第三十二話
4.物語毒見役


ヨルさんとは、定期的に電話で話をしている。
昔のように毎日会ったりせずとも、声を聞けば身近に感じられて、安心できた。
彼女の声を聞くと、最早条件反射のようにして、包み込まれるような安堵感を覚える事が出来る。
出会った頃の彼女はまるで断罪を求める咎人のようだったのに、今ではまるで聖母のようにも感じるのだ。
これは私がユーリの姿勢に感化されたのか。それとも突如フォージャー家の母親役に抜擢され、立派にこなせてしまう程の、彼女の先天的な性質によるものか。
最近そはその安堵に加えて、既視感だとか、不思議な感覚も同時に覚えるようになった。
前世で観た漫画の巻数はまだ少なく、アニメ化された際のエピソードも多くなかったはずだ。
人間は、聴覚から記憶を忘却していくのだと聞いた事があった。
アニメで聞いた彼女の声はこんなだったっけかと、思い出すようにしながら会話をする。

「ええ、元気でやっていますよ」

その言葉とは裏腹に、電話越しに届くヨルさんの柔らかな声は、平時よりトーンが落ちている。
付き合いも長くなったのだ、それくらいは電話越しでも見抜けた。

「…ヨルさん。最近帰りも遅いんだってね?」
「えっなぜそれをが…?」
「ロイドさんから聞いたの。電話で」


ロイドさんとは、文通友達ならぬ、電話友達になっていた。
一応義理姉の夫である成人男性と、定期的に電話を取り合う仲になるというのは気が引けたけれど、これがユーリと二人で同居するための条件だった。
うわぁ…となっている私が、ヨルさんの姉フィルター…身内の過保護フィルターを通さず、客観的に状況を把握できるよう、可視化するためらしい。
ロイドさんの表向きの仕事が精神科医という、カウンセリングにうってつけな職種だったからというのも一因だ。
確かに揉め事には中立の第三者に入ってもらうのが一番だとは思うけれども。
建設的な提案と言えば聞こえはいいけれど、これもある意味過保護な対策だと思う。
ロイドさんがそれに賛成したのは、拒否しても無駄と悟ったのと、情報収集のため利にもなると踏んだからだろう。
…ヨルさんの長年の過保護には、然るべき理由があったと先日知った。それももう終わりの時だと言って一度は手放されたはずであるものの、染みついた習慣を落とすのは時間がいりそうだ。


「一々詮索するのも気が引けるって。でも暗い顔して帰ってくるから心配だって」
「そう、でしたか…」


あれ、これって言ってよかったんだっけ。
ロイドさんに不審がられているという事実に、ヨルさんは最後まで気が付かなかったのではないか。
言った所で、大きく原作が崩壊する事もないだろうけど。流れを壊すというのはやはり恐ろしいものだ。
主要人物が死なないギャグベースの世界というのはお気楽で、しかしその影であっさりと殺されてく人間がいるのも事実。
最悪、今後東国と西国が戦争を始める事になんて事になれば、市民はどうなる事やら。
一度は死に、転生し、そして今世でも一時は死を覚悟した。
死ぬ事には人よりも抵抗はない。けれど、痛みや苦しみを忌避する感覚は当然残っている。希死念慮、自殺願望なんて物はないのだから。


「…最近、私ちょっと頑張ってる事がありまして」
「頑張ってる事…だから疲れた声してるんだね」
「そんなに声に現れてましたか…?恥ずかしいです」


原作の知識、なんて物がなくても、聞いただけで落ち込みに察したはずだ。
私は朧気ながら、ヨルさんが何故落ち込んでいるのか、知識として知っている。
──ヨルさんは料理下手だった。栄養が取れたらそれでいいという頭があったからなのか、本当に料理のセンスがまるでないのか、それとも、そのどちらもだろうか。
素敵な旦那様と幼い娘のいる家庭を持った今、"善き母親""善き妻"らしい料理ができない事を、気に病んでいるのだ。
…その、はずである。確信が持てる知識というのは、数える程にしかないのが歯がゆい。

「実は、職場の同僚のカミラさんのお家で、仕事の帰りに毎日お手伝いをしてもらっていて…」
「ああ、なるほど」


やっぱり合っていたうだ。ドミニクさんのパートナーのカミラさんという女性の話は、ヨルさんの口からよく聞いている。
彼女は気の強い癖のある性格をしているけれど、料理上手であったはず。


「…そのうち、成功したら…にもお話しますから」


まるで死地に向かう兵のように深刻な声で話すヨルさん。けれどその実、料理教室を開いているというだけの話だ。成功というのは料理の腕が上達するかしないかの話で、平和な話。
ここで明るく「がんばってね!」などと応援するのも変なので、私も神妙な面持ちと声色で頷いておいた。
受話器を置くと、ユーリが微妙そうな顔をしながらこちらを見てるのに気が付く。
そしてあちらも私が振り返り、自分に気が付いた事を目視すると、問いかけてきた。


「姉さん、何かあったのか?深刻そうな話してたけど…」
「ヨルさんは何事にも一直線と言うか、真面目だから…」
「ああ…」


猪突猛進とも違うけれど、少しズレたヨルさんの一生懸命さはユーリの知るところでもある。
そういう濁し方をすれば、ヨルさんがどういう状況に置かれているかは察したようで、心配も薄れたようだ。要するに、本気で泥沼の深刻な状態に陥っている訳ではないという事だ。


「そのうちユーリも相談されるんじゃないかな」
「は?それって、僕にわざわざ相談する程深刻な話って事じゃ…」
「何というか…身内にする相談が全部深刻って訳じゃないと思うよ」


家に虫が出たから駆除しに来てくれという、肩透かしを食らうSOSを受ける事も時にはあるだろう。
そこまで親しくなりきれていない友人には出来ない、これこそ身内相手にしか出来ない、他愛のなさすぎる相談だ。
今回の件もそれに近い物があると思う。
この次の日、ユーリはドミニクさんとばったり外で会った時に、仕事終わりにカミラさんの家に来てほしいと招待されたらしい。
それはドミニクさんの独断で、ヨルさんから直接持ち掛けられた相談ではなかったけれど、ヨルさんのいる所には火の中水の中…という精神性を持つユーリには、魅力的な提案だったらしい。
私も一緒に来たらどうかとユーリに誘われて、久しぶりにきょうだい三人揃って、姉の職場の同僚宅に集合する事になったのである。聞けばドミニクさんも、都合が合えば妹ちゃんも来てよ、と言ってくれていたらしい。
──ヨルさんの作った料理の毒見役として。


「姉さ〜〜〜〜〜ん!」
「ユーリ!!?」


テンションが上がりきったユーリは、満面の笑みでカミラさんの玄関の戸をあける。
その後ろをついて行きながら、玄関先で思わず靴を脱ごうといる自分に気が付いた。
この世界に生まれてから十数年、室内を土足で過ごす文化には慣れ切っていたはずなのに、ここが漫画の世界であるという自覚をした途端に、日本人としての意識が強く出てくるようになった。
思わず踵まで脱ぎ掛けた靴をトントンと履き直してから、家主であるカミラさんと、その隣に立つドミニクさんにお辞儀をする。
そして再びハッとした。このお辞儀というのも日本人らしい習性ではないのかと。
一挙一動を観察され、訝しまれる。ここはスパイが活躍する世界だ。
なんとなく、自分の所作が、他人の目にはどう映るのか気になるようになってしまった。
お気楽なコメディとはいえ、大分制限のキツい窮屈な世界ではある。


「なんか姉さんの手料理が食べられるって聞いて」


突然の訪問に驚くヨルさんに、にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべながらユーリは話した。
出会った頃より幾分も私に対して友好的になり、親愛をこめて接してくれるようになったユーリ。
それでも、こういったあどけない話し方や表情を自然に、心から向けるのは、ヨルさんだけだ。
そんな姉弟のやり取りを横目に入れながら、私は手に提げていた袋を持ち上げた。


「これ、つまらないものですが…」
ちゃん、そんなに気を使わなくてよかったのに」
「いえ、こんなに突然お邪魔してしまっているんですし」
「それこそ、こっちが誘ったことなんだから」
「………ここ数日お世話ににりっぱなしなんですし」


ヨルさんを生徒にした料理教室を開いてもらっている事、それこみでのお礼だというと、苦笑いをしながらドミニクさんが紙袋を受け取ってくれた。
中にはちょっといい店のお菓子が詰まっている。
お金はユーリから頂戴したけれど、品物を選んだのは私だ。
大人が喜ぶのは、お菓子よりも酒の肴だろうかと思いつつも、それを未成年が選ぶのはおかしい気がしたので、行列の出来るお菓子屋さんのギフトセットを包んでもらった。無難な選択であったはずだ。


「あれが先輩の弟くんと妹ちゃん?なんか写真のイメージと違う…」


カミラさんは遠目にブライア姉弟のやり取りを眺めながら、訝しんでいた。
ユーリは若干引き気味なカミラさんの様子に気が付いているのかいないのか。
その両手を取ってぶんぶんと振った。

「お邪魔しますカミラさん。姉がいつもお世話になっております」
「はあ…」
「で?今日は何かのパーティーなんですか?」

ユーリがロイドさんに向ける邪険な態度とは全く違う、外行きの自然な口調で訪ねる。
私はぎょっと目を見開かせてしまった。
私は至極当然に、毎晩この家で行われているのは料理教室だという認識でいたし、今回呼ばれたのは"毒見役"のためだと思っていた。
だから深々と恐縮しながら手土産を渡したのだ。
ユーリも、もうドミニクさんから趣旨を聞かされているものと思っていた。
愛する姉がいるというだけで飛んで駆けつけるユーリの姿勢はいつもの事ではある。
けれど、流石に趣旨くらいはドミニクさんも話したはずだろうと思い込んでいた。


「え?料理教室?」
「ロイドさん達には内緒ですよ?こっそり上達したいのです!」


とすると、直にドミニクさんと対面し、お誘いを持ちかけられたユーリすら知らなかったこの事実を知っている私は、一体傍からはどう見えるのか。
それを考えた瞬間胃が締め付けられ、痛むのが分かった。最早視線恐怖症にでも陥りそうだ。


「…料理を頑張ってたんだね」
「上達するより前にバレちゃいましたね」


私が取り繕うように言うと、ヨルさんは照れくさそうに微笑み、私もやんわりと微笑み返す。
実際顔がほころんでしまう程に微笑ましい出来事ではあるのだ。
旦那様や娘のために影で料理を上達させたいと励む妻の姿は。それが大好きなヨルさんの行いなのだという事実が、余計それに拍車をかけさせる。


「とりあえず今日はミネストローネを作ってみようと色々買ってきました!」
「だからアンタいらない物まで買いすぎだってば!」
「すみません色々入れればおいしくなるかと…っ」


台所で、ヨルさんの手により買い物袋から出されたのは、大量の野菜や魚と調味料。…に、加えて。サボテンロープ、糸と言った料理に関係なさそうな物達。
料理が下手な人は、味覚がどうのではなく、まずレシピに従わないという話を聞いたことがある。これはその典型…と言っていいのかどうか。天然というのか。
いい人であるとは認めつつも、強い苦手意識を持つロイドさんのための料理教室だと知った途端、ユーリは苦い顔をしながら見守るようになった。


「じゃあまずポテトの皮剥いてください」とカミラさんに指示されて、意気揚々とむき出したヨルさん。
しかし、予想通り芋はぼろぼろに…加えてヨルさんの手も血みどろになった。
幼少期からヨルさんの料理をする姿を見てきた者には容易に想像のつく展開だ。

「どうやったら皮むきでこうなるんですか!?」
「こ…この武器扱いが難しくて…」
「ピーラーは武器じゃねえよ!?」
「姉さんバンソーコーもって来たよ!」


ユーリも同じく、最早動揺した様子もなく、救急セットを持ってきた。
球のような姉の肌に傷が…と過保護になるかと思いきや、怪我をする姿というのに慣れすぎて、手が真っ赤になった程度では取り乱さない。
包丁を扱う場面になると軽やかな手つきを見せるヨルさん。しかし刻みが細かすぎるとカミラさんに怒られていた。
そしてついには包丁をまな板まで貫通させ、粉々にしたヨルさんを見て、ユーリは最早生きているだけで褒めてくれる機械のように姉の技をすごい凄いと褒め称える。

「ほんとマジ何なのアンタどうやって結婚できたの!?」
「うう…」
「この包丁刃こぼれしてない…包丁ってまな板に勝つんだ…」


最初は友好的な態度を取っていたユーリも、散々ヨルさんに強く当たるカミラさんに刺々しい視線を送るようになってきた。
ユーリの外行きの態度はヨルさん絡みになるとすぐに剥げてしまう。
職場ではボロを出さずに、上手くやっている事を願うばかりである。
そんな事ほ考えながら、私は粉々になった食材やまな板を見て暇をつぶしていた。
そっと包丁に触ると、ヨルさんとユーリに揃って怒られてしまう。危ないから触るなという言い分は、まるで小学生に対するお小言だ。
ヨルさんが不在だった日には、私が料理をしていたというのに、そんなのは今さらだろう。


「先輩見込みないです諦めた方がいいですあんなイケメンとは離婚した方がいいです」
「そんな…」


やはりロイドさんは世間的にはイケメンの部類に入るのだろう。
古傷がじくりと痛んで胸を抑えた。あの時、咄嗟に年頃の女の子らしくはしゃいでみせた事が、演技だと言えど恥ずかしくなってくる。
あれをもう一度やれと言ってもやれないだろう。我ながら神がかってミーハーな仕草だった。

「お願いしますカミラさん!ロイドさんに離縁されたら私…私…!」


ヨルさんに必死に懇願されて、カミラさんはぐっと言葉を詰まらせる。

「さっさと切った具材火にかけてください。味付けはその都度説明しますから」

さっさと作ってさっさと帰ってくださいとすげなく言いながらも、最終的は突き放さないで付き合ってくれるカミラさん。
これがツンデレというやつだろうか。天然とツンデレは古来より相性がいいものである。
この二人の未来は明るいかもしれないと、私は微笑ましく見守っていた。

「あいつ以外といいやつなんだ。ちょっとひねくれてるだけで」
「?カミラさんは普通に善良な方です」
「オイ!」

同じく微笑ましそうにしているドミニクさんがヨルさんに言うと、ヨルさんは当然のようにカミラさんを褒めた。
そのやり取りが聞えていたカミラさんは、顔を赤らめながらツッコミを入れる。
なんやかんやでヨルさんは人に恵まれているようで何よりだ。


後は煮込んで味付けをするだけという段階になって、ドミニクさんは私達を椅子に座るよう促してくれた。
いつまでも棒立ちで調理を見守り、茶々を入れるのも何だからと配慮してくれたのだ。
手伝える事もないし、毒見役の私達は確かに着席して料理が運ばれてくるのを待つ方が自然である。
ユーリも私もヨルさんの作る料理の刺激的な味に慣れているので、最期の時を待つ死刑囚のように深刻な顔をする事もなく、特に身構えないまま世間話に華を咲かせた。


「それで、最近二人暮らしはどうなの?」
「…それは……」
「あの、ロイドさんのカウンセリングを定期的に受けているので、安泰ですよ」
「何それどういう状況?」
「聞いてないぞそんな話!」
「え……」


ドミニクさんに近況を問われて、ユーリが少し口ごもったのを見て、慌てて咄嗟にフォローを入れた。…つもりだった。
結果的に、余計に混乱を招いたようで、二人から揃ってツッコミを入れられてしまった。
確かに私も最初は姉の旦那と定期連絡(カウンセリング)を受けるなんて一体どんな状況だと不可解に思っていたのに、いつの間にか順応しきっていたようだ。
ロイドさんとしてもボランティアでやっているのではなく、スパイの情報収集の一環でやっているのだろうし、それを私も分かっている。
相手には変な下心もなく、私もこの行いでヨルさんが納得するならと、お互い意味のある打算で続けていた事だ。
一回の通話時間は30分にも満たないし、月に二回あれば多い方。
それこそわざわざユーリに話すことでもないかと、特に報告していなかった。
隠していたわけではないのだけど。彼らにとっては寝耳に水といった様子だ。


「ヨルさんは心配性なので…精神科医のロイドさんから定期的にカウンセリングを受けられたら問題ないだろうという配慮で…その…」


ユーリにうわぁ…となっている状態を心配されて…、という事情を話すのは躊躇われれて、あながち間違いではない"ヨルさんの過保護のせいで"という理由を話した。
2人はそれで納得したようだ。しかしユーリは、私達がぎこちなくなっているせいでその配慮がなされたのだろうという裏事情も察した事だろう。
しかしドミニクさんが少し引いた顔をしているのを察して、慌てて再びのフォローを繰り返した。


「べ、つに、強制とかじゃなくて、あの、イケメンのロイドさんのカウンセリングとか、世間的には価値需要があったりなかったりしませんか?むしろこれは棚ぼたの僥倖
と思っていいはず」
「いやちゃん何か自分に言い聞かせてない?」
「あんなヤツちょっと料理が出来て顔がよくて背が高くて気遣いが出来るだけの医者で価値も何もないだろう!?」
「ユーリくんソレめちゃくちゃ価値ある優良物件だって」


しどろもどろに弁明する私と、激高するユーリをドミニクさんがまぁまぁと受け流す。
元々、いい人だとは認めつつも、大切な姉をどこぞの馬の骨に盗られたと歯ぎしりしていた所だったのだ。それを私まで手放しに褒めて認めてしまえば面白くないだろうと、私は再び、今度はユーリに対する弁明を繰り返した。
この数分だけで何度言い繕っているのだろう。ドッと疲れが圧し掛かってきた。


「ユーリだって器用だし勤勉だし、顔も綺麗だし、身長も高いし…外交官で…それって全然スペック負けてないよ、だからあの…元気だして…怒らないで…」
「べ、つに、怒ってない」


嘘だ、という言葉は飲み込んで、やんわりとした曖昧な笑みで誤魔化しておいた。
実際こうしてスペックだけ並べてみれば、嘘偽りなく負けていないと思う。
私のフォローが聞いたのか、憤りが萎んだユーリを見てホッと安堵する。


「………ユーリくんてもしかして、」

それを見てドミニクさんが何かを言いかけた。ちらりと彼の方をみて、その先を促すようにすると、結局なんでもないと言って止められてしまった。



2022.9.4