったのだと言われたら。
関係性が壊れるのが怖かった。けれど、がこういった話を軽々しくするタイプじゃない事も知ってる。だとすると、言葉通りの可能性が高いということもわかる。
この時ユーリに後一歩踏み出す勇気があったなら、どうなっただろう。
ユーリは期待と、不安と、しかし強く抱いた確信で顔を熱くしていた。
今日の空が曇りがちでよかった。街灯が切れてくれてよかった。月明かりが弱くてよかった。夜が更けていてよかった。
──ユーリの表情を隠してくれてよかった。
多分、恐らく、きっと。はユーリの事が好きなのだろう。それがどれだけ強いのか、或いは淡いものであるのか。程度は関係なかった。
恋であるかが重要だった。そしてユーリも、のことを愛してる。
──がほしい。この先も花のように美しくなって行くを間近で眺め、愛でる権利をどうしてもこの手にしたいと願う。
自宅に辿り着き、に先に風呂を譲り、自分の部屋でコートを脱いだ。ふと自室の鏡に映った自分の顔を見ると、やはりには見せたくはない情けない顔をしていて、項垂れる。
ユーリはを愛している。どうしようもなく。多分愛のため──のために死ねる程に。
「この恋が叶わないというならば、私はもう死んでしまいたい」
他人事だと思っていたドラマのセリフに、共感できるようになっていた。
いつの間にか育ち切った種は芽吹き、開花の時を迎えたようだと悟る。
死ねる程に身を焦がす恋をする自分。命を安売りするつもりは毛頭ないけれど、自分を差し出せる程に誰かを愛するのは心地がいい。
愛に生きる人生だった。今までも、きっとこれからも。
いつかの想像の通り、を愛する事には、とことんまで落ちてしまえば最早抵抗がなくなる。愛に浸るのは心地がよかった。
が本当にユーリを好きで、報われる事が想像できず悲しくなる…のだとしたら。
原因は環境と出自による自己卑下が一因だろう。いつまでも遠慮して、甘えない。
だから、ユーリが"自分なんか"を選ぶとは思いもしない。
「愛してる……」
臆病で保身的なユーリがそれを口にして伝える事が出来るのは、一体いつの日になるだろうか。