第三十一話
4.物語─駆け引き
ユーリとが揃ってフォージャー家を訪問した後。
は改めて単独で訪ねに行った、という経緯は聞いていた。
そこで行われた話し合いによって、の身は完全にユーリが預かる事になったという話も、姉との電話で聞き及んでいた。
断固としてヨルが譲らず離さなかった、との同居生活。あの姉を説得できたとは。一体どういう交渉をしたのか、気にならない訳ではなかった。
けれど、それよりもまず一番にユーリが考えなければならないのは、意識をしている女の子との"完全同居生活"についてだった。
この十数年、ずっと同じ屋根の下で暮らし続けていたというのに、今さら何をやってるんだろうと思わなくもない。
けれどこれはユーリが大きくなり、成長したという証だろう。
がいつの日にか告げた通り。
ユーリはカッコよくなった。つま先からてっぺんまで、魅力的になった。
「一人の人間として、完璧になった」からなのだ。成熟して変化した心が、きっと求めている。いつまでも同じままではいられない。それが嬉しくも、苦しいとも思う。
……なので。
「…という事で、これからよろしくお願いします」
いつかのように、ユーリに向けて正座する。深々と頭を下げて、これからお世話になりますという仰々しい挨拶をされていた。
暮らす事も養う事も、ユーリにとって迷惑でも負担でもなんでもない事だ。けれど、正直内心では困っていた。
「う、うん…いや別にそんなに畏まらなくてもいいのに…」
「……」
平静を装いつつも、若干しどろもどろになったユーリの目をじっと見て、は黙りこんでしまった。
なんとなく降りた沈黙に困り、ふと思いついた事を話してお茶を濁す。
「ああ、それでさ…さっき姉さんから電話がかかってきて。……言ってたんだけど」
「うん?」
場を繕うために咄嗟に出したとは言え、これは必ず話そうと考えていた話題でもあった。
なんの事だろうと首を傾げているに、ユーリは苦々しく言う。
「"がユーリに対してうわあ…って思ってる所があるみたいだから、その辺解決して仲良く暮らしてくださいね"って」
「………うわぁ」
「そのうわぁって何に対してのうわぁ…?」
ユーリが苦々しく言ったのと同じように、もまた、苦い表情を浮かべた。
クールな高嶺の花とまで周囲に言わしめた女の子がこんな顔をする程、うわぁと思うような事とは一体何なのか。
いくつか思い当たる節はあったりなかったりする。それ故に、ユーリも重く身構える。
は再び、長く長く沈黙し、熟考していた。そして覚悟を決めた騎士のように眉を寄せ、口元をきゅっと結んだ。ごくりと固唾を呑んでその言葉の先を待つ。
「わ、わたし…わたしは…」
暫く言い淀んでから、意を決したように口を開いた。
「肝臓について調べてから…色々と……」
「かんぞう?」
どんな重大な告白をされるのかと、今かと今かと構えていたユーリは拍子抜けしてしまった。
いくつか想像していた言葉のどれとも違う、予想外のワードだった。
ユーリが困惑していると、畳みかけるように一息に告げられる。
「色々とあって、お酒がきらいです」
「……それは、つまり」
「お酒を飲んだユーリがきらい」
「極端すぎないかその発想は!?」
酒が嫌い=酒を体内に入れた人間も嫌いというのは、あまりに潔癖すぎる。
そうじゃなく、酔っぱらった人間が単純に嫌いとなんだろうと言うと、頷かれてしまった。ユーリはそれを聞いて頭を抱える。
予想はしていた事だった。部屋に引きこもる程に、酔いどれのやらかしを嫌がっていたのだから。
酔っぱらったユーリのうざ絡み…その先にあるスキンシップ。ユーリにされたというキス。
ユーリの記憶にソレが残っていないのは、幸か不幸か分からない。
すきなひとにしかしない、と曖昧に言って逃げた話題。
やはりそれだけではの溜飲は下がらなかったらしい。あれからも悶々と悩んでいたのだろう。
ユーリがとの同居生活に悩んでいたように、ある意味ではも悩み、こうして深刻そうに頭を下げるに至ったに違いない。
酔っぱらったら誰彼構わずにキスをするような不潔な人間と思われたか、それとも度が過ぎて嫌悪されたか。
遠慮しいなの事だから、もしもう一緒に暮らしたくないと思う程に好感度が落ちていたとしても、言いだせない事だろう。
今までの恩義と注がれた親愛を、もういらないと言って一蹴出来る性格はしていない事をユーリは分かっていた。
だからこそ、我慢させているのだとしたら哀れだと思う。
本当の所を聞いて、解放してやるべきかと思った。寂しくはあるけれど、嫌がる女の子に無理強いしてまで傍に繋ぎとめられる程、ユーリは根が腐っていなかった。
どうしたものかと悩んでいた所で。
「……すごく、恥ずかしかったから」
ぽつりと、俯いたから吐露されたのは、ユーリにとっては思わぬ"本音"だった。
嫌がられ、嫌悪されたかもしれない、という最悪のパターンしか想像できなかった状態に差した光のようなもの。
触れられて嫌悪感が来たから拒んでいるのではない。恥ずかしかったから嫌だった。
その理由は、ユーリにとってはあまりに都合のいい。
──だって、それはつまり。
「……嫌じゃ」
「…え?」
「嫌、じゃ。なかった…?」
「…えと」
「だから、キスを、された事」
ユーリは目を合わす事が出来ずに、視線を逸らしながら恐る恐ると訪ねる。
なんでそんな事を聞かれなければならないのか、と名前は顔を顰めつつも、避けて通れないと思ったのか、腹を決めたように口を開いた。
「嫌じゃ、なかったよ」
「…!」
「だから、ただ…恥ずかしくて。…そういうは嫌だった」
「そういうのって」
「そういうのはそういうのだよ…なんでそんな事聞くの…?」
の頬にほんのり朱が差し、目が潤んでいる。
これは見間違か、都合のいいフィルターでもかかっているのか否か。間違っても嫌悪の反応じゃないだろう。じゃあ、"何"だろうか。
これは──
「私、元々スキンシップ得意じゃないから…ユーリかヨルさん以外にされるのは苦手で…でも、それでも…あれはやりすぎ」
喉の所まで答えが出かかってきた所で、が拗ねたように付け足す。
ユーリはそれを聞いて、ムッとしてしまった。
スキシンップは得意じゃない、という話は確かなのだろう。
けれど身内認定した二人にはされても大丈夫…というのはきっと違う。ヨルにされるのだけは許せる、の間違いだろう。
ユーリからのスキンシップに喜んだ顔をするなど想像もつかなかった。
「姉さんに抱きしめられた時は、めちゃくちゃ嬉しそうにしてるくせに…」
思わず恨みがましい目で見てしまった。
ヨルにされるスキンシップは、すべからく好きなようで、いつもされるが儘だ。
けれどいつかの日のように、自分がしたい時には気まぐれにすり寄って触れ、ユーリを翻弄する癖して、しかしユーリから触れるとなれば嫌な顔をする。
これは何という格差か。人徳だとでも言うのか。
はまるで猫のような気まぐれな性格をしていると思う。けれど恩義を忘れない所は忠犬のようでもある、と思考が脱線していた所で。
「…とにかく、恥ずかしくなっちゃうから、もうやめて」
そっぽを向きながら、まるで念を押すように言いながら、は立ち上がる。
話はこれでお終いとでも言わんばかりにひらりとユーリに手を振る。
そしては寝室の扉をあけて、背を向けてしまった。
ユーリはその背中を見送りつつ、先ほどすぐ手前まで出かかっていた何かを思い出した。
「…っあ!?」
こんなの格差だと拗ねて鬱屈としていた気持ちはどこへやら。
脱線していた思考が軌道に戻るや否や、顔が瞬時にぶわりと熱くなるのを感じていた。
──のあれは、嫌悪ではなく羞恥。都合のいい勘違いでなければ、ユーリの事を意識しているからこそ、わき出る気持ち。
一人の人間として魅力的になった、と言ったあの時のは、ただの激励程度にしか考えていなかっただろう。
けれどそれは捉え方によっては、ユーリの事を家族でなく、兄でもなく、一人の異性として認識したという宣言にも聞こえる。
あながち負け戦ではないかもしれないと思っていた。粘り、行動に移せば、何かが変わるかもしれないと。
けれど、変わらせるために行動する前から、自然とお互いの心は変化していたのだろうか。
ユーリの気持ちがある時から移ろったように、の心ももしかして。
確信に至るには弱いだろう。
けれどきっと、今までユーリが思っていたよりは、勝率が高まっているとは思う。
恋は駆け引きであり、戦と紙一重と聞いた事がある。一体誰が提唱した発言だっただろうか。
まさにユーリが今しているのは、駆け引きに違いない。どこまで触れていいのか、どこまで好意をもたれているのか。その一線を探り合っている。
日に日に美しくなる花を、誰かにとられる前に、自分のものにしたい。
その花を愛でる特権を自分だけのものに。愛し愛される喜びをこの手に。
そんな欲が強くなっていく。この同居生活の中で、その欲を抱くのはリスクだと恐ろしく思いつつ、芽生えた事は恍惚とするほどの喜びだとも思う。
しばらく閉まったの部屋の扉を見てから、ため息をついて脱力した。
4.物語─駆け引き
ユーリとが揃ってフォージャー家を訪問した後。
は改めて単独で訪ねに行った、という経緯は聞いていた。
そこで行われた話し合いによって、の身は完全にユーリが預かる事になったという話も、姉との電話で聞き及んでいた。
断固としてヨルが譲らず離さなかった、との同居生活。あの姉を説得できたとは。一体どういう交渉をしたのか、気にならない訳ではなかった。
けれど、それよりもまず一番にユーリが考えなければならないのは、意識をしている女の子との"完全同居生活"についてだった。
この十数年、ずっと同じ屋根の下で暮らし続けていたというのに、今さら何をやってるんだろうと思わなくもない。
けれどこれはユーリが大きくなり、成長したという証だろう。
がいつの日にか告げた通り。
ユーリはカッコよくなった。つま先からてっぺんまで、魅力的になった。
「一人の人間として、完璧になった」からなのだ。成熟して変化した心が、きっと求めている。いつまでも同じままではいられない。それが嬉しくも、苦しいとも思う。
……なので。
「…という事で、これからよろしくお願いします」
いつかのように、ユーリに向けて正座する。深々と頭を下げて、これからお世話になりますという仰々しい挨拶をされていた。
暮らす事も養う事も、ユーリにとって迷惑でも負担でもなんでもない事だ。けれど、正直内心では困っていた。
「う、うん…いや別にそんなに畏まらなくてもいいのに…」
「……」
平静を装いつつも、若干しどろもどろになったユーリの目をじっと見て、は黙りこんでしまった。
なんとなく降りた沈黙に困り、ふと思いついた事を話してお茶を濁す。
「ああ、それでさ…さっき姉さんから電話がかかってきて。……言ってたんだけど」
「うん?」
場を繕うために咄嗟に出したとは言え、これは必ず話そうと考えていた話題でもあった。
なんの事だろうと首を傾げているに、ユーリは苦々しく言う。
「"がユーリに対してうわあ…って思ってる所があるみたいだから、その辺解決して仲良く暮らしてくださいね"って」
「………うわぁ」
「そのうわぁって何に対してのうわぁ…?」
ユーリが苦々しく言ったのと同じように、もまた、苦い表情を浮かべた。
クールな高嶺の花とまで周囲に言わしめた女の子がこんな顔をする程、うわぁと思うような事とは一体何なのか。
いくつか思い当たる節はあったりなかったりする。それ故に、ユーリも重く身構える。
は再び、長く長く沈黙し、熟考していた。そして覚悟を決めた騎士のように眉を寄せ、口元をきゅっと結んだ。ごくりと固唾を呑んでその言葉の先を待つ。
「わ、わたし…わたしは…」
暫く言い淀んでから、意を決したように口を開いた。
「肝臓について調べてから…色々と……」
「かんぞう?」
どんな重大な告白をされるのかと、今かと今かと構えていたユーリは拍子抜けしてしまった。
いくつか想像していた言葉のどれとも違う、予想外のワードだった。
ユーリが困惑していると、畳みかけるように一息に告げられる。
「色々とあって、お酒がきらいです」
「……それは、つまり」
「お酒を飲んだユーリがきらい」
「極端すぎないかその発想は!?」
酒が嫌い=酒を体内に入れた人間も嫌いというのは、あまりに潔癖すぎる。
そうじゃなく、酔っぱらった人間が単純に嫌いとなんだろうと言うと、頷かれてしまった。ユーリはそれを聞いて頭を抱える。
予想はしていた事だった。部屋に引きこもる程に、酔いどれのやらかしを嫌がっていたのだから。
酔っぱらったユーリのうざ絡み…その先にあるスキンシップ。ユーリにされたというキス。
ユーリの記憶にソレが残っていないのは、幸か不幸か分からない。
すきなひとにしかしない、と曖昧に言って逃げた話題。
やはりそれだけではの溜飲は下がらなかったらしい。あれからも悶々と悩んでいたのだろう。
ユーリがとの同居生活に悩んでいたように、ある意味ではも悩み、こうして深刻そうに頭を下げるに至ったに違いない。
酔っぱらったら誰彼構わずにキスをするような不潔な人間と思われたか、それとも度が過ぎて嫌悪されたか。
遠慮しいなの事だから、もしもう一緒に暮らしたくないと思う程に好感度が落ちていたとしても、言いだせない事だろう。
今までの恩義と注がれた親愛を、もういらないと言って一蹴出来る性格はしていない事をユーリは分かっていた。
だからこそ、我慢させているのだとしたら哀れだと思う。
本当の所を聞いて、解放してやるべきかと思った。寂しくはあるけれど、嫌がる女の子に無理強いしてまで傍に繋ぎとめられる程、ユーリは根が腐っていなかった。
どうしたものかと悩んでいた所で。
「……すごく、恥ずかしかったから」
ぽつりと、俯いたから吐露されたのは、ユーリにとっては思わぬ"本音"だった。
嫌がられ、嫌悪されたかもしれない、という最悪のパターンしか想像できなかった状態に差した光のようなもの。
触れられて嫌悪感が来たから拒んでいるのではない。恥ずかしかったから嫌だった。
その理由は、ユーリにとってはあまりに都合のいい。
──だって、それはつまり。
「……嫌じゃ」
「…え?」
「嫌、じゃ。なかった…?」
「…えと」
「だから、キスを、された事」
ユーリは目を合わす事が出来ずに、視線を逸らしながら恐る恐ると訪ねる。
なんでそんな事を聞かれなければならないのか、と名前は顔を顰めつつも、避けて通れないと思ったのか、腹を決めたように口を開いた。
「嫌じゃ、なかったよ」
「…!」
「だから、ただ…恥ずかしくて。…そういうは嫌だった」
「そういうのって」
「そういうのはそういうのだよ…なんでそんな事聞くの…?」
の頬にほんのり朱が差し、目が潤んでいる。
これは見間違か、都合のいいフィルターでもかかっているのか否か。間違っても嫌悪の反応じゃないだろう。じゃあ、"何"だろうか。
これは──
「私、元々スキンシップ得意じゃないから…ユーリかヨルさん以外にされるのは苦手で…でも、それでも…あれはやりすぎ」
喉の所まで答えが出かかってきた所で、が拗ねたように付け足す。
ユーリはそれを聞いて、ムッとしてしまった。
スキシンップは得意じゃない、という話は確かなのだろう。
けれど身内認定した二人にはされても大丈夫…というのはきっと違う。ヨルにされるのだけは許せる、の間違いだろう。
ユーリからのスキンシップに喜んだ顔をするなど想像もつかなかった。
「姉さんに抱きしめられた時は、めちゃくちゃ嬉しそうにしてるくせに…」
思わず恨みがましい目で見てしまった。
ヨルにされるスキンシップは、すべからく好きなようで、いつもされるが儘だ。
けれどいつかの日のように、自分がしたい時には気まぐれにすり寄って触れ、ユーリを翻弄する癖して、しかしユーリから触れるとなれば嫌な顔をする。
これは何という格差か。人徳だとでも言うのか。
はまるで猫のような気まぐれな性格をしていると思う。けれど恩義を忘れない所は忠犬のようでもある、と思考が脱線していた所で。
「…とにかく、恥ずかしくなっちゃうから、もうやめて」
そっぽを向きながら、まるで念を押すように言いながら、は立ち上がる。
話はこれでお終いとでも言わんばかりにひらりとユーリに手を振る。
そしては寝室の扉をあけて、背を向けてしまった。
ユーリはその背中を見送りつつ、先ほどすぐ手前まで出かかっていた何かを思い出した。
「…っあ!?」
こんなの格差だと拗ねて鬱屈としていた気持ちはどこへやら。
脱線していた思考が軌道に戻るや否や、顔が瞬時にぶわりと熱くなるのを感じていた。
──のあれは、嫌悪ではなく羞恥。都合のいい勘違いでなければ、ユーリの事を意識しているからこそ、わき出る気持ち。
一人の人間として魅力的になった、と言ったあの時のは、ただの激励程度にしか考えていなかっただろう。
けれどそれは捉え方によっては、ユーリの事を家族でなく、兄でもなく、一人の異性として認識したという宣言にも聞こえる。
あながち負け戦ではないかもしれないと思っていた。粘り、行動に移せば、何かが変わるかもしれないと。
けれど、変わらせるために行動する前から、自然とお互いの心は変化していたのだろうか。
ユーリの気持ちがある時から移ろったように、の心ももしかして。
確信に至るには弱いだろう。
けれどきっと、今までユーリが思っていたよりは、勝率が高まっているとは思う。
恋は駆け引きであり、戦と紙一重と聞いた事がある。一体誰が提唱した発言だっただろうか。
まさにユーリが今しているのは、駆け引きに違いない。どこまで触れていいのか、どこまで好意をもたれているのか。その一線を探り合っている。
日に日に美しくなる花を、誰かにとられる前に、自分のものにしたい。
その花を愛でる特権を自分だけのものに。愛し愛される喜びをこの手に。
そんな欲が強くなっていく。この同居生活の中で、その欲を抱くのはリスクだと恐ろしく思いつつ、芽生えた事は恍惚とするほどの喜びだとも思う。
しばらく閉まったの部屋の扉を見てから、ため息をついて脱力した。