第三十四話
5.恋情矢印


「ああ、なるほど」


帰宅してまず手を洗っていると、洗面所にの話声が聞えた。
独り言を言うような性格はしていないというのは、ユーリも知っている事だ。
テレビの音声ではなく、間違いなくあれはの声だろう。だとしたら大方誰かと電話をしているのだろうなと当たりをつけながらリビングに向かうと、固定電話が置いてあるテーブルの傍に、が立っているのが見えた。予想通りの光景だ。
がわざわざ電話をかける相手は限られている。
姉と話しているのだろうとユーリは考えながら、どこか神妙な面持ちをしながら、固い声色で頷くを遠巻きに眺めた。

話終わり、は受話器を置く。するとユーリが帰ってきていた事に気が付いていたのだろう、迷いなく背後を振り返って視線を合わせた。


「姉さん、何かあったのか?深刻そうな話してたけど…」
「ヨルさんは何事にも一直線と言うか、真面目だから…」
「ああ…」


最初は近況報告をしているだけかと思っていた。けれど、あのただならぬ雰囲気をみたら、何か重大な話でもしていたんじゃないかと勘繰ってしまった。けれどユーリの見当はずれだったらしいと、名前のやけに濁した言い方だけでユーリは納得できた。


「そのうちユーリも相談されるんじゃないかな」
「は?それって、僕にわざわざ相談する程深刻な話って事じゃ…」
「身内にする相談が全部深刻って訳じゃないと思うよ」

まあそれも一理あるかと納得し、ユーリは頷いた。
そしてがこうして意味深に言うからには、本当に相談を持ち掛けられるのだろうとも。
予想していたのとは違った形で、ユーリの元に姉関連の誘いが持ち掛けられた。
共通の知り合いのドミニクに、道すがらで出会い、カミラという姉の同僚の家にヨルがいるから遊びに来ないかと誘われたのだ。
タイミング的に、これがのいう「相談」なのだと思った。
身内からされる相談が全部が全部深刻ではない。だというなら、今回の件も、ちょっとご飯を多く作りすぎたから食べに来ないかくらいの誘いであってもおかしくないと。
カミラの家に遊びに行く際、持ち寄った料理が三人で食べるには多すぎたから、ユーリも遊びに来させようと提案した、とか。
実際の所は聞いてみないと分からないながら、そんな予想をいくつか立てつつ、ユーリはカミラの家に向かう事にした。
もちろん、も誘って。
料理を食べてほしいと誘われるという想像はあながち間違いではなく、ユーリはカミラの家でたらふく姉の手料理を食べる事になった。
"味見"というのは建前の"毒見"であるという現実を露知らぬまま。
ユーリにとって姉の手料理は、この世の何よりも至高の慣れ親しんだ味で、ご馳走なのだから。



「姉さ〜〜〜〜〜ん!」
「ユーリ!!?」


事前に教えられていた住所にと共に向かい、表札を確認して、チャイムを押した。
すると、家主より先にドミニクが出てきて、迎え入れてくれる。
そうしているうちに奥の方から姉が顔を出し、驚いたような表情をしていた。
ユーリとが訪問してくるというのは、事前に教えられていなかったしらい。
サプライズのつもりだったのだろうか。だとしたら大成功である。


「なんか姉さんの手料理が食べられるって聞いて」

早々に中に入って雑談に華を咲かせるユーリとは違い、はなぜか玄関先でまごついていた。
靴を脱ぎ掛けて、また履き直すという謎の動作をしている。
靴擦れでも起こしたのだろうかと思った。確かあれはが先週買ったばかりの靴だ。
は昔から靴のサイズに悩んでいて、毎回微妙に違うサイズを買って試してみたりしている。今回のは合わなかったのだろうかと納得させていると、当の本人は綺麗に恭しく頭を下げた。
は昔からこういう所がある。礼儀正しいと言えば美徳のように思えるけれど、ユーリから見れば自分を卑下するような悪癖にも思えていた。事実、意識して召使いのように振舞っていた時期があたったのだ。大昔のこととはいえ、そういった根本的な意識の改革は、時間をかけても難しいのだろう。


「これ、つまらないものですが…」
ちゃん、そんなに気を使わなくてよかったのに」
「いえ、こんなに突然お邪魔してしまっているんですし」
「それこそ、こっちが誘ったことなんだから」
「………ここ数日お世話ににりっぱなしなんですし」


ドミニクに誘われたのは昨日の夜の事だ。朝のうちにその話をに伝えると、手土産を持っていかなければというので、ユーリはに財布を持たせておつかいを頼んでいた。

「あれが先輩の弟くんと妹ちゃん?なんか写真のイメージと違う…」

ユーリと二人から、という形をとっているけど、選んだのはだ。
紙袋は無地で、ブランドのロゴなどは印刷されていない。
中身が何かは今の今までユーリも知らなかった。
遠巻きにユーリとヨルを見ていたカミラという女性は、その袋を受け取り中身を見ると、目を輝かせていたので、女性が喜ぶようなものだったのだろう。
ユーリは紙袋をテーブルに置くのを見ると、カミラの空いたその両手を取ってぶんぶんと振った。


「お邪魔しますカミラさん。姉がいつもお世話になっております」
「はあ…」
「で?今日は何かのパーティーなんですか?」


何が行われているのかは全く聞いていない。ここ数日お世話になっている…というの発言を思い出してみれば、パーティーという線はないかと思えたけれど。


「え?料理教室?」
「ロイドさん達には内緒ですよ?こっそり上達したいのです!」


はこの事を電話で気かされていたのだろうか。せっかくの姉との楽しい時間に水を差されたような気持ちで、つい咎めるようにの方を振り返る。すると何故か苦虫を噛み潰したような顔をしていて、ユーリは訳が分からず拍子抜けしてしまった。


「…料理を、頑張ってたんだね」
「上達するより前にバレちゃいましたね」


どうやらも知らなかったようだ。だからと言ってあんな表情を浮かべる意味がわからない。ユーリのようにヨルの旦那・ロイドを苦手視しているならまだしも、好意的だったはずなのにと疑問に思った。


「とりあえず今日はミネストローネを作ってみようと色々買ってきました!」
「だからアンタいらない物まで買いすぎだってば!」
「すみません色々入れればおいしくなるかと…っ」


台所でカミラとヨルが買い物袋をひっくり返している。大量の野菜や魚と調味料、その他何に使うのか用途不明の物品達。
この全ては今日のところは、姉の手によりユーリの腹に収まり満足させてくれるだろうけれど、最終的な目標はロイドを喜ばせる事なのだ。とても面白くない。
ポテトの皮を剥き始めたヨルは、次第に手を血で染めていった。ユーリももこうなる事は想像がついていたので、血が出るよりも先に冷静に救急セットを探し始めていた。


「どうやったら皮むきでこうなるんですか!?」
「こ…この武器扱いが難しくて…」
「ピーラーは武器じゃねえよ!?」
「姉さんバンソーコーもって来たよ!」


ピーラーを扱う時こそ危なっかしいヨルも、包丁を扱う時は神がかっている。
それこそ、野菜と一緒にまな板まで切ってしまうほどに。
ユーリは手放しに姉の神業を褒め称えた。


「ほんとマジ何なのアンタどうやって結婚できたの!?」
「うう…」
「包丁刃こぼれしてない。包丁ってまな板に勝つんだ…」


最初こそ姉ばかりに意識が行き気が付かなかったけれど、こうも繰り返し高圧的な態度で接するカミラの姿を見ると、ユーリはムっとした気持ちになる。
一方は料理教室を眺めているのに飽きたのか、粉々になった食材やまな板をじっと眺めたり、切れ味のいい包丁の側面を指先でなぞったりしていた。
危なっかしい暇つぶし法を見て、ヨルもユーリも咎める。は何故叱られるのか分からないといった顔をしていた。
確かに刃を触った訳ではない、まるで子供扱いをしているという自覚はあるけれど、なんとなく忌避感を覚えるのだ。


「先輩見込みないです諦めた方がいいですあんなイケメンとは離婚した方がいいです」
「そんな…っお願いしますカミラさん!ロイドさんに離縁されたら私…私…!」


ヨルが必死に懇願すると、さっきまでの高圧的な態度は収まり、カミラさんはぐっと言葉を詰まらせた。


「さっさと切った具材火にかけてください。味付けはその都度説明しますから」

さっさと作ってさっさと帰ってくださいとツンと言いながらも、カミラはヨルを突き放さない。
印象最悪だったカミラの意外な一面が見えた気がしていると、ドミニクが言う。


「あいつ以外といいやつなんだ。ちょっとひねくれてるだけで」
「?カミラさんは普通に善良な方です」
「オイ!」


意外と姉は同僚と仲良くやっているようである。
それを知ったユーリは、ドミニクに促されるまま、安心して椅子に座る事ができた。
後は煮込んで味付けをするだけなので、食事が運ばれてくるのを待つのみだ。
盛り付けの手伝いなど、大人数でやっても邪魔になるだけである。
こうやって世間話に華を咲かせる方が建設的だと考えながら、三人はテーブルを囲んでいた。


「それで、最近二人暮らしはどうなの?」
「それは…」


ヨルがロイドと暮らすようになり、完全に二人きりの同居生活を送るようになったというのは、もう知られている事だった。
ユーリは順調だと言う事も出来ず、かと言って険悪だと言うほどでもなく、歯切れ悪く言い淀む他ない。
そんなユーリをフォローするようにが明るく返答した。


「ロイドさんのカウンセリングを定期的に受けているので、安泰ですよ」
「何それどういう状況?」
「聞いてないぞそんな話!」
「え……」


が代わりに答えてくれるようだと安心したのも束の間、意味の分からない事実を知らされて驚愕した。ロイドと定期的に連絡を…いやカウンセリングを…?していた、などということはユーリは知らなかったし、ドミニクも理解不能と言った顔をしていた。
よかれと思って言った発言が仇となり、再び必死に言い繕うは哀れでもあったが、ユーリもユーリで必死である。


「ヨルさんは心配性なので…精神科医のロイドさんから定期的にカウンセリングを受けられたら問題ないだろうという配慮で…その…」


ドミニクはヨルのいつもの過保護かと納得したし、ユーリもヨルの差し金であるなら…と納得した。
けれど、複雑にもなる。姉心というだけでなく、ちょっとがユーリに対して引いているのを知っているからこそ、カウンセリングという名目を使って配慮したのだろう。
しかしながらちょっと行き過ぎてはいないかと、ドミニクが少し引いた顔を見せ始めると、は再び慌ててフォローを始めた。


「べ、つに、強制とかじゃなくて、あの、イケメンのロイドさんのカウンセリングとか、世間的には価値需要があったりなかったりしませんか?むしろこれは棚ぼたの僥倖
と思っていいはず」
「いやちゃん何か自分に言い聞かせてない?」
「あんなヤツちょっと料理が出来て顔がよくて背が高くて気遣いが出来るだけの医者で価値も何もないだろう!?」
「ユーリくんソレめちゃくちゃ価値ある優良物件だって」


今日はいつも冷静なにしては珍しく一杯いっぱいになっているなと、冷静に考えられていたのはそこまでだった。
イケメンのロイドさん、などというワードは、ユーリをムカつかせるのには十分な響きだった。
愛する姉はロイドという男に盗られ、大事なもロイドを過剰に褒め称える。
そういえばフォージャー家に訪問した時もこうして整った顔立ちを褒めていたな、と思い出し更に腹が立った。
歯ぎしりでもせんばかりに苛立ちを募らせていると、息切れでもしそうなくらい顔色を悪くして、疲労でいっぱいになっているがこう付け足した。


「ユーリだって器用だし勤勉だし、顔も綺麗だし、身長も高いし…外交官でスペック負けてないよ、あの、元気だして…怒らないで…」

募っていた怒りや不満は、意表を突かれたこの一瞬で、綺麗に消え去った。
忘れたのではなく、怒りよりも動揺や困惑、羞恥の方が勝っただけの事。
今度はユーリの方がしどろもどろになる番だった。
修羅場回避りために言い繕ったのだろうと思いつつも、の褒め言葉には素直に唸りそうになる。
2人きりならまだしも、今は人目がありすぎる。それを表に出す訳にはいかまいと、ユーリは平静を繕った。


「べ、つに、怒ってない」


自分はこんなにも繕いが下手だっただろうかと驚くほどに、不格好な声だった。
はそれを聞くと、なんだか困ったように曖昧に笑う。
そしてユーリの憤りが落ち着いた事に安心したのか、肩の力を抜いた。


「………ユーリくんてもしかして、」

そのやり取りを眺めていたドミニクが何かを言いかけた。は素直にその言葉の先を待っていたけれど、なんでもないと言って首を振られてしまえば、それ以上追及する事はしなかった。
特に引っ掛かりは覚えなかったらしい。
けれどユーリはこの時点で、少し嫌な予感がしていたのだった。


2022.9.10