第二十五話
4.物語─物語の世界
ブライアの家に養子に入った私は、当然のようにブライアの性を気に入った。
ヨルさんの結婚にショックを受けたのもある。何か隠し事をされているという懸念と不安もある。
けれど、ヨル・フォージャーという名に変わったという事実にも、切なさを覚えていた。
ヨルさんが結婚する、という事自体は喜ばしい話だと思う。
弟妹の世話のせいで、ヨルさんは27歳になるその年まで、遊びもせず、青春もなく、ただ働き尽くしだったのだから。
ヨルさんの人生を歩んでほしい。それはユーリも同じ気持ちなはず。
けれど、手放しに祝福できる状況じゃない。
ヨルさんのマンションで同居している一月の間、男の影は一切なかった。結婚していると匂わせる話も当然されてない。
出会ってすぐの電撃結婚かと思えば納得できたのに、結婚してもう一年も経ってるという衝撃の事実が、決して納得がいかない、大きな謎を呼んでいた。
玄関にかかったフォージャーという名札を、思わず値踏みするように睨みつけてしまう。
ユーリも同じように睨んだあと、ヨル・フォージャーという文字を見てヘコんできたようで、ぐぅと呻きながら胸を押さえた。
示し合わせたでもなく、揃って深く長い溜息を吐いて、深呼吸する。
そして目を合わせて深く頷き合った後、チャイムを押すと、私達はフォージャー夫婦に迎え入れられた。
──思えばだ。大輪すぎる花束を持ったユーリと共に、フォージャー家の玄関前に立ったその瞬間から、言い表しようのない違和感を覚えていたのだ。
「やあはじめまして!弟のユーリです!」
「……です」
妹の、と付け加えて名乗る事に若干抵抗を抱き、名乗るだけに済ませた。
一分一秒、時間が経つ度に、違和感とも既視感とも言う感覚が強まっていく。
「いらっしゃい!」
息をそろえて私達を迎え入れたのは、お似合の美男美女夫婦だった。
一人は見知った顔の女性、ヨルさんだ。
もう一人はロイド・フォージャーという長身の男性。全く聞いた事もない名前、全く見た事もない赤の他人…そのはずだった。
けれど何だろうか。さっきから感じている、この言いようもない強烈な既視感は。私はこの男性を知っている、見たことがある…と感じている。
外行きの笑顔を見せつつも、値踏みするように双方を観察するユーリ。
それとは対照的に、私の目はロイドさんだけに釘付けになっていた。
リビングへと歩き出したヨルさんとユーリ。
私はそれに倣う事も出来ず、呆然と玄関先で棒立ちになっていた。
「…どうしましたか?遠慮せずに上がってください。きみは…ヨルさんの妹さんですよね。はじめまして」
「は、じめまして…」
「ボクの顔に何かついてるかな?恥ずかしいな、ヨルさんの大切なご家族に変な恰好は見せられないと思って、必死に身だしなみは整えたのに」
恥ずかしそうに頬をかく彼は、爽やかで裏表のない性格をしているように見えた。
だというのに、ごく自然体のはずのその仕草を、私はどうして芝居がかっていると疑ってしまうのだろう。
どうしようもないこの緊張感を誤魔化そうと思ったのだろうか。私の顔には、ユーリに負けず劣らずの貼り付けたような笑顔が浮かんでいた。
「ロイドさん、ですよね。事前にお名前は伺っていました…その、なんというか」
「はい?」
「…イケメンってよく言われませんか!?すごくきれいな顔をしていたから、見惚れてしまいました!姉の旦那さんに向かって言うのもおかしな話ですが、まるで俳優さんみたいでもうびっくり!」
声を弾ませて、同級生たちが推している芸能人の話をする時のように、声を弾ませた。
すると、先を歩いていたヨルさんとユーリが驚いたようにバッと振り返る。お化けでもみたような顔をしている。私自身も内心相当驚いていた。
この場を繕うためとはいえ、こんなにスラスラと溌剌に話せるなんて、自分で自分に驚いた。
年頃の女子らしいにこやかな笑み、無邪気な仕草、ミーハーな話題の選択。
自分にこんな芸当ができるとは思わなかった。
けれど、自分の能力の限界を越えてでも、自分を偽らなければならないと、本能が訴えている。
ブライア姉弟とは違い、初対面であるロイドさんは、私が元からこんな性格をしている物と思ったらしい。特に動揺する事なく、爽やかな笑顔で会話を続けた。
「ありがとう。実はたまに言われるよ…なんて言ったら嫌味っぽく聞こえるかな」
「いえ、言われて当然な顔立ちをしていると思いますよ!ヨルさんも、ロイドさんも。お似合の夫婦ですね、美男美女で」
ヨルさんは、お似合の夫婦という言葉を聞いて、真っ赤になっていた。
けれど、それ以外の場面では、ロイドさんに強要恐喝されているだとか、そんな挙動不審な様子はなく、いつも通りに見えた。
最早勝手知ったる我が家なのだろう。ユーリが持参した花束を活ける花瓶を戸棚から取り出したり、お茶の準備をしたりと手慣れたように動いている。
私が一ヵ月事に二つの家を行き来していたように、やはりヨルさんも自宅とフォージャー家を定期的に行き来していたのか。
理由はわからないけれど、最早そうとしか思えない。
ごくりと唾をのんで頭を振る。じわりと嫌な汗が出てきたのを自覚していた。
──いや、本当はもう一つだけ。理由に心当たりがある。
ブライア家のヨルとユーリ。その名前を初めて聞いたときも、その家庭で10年以上過ごしても、何も不審に思った事はなかった。
普通よりも善良なだけの、ただの小市民だと認識していて、今の今まで何の疑いも持った事はなかった。
「あ、コートとお荷物預かりますよ」
「いえ大丈夫です、ありがとうござます」
ユーリはにこやな笑みを浮かべながら、ロイドさんの気遣いを拒絶した。
ユーリの心は手に取るように想像つく。信用に値する人間かどうか、値踏みしているのだ。そしてヨルさんの隣に当然のように立つ、どこぞの馬の骨とも知らぬ男を、もう嫌っている。
「……。簡単な料理でよければすぐ用意しますので、三人でくつろいでください」
「お気遣いなく」
「まぁユーリったら緊張しちゃって」
料理を振舞うと提案された瞬間、ユーリの顔がムッと歪んだ。早速ボロが出始めている。
ヨルさんに怖い顔をしていると言われて、ハッと気が付いたように繕った。
「し…してないよ。してなかったよね?」
「う…うん。全然、何も!」
「そうですか?…そうですね、私の勘違いだったかもしれません」
色々無理があるなというのが感想だった。私の口元も引きつっているのを感じる。
──私には前世がある。日本人として20xx年の未来に暮らしていた記憶があった。
最早擦り切れているし、郷愁にかられる余裕がある幼少期ではなかったし、
ブライア家に迎えられてからは優しさで満たされ、感傷的に思い出す事もなかった。
だから、ずいぶんと久しぶりに前世の記憶を手繰り寄せたと思う。
──フォージャー家。ブライア姉弟。偽装結婚。偽りの家族。
いくつかのキーワードが並び合うと、芋づる式にどんどん思い出してくる。
──私は出会う前から、ブライア姉弟の事を知っていた。
記憶の奥底に眠っていた埃をかぶった記憶が、10年以上たって急激に浮上してきた。
ヨルさんの旦那様…ロイド・フォージャーの素性も、この世に生れ落ちるより前に私は知っていたのだ。
──彼は優秀なスパイだという事を。そして彼の娘がもつ、特殊な力の事も。
そしてヨルさんが、殺し屋だという事も。
サアッと血の気が引いて行くのを感じる。
「お花ありがとうユーリ、」
「うん…でも姉さん…ボクはまだこの結婚を認めた訳じゃない」
「!」
「えと…わ、私も…ちょっと変だなーって思った、かも、ね?」
最早自分がどういうキャラで、どういう立ち位置から物を言っていいのかわからない。
だって、"本来なら"こんな風に二人のやり取りに茶々を入れる末の妹などいないはずだったのだから。
──前世では、娯楽がたくさんあった。漫画やアニメ。ゲームや音楽。
私は漫画を読むのが好きだった。学生時代程ではないけれど、暇を見つけては読書という娯楽を嗜んでいた。
その中に、"スパイ"や"偽り"をテーマにした漫画があった事を、今この瞬間着々と思い出していた。
「こんな勝手に…だいたい家族のボクたちに一年も黙ってたってどういう事なの?ちゃんと答えてくれないと納得できないよ!」
──ここは漫画の中の世界だったのか。しかも、姉兄はメインキャラクター。特別な存在だ。
ユーリのこのセリフも、初めて聞いたのではない。記憶として脳内に存在していた。
OLが事故死して異世界トリップ転生で悪役令嬢に!?というフレーズが蔓延っていたのを知ってる。なんとも夢のある事だと思いながら、ただの娯楽として眺めていたあの頃が懐かしい。
今世に生れ落ちてから、一瞬これが異世界転生なのではないかと思った瞬間もあった。
けれど、空腹に耐えかね残飯を漁った瞬間、そんなロマンは捨てた。
運命を司る神様がいたとして、わざわざこんな残酷な世界に生まれ落とすはずがない。
全然物語的ではないし、面白くもない。
ただ、この世には科学では説明のつかない、不思議な現象があのだろうとだけ捉えるようになった。
前世の記憶がある子供の話は、オカルト話として語られていたし。
漫画やゲームの世界にトリップ転生した、考えるよりは可能性のある、現実的な話だと思ってた。
だというのに。まさかのまさかだ。今になって、自分の中にある常識が覆された。
「ほら!もこんなに元気をなくしちゃって!」
口元を抑えて俯く私は、隠し事をされてショックを受けた妹にしか見えないだろう。
都合のいい誤解だった。
もし私がこの世界にトリップしていたら、結構大変な苦労をしたかもしれない。
タイトルこそ忘れてしまったけど、スパイが活躍する話だ。
怪しきは罰せられる世界情勢だ。少しでも不振な人間は、取り締まられてしまう。
それこそ27歳にもなって独身だというだけで、通報・連行されてしまうような世界…
ヨルさんはそのせいで、偽装結婚をしたのだ。
だとしたら、身元不明な異世界トリップ人が現れたら、秒で連行されていたに違いない。
これほど転生してよかったと思ったことはない。
私の体は正真正銘、東国の親の胎からこの世に生まれてる。疑いようがない。
雄弁は銀、沈黙は金という。余計なお喋りをしなければ、トリップ転生モノにありがちな「お前は何者だ!?」という展開は訪れないだろう。
「どうなの姉さん、なんで言ってくれなかったの?」
「そ…それは…」
ユーリとヨルさんの問答も、沈黙しながら見守る。
これだけで、私は横やりをいれない性格をしているんだと思われるだけで、ボロは出ない。
料理をしているロイドさんの方を決して見ないようにしながらも、意識はずっとそちらに向かっていた。
きっとこれだけで、ロイドさんには何も怪しまれない。けれど、心を読み取られた場合はどうだろう。小細工や貼り付けた笑顔など通じない、超能力を前にしたら、私はどうなる。
──アーニャ・フォージャー。名門イーデン校に、ロイドの任務のために通わされている幼女。
夜更しができず、今は眠っているらしいその子は、──心を読む超能力者だ。
ぐらりと眩暈がした。平衡感覚が揺らぐ。
今まで白と信じててた色が黒だと教えられたときのような、常識の揺らぎだった。
4.物語─物語の世界
ブライアの家に養子に入った私は、当然のようにブライアの性を気に入った。
ヨルさんの結婚にショックを受けたのもある。何か隠し事をされているという懸念と不安もある。
けれど、ヨル・フォージャーという名に変わったという事実にも、切なさを覚えていた。
ヨルさんが結婚する、という事自体は喜ばしい話だと思う。
弟妹の世話のせいで、ヨルさんは27歳になるその年まで、遊びもせず、青春もなく、ただ働き尽くしだったのだから。
ヨルさんの人生を歩んでほしい。それはユーリも同じ気持ちなはず。
けれど、手放しに祝福できる状況じゃない。
ヨルさんのマンションで同居している一月の間、男の影は一切なかった。結婚していると匂わせる話も当然されてない。
出会ってすぐの電撃結婚かと思えば納得できたのに、結婚してもう一年も経ってるという衝撃の事実が、決して納得がいかない、大きな謎を呼んでいた。
玄関にかかったフォージャーという名札を、思わず値踏みするように睨みつけてしまう。
ユーリも同じように睨んだあと、ヨル・フォージャーという文字を見てヘコんできたようで、ぐぅと呻きながら胸を押さえた。
示し合わせたでもなく、揃って深く長い溜息を吐いて、深呼吸する。
そして目を合わせて深く頷き合った後、チャイムを押すと、私達はフォージャー夫婦に迎え入れられた。
──思えばだ。大輪すぎる花束を持ったユーリと共に、フォージャー家の玄関前に立ったその瞬間から、言い表しようのない違和感を覚えていたのだ。
「やあはじめまして!弟のユーリです!」
「……です」
妹の、と付け加えて名乗る事に若干抵抗を抱き、名乗るだけに済ませた。
一分一秒、時間が経つ度に、違和感とも既視感とも言う感覚が強まっていく。
「いらっしゃい!」
息をそろえて私達を迎え入れたのは、お似合の美男美女夫婦だった。
一人は見知った顔の女性、ヨルさんだ。
もう一人はロイド・フォージャーという長身の男性。全く聞いた事もない名前、全く見た事もない赤の他人…そのはずだった。
けれど何だろうか。さっきから感じている、この言いようもない強烈な既視感は。私はこの男性を知っている、見たことがある…と感じている。
外行きの笑顔を見せつつも、値踏みするように双方を観察するユーリ。
それとは対照的に、私の目はロイドさんだけに釘付けになっていた。
リビングへと歩き出したヨルさんとユーリ。
私はそれに倣う事も出来ず、呆然と玄関先で棒立ちになっていた。
「…どうしましたか?遠慮せずに上がってください。きみは…ヨルさんの妹さんですよね。はじめまして」
「は、じめまして…」
「ボクの顔に何かついてるかな?恥ずかしいな、ヨルさんの大切なご家族に変な恰好は見せられないと思って、必死に身だしなみは整えたのに」
恥ずかしそうに頬をかく彼は、爽やかで裏表のない性格をしているように見えた。
だというのに、ごく自然体のはずのその仕草を、私はどうして芝居がかっていると疑ってしまうのだろう。
どうしようもないこの緊張感を誤魔化そうと思ったのだろうか。私の顔には、ユーリに負けず劣らずの貼り付けたような笑顔が浮かんでいた。
「ロイドさん、ですよね。事前にお名前は伺っていました…その、なんというか」
「はい?」
「…イケメンってよく言われませんか!?すごくきれいな顔をしていたから、見惚れてしまいました!姉の旦那さんに向かって言うのもおかしな話ですが、まるで俳優さんみたいでもうびっくり!」
声を弾ませて、同級生たちが推している芸能人の話をする時のように、声を弾ませた。
すると、先を歩いていたヨルさんとユーリが驚いたようにバッと振り返る。お化けでもみたような顔をしている。私自身も内心相当驚いていた。
この場を繕うためとはいえ、こんなにスラスラと溌剌に話せるなんて、自分で自分に驚いた。
年頃の女子らしいにこやかな笑み、無邪気な仕草、ミーハーな話題の選択。
自分にこんな芸当ができるとは思わなかった。
けれど、自分の能力の限界を越えてでも、自分を偽らなければならないと、本能が訴えている。
ブライア姉弟とは違い、初対面であるロイドさんは、私が元からこんな性格をしている物と思ったらしい。特に動揺する事なく、爽やかな笑顔で会話を続けた。
「ありがとう。実はたまに言われるよ…なんて言ったら嫌味っぽく聞こえるかな」
「いえ、言われて当然な顔立ちをしていると思いますよ!ヨルさんも、ロイドさんも。お似合の夫婦ですね、美男美女で」
ヨルさんは、お似合の夫婦という言葉を聞いて、真っ赤になっていた。
けれど、それ以外の場面では、ロイドさんに強要恐喝されているだとか、そんな挙動不審な様子はなく、いつも通りに見えた。
最早勝手知ったる我が家なのだろう。ユーリが持参した花束を活ける花瓶を戸棚から取り出したり、お茶の準備をしたりと手慣れたように動いている。
私が一ヵ月事に二つの家を行き来していたように、やはりヨルさんも自宅とフォージャー家を定期的に行き来していたのか。
理由はわからないけれど、最早そうとしか思えない。
ごくりと唾をのんで頭を振る。じわりと嫌な汗が出てきたのを自覚していた。
──いや、本当はもう一つだけ。理由に心当たりがある。
ブライア家のヨルとユーリ。その名前を初めて聞いたときも、その家庭で10年以上過ごしても、何も不審に思った事はなかった。
普通よりも善良なだけの、ただの小市民だと認識していて、今の今まで何の疑いも持った事はなかった。
「あ、コートとお荷物預かりますよ」
「いえ大丈夫です、ありがとうござます」
ユーリはにこやな笑みを浮かべながら、ロイドさんの気遣いを拒絶した。
ユーリの心は手に取るように想像つく。信用に値する人間かどうか、値踏みしているのだ。そしてヨルさんの隣に当然のように立つ、どこぞの馬の骨とも知らぬ男を、もう嫌っている。
「……。簡単な料理でよければすぐ用意しますので、三人でくつろいでください」
「お気遣いなく」
「まぁユーリったら緊張しちゃって」
料理を振舞うと提案された瞬間、ユーリの顔がムッと歪んだ。早速ボロが出始めている。
ヨルさんに怖い顔をしていると言われて、ハッと気が付いたように繕った。
「し…してないよ。してなかったよね?」
「う…うん。全然、何も!」
「そうですか?…そうですね、私の勘違いだったかもしれません」
色々無理があるなというのが感想だった。私の口元も引きつっているのを感じる。
──私には前世がある。日本人として20xx年の未来に暮らしていた記憶があった。
最早擦り切れているし、郷愁にかられる余裕がある幼少期ではなかったし、
ブライア家に迎えられてからは優しさで満たされ、感傷的に思い出す事もなかった。
だから、ずいぶんと久しぶりに前世の記憶を手繰り寄せたと思う。
──フォージャー家。ブライア姉弟。偽装結婚。偽りの家族。
いくつかのキーワードが並び合うと、芋づる式にどんどん思い出してくる。
──私は出会う前から、ブライア姉弟の事を知っていた。
記憶の奥底に眠っていた埃をかぶった記憶が、10年以上たって急激に浮上してきた。
ヨルさんの旦那様…ロイド・フォージャーの素性も、この世に生れ落ちるより前に私は知っていたのだ。
──彼は優秀なスパイだという事を。そして彼の娘がもつ、特殊な力の事も。
そしてヨルさんが、殺し屋だという事も。
サアッと血の気が引いて行くのを感じる。
「お花ありがとうユーリ、」
「うん…でも姉さん…ボクはまだこの結婚を認めた訳じゃない」
「!」
「えと…わ、私も…ちょっと変だなーって思った、かも、ね?」
最早自分がどういうキャラで、どういう立ち位置から物を言っていいのかわからない。
だって、"本来なら"こんな風に二人のやり取りに茶々を入れる末の妹などいないはずだったのだから。
──前世では、娯楽がたくさんあった。漫画やアニメ。ゲームや音楽。
私は漫画を読むのが好きだった。学生時代程ではないけれど、暇を見つけては読書という娯楽を嗜んでいた。
その中に、"スパイ"や"偽り"をテーマにした漫画があった事を、今この瞬間着々と思い出していた。
「こんな勝手に…だいたい家族のボクたちに一年も黙ってたってどういう事なの?ちゃんと答えてくれないと納得できないよ!」
──ここは漫画の中の世界だったのか。しかも、姉兄はメインキャラクター。特別な存在だ。
ユーリのこのセリフも、初めて聞いたのではない。記憶として脳内に存在していた。
OLが事故死して異世界トリップ転生で悪役令嬢に!?というフレーズが蔓延っていたのを知ってる。なんとも夢のある事だと思いながら、ただの娯楽として眺めていたあの頃が懐かしい。
今世に生れ落ちてから、一瞬これが異世界転生なのではないかと思った瞬間もあった。
けれど、空腹に耐えかね残飯を漁った瞬間、そんなロマンは捨てた。
運命を司る神様がいたとして、わざわざこんな残酷な世界に生まれ落とすはずがない。
全然物語的ではないし、面白くもない。
ただ、この世には科学では説明のつかない、不思議な現象があのだろうとだけ捉えるようになった。
前世の記憶がある子供の話は、オカルト話として語られていたし。
漫画やゲームの世界にトリップ転生した、考えるよりは可能性のある、現実的な話だと思ってた。
だというのに。まさかのまさかだ。今になって、自分の中にある常識が覆された。
「ほら!もこんなに元気をなくしちゃって!」
口元を抑えて俯く私は、隠し事をされてショックを受けた妹にしか見えないだろう。
都合のいい誤解だった。
もし私がこの世界にトリップしていたら、結構大変な苦労をしたかもしれない。
タイトルこそ忘れてしまったけど、スパイが活躍する話だ。
怪しきは罰せられる世界情勢だ。少しでも不振な人間は、取り締まられてしまう。
それこそ27歳にもなって独身だというだけで、通報・連行されてしまうような世界…
ヨルさんはそのせいで、偽装結婚をしたのだ。
だとしたら、身元不明な異世界トリップ人が現れたら、秒で連行されていたに違いない。
これほど転生してよかったと思ったことはない。
私の体は正真正銘、東国の親の胎からこの世に生まれてる。疑いようがない。
雄弁は銀、沈黙は金という。余計なお喋りをしなければ、トリップ転生モノにありがちな「お前は何者だ!?」という展開は訪れないだろう。
「どうなの姉さん、なんで言ってくれなかったの?」
「そ…それは…」
ユーリとヨルさんの問答も、沈黙しながら見守る。
これだけで、私は横やりをいれない性格をしているんだと思われるだけで、ボロは出ない。
料理をしているロイドさんの方を決して見ないようにしながらも、意識はずっとそちらに向かっていた。
きっとこれだけで、ロイドさんには何も怪しまれない。けれど、心を読み取られた場合はどうだろう。小細工や貼り付けた笑顔など通じない、超能力を前にしたら、私はどうなる。
──アーニャ・フォージャー。名門イーデン校に、ロイドの任務のために通わされている幼女。
夜更しができず、今は眠っているらしいその子は、──心を読む超能力者だ。
ぐらりと眩暈がした。平衡感覚が揺らぐ。
今まで白と信じててた色が黒だと教えられたときのような、常識の揺らぎだった。